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第九章
天皇裕仁(1926-1929)
(その2)
蒋の国掃除
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裕仁が天皇に即位してさほどもしないうちに、彼の特務集団 〔これまでは 「(皇室)陰謀団」 と訳出〕 は、満州を中国より戦争をへずに手に入れようと、機密外交を駆使した侵略作戦に乗り出した。ただ、最終的にその作戦自体は失敗したのだが、思わぬ副産物を作り出した。つまり、蒋介石を、彼の国民党内部の共産党分派と決定的に決別させ、中国の行方を方向づけるものとさせた。そしてそれは裕仁を、国の重鎮たちと対立させるものともなり、あげくには、その作戦が失望のうちに終わらんとしている時、裕仁は、満州の軍閥、張作霖を報復のために暗殺し、自分自身を初めて、明らかな国際犯罪当事者にしたててしまうこととなった。
この見当違いの機密外交の首謀者のひとりは、ヨーロッパにおける日本のスパイ網の指揮者、東久邇親王だった。彼は、大正天皇の逝去の報を受けるやいなや、パリを発って帰国の途についた。彼と大正天皇の間には交友関係にはなかったが、裕仁との間では、彼の姪の夫であり、彼の妻の甥であるという関係にあり、東久邇はより親密な関係を期待していた。彼はおしのびで東京に到着し(97)、ただちに宮中を訪問し、そして、新たな諜報の任務をたずさえて大陸に渡り、どう見てもスパイとして、北京の眼の届かぬところに名を隠して活動した#3。それは、彼の新たな使命で、中国にいる特務集団の他のメンバーの活動――蒋介石の北伐を日本の利益に結び付けようと企む――と宮廷の政策とを連動させるものであった。(98)
- #3 彼の帰国については、翌年一月までは、日本の新聞では公式な報道はなかったが、大正天皇の葬儀への彼の列席は、何の解説もなく列記されていた。
東久邇とその手下が遂げなければならなかったごちゃ混ぜの使命は、中国人の基準で言っても、そうとうなげて物だった。中国の首都北京は、満州の軍閥、張作霖によって支配されていた。1916年の、閑院親王の一味による爆弾投てきから逃れた後、彼は孫文の共和国への名目上の支持を自ら表明していた。しかし、その一方で、彼は満州王国の再建を企てる者らを支援もしていた。そうした彼の保守姿勢は、満州宮廷を宣言する者、旧中国政府の古い官僚の多く、東京のまごつく長州藩の長老、そして、中国の大半の西洋人事業主らによって歓迎されていた。
張作霖に敵対した者は国民党の上層部で、いまや彼らはビルマから揚子江までの南部中国を支配していた。彼らは、無学な農民出身革命家や、コミンテルンの強硬な扇動家#4、そして、蒋介石のような中道派といった雑多な集合だった。その共通したねらいは、北京に 「自由」 をもたらし、そこに、張作霖が保護しているという、共和主義政府を 「実現」 させることだった。
- #4 毛沢東、周恩来、朱徳といった国民党運動の献身的共産党員たちは少数派だったが、モスクワからの戦略的助言を得ていた。
裕仁の特務集団は、蒋介石と合議の上、まず、国民党から共産党員を追放し、次に、蒋介石を万里の長城の以南の中国全体の単独支配者とすることに合意した。そしてそれと交換に、長城の以北の中国領土――広大、空白で潜在的な富の眠る満州と蒙古――は日本が支配することとされた。そしてそれらが確立された時、蒋は西洋人の事業者を上海より追い払い、将来のすべての政治的、経済的支援を日本からえるものと想定されていた。
