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第四部


満州侵攻





第十章
海軍力(1929-1930)
(その1)



ライオン宰相の選択

 1929年7月3日夕、79歳の首相奏薦者西園寺は、お抱え運転手に東京の上野公園を通り抜けるよう命じ、自分はそこで車を降り、人々と梅の木の間をしばし散策した。すでに日は暮れ、彼につきそう私服警官は距離をおいて彼を警護した。会社員の一団が、木々の下で野外の宴会を開いており、ビクトローラ〔蓄音器の商品名〕のレコードに合わせて、タンゴやチャールストンを踊っていた。その内の二人の男は、ビールを飲みながら、1927年に開通した東京の地下鉄網が広がっていることを大声で自慢し合っていた。他の二人は、中国への不介入と軍縮に同意する毎日新聞の冷静な社説をを絶賛していた。夏の陽気に浮かれてあいらしい彼らの女友達は、シックなクロッチェ帽をかぶったり、絹のストッキングをはいたり、縁取りをした薄地のドレスをつけたりして、いずれも似合っていた。それ以前の時代、それほどに西洋化し、穏やかで享楽を楽しみ、笑顔を絶やさぬ東京人を見ることはなかったろう。
 西園寺は、彼が目にしているものに満足していた。そして彼はその数日後、 「時代の趨勢は宮廷帝国主義とは逆の方向に向かっている」 と友人の一人に話した。日本には、専制警察も軍国主義も、ただちに根を下ろす気配はなかった。したがって、裕仁は国民の感情をくみとり、彼の若き戦争志向の野心を飲み込んでおくしかなかった。
 西園寺は、裕仁により張作霖暗殺の詰め腹を切らされた田中の後継者を奏薦するために東京に来ていた。田中は立憲政友会の総裁だった。裕仁は、皇位に都合のよい道具として、反立憲派の政党を念頭に置いていた。そこで、西園寺が反立憲派の政党の党首を次の首相に推薦すると、裕仁はそれを即座に承認した。
 だが西園寺は、新内閣が新たな意志を示すだろうとの高い望みを持っていた。新首相、浜口雄幸〔はまぐち おさち〕は、貧しい家柄出身の小男だった。だが、彼の確固な信念と燃えるような義憤は、彼に 「ライオン宰相」 というニックネームを与えていた。1927年、彼は、天皇の朋友たちがそれまでに組織した反立憲派のさまざまな党派を統一し、それを、支持者の要求と立憲派に対抗する初めての本格的野党を代表するものとすることが可能な新たな大衆政党に仕上げる責任を負っていた#2。西園寺は、その発足からこの新政党を後押しし、資金援助する企業連合を用意した。そうして彼は、成熟した二党政治体制の存在が現実となり、宮廷の密室からの操作は誰にとっても次第に困難になるであろうと見ていた。
 そのライオン宰相内閣の外務大臣は幣原喜重郎男爵#3だった(1)。他の外交官のように彼は自分の責務を語ったが、西園寺は彼を善意ある人間と見ていた。彼の着任にあたっての声明は、中国との 「共存共栄」 を訴えることだった。西園寺はその日の午後のための彼の演説原稿に目を通し、それを承認した。西園寺はその 「共栄」 との用語に詳しくはなかったが、後になって、日本の二次大戦に 「共栄圏」 として用いられ、偽善的な宣伝の典型として、歴史に悪名を残すこととなった。 
 その翌朝、西園寺は興津の自宅、坐漁荘に戻った。彼は自分が日本のために用意したその新内閣に満足してそれまでの隠居生活に戻り、きわどいフランス小説を楽しみ、旧友のために印章を刻み、籐のステッキへの彫り物をして過ごした。


陸軍の若き天才(2)

