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第九章
天皇裕仁(1926-1929)
(その3) 



東方会議(110)

 張作霖が南京に向けて軍を南下させ始めた時、東京の外務大臣公邸――1946年、原子の日光の降り注ぐ庭園を持つ本邸で、アメリカ人の手になる憲法が受け入れられた――では、国の首脳陣による重大な会議が催されていた。その議論は、1927年 〔原著では29年と誤記〕 6月27日から7月7日まで続けられ、それには、日本のすべての植民地総督ら――朝鮮、満州からの将官や「特務官」、そして傍聴人として中国本土の公使――が参加していた。学者間では「東方会議」と呼ばれていたその会議は、鈴木貞一が議長と基調報告を行った。以下のような当会議の開会演説についての鈴木自身の追憶は、その後の歴史の泡立つ奔流を示唆しているごとくである。
 一方、田中首相は、鈴木と特務集団の計画に対抗し、この会議に先立って、中国への経済的進出および開拓について、長期にわたる包括的政策――どう見ても、長州藩の古びた貪欲な政策の単なる延長――を打ち出していた。そして裕仁の気を引かせる努力として、田中はできる限り好戦的な用語を用いて自分の計画を提案した。彼がこの田中計画の提案を終えた時、彼の古い同志で武装軍服姿の武藤信義大将が立ち上がった。武藤は、満州の日本の租借地の駐屯部隊、関東軍の司令官で、「もの言わぬ武藤」として知られていた。彼はかって、十時間を要する汽車旅行をしたことがあったが、隣に部下の参謀長を従えながら、一言も言葉を交わさなかったという。しかし、今や彼は、田中計画に執拗な反対を表わして話し始めた。
 「もし、そのような大胆な計画を実施するのならば、日本は世界戦争に面する準備をせねばならない。最初に、まずアメリカがそれを認めないと動くだろう。もしアメリカが同意しないなら、イギリスもそうするし、他の列強も同じだ。貴殿には、アメリカとの、そして最終的には世界との戦争に取り組む用意がおありなのか。」
 「そのもたらす結果への準備は出来ておる」、と田中は答えた。 
 「後で浮足立つようなことはないのでしょうな」、と武藤はだめ押した。
 「最悪に対処するあらゆる備えがある」、と田中は返答した。
 「もし政府がそこまでの決意であるのなら、もはや何も言うことはない。我々はただ命令が下るのを待つべきで、後はそれを実行するのみだ」、と武藤は宣告した。(112)
 武藤は、会議の残りの日々を通し、ひとことも発言しなかった。しかし、田中の経済侵略計画に対するその折よい反対は、それに代わる軍事的侵略を考慮外とさせる結果となった。鈴木研究会の若い将校たちは、さらに野心的な計画を空しく並べ立てた。関東軍を代表する武藤大将は、頭を横に振りながら、だまってそれを見やっていた。最後に、若い将校たちが提案を完結させたところで、植民地総督たちは、〔経済および軍事侵略という〕 二つの災いのうちの一つである、田中の計画を圧倒的多数で受け入れた。そして最終的な分析結果として、彼らは、中国北部の張作霖に、12年前の21カ条要求に明記したものと同じような、幾つかの特異な権利条項#7を要求することに同意した。




田中メモ(114)

 東方会議終了後の1927年7月25日、田中は会議でなされた決定について、その報告書を天皇に提出した。他方、中国側の諜報員は、入手した田中計画と鈴木研究会の会員によってもたらされた討議資料をつなぎ合わせて、この報告書を復元しようとこころみた。だがその復元作業で、中国人は、二つの視点を混同させてしまった。そしてその結果が出版され、日本の歴史における一つの重要な文書――巨大な偽物と化した事実の贋作――となった。それは数年後、 『The Tanaka Momorial 〔田中メモ』 とのタイトルで、西洋諸国でも広く再出版され、日本の盗賊のような野望の証拠とされた。それは、西洋諸国の諜報分析者を永遠に混乱させるものとなり、田中と長州の政友会派閥を、日本の軍国主義者と名指すこととなった。
 その中国語版によると、田中は天皇に、「明治天皇よりさずかったこの計画は」、まず、満州と蒙古を征服し、次に中国を占領し、さらに、「米国を打破し」、最後に、「世界を征服するために」、全アジアを服従させる、と助言したこととなっている。だが実際は、情報通の宮廷人によると、田中は、満州、蒙古、中国の軍事的征服は、最終的には米国との戦争を導き、日本は、アジアの原材料と工場の経済的支配を完了していない限り、そうした戦争には勝ちえない、と天皇に警告していた。