東久邇親王がひそかに北京に到着した時、国民党から共産党員を排除する作戦はうまく働いていた。蒋は自らの私的理由からもそれに協力していた。彼は、上海で最も裕福な銀行家、チャーリー宋に、その娘、慶齢の運動を放棄させ、もう一人の娘、美齢の運動を支持するように説得することを求めた。慶齢は孫文と結婚し、国民党の共産党員によって、運動の先鋒者とみなされていた。それに対し、美齢は米、ウェズリー大学卒の、キリスト教徒、反共主義者で、蒋介石の燃えるような支持者であった。
蒋介石の軍が、奥地より揚子江にそって上海に向かって下っている際、彼らは愛国主義と外国排斥の勢いに乗じていた。漢口〔今の武漢〕や九江では、彼らは西洋人居住区へ攻撃をしかけた。蒋は、西洋人事業家にそう信じ込ませるために、それをボルシェビイキの扇動者による行動と批難した。左傾した銀行家のチャーリー宋ではあったが、〔彼も〕国民党の内の共産分子が、自分の評判をそこね、利益を害させていると見ることとなった。
1927年3月末、蒋の軍勢が南京――中国沿岸から200マイル〔320km〕弱内陸――を占領した時、いくつかの外国領事館を焼き、六人の西洋人を殺害し、領事官の妻や秘書を虐待した(99)。そこで西洋人はソコニー・ヒルに難民として集合し、揚子江の英国と米国の沿岸警備艦がそのまわりに半円形に砲撃を加えている間に、彼らは城壁から避難船へと身をかがめて乗り移った。日本の二隻の警備艦が援助のためと河を50マイル〔80km〕を下り、あえて遅すぎるタイミングで到着した。その後の数日間、西洋諸国の代表は、秩序を取り戻すため、南京に国際的な軍隊を派遣するかどうかを協議した。だが日本の外務大臣は、事前の筋書き通り、その派遣軍に参加することを拒否してその派遣を中止させた。(100)
味方と見なすものをことごとく取り込む国民党の進軍に、西洋の植民者は、赤軍の大進撃を見た。上海クラブのスコットランド人は、自分たち西洋人がすでに中国に2億ドル以上を投資してきたと不平を並べたてた。そうした西洋人の保有利権は、上海、天津、漢口、南京そして北京などの中国の大都市のいずれもの下町を拠点とする、
「租界」 と 「公使館地区」 ――パリやロンドンや東京やセントペテルブルグの小さな飛び地――などが主なものだった。その多くは、数千エーカー〔数平方キロ〕の租借地だった。ことに上海や漢口に見られたそれらの地区は、もともとは湿地や沼地であったものが、外国人の手によって開発されて価値をもっているものであった。しかし、1920年代までに、地元中国人の市街地がそれらを取り囲んで発達した。瓦屋根、路地、陰謀、暴力、そして病気の頻発する不潔な地域が、西洋式の建築や広い並木道をもつ、安全で、治安が行き届いた、清潔な極楽地域へと変貌していた。フランス人租界では、安南人警察官が近くにいる所で、いつもカタツムリを食べていた。英国人租界では、つねに、一、二軒の茶店、混雑する銀行街、そして、街角にはシーク教徒の巡査の姿があった。古いドイツ人とロシア人租界は、一次大戦の後、時の中国政府によって接取されたが、ボルシチ店やパン屋、そしてウインナーシュニッツエル〔子牛肉の薄切カツレツ〕店が営業していた。日本人租界は、さほど西洋風でなく、当然、あまり西洋人向けではなかった。そこは人にあふれ、小さな家屋が建て込んでいた。しかし日本人には、そこに純粋の大阪があり、交番、隣組、芸者、そしてすき焼き屋などが見られて興味をさそった。(101)
蒋介石は、南京を掌握した後、西洋諸国の介入の危険を唱え、南昌――揚子江下流の彼の根拠地と、上流の国民党左派の拠点の漢口との中間の町――で全指導者を招集して国民党総会を開催する理由とした。1927年3月22日、実りのない延々と続く議論の後、蒋は突然会議場を離れ地方へと姿を消し、彼の配下の軍隊に身を隠した。その彼の不在の間に、有名な後の中国共産党外務大臣、周恩来の指導の下で、規律正しい共産党中核が上海の中国人地区で都市クーデタを起し、市の大半を共産党の配下に入れ、各租界の西洋人居住者に大きな危機感を与えた。