 西園寺が上野公園で散策して人々を観察した日の夕べ、千マイル〔1600km〕西方では、陸軍士官の一団が、遼東半島の日本の租借地と満州国との間の国境を越えていた。現地の日本語新聞は彼らを 「観光旅行者」 と報じていた。しかし、彼らの乗った列車がキビや大豆が植わった平野を北へと走っている時、彼はらカメラや双眼鏡を通過するすべての村落に向け、そしてその風景の特徴を次々と記録していた。
  「まるで海原のようですね」 と、驚きをもって一人の大尉が言った。
  「そうだ」、「だからこうした地形には、海軍の作戦が必要だ」 と、一団を率いる中佐が物思いにふけりながら答えた。
 この中佐の言うことが、いかにもつかみどころがなく、どこかずば抜けていて大胆であるとは思えても、実際に何を意味しているのかを、誰も尋ねはしなかった。この中佐こそ、日本陸軍のなかで最も独創的な若き戦略家であり、1928年末、満州進出計画のために天皇裕仁が抜擢した鈴木研究会の一員、石原莞爾
〔いしわら かんじ〕であった。租借地の首都、旅順に着任して以来8ヶ月の間、彼はそのすべての時間を、読書、地図の解析、そして関東軍上層部の老練将校との議論に費やしていた。その彼がいまや、満州の地形を頭に入れるため、12日間の現地偵察に乗り出していた。その12日間を終わらせた時、彼とその部下は、天皇の検閲を得るために、自分たちの構想を文書にまとめる作業に取り掛かる予定であった。(3)
 沈みゆく太陽の光が列車の車両を赤く染め、石原中佐の若々しい顔にそれまで常に表れていたしかめ面をゆるませていた。部下たちは、彼のもの思いを邪魔したくはなかった。彼らはそれぞれに石原をあがめ、軍事的天才とたたえ、そして、信念的指導者もしくは預言者ともして彼を崇敬していた。その石原は四十歳になった時、 「陸軍の寵児」 としての異名をほしいままにする。彼ほど部下に礼儀をつくしながら、上官に辛らつにたてつく者はいなかった。彼はあらゆる上官にあだ名をつけ、しかもそれをその面前で使うことを躊躇しなかった。彼は台湾軍司令官を 「アライグマ親父」 と呼んだ。また石原は、雄弁な仏教僧侶である父親から、うちわ太鼓を叩き、戦闘的で教理に厳密な宗派、日蓮宗の厖大な数の信者を引き継いでいた。1925年、ベルリンでの3年間にわたる特務集団による欧州スパイ活動を終えて帰国すると、石原は、どの駅においても、父親の日蓮宗帰依者の催すプラットフォーム上の歓迎式によって迎えられた。彼はそこで一連の演説を行い、その歓迎の熱意に応えた。たとえばそれは、ドイツ国会での晩餐には常に武士の服装で出かけ、招待主を喜ばせるため、着物のそでをたくし上げ、いつも箸を使った、といったものだった。
 今、石原は、若い戦略家として、南満州の豊穣で未着手の農地を列車の窓から見やりつつ、湧き上がってくる確信を深めていた。それは、日本は満州を、〔軍事的〕侵攻というよりも、むしろクーデタに似た行動を起こすことによって、その内部から奪取できるという大胆な構想だった。南満州鉄道における日本の通行権は、そのための大手を振った立ち入りを用意しようとしていた。そして、そうした密かな滲入による転覆は、あらかさまな軍事的征服より、はるかに安全で安上がりだった。張作霖の息子の張学良が率いる部隊勢力は、はるかに日本のそれに勝っていた。しかし、もしそのタイミングが完璧で、兵隊、将校、外交官、政治家がすべて適切に組織されて満州国の傀儡化が成しとげられ、かつ、脇舞台での国際連盟への正当との手はずが整いさえするのであれば、石原は裕仁のために、満州をまるで手品師の魔術のように手に入れることが可能だった。
 もし、石原がこれらをすべて成し遂げられたなら――彼はそれが可能と感じていたのだが――、彼は、日本帝国が来る数年のうちに樹立されるとする政策を裕仁に助言する地位に着けたであろう。日本が進むべき正しい道は、石原が一冊の本に執筆中の、彼の脳裏にある考えとほぼ重なっていた#4。そのほとんど完成した草稿の中に、彼は、日本、満州、中国の調和、連合、そして最終的な統一を予見していた。そして、黄色人種と白色人種との間の “全面戦争” によって、おそらく30年後までに、全アジアの統一がそれに続くとしていた。もし日本が倫理的指導性を発揮できれば、アジアの人民の支持をえて、その全面戦争は不可避的に西洋の滅亡に終わるはずであった。
 石原中佐は、彼自身の夢がその大枠において、裕仁の特務集団の若手将校のほどんどによって共有されうると考えていた。彼らの誰もが、最初に受ける命令は満州の軍事的掌握であろうと予想していた。しかし、より詳細においては、根本的な道義上の違いが立ちはだかっていた。
 石原中佐もその一人である思索家たちにとっては、満州を加えることによって、日本は、完璧な神政国家となるべきだった。すなわち、日本は、階級がなくて協調し合え、父である天皇に孝行心をもって従う一家意識に鼓舞された国へと、徹底的に変革される必要があった。日本にこうした一種独特な共産社会的ユートピアが形成されれば、それは、他のアジア諸国のモデルにもなりえた。そして、〔東西の〕人種間戦争がやって来た時、アジアの国々は、すすんで日本に味方し、日本の指導者を信頼するはずであった。従って、その人種間戦争は、そうした 「天皇統治の天敵」 である赤色ロシアが支配する、東洋最大の西洋の植民地であるシベリアに対して、まず開始されるのは自明であった。
 他方、特務集団の実務家たち――石原は裕仁がその一人ではないかと恐れた――は、他のアジア諸国にあるそうした理想主義の傾向を嘲笑った。そして彼らは、大陸を統一する道は、征服以外にはありえないと見ていた。ゆえに彼らは、東南アジアの天然資源を人種間戦争の必要条件ともくろんでいた。彼らはまた、集団的なロシア社会は主要敵にはならないだろうと楽観していた。むしろ、第一の敵は 「個人主義的社会」 で、フランス、イギリス、オランダ、アメリカのような東南アジアに植民地を持つ民主主義諸国家であると考えていた。しかし、石原中佐は、この実際主義的考えが、倫理的な正当性を欠き、実効性においても危険なほど未熟な戦争へと日本を導くことを恐れていた。
 〔その偵察旅行の始まる〕前の週、思索派の先鋒、北一輝は、牧野内大臣――実務派の後ろ楯――を、北海道の皇室所有地の取扱いをめぐって賄賂を受け取っていたとして告発していた(5)。もし、そうした非難が、天皇にもっとも近い特務集団の将校たちの内でされたのであれば、思索派と実務派との亀裂が最終的には下士官の間にも広がり、その国家的構想すらを危機に陥らせかねなかった。夕日が満州平野のかなたに沈んで、石原中佐は、列車が奉天に付くまでの間の仮眠をとるため、自分の軍服のボタンを外しながら、随行の若い士官の一人に、将来の軍事面での問題は、政治的なそれと比べれば、大して重大ではないとの自説をといていた。


 つづき
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