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第九章
天皇裕仁(1926-1929)
(その4)



天皇の強情

 張作霖を殺した後、裕仁は傲慢な自尊心にとらわれていた。彼は子供の頃から、面子をかけた誇りをかざして、通常の日本人を凌駕する感覚を訓練されてきた。彼は、老いた盗賊、張作霖のそうした失脚を大いに喜び、田中首相がその責任を取ることに期待した。そこでもし田中が賢明だったならば、彼はその暗殺の名ばかりの調査を実施し、一部の陸軍士官に名目の処罰を科したろう。他方、もし田中がそうでなかったなら、生真面目で律義な日本の国民によって、事を隠蔽しようとし、自分の責任を皇位になすりつけようとしたとして非難されたであろう。
 張作霖暗殺の9日後、裕仁は宮廷でお祝いの宴を開いて、自分の気分をおおやけにも表していた。その宴は定例なもので、御簾の背後で裕仁の治世の最も奥部に作用する、藤原家の五家系に年に一度の誉れを与えるものであった。しかし、前例を破って、日本の報道陣がその行事を取材することが許され、その祝賀とともに、裕仁と同席する六人の貴族の名を公表させるものであった。その六人のすべては、張作霖の暗殺者であり、かつバーデン・バーデン関与者である河本大作大佐と私的な知己関係にある者たちだった。(136)
 田中首相は、即刻、興津の別荘ですごす首相奏薦者、老西園寺に電話を入れた。彼は西園寺に、慎重ながらに、 「張作霖の問題」 は処置されなければならず、裕仁のもっとも信頼する陸軍関係者がそれに関与しているのはほぼ確かだ、と告げた。そもそも、地味な首相であり、皇室政治のバンド指揮者にすぎない彼に、一体いかなる扱いが可能であったのであろうか。
 78歳の西園寺は、それに答える前に、しばし熟慮した。藤原家系の長老として、彼はつねに皇位を擁護し、その弁明者である使命を負ってきていた。他方、彼は憲法の創設に貢献した西洋志向の自由主義者として、裕仁の近年の治世に苦言をていせねばならなかった。そして、日本の世襲貴族の最上かつ最も賢明な者のだれもが、彼の指導力を仰いでいた。
 田中首相は、西園寺の返答を待った。西園寺は最近、老いの進行が甚だしく、近親者の不幸もあいついでいた。次々と彼の飲み仲間が逝き、富豪である弟もその一人だった。さらに、彼がベルサイユ会談の際に連れて行った妾の花子は、若い愛人の子を生み、西園寺は彼女をベッドからも部屋からも消し去りたい思いに駆られていた。
 西園寺は、言葉を選びながら、最終的にこう言った。「過ちは過ちで、それに応じて処罰されなけらばならない。もし我々がそれを怠ったなら、軍紀律にも禍根を残す」。そして続けて、西園寺は田中に、張作霖の暗殺を 「その根底」 まで 「勇気を持って」 実証するようにと勧めた。
 田中は、それは天皇も同じ考えなのか、裕仁に個人的に打診してみるべきかどうかと案じて尋ねた。西園寺は田中に、 「極めて適切なことだ」 と確信させた。そうして田中が裕仁と会うと、裕仁は、自分の統治下でいかなる不正や軍の不服従の出現も望んでいない、と冷静に明言した。(137)
 裕仁の勧めで、田中首相は、憲兵司令官、峯幸松
〔みね こまつ〕少将を満州に派遣し、現地捜査に当らせた。この峯の選任は最適と言ってよく、彼はすでに、現場の線路脇の見張りの死体の手にあったロシア製の爆弾を提供していた、その件の黒幕だった。
 1928年8月半ば、彼は最初の捜査報告書を提出した。その報告は、現場状況、運行計画、爆弾技法などの詳細では満たされていたが、暗殺者の名前については巧みにぼかされていた。しかし、峯は、長年の橋梁爆破の専門家、河本大佐周辺の特定の士官が、張作霖の保安維持を怠り、配属転換ないし懲戒されるべきである、と示唆していた。裕仁は田中首相に、示された懲罰を行い、事件を出来るだけ早く終結させるようにと命じた。しかし田中は、その報告書が事実を糊塗するものに過ぎないことを知っており、また西園寺からは、事件に急いだ幕引きをしないよう助言されていた。(138)
 田中が張の霊を埋めそこなった時、裕仁は、首相の権威を弱め、かつ、自身の隠された力を強化する手段をこうじた。1928年8月21日、彼は自分の執務室に電話を引いた#9 。それは前例を見ない新装置で、備わったボタンのひとつを押すことで、宮中内のどの側近とも即座の連絡を可能としていた(139) 。それまで彼は、外界との連絡は、のろまでうわさ好きの仲介係を経ねばならなかった。だが今や、彼は、たとえば、厖大な皇室の資産を扱う大臣に電話して、自身の意向をもって速やかにそれを金融界で運用させることも可能となった。また、政界を動かすさまざまな侍従を、担当の側近に用件の旨を伝えることなく、彼らを彼のもとに個々に呼びつけることが出来るようになった。そしてもっとも重要なことは、陸海軍の侍従武官が、自身の専用回線を通じて、宮廷外の陸海軍省や一般幕僚の士官と直接の通話が可能となったことだった。裕仁は、こうした新しい電話を使う場合、自らを名乗ることはなく、自分を誰かと言わずとも、電話の相手側がその声によってそれが彼だと解らせていた(140)
