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第十章
海軍力(1929-1930)
(その2)



海軍の若き天才(6)

 1929年7月3日夕、西園寺が上野公園を散策し、石原中佐が満州の地形の偵察を始めている頃、後の1941年、真珠湾攻撃を計画しそれを実行した海軍士官が、彼の後援者であり子分でもある、皇后の兄、朝融〔あさあきら〕親王の東京の屋敷から姿を現した。その海軍軍令部の山本五十六は、満州の石原中佐の友人だった。45歳の山本は、海軍の若手戦略家の中でもっとも優秀な、まさに、海軍の石原だった。だが、山本は青白くも、短気な預言者でもなく、落ち着き、専門に徹し、筋肉隆々とした体格を持ち、話し上手で冗談好きな人物だった。彼はつつましい教師の息子で、艦員仲間以外に追随者を持たず、自己信頼以外の信念は持っていなかった。
 山本大佐は、皇后の父親、久邇
〔くに〕親王の病気見舞いの記帳をするため、朝融邸を訪れていた。老いた久邇親王は重い潰瘍を患っており、その年を生き延びれるかどうかも不確かだった。彼は、一次世界大戦が勃発する以前から、日本の空軍力を開発する上での先駆者だった。また山本大佐は、彼の門弟のうちの最優等生だった。
 海軍士官学校を同級首席で卒業した後、山本は久邇の後援を得て、ハーバードに留学して二年間を過ごした。日本の将来の課題に気付いていた彼は、石油と航空機燃料の製造に専念していた。その最中、ある夏休み
にメキシコにヒッチハイク旅行し、その夏をメキシコの油田地帯に住み込んで過ごした。1921年に帰国し、海軍士官学校と宮廷の大学寮の教師として二年間を送った。1923年、海軍軍令部の航空兵力開発計画を引き継いだ。1924年、彼は霞ヶ浦――東京の東北約30マイル
〔50km〕にあるジョージ湖ほどの広さの湖――にある極秘の海軍航空隊の責任者に就任した。そこで彼は、良子皇后のいとこで若いテストパイロットの山科親王と共同で、西洋諸国のいずれにもまさった魚雷爆撃技術を開発した。そこではまた、霞のかかる中、日本がいつの日か、航空母艦機動艦隊を保有する準備に入り、新期の海軍パイロットに、波止場やはしけを飛行甲板とみたてて着艦を行う訓練を行った。短期のワシントンでの駐在武官や艦隊艦長の経験の後、1928年、海軍軍令部に戻り、専任の作戦計画および新兵器開発の推進者となった。
 いま、山本は皇后良子の兄邸の訪問によって、自分が、まもなくロンドンで開催される海軍軍縮会議に出席する日本全権代表への主席専門顧問となる新たな任務を知らされていた。もし彼がその任務を受け入れたなら、彼はかっての西洋人との友情関係を、他の海軍国を出来る限り欺くために用いるよう期待されているのは明らかだった。またその一方、彼は、諸国との外交交渉を、強力な海軍航空隊の構築を成し遂げるための機会として利用できる立場にもいた。
 朝融親王邸の門外で、山本大佐は、彼の日頃の倹約の習慣を破って、人力車ではなくタクシーを呼んだ。そして彼は、築地の聖路加病院の近くの料亭の住所をその運転手に与えた。そこでは、一人の芸者が彼を歓待するはずだったし、そこで待つ海軍士官の仲間たちとひと時を過ごし、彼の思案をひとまず忘れていることができるはずだった。
 海軍軍縮の案件は、政治的に入り組んでいた。1922年にロンドンで締結された艦船比率は、日本が米国や英国より劣った海軍力を法的に認めていたため、多くの日本人には不満を招いていた。だがそれと同時に、その比率方式は、建造資金をその艦船比率の拘束対象外としており、秘密裏の海軍戦力の開発を可能とし、1922年以来、日本はそれを追求していた。その秘密計画が日本艦隊の力を、米英のそれに比較して、はるかに勝ったものとしていることは、誰もが認めるものだった。日本はいまや、四隻の新規の実験的艦船、航空母艦を所有し、山本はそこに将来の海軍戦略を定めていた。日本はまた、西洋諸国で設計段階にあるいずれより、速度と武装にまさる数隻の駆逐艦を建造していた。さらに、日本の新造巡洋艦は事実上、小型戦艦の先駆となるものだったし、日本の潜水艦艦隊は世界第三の規模だった。1923年以来毎年、国会は、そうした新兵器の開発を可能とする、用途の示されていない 「海軍追加予算」を、なんらの異議を唱えることもなく認めていた。そして、日本が海軍戦艦をその制限の限界まで建造していたのに対し、米国はその割当ての内の従来型の戦艦や巡洋艦すらも進水させていなかった。