蒋の求婚(115)

 裕仁が、東方会議での決定を机上の書類箱の底に入れて握りつぶし、蒋介石は、同僚より日本との関係を問いただされて国民党の総裁を突然に辞職し、不機嫌に自分の村へと引き下がった。北部軍閥の張作霖は大部隊を率いて蒋の拠点であった南京へ向けて南下したが、国民党に残っていた非共産党軍との顕著な交戦に遭遇し、膠着状態に至っていた。そこで張は北京へと退き、国民党軍は彼を北へと追いつめた。陸軍内の裕仁の特務集団は、日本が張作霖を見捨てて最期を遂げさせ、彼の拠点である満州を奪取することを求めた。田中首相は、「わが政府は、張作霖が北部を説き伏せている限り彼と交渉する立場をとり、蒋介石が南部を制圧しているかぎり、同様に扱う」 と主張し、甚だしい食い違いを見せた(116)
 天皇裕仁は、満州の首都、奉天から日本の総領事を呼び戻し、再報告をさせた。この総領事は、牧野内大臣の義理息子で、彼は、後の和平派の首領となり、戦後の占領下の首相となる、吉田茂であった。宮廷からの指示を受けて、吉田は再び奉天に戻り、関東軍司令官の「もの言わぬ武藤」に、なぜ、北京・奉天間の鉄道を切断するよう関東軍を動員させ、張作霖に拠点からの補給やそこへの退却を不可能にさせないのか、との意図をもって接近させた。しかし武藤は、公式な命令なくしてはいかなる企てにも関われないと拒否し、それは田中首相によって〔天皇に〕伝えられた。一週間後、裕仁は命令書を発行し、武藤は、名目のみの名誉職が与えられ、東京に呼び戻された(117)
 この重大時期に、一時的に国民党総裁を退いていた蒋介石は、自らの立場の説明のために、日本に到着した。彼の来日は、表向きには個人的なもので、左傾銀行家のチャーリー宋の保守派の娘、美齢に求愛し、結婚するためであった。美齢は家族とともに、長崎で夏を過ごしており、そこが蒋介石の旅の第一の目的地だった。彼は美齢の両親に、以前の妻とは離婚し、妾との関係も清算し、非難の落ち度のない、一国の西洋スタイルの首領としての生活を準備していると申し出た。美齢の母親の宋夫人は、我々家族のように、ここでクリスチャンになるつもりはあるのか、と問うた。それに彼は、いいえ、と答え、キリスト教は人が飲まねばならない薬ではないがゆえ、ただちに改宗する積りはないと、その理由を加えた。宋夫人は彼のその率直さに打たれていた。
 宋夫妻がその求婚を考慮している間、蒋は求婚相手の美齢のもとを去り、三ヶ月の間、東京に滞在した。そこで彼は、鈴木貞一少佐や天皇の大兄たち、さらに、間接でありながら、天皇にも、自分の将来についての説明を行った。そこではまた、彼は汎アジア主義の知人、陸軍諜報長官の松井岩根――後に 「南京の屠殺人」 として無実の罪で絞首刑となった――にも会った。その時彼は、黒龍会の首領、頭山と畳の上であぐらをかいて座している写真を撮っている。頭山は和服を着て長い髭をはやし、あたかも超数学的な命題を考えているかのように、彼の右側に少し離れて賢人のように位置し、蒋はスーツを着て、派手なネクタイをし、唇をすぼめて微笑みながら、きどってカメラを凝視している(118)
 その会合で蒋は、写真は撮っていないが、裕仁の特務集団のメンバーとも会っており、そこで、彼に先だって孫文が行っていた日本との盟約――日本は長城以南の中国本土の統一の際にその支援と友誼与え、それと交換に中国の辺縁地方、満蒙を得る――を再確認した。ことにそれは蒋が、日本が中国内戦――黒い火曜日を生き延びた国民党の共産党指導者との争いを彼は予想していた――に友誼的中立を保つなら、長城以北の日本の行動に何ら異議をはさまないことを約束するものだった。
蒋は、この二重の意味をもつ盟約に満足し、1927年12月27日の美齢との結婚式のため、長崎に戻った。翌年1月、彼は新妻と腕を組んで南京に戻り、ただちに、国民党の指導者に再選出された。(119)
 裕仁の特務集団は、〔その盟約の〕彼らなりの理解にもとづき、蒋の結婚式も、中国への帰国も待ってはいなかった。1927年11月、大兄の近衛親王は、国会の調査協会――1921年の設立以来彼が後援し、それは貴族院の支配集団をなしてきた――を辞し、裕仁に近い21人の帝国主義的皇室人からなる派閥――彼はそれを「火曜会」と呼んだ――を設立した。彼が言うところでは、調査協会は、張作霖のような軍閥を信頼する、反動的な老人たちに牛耳られるようになっているというものであった。だが、火曜会にとっては、最終的には、蒋介石との同盟により、日本の指導力のもとで、統一したアジアをもたらすというのが、その中心的な信奉だった。
(120)
 1927年の12月初め、関東軍の諜報員、河本大作大佐――鈴木研究会の会員で、バーデン・バーデンの信頼しうる11人の一人――は、満州のある鉄道支線の小さな橋を爆破する監督をしていた。それは、その爆破によって、何らの損害を与える意図のものではなく、だたの爆破演習だった。彼は、その音や爆破力が、地元の盗賊たちへの警告となることを期待していた。彼は、ロシアや日本や、また中国の新聞さえもが、いずれもその爆発の明白な意図を理解していることを知っていた。そして彼は、その後数ヶ月の間に、そうした爆破を異なった橋で幾回か繰り返した。反発があるのは、いつも、盗賊たちのみだった。状況はいよいよ熟しつつあった。
(121)