 電話が設置されて数日後の1928年8月27日、パリにおいて、外務省の首相の部下が、戦争を国家の合法的手段とすることを禁ずるケロッグ・ブリアン条約〔パリ不戦条約〕に調印したことで、田中首相と天皇との関係はさらに悪化した。それは、国家の最高司祭としての裕仁が平和の考えに公に反対できなくなるため、西園寺や田中そして政友会にとっては勝利だった。まして新聞や国民は、称賛をもってそれを歓迎した。しかし、裕仁は、自ら主宰して枢密院にそれをはかり、自分がその条約に署名する前に、条約の用語を厳密に検討するようにと諮問した。天皇に忠誠な枢密院議員は直ちに問題条項を指摘し、「人民ノ名ニ於テ」〔同条約第一条〕 として調印した田中首相を批判した。枢密院によると、この用語は、人民を天皇の地位以上にあがめ、防衛のために戦争を宣言する天皇の憲法上の権利を否定しており、日本帝国憲法に反するというものだった。そして裕仁は田中に命じ、それに署名するに当っては、他の調印国に、この条約は日本の防衛権を制限するものではなく、「人民ノ名ニ於テ」という用語は日本には適用されないものと解釈する旨を表明するようにと強いた。(142)
 1928年9月9日、田中首相がケロッグ・ブリアン条約をめぐって裕仁と不和となっている際、田中は、老西園寺の抗弁に耳を傾け、峯憲兵司令官を、張作霖爆殺のより厳密な捜査をするため、再び満州に戻るように命じた。9月22日、田中はさらに、衆議院の政友会の委員会を招集し、張作霖問題を新聞記者の目をも満足させるよう熟議させた。10月8日、その委員会の審議がまだ続いている時、峯憲兵司令官は、第二の報告書を 「極秘」 に提出した。それを読み、田中は直ちに、彼の政治的捜査を休止させ、自分の政治的立場を再吟味しなくてはならなかった。峯の第二報告書には、裕仁ばかりでなく、田中首相自身の旧友や陸軍の同僚の名が示唆されていた。田中はそれまで、裕仁と陸軍の関係の深さとその計画の甚大さを、それほどまでとは認識していなかった。(143)
 さらにその後、田中は、自らを狼狽させるに充分な新証拠を見せ付けられ、裕仁の真意を覚った。10月10日、田中は、朝鮮と満州国境の豆満江で、陸軍技工部隊が鉄道橋を完成させたことを知った。この橋は、その段階ではどこにも通じてはいなかったが、将来、満鉄の北端駅とを連結するためのもので、陸軍にとって、満州への第二の戦略的通路を開くものであった。さらに数日後、彼は、石原莞爾中佐
#10――鈴木研究会の最も優秀な戦略家――が、満州征服のための人員配置計画を関東軍に提出したことを聞いた。  そこで田中は、改めて西園寺をたずね、相談した。西園寺は再度、張作霖問題の探索を継続するよう激励し、どんなことになろうと、裕仁にその結果の意味するものをすべて知らすよう、田中に勧めた。
 だが田中は、何らの約束もすることなく、西園寺の別荘を後にした。元来、ほどほどに正直で純朴であった彼は、皇位に敵対するまでの自分の役割に確信は持てず、しだいに自分が陥っている状況の深刻さに畏怖するようになっていた。そして一週間の苦悶の後、遂に彼は、張作霖問題を忘れることにし、何もしない道を選んだ。そして、案じた末に、田中は裕仁に、紀律を正すことと、特定の陸軍士官に適切な処罰が必要かも知れないことを進言した。さらに彼は、東京の誰もが古都、京都での裕仁の即位式典の準備に忙殺されているような現段階では、何かをなさんとしても何もしようがないと、西園寺に漠然と苦言をていした。
 1928年
〔昭和3年〕11月10日、西洋諸国の報道陣は裕仁が京都駅から明治天皇が生まれた御所へと向かう様子を追っていた。選ばれたほんの数人の日本人が、彼が古い祖先伝来の漆の玉座に着くのを見、御所の中の特別に建てられた儀式殿に入り、天照大神とともに、一夜を徹した寝ずの儀式に立ち会った。それに続く一ヶ月間で、裕仁への国民の信望はさらに上がり、彼は異様に献身的で何かに憑かれているようになっていた。田中首相は西園寺の要望を無視するかのように、かく、張作霖問題を眠りにつかせようとしていた。(145)