(7)
 山本は、日本がまもなく、起りうるいかなる戦争においても、米国艦隊の攻撃から西太平洋を防衛できる戦力を持つようになると考えていた。ことに航空機という新式兵器の開発を進めてゆくことは、必要な場合、日本が攻勢的な戦争に乗り出すことも可能にしていた。日本は、列強諸国との対等な地位を得るため、この脅威を与える戦争能力を持たねばならなかった。そうすることで、日本は、戦艦の建造という、資金を浪費する米国との競争を避けることができた。ゆえに、不評であっても戦艦比率は維持されなければならず、山本は軍縮会議において、その順守を監視する責任を負うことになろうとしていた。 
 山本の乗ったタクシーは、皇居の石垣の南角を曲がり、築地地区の繁華街へと向けて南東に走っていた。山本は、もらった案内に誤りがければと、到着した料亭において受けるであろう歓待を想像していた。だがそう想像することは、彼にある恥ずかしさの念を与えるものでもあった。そこは一流の料亭ではなかったが、それらと一画を同じくしていた。数年前に大正天皇時の首相の桂太郎や裕仁の首相奏薦者西園寺が彼らの妾をかこったその鯉を看板とする店で、彼もいつの日か、情人をもつ身 へと出世し、その辺りの小路を歩くことになるかも知れなかった。
 一時間後、その料亭の個室で、山本大佐は酒を飲み、評判のいいひとりの半玉と金をかけてカード当てゲームを楽しんでいた。その際彼は、カードの背に触れる時、左手の二本の指の無いことを出来るだけ隠そうとした。それらの指は、日露戦争の海戦の際、ロシアの砲弾によって吹き飛ばされていた。配られたカードを手にする時がもっとも危なかったので、それを隠そうとするのは容易ではなかった。だが、いまやカード賭博は、彼の人生哲学の重要な部分を占めていた。はったりを掛け合ったり、必要最小限の危険に抑えたり、最深の注意を払って定石を駆使した考察を行ったりと、いずれも、精妙さと驚異をもたらす最大の可能性を追求するものであった。山本にっとってカードゲームは社交手段だったが、見知らぬ敵や狙ったえじきの心中を探る方法でもあった。彼はハーバードで、ポーカーを通して同級生を見定めることを学んだ。ワシントンでは、海軍外交武官の間で、名うてのブリッジプレイヤーともなった。
 優雅にそして楽しくお金を巻き上げられた後、彼と半玉は料亭の離れの海軍士官仲間との宴会に移って冗談を交わし合った後、料亭のおかみと一言を交わした。いつか、彼が名だたる提督となった時には、その店を有名にさせ、艦隊の士官たちの半数も連れてこようと約束した。だがその時の彼は、アメリカの友人が送ってよこしたハバナ葉巻以外には彼女に与えるものはないと、申し訳なさそうに言うのみだった。その半玉が教えたように、そのおかみは葉巻が異様なほど好きで、その半玉に彼と同伴して店を出ることを許した。山本が艦長をつとめる航空母艦、赤城で、新たに昇格したひとりの大佐が、他の大佐や少将たちの音頭をとって、彼に万歳をもって送りだした。こうして山本は、その店を出るまるで凱旋の将となった。
 その当時の日本では、一流の料亭に属する半玉が、その好意を誰かに与えるようなことはめったになかった。一夜を伴にすることは、幾夜をも伴にすることであった。そしてそれは、金を持った男か、黒龍会が幅を利かす花柳界の親分たちに気のきいたことを言いうる有力な男のみが可能なことだった。山本は、彼自身の力では、そのように妾をかこうことは難しかった。彼の大佐としての俸給からは、自分の妻とそのつつましい家庭を養うことがやっとだった。だが、妾とは、男の生涯に魅力と威信をもたらす、成功者の証しと見られていた。
 その半玉は、山本を、そうした場合にふさわしい宿へと連れて行った。そこで彼女は――後年になって語ったことだが――、彼のその男くさい外見の背後に、生真面目で恥ずかしがりであることを発見していた。大いなる楽しみを得たその数時間後の山本は、彼女が彼にとって無くてはならない存在であることを覚っていた。彼は、朝融親王から示された任命を了承することにし、ロンドンに出かけ、ブリッジとポーカーに興じつつ、日本海軍に時間稼ぎを許す艦船比率制を維持する交渉に臨もうとしていた。