はるか北方では、二週間後の4月6日、張作霖が、バーデン・バーデンの裕仁の11人組の一人の情報をもとに行動を起し、北京のロシア大使館を急襲するよう配下の警察に命じた。その手入れによって、警察は漢口の国民党左翼政府がモスクワの指令に基づく前線組織であることを表した書類を入手した。張作霖は、この暴露を、蒋介石のロシアでの体験やスターリンとの交友関係と合わせて、蒋と銀行家との信頼関係を壊し、かつ、外人嫌いの兵卒間での彼の人気を崩すために用いようとした。しかしながら、日本の思惑通りに、その暴露は蒋にとって、国民党から共産党勢力を排除するだけでなく、彼の必要とする国民党内の中間勢力の支持を維持するためにも、絶好の理由となった。(102)
国民党へのロシア工作のニュースが流れるや否や、蒋介石は上海郊外で強力な軍隊の首領として再登場し、新たな共産党市長、周恩来は雲隠れした。蒋はその中国人都市の自治政府を掌握し、1927年4月12日――中国本土で「黒い火曜日」として記憶されている――彼の軍隊を用いて、あらゆる共産党幹部狩りを始めた。その日の午後、町の広場では五千人の首がはねられた。周恩来は捜査網を潜り抜け、逃れ去った。こうして、彼と他の共産党員は、この日を決して忘れず、決して許せない日とした。かくして国民党内の中国人革命戦線は、回復不能まで崩壊した。それ以降、日本に対戦する時を除き、蒋介石軍と共産党軍は内戦状態に突入した。それは、軍閥同士の戦いを上回る、はるかに深く、苦い戦いで、兄弟と兄弟が戦い、父と子が戦い、二十年後に、蒋と百万を上回る彼の残党が台湾に逃げ伸びるまで続いた。(103)
蒋介石は、この「黒い火曜日」に続き、さらに揚子江下流のあらゆる町の赤狩りを行った。そして1927年4月18日、南京において、彼は自身の国民党穏健派政府を樹立した。国民党左派は、300マイル〔480km〕上流の漢口に別の政府を維持していたが、むき出しな共産党員は排除していた。国民党の二人のロシア人顧問、ブルーヒャーとボロディンはモスクワへと引き上げた。毛沢東や周恩来は地方へと撤退し、孫文の共産党員未亡人、慶齢は、ヨーロッパに亡命するという道を選んだ。(104)
中国に対する裕仁の特務集団の計画の第一段階はかくして終了した。その第二段階は、蒋介石が長城以南を固め、日本が長城以北地方を盗み取っている間、張作霖は手を引いていることを求めるものだった。この時点まで、日本政府は中国に対して不介入の姿勢をとってきていた。だがいまや、日本政府には、必要とあらば介入も辞さずとの声があがっていた。そこで裕仁は、1927年4月20日、蒋の南京政府設立の二日後、新内閣を指名した。旧内閣の崩壊は、裕仁が招集した枢密院会議において、財政上の疑惑がとりただされた故のものであった。
西園寺の推挙により、裕仁は、新首相に田中儀一――長州藩の首領、故山縣の後継者――を指名した。あらゆる面から見て、田中は次の計画を成し遂げるにあたっての理想的な傀儡だった。彼は、長身でぶっきらぼうな、根っからの軍人で、実務に長けかつ組み紐や制服を好んだしゃれ男で、1925年に元帥府によって陸軍改組計画が否決された時には、いさぎよく降伏すらした男であった。その後彼は、陸軍を辞し、多数政党の政友会総裁就任を引き受け、転身をはかって引き続き自らの野心を追い求めた。宮廷関係者にとって、彼は、それが長州だろうと政友会だろうと、その野心を満たすものであるなら、いずれの先頭にも立つ、ご都合主義者に見えた。しかし、その見方は間違いだった。田中が政友会総裁となったのは、裕仁にたてつき、日本に長州の指導力を再興させるためだった。彼はこの先の二年間、あらゆる局面において、裕仁の特務集団の邪魔をし、張ったりと丁重さを申し訳なさそうに駆使しながらも、彼の計画を実行してゆくこととなる。(105)