馬賊の息

 暗殺された張作霖の30歳の息子、張学良は、麻薬常用者だった。インフルエンザにかかった時、日本人医師が彼にアヘンを処方し、それがもとで、彼はその習慣を覚えた。その医師は彼がもう衰弱し切っていると診ていた。は日本人の間では、外国を旅し、西洋紳士の振る舞いを身に付けた軍閥の我まま息子と思われていた。しかし、張学良は生まれ故郷の政治的現実を肝に銘じていた。
 張は、物腰の柔らかそうな外貌の内に、父親のような、勇気、狡猾、容赦なさを備えていた。さらに彼は理想主義の傾向ももち、中国の共和主義運動――表面上は蒋介石の運動――に彼を貢献させることとなった。そうした数年間、彼は蒋介石のあるべき良心――蒋介石が手段にかまけて視野を失いかけた時、常に理想を忘れさせなくさせてきた――となってきた。二人には、無二の親友関係が育った。それは、1970年の今日でも存在し、71歳となった張学良は、82歳となった蒋介石が統治する台湾で、軟禁状態ながら満たされた囚徒生活を送っている。
 この二人の政治家の奇妙で強固な友情は、蒋介石が日本の命を受け、張学良を満州の新支配者と認めた、1928年の秋に始まった。同年12月29日、張学良は奉天周辺の自政府のあらゆる建物に国民党旗
〔青天白日旗〕をあげてそれに応えた。初期のアヘン中毒だった彼は、その高揚がこうじて、満州が中国という身体の器質的部分であることを蒋は認識すべきと感じていた。はまた、日本が自分のそうした姿勢を、日本と蒋介石との間の不文律の合意の精神にそむく、敵対行為と受け止めるだろうと予想していた。(146)
 彼の予想は当っていた。1929年1月の最初の週、日本の諜報員は、満州の三県の壁といいう壁に、張を誹謗するビラを張った。その文面は、完全に事実に反していたが、こう告げていた。
 これに挑んで、31歳の張学良は、蒋介石を支持し、彼を政治的本流と持ち上げ、自分の勢力の拡大をはかった。張も蒋も、日本に征服されないで満州の尊厳を維持する唯一の道は、満州を餌食となりそうな傀儡国家と見せかけ、事実上の時間かせぎをすることだった。日本陸軍の老将たちは、その若き満州の指導者を、楊宇霆〔ヤン・ユータン〕という大将と、満州を走る中国鉄道の首領を通じて操れるものと目論んでいた。しかし1月29日、若く、傍若無人な張学良は、自らのアヘン中毒を克服しようとする禁断症状の苦しみの中で、ある夜、奉天の自宮殿で行った麻雀会にこの二人の名士を招き、彼らが部屋に入ってきた時、両者に銃を発射して、誰しもを仰天させた。そしてただちに、楊が日本が支配する満州共和国の主席になろうと東京と共謀していたと発表し、同時に、彼は楊の未亡人に、10万満州ドル――およそ4万米ドル――を贈った。中国の愛国者の誰しもが、彼の情け深く寛大な処置に称賛を送った。(148)