窮地に立つ張

 1928年2月の国会議員選挙〔普通選挙法による初めての衆議院議員総選挙〕に際しては、日本の軍国主義と独裁主義に対して、農地改革者、労働組合員、共産党員、無政府主義者、そして、急激に登場し始めていた “モボ” すなわちモダンボーイやモガ” すなわちモダンガールたちが、大声をあげて反対運動を広げていた。その3月、警察は、5,000人の問題者たちを逮捕し、裁判も保釈もなく、無期限に投獄した(122)。裕仁は、直ちに治安維持法の強化に許可を与え、政治犯に死刑を科すことを可能にした。こうした権威主義的な警察権力の強化がありながらも、四年後の1932年7月には、4,520名のいわゆる主義者らが釈放されるに至った。そして、残された480名中、最終的に処刑あるいは投獄が確定したのは190名に過ぎなかった。
 この大量検挙のすぐ後の1928年5月、蒋介石の国民政府 「解放軍」 の北伐は、およそ2,000名の日本人居留する山東半島と旧ドイツ租借領、青島の付近に達した。
田中首相は、彼の旧友、張作霖を援助するため、その地域への日本軍駐屯部隊を強化し
〔第一次山東出兵〕、その干渉をもって、蒋介石の進軍を遅らせようとした。裕仁は、この〔田中首相の〕計画を承認することで、取り巻きたちを当惑させた。だが裕仁は、この出兵の指揮に、福田彦介中将――1923年の関東大震災の際、朝鮮人を虐殺した福田〔雅太郎〕大将の血族――を命じた(123b)。その数日後、福田の士官が鉄道終点の済南で蒋介石軍の前衛隊と折衝のために接触した際、11人のバーデン・バーデン関係者の一人の指揮のもとで動いている日本の特務機関#8の一員(123a)が、付近の屋上から拳銃を発射した。福田の士官たちはそれを攻撃を受けたと解釈し、直ちに、手当たり次第に7,000人の中国人を殺害した(123)。その9日間の暴力支配によって、福田は田中首相の 「介入政策」 への信頼を完璧に破壊してしまった。
 蒋介石は、自政府の通常の外交手段をこうじてその虐殺への抗議を表わしたが、それが日本の国内政治の反映による工作と知って、済南を迂回して自軍を北京へと進軍させた。1928年5月18日、皇室最年長の閑院陸軍元帥は、満州の関東軍に24時間以内の待機態勢を取るよう命令を発し、満州の鉄道網を掌握し、張作霖の部隊が奉天へと退却する際には、武装解除をさせる用意を整えさせた(124)。それと同じ日、北京の日本の外交代表は張作霖に、ただちに撤退するか、あるいは蒋介石軍と関東軍との挟み撃ちに会うかとの最後通牒を示した。その老いた軍閥首領は窮地に陥った。彼は、自軍を密かに奉天へと移動させはじめ、自分自身の撤退のために手の込んだ援護策をこうじつつ、同時に、蒋介石に対する人々の反抗を煽りたてた。