首相に任ずる条件の一つとして、田中は、外交政策の一切合財を貴族院の大兄、近衛親王が推す政務次官#5にまかせることに同意していた。実際に田中は、外交政策を他人にゆだねながら、自ら外務大臣を兼任していた。若い佐官や外務省諸部長の一団――彼らが若い天皇の関心を引いていたとしても――が、国の首脳に脅威を与えるとは、田中首相には信じられないことではあった。彼は、官僚上層の友人によるいくつかの会議を招集したが、大ぴらに対中国強硬姿勢を議論することは裕仁を満足させるに十分であるとする彼らに従った。そして彼は、張作霖の軍事顧問の責任者を呼び戻し、裕仁の若いタカ派を黙らさせるため、張作霖と交渉して、満州に新たに5路線の鉄道を建設するように求めた。そして田中は、「その鉄道経営に張作霖を取り立てると約束する」、「その計画が達成した暁には、私は国内秩序を確立できるのだ」、と断言した。(106)
- #5 若干40歳の森格〔もり かく〕で、彼はそれまでの十年、近衛親王の引きに乗じて来ていた。
同じ月の1927年5月、どこにも出現する鈴木貞一少佐は、蒋介石の近辺に付く任務を去り、裕仁の特務集団の計画の第二段階、すなわち、張作霖の中立化と日本の満州と蒙古の奪取を実現するために日本に配属され、近衛や〔森格〕外務政務次官を援助することとなった。鈴木はまず、大学寮出身の若い陸軍佐官を再招集し、中国問題についての
「研究会」 を設立するように工作した#6。この鈴木研究会の使命は、特務集団の計画を防衛する論文――その外務政務次官は6月末に日本の首脳や政治家や植民地官僚全員による会議を開くことを計画しており、それに先立ってなされておくべき議論――を作成することだった。(107)
- #6 その会員名簿を見ると、日本のファシズムの成長の過去帳であるかのようである。それには、パリの東久邇に仕えていた裕仁の侍従武官の町尻、もの静かな少佐で、後に最後の陸軍大臣として切腹することとなる侍従武官の阿南、1937年に盧溝橋事件をおこして対中国戦を始めた橋本群〔はしもと ぐん〕、1931-32年の満州占領を計画した石原寛治、1942年マレーシアで、第25軍の指揮のもとで発生した残虐行為についての法廷に出廷する途中、1945年ソ連機内で自殺した草場辰巳、1945年のマニラ虐殺の時、フィリピンの参謀長であった武藤彰、真珠湾の日、陸軍航空隊の指揮をとっていた一般幕僚作戦分隊の鈴木頼道、1944年に完成した悪名高いタイ・ビルマ鉄道建設の際、ビルマでの参謀長であった田中新一、1946年、墜落した米国人操縦士の首を切って処刑した横山勇、などが含まれていた。その研究会メンバーのほとんどは、1921年パリにおいて、裕仁に私的に紹介されていた。
特務集団がその大論議を深めている間、田中首相は張作霖に軍勢を中国本土領から満州に引き揚げ、時すでに遅しとならないうちに自分の領地を明確にするよう注文を付けた。張作霖はそれに以下のように憤然とした返答をよこした。
- 私は北京へと進軍し、共産党一派との戦いを開始した。私の戦争は日本の戦争でもある。にも拘らず、日本は赤化している蒋介石を援助し、加えて満州へと引き上げよと私に言う。私は日本の誠意が何であると考えるべきか。(108)
張は、この書簡に続けて 6月18日、二つの目的を持った新政策に取り掛かった。その目的とは、第一に、政治的に蒋介石と妥協し、そして彼を国民党から去るように働きかけ、第二に、軍事的に全面的攻勢をもって国民党軍を殲滅することであった。(109)
つづき
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