面子の修復

 蒋介石は、張学良が暴露し、がそれ〔日本との共謀〕への加担を拒絶したことへの大衆的な支持に感慨を深めた。一方、裕仁の大兄たちは初めて、蒋介石を敵として話し合いに応じた。 「満州問題の見直し」 という苦い見出しが東京の新聞の一面を飾った。オリエント合同通信のアメリカ人支局長、マイルス・W・ボーガンは、残された問題は日本の関東軍が直ちに満州を奪取するか、それとも、 「満州ばかりでなく大半の北中国ともどもに手に入れる機会がすぐにやってくると期待して」 それを待つかということだ、と本国に報じた。(149)
 張作霖を爆殺し、未処罰のままの河本大作大佐は、書簡を裕仁と一般幕僚に送り、 「満蒙の未解決問題の合理的かつ包括的処置は、対中戦の結末は言わずもがな、対米戦も考慮して、(蒋介石の)南京政府の消滅から着手されねばならない」、と告げた。 (150)
 裕仁はまだ、蒋介石への期待を捨て、世界を相手とするとまでの決断には至っていなかった。皇室最年長の閑院元帥は、満州は広大な国で、慎重な軍事的計画なしには掌握不可能であると忠告した。藤原家の裕仁の親友、若い近衛親王も、国内世論において、征服戦への機はまだ熟していない、と警告した。首相奏薦者、西園寺――近衛よりも下位の身分ながら年齢でも影響力でも彼を勝っていた――は、満州奪取へのどんな試みも、今においては、いかなる面においても深刻な問題を生じるとの見解を表わしていた。1929年の2月から3月にかけ、西園寺の取り巻きたちは、政友会を通じて、もし張作霖殺害の捜査が貫徹されれば、裕仁の 「威厳は地に落ちる」との流言を広げた(151)
 だが裕仁はそれに動じず、用心してかからねばならないことを覚った。そして彼は、彼の特務集団に、満州征服の計画は、最後の一銃弾まで、完璧に成されなければならないと諭した。そしてその準備が進行している間、彼は、天皇の面子が完全に保たれているか否かを質した。彼はまた、特務集団の中国政策が失敗した責任をとらせるとして、牧野内大臣を通じて、最も忠実な二人の団員を選ばせた。すなわち、鈴木貞一は十ヶ月の休暇としてヨーロッパに送り出され、農商省で産業動員計画に当っている大兄のひとりの木戸幸一は、米国で一年間の研究休暇を過ごすよう説得された(152)。この二人の職務外しは、公には、中国における事態が裕仁を不快とさせ、その責任を個別に取らせたものと発表された。こうした見せかけをこうじ、裕仁は不屈にも、自身の秘密の軍事計画を推進し、田中首相には、張作霖問題に満足できる幕引きをするよう、執拗に圧力をかけた(153)
 1929年4月、裕仁は日本の常備17師団の司令官を年次謁見に招集した。この年の謁見では、ことに裕仁が和らげたいと望む二つの懸念があることを知らされていた。司令官たちは、張作霖の暗殺が天皇による事前の正式な命令のない行動の前例であり、陸軍の綱紀を損なうものと危惧していた。そして、一般幕僚による満州への全面的侵攻の秘密計画のうわさに関心をかきたてられていた。裕仁の役割は、そうした師団長たちに、河本は張作霖殺害のかどで処罰され、ならびに、満州についての一般幕僚の計画は状況に応じて修正あるいは使用されるべき、万一のための便宜計画に過ぎないと告げることであった。師団長たちが裕仁との謁見を終えた時、裕仁は、一人の側近が進言したように、裕仁が師団長たちに正しい印象を与え、さらに、彼らが裕仁を全面的に支持していることに確信を深めていた。(154)