国際的殺人

 他国の政治指導者を暗殺するというのは、政治手段としては比較的単純なものだが、それが一種の報復を呼び起こすために、まれにしか採用されない。だが裕仁は1928年、不満と腹いせにかられ、それに関わることとなった。そして、そうして一線を越えることとなり、彼は日本を西洋世界に、殺人国家としての名を着せてしまうこととなった。
 1928年5月21日、南満州鉄道の日本の所有権を最大に生かして、関東軍の本部と小規模の日本軍連隊は、旅順から250マイル
〔400km〕北の満州首都の奉天へと移した。中国人の海に囲まれたその地で、日本軍は緊張の中、張作霖が武装解除するのを待った。
 仲介者を通じて、田中首相は、東京のアメリカ大使館に、状況は不安定であると告げると、直ちに、太平洋を横切って、アメリカ政府は日本に、列強に事前の相談なく一方的な行動を起さないようにと警告を発した。田中政府の事実上の外務大臣である外務次官は、アメリカの警告が広まるのを防ごうと、政府の各省の主要官僚の間を説いて回った。彼は、張作霖の武装解除は「すでに決定済みの計画」であり、したがって、それを変更することは、国の主権の巨大な犠牲をもたらす、と説いた。彼らの多くはそれに同意する積りであったが、その夕、老西園寺の弟子である大将と外交官が鎌倉の田中首相の別邸を訪れた。彼らは田中と海辺を散策しながら、裕仁の手足となっている若い皇族たちを最大の努力をもってなんとか押しとどめるようにと説得した。翌26日の朝、田中は誰にも相談することなく、関東軍参謀長に、計画の武装解除を取りやめるように打電した。(125)
 再び、天皇の計画は挫折させられた。裕仁にとって、田中首相と日本の重鎮との公然とした衝突は避けようもなく、いかんともし難かった。彼の特務集団の一員たちは、張作霖にその集団的怒りをぶつけた。張の息子、張学良は、蒋介石の称賛者との評判が高かった。そこで、もし張作霖が死んだ場合、その息子は蒋介石の日本との合意を理解し、日本の傀儡として働くことに同意するかも知れなかった。 
 張作霖殺害の計画は、建川美次
〔たてかわ よしじ/よしつぐ〕少将――1916年の先の張暗殺を統括した皇室最年長者である閑院元帥の子分――に託された。物腰が柔らかで、小太りの、謎めいた建川は、友人の間では 「人さらい」 とか 「無双のひも」 とかと言われていた。彼は皇室特務集団の特権メンバーだった。日露戦争の際には、彼はロシア国境の向こう側に侵入し、張作霖や中国人盗賊らとともに動く建川挺身隊という不正規部隊を組織していた。戦後、彼は明治天皇より勲章を授かり、宮廷のお気に入りとなった。1928年3月、一般幕僚の重要職である英米諜報部長から、北京の日本大使付き武官に転任した。その降格した地位にあって、二ヶ月にわたって、彼は張作霖を訪問したり観察を続けた。
 1928年5月、建川は同僚の武官を奉天に派遣し、特務集団の新たな計画にそって、満州の関東軍の新司令官の顧問とさせた。その武官が司令官室を去ろうとした際、満州の鉄道橋を幾つも爆破してきた河本に遭遇した。その武官は河本に、張作霖は北京で雇われた刺客によって暗殺されることになっていると告げた。河本は、その任務を自分に任せてもらえないかと願い出た。1916年の爆弾から逃げおせた張をそうして獲物にしえることは、願ってもないことだった。その武官は直ちに北京の建川に、その任務を受け入れると打電した。(126)
 6月2日、張作霖は、長城を越えて自領に引き上げることを最終的に決めたと、部下の司令官たちに電報を打って知らせた(127)一方、建川少将は北京の鉄道基地において、ある部下に北に向かうすべての列車の編成や経路を調べあげるよう手配していた。その部下は田中隆吉大尉で、後に、東京戦犯裁判において、アメリカのキーナン検事の主力証人となる人物である。1928年5月30日、張が自分の決定を知らせる3日前、記憶力の良い田中は奉天の河本に、北京での列車運行予定についての事前の報告を送った。