 田中首相は、裕仁がそのような巧みな対処を見せた以上、張作霖の殺害がもはや問題とされるまでもない事柄となっていることを覚るしかなかった。だが、そうでありながら、西園寺の命に従って、田中は名目的な懲罰行為に出ることで、問題の沈静化を拒否しようとした。1929年6月28日、裕仁はついに田中を謁見の間に呼び、張作霖問題はまだ解決されていないのか、と陰険に問い質した。田中はそれに、先の自分の報告にも拘わらず、結局、陸軍士官の誰にも関与のあるものはなく、警察官と末端の守備隊員のみが関与している、と答えた。こうして田中は、事実上、裕仁の求めるまやかし裁判を行うことを拒絶し、公衆には、彼の捜査は宮廷の越えられない壁にぶち当たっていることを知らせようとした。
 裕仁は、そうした田中に大きな不快を示して、 「お前の言うことは、先のお前の説明とは違うではないか」 との氷のような表現をもって、追い払うように手を振って田中の退席をうながした。田中が謁見の間から身を引くやいなや、裕仁は侍従長の鈴木貫太郎――葉巻を吸う狡猾な老いた老子信奉者で、二次大戦末期の策謀に満ちた数ヶ月間、首相として皇位に仕えた――を呼んだ。裕仁は鈴木に、 「田中の言うことは理解できない」、 「彼とは二度と会いたくはない」 と苦言を表した。
 それ以後、田中は幾度か謁見を申し出たが、いつも拒否された。謁見の間から消え去るようにとの宣告が繰り返されるたびに、田中は泣いた。そして三日後、彼は内閣にも、政友会にも何らの事前の示唆もせず、突然に、辞任を天皇に申し出た。それは直ちに受け入れられ、それ以降、日本のいずれの首相も、裕仁に公然と反対する勇気を表わす者は現われなかった。(155)
 それから三ヶ月後の1929年9月29日、田中はこの世を去った。その死は、国の政策に愛国的な抗議を表わした自殺であったとのうわさが広がった。しかし、宮廷関係者の味付けで広まったより痛々しい話は、政治的挽回を試みたものの、酒におぼれ、最後は、妾の芸者の腕の中で息を引き取ったというものであった。
 1929年5月、陸軍師団長たちとの謁見の数日後、白川陸軍大臣は天皇の意志をくんで、河本大佐を金沢の第9師団の非常要員の地位に降格させた。だが田中が辞任した7月、河本は正式にその降格が解かれ、一年後の予備役復帰が与えられた。かく、張作霖の殺害には見返りがほどこされ、裕仁も張学良も、その件が落着したことに満足するふりをした。事実、河本は報償が与えられて満州に残り、産業界で様々なうま味の多い仕事を手にし、小金を蓄えた。今日、彼の息子、河本敏夫
〔福田内閣の通産相、鈴木、中曽根両内閣の経済企画庁官〕 は、秀でた産業人、国会議員、そして自由民主党の要職者となっている。(156)
 張の暗殺のその他の関与者も処罰されていない。1929年8月、建川少将は一般幕僚の基幹部署、第二部の陸軍諜報部長へと昇進した。
 しかし、中国人が簡単には不問にしなかった暗殺関与者がいた。爆破された列車に同乗していた儀我誠也少佐は、その後、大佐に昇格した。その彼は張作霖の身辺にあった軍事顧問であったため、殺された軍閥首領の遊撃隊は、彼を裏切り者とみなした。彼らは儀我を、満州の奉天、日本の広島、仙台、そして、満州・シベリア国境のチチハルと捜しまわった。1937年、閑院親王の息子は天津にあった壁で囲まれた別荘を、隠れ家に適しているとして儀我に譲った。しかし、その甲斐もなく、1938年1月24日、満州からの刺客は十年にわたる追跡の後、彼に一弾をみまった。(157) こうして遂に、若い張は、中国の儀礼書に言う 「父親殺しがこの世に存在することを許している者の恥辱(158) を、少なくとも形の上の復讐をとげて晴らしたのであった。




戦前日本の政府構成


天皇
宮廷組織 一般幕僚

皇族会議
 天皇から五世代の皇室男子全員によって構成。裕仁の皇位では25人の親王が、資産、結婚、王子らしい微罪、国家の主要決定などについて天皇に助言。
枢密院 首相の助言に基づき、天皇によって指名された26人の高齢政治家が天皇よりの質問のあった事項について助言。
内大臣府 天皇に日常政治を助言。
官房 国璽と国璽を押したすべての国家書類の管理。
皇室墳墓および皇室神社
皇室文書保管所 
貴族局 貴族家系を管轄。
学習院学校
暗号研究所 諜報活動を管理し、すべての日本の諜報活動を管轄。米国のCIAにほぼ相当。
侍従長 天皇に天皇の健康、レクレーション、そして外交活動などの事項を助言。
侍従局 執事、使用人、馬丁。
祭儀局
宮廷病院 
宮廷料理局
宮廷厩舎局
宮廷詩歌局
宮廷休養余暇部

宮廷家計
宮内省 宮廷財産、投資、320万エーカー〔1万3千km〕の宮廷所有地の賃貸、23か所の物件の管理。
   宮廷財務局
   維持管理局
   宮廷監査局
侍従武官長 天皇に軍事的事項を助言。
   侍従海軍武官
   その他の侍従武官

最高軍司令部  天皇に指名された陸海軍上級将官で構成。枢密院に相当する軍事的同等機関。
   陸海軍元帥会議
大本営 1937年に創設された宮廷内の天皇直轄指令機能。閣僚、一般幕僚の各部長、陸海軍大臣、および天皇の参考に処する全ての計画および地図を管轄する常設職員によって構成。

陸軍参謀総長 
参謀本部 
  組織・動員部
第一部 作戦
第二部 諜報
  ロシア課
  欧州・米国課
  中国課
  特務班 海外の政治的謀略
第三部 輸送・通信
関東軍
朝鮮軍
台湾軍
東京守備軍
陸軍大学校

海軍参謀総長 
第一部 作戦
第二部 諜報
艦隊総合司令官
 
 第一艦隊
  第二艦隊
  その他
海軍大学校

監察官
陸軍監察長官
教育
  陸軍学校 戦車、信号、歩兵、他特殊学校
  陸軍幼年学校
陸軍航空隊監査長官
  航空学校、調査研究所、連合・連絡委員会


天皇
内閣 国会

首相
 西園寺親王および老政治家の助言により天皇が指名。1932年より、政党党首が就任する場合があった。
外務大臣 
  外務省、大使
内務大臣
 
 思想警察
  警視庁(東京首都圏)
  県警察

財務省
  予算局
  日本銀行
  横浜正金銀行
陸軍省
  軍務局
    軍務課
    航空本部
  人事局
    配属課
  兵務局
  陸軍監視委員会
  報道関係班
  憲兵課 半自立機関で、海外も管轄し、内務および法務と連携。
  捕虜管理課(1942年設立)
海軍省 陸軍に類する部局を通じて管轄
法務省 
 
  裁判所
  判事
  処刑
文部省
  学校
  政府出版および広報
通商産省
農林省
逓信省
鉄道省
植民地省 
  興亜局 半自立機関で、中国各占領地を統治。
  南海開発局 半自立機関で、東南アジア各占領地を統治。
福祉
  国民の保健
  食糧配給
内閣計画局 国会にかけられるすべての法案を作成(1935年に監視局として発足、1941年にあらゆる国内の戦時法規および動員についての責任を負う)。

機能
 国家予算の増加の承認もしくは拒否、そして、首相から天皇に提示された法規の審議。

衆議院(下院)
約1400万人の男性有権者(1940年現在、人口は7千万人)の投票で選出された466名の議員による。

貴族院
機能 衆議院を導くこと。
構成 
 6千人の高額納税者によって選ばれた66人の富裕者。

 1千人余りの下位の男子成人貴族によって選ばれた同身分の150人。
 すべての親王および侯爵。
 博学者あるいは勲功者として天皇より指名された125名。


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