 奉天では、河本は通過する可能性のある列車すべてに対して準備を整えていた。中国所有の北京・奉天線が日本所有の大連・奉天線の下を走る奉天の郊外で、河本は部下に3袋の爆薬を埋めさせ、付近の丘の点火装置と電線でつないでいた。張作霖に恨みをもつ三人の満州人兵士が雇われ、装薬が埋められた中国側の線路の上の部分に見張り役として立たされた。(128)
 張作霖の敗北兵が数日にわたって奉天へと帰り着いた後、それを追うように、張がようやく列車に乗り込んだ。彼は、自分に対する日本の陰謀の噂を聞き、「第五夫人」と他の不必要な随行員を、彼の列車と全く同じの7両連結の列車に乗り込ませて先に送りだした(129)。その列車が出てから6、7時間の後、6月3日の深夜1時15分、北京の鉄道基地の側線から彼の列車が出発した。その列車の乗客のうちの3人は、張の軍事顧問を長く努めてきた日本人士官だった。その三人のうち二人は、昼の休息で停まった天津で下車し、最後の一人の儀我誠也
〔ぎがせいや〕少佐は列車に残った。張は、儀我が閑院親王の取り巻きであることを知っていたので、儀我が身近に居る限り爆破される心配はないだろうと考えていた(130)。 
 その日の午後5時頃、建川少将の命で任務についていた一人の日本人監視人は、張の列車が、長城起点の国境の町、山海関を通過したのを確認した。河本が信頼する男は、その夜、列車が満州の錦州駅を通ったことを報告した。同様の列車がその線にそってさらに目撃されたことは、一時、奉天を混乱させ、河本の部下はそのおとり列車を爆破するところだった。幸い、様々な通報電のうち、張の第五夫人は、二つの列車の違いを見分けさせ、その美しい若い夫人は攻撃されることなく、深夜ころに奉天に到着した。(131)
 張の列車が闇の満州平野を走っている時、彼と儀我少佐らの随行員は、麻雀卓を囲んでいた。また奉天では、列車の到着は朝の5時か6時になるのは明らかで、陰謀団の一部は町で、また他の一部は町の郊外半マイル
800mの立体交差付近で、それぞれひと眠りしていた。やがて空が白み始めるころ、彼ら全員は、オートバイでその立体交差点に集合した(132)。河本の兵は、雇われて見張りについている三人の満州兵にこっそりと接近し、理論通りに死人にものを言わないよう、銃剣を着装して彼らを襲った。しかし一人は暗闇にまみれて逃げおせ、他の二人の死体が線路脇に
横たえられ、張に属する盗賊首領の命令によるものとでっちあげられた。そして彼らの硬直した手には、東京の骨董店で購入されたロシア製の爆弾が握らされ、その爆弾は東京の憲兵任務にあった将官によって、その企てのためにと託されたものだった(133)
 奉天まであと数マイルの所へと来た車中では、、麻雀はお開きとなり、参加者は下車のための荷造りをするため、各々の客車へと戻った。張作霖とハイラル県のフー知事のふたりは、パイとビールの空き瓶の散らかる麻雀卓の上でうたた寝をしていた。儀我少佐が自室から毛布を取って乗務員車へと行き、その毛布にくるまって後部デッキで横になった。交差部近くの丘に陣取る河本の主任補佐の東宮鉄夫大尉は、橋の下に進入してきた列車を緊張して見つめていた。そして、張の車輛が埋めた爆薬の上を通過するまさにその瞬間、点火器を押した。すさまじい火と黒煙が上がり、その車輛は線路から吹き飛ばされて飛び散った。張と知事は、17名の随行員とともに死亡した。儀我は、列車が二分された時、振り落とされただけで、乗務員車輛から這い出し、張の車輛の残骸へと駆けつけ、「おお、何と無惨な」と声を上げたと報じられた。(134)
 他の陰謀団員は、その爆破現場において、犯人を殺したとの表明を出した。それは、どう見ても見えすいたもので、逃げた第三の満州兵はその真実を知っていた。彼は張作霖の息子の学良のところにたどり着き、その話をつげた。しかし、若い学良は、もし彼が日本の面子をつぶせば、日本を戦争に追いたてることを恐れた。そこで彼は部下に父の遺体を丁重に病院へと運ばせ、その暗殺が確かなものとされるまで、およそ二ヶ月間、戦争を避けてその発表をひかえた。一方、北京の
建川少将は、それが実行されたことに、「衝撃を受けた」と告白するかたわらで、所有する関係電報をすべて焼却していた。(135)

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