辛抱する裕仁

 ロンドンで始まろうとしていた交渉は、裕仁の関心を海軍に向けさせ、自分の治世の長期的目的へと彼を熟慮させていた。陸軍は満州の攻略は果たすだろうが、やがて不可避となるだろう西洋諸国との戦争において、最終的な頼りとなるのはやはり海軍であった。
 裕仁の曽祖父、孝明天皇は、神聖なる国土から異国人を追い払い、それを取り囲む緩衝地帯で防衛することを誓っていた。信頼を失った長州藩の武士達は、その国土に朝鮮を加えることで小規模な緩衝地帯を形成させようとした。それを、今日の陸軍の発想に置き換えれば、連隊を派遣し、塹壕を構えることで、大陸の乾いた大地に地歩を築き、その緩衝地帯をより奥へと拡大することだった。
 1900年ころより、皇室一族は国家構想について、増大する貿易と産業技術への信頼に基づき、さらに洗練された構想を持つようになっていた。西洋列強からの挑戦を抑制するため、その帝国はその国境線内に、侵略に反撃する緩衝地帯ばかりでなく、戦時態勢を維持しうる天然資源産地をも含む、自給自立した軍事領土――常備の抑止力として働くことが期待される――となる必要があった。ということは、アジアの自然地理学において、日本は、ボルネオの石油、マラヤのゴム、ジャワやスマトラの諸金属を押さえる必要のあることを意味していた。
 東南アジア沿海の諸島におよぶ帝国圏の拡大や、太平洋に向けた日本ための緩衝地帯を形成することは、その海軍が米国や英国の艦隊と遭遇しうる能力を保有することを必要としていた。また陸軍は、中国やシベリアで対峙することになる、比較的初歩的かつ武装力に欠く地上部隊を相手とするだけの強さを備えていれば充分だった。それに比べて海軍は、その時代で最も威力にとむ技術的水準を備えている必要があった。
 それまでの過去70年間の驚異的な産業発達があったとはいえ、日本はまだ後進国にすぎなかった。もしその海軍が世界の最先端に匹敵しようとするならば、その先少なくとも十年間、突出した割合の国家予算がつぎ込まれる必要があった。裕仁は、海軍に充分な強さを備えさせるには長い時間を要し、さらに、その準備が達成されるまで、国民は忍耐と黙従をもつよう完璧に涵養されなばならないことを、いく年も前から認識していた。陸軍は〔海軍を〕ねたむべきではなく、海軍は増長すべきではなく、そして外国には警戒心を抱かすべきではなかった。
 1929年夏、その先の根気を要する作業を考えると、裕仁は辛抱しきれなくなっていた。皇室特務集団の足並みの乱れにも、扱い難い第二の政党の出現にも、相変わらずの大衆の流行好みの、平和に浸り切った享楽的な軽薄さにも、裕仁の求める国民の献身のかけらも見出せなかった。
  「私はつねに、国内政治を輔弼たちに任せようと努めてきたが、時に、彼らが必要な人たちかとも、あるいは、それほどまでに込み入ったものである必要のあるものかと、幾度となく訝しく思った」 と、裕仁は古い友人に話した。
 その夏を通し、裕仁はそうした苦言をこぼしては家臣の長たちを悩まし続けた。国内政治に何らかの進展が見られない限り、菊の御紋の幕を引き裂いてでも舞台の表に躍り出て、国家運営の責務を自ら努めなくてはならなくなるだろう、と彼は語った。これは、裕仁が少年の頃にみせて以来、初めて侍従たちに見せた癇癪で、一種の自滅的な苦言でもあった。牧野内大臣は彼に繰り返して慎重であるように懇請した。首相奏薦者西園寺も、その海辺の別荘から、自重を促す次のような手紙を送っていた。


降って湧いた勝利

 牧野伯爵や先の見える宮廷人たちは、ロンドンで進行中の懸案の海軍交渉の要所を、大がかりな国家的議論に転じることによって、国民の好戦的機運を高揚させ、西洋諸国の日本に対する姿勢を撹乱させかつ弱めるようにし向けるべきである、と裕仁に助言した。
 1929年10月10日、裕仁は自らも出席して閣僚、海軍参謀による会議を招集し、もし交渉内容に進展がなかった場合、日本は1922年にワシントンで締結された10:10:6の比率――米英に対し日本がその60パーセントの艦隊力をもつ――を引き続いて受け入れるべきであると内密に合意させた。しかし、ロンドン海軍交渉では可能な限りを追求するということが〔交渉に臨む〕国家方針とされたため、会議を終えた浜口首相は、政府は西洋諸国と対等に近いものを求め、10:10:7か開戦かと主張するつもりであると報道陣に発表した。
 癒着した日本の新聞はただちに、海軍力制限は日本においては歓迎されていないとのキャンペーンに乗り出した。眠気をさそう秋の空とは対象的に、新聞の読者たちは、制限は自らに苦難をもたらすものと事態をとらえた。海軍工廠の労働者は仕事を失いそうだと思った。海軍の若い水兵たちは配属先を失くしそうだと考えた。有力な雑誌 『日本および日本人』 ――裕仁の尊敬する教師、杉浦重剛が創刊し、彼の師弟たちが編集――は、国家防衛を問う特別号を発行した。裕仁の特務集団の最も信頼される者たちが、 「国家総動員:国家防衛の基礎」 とか、 「日本と都市の対空防衛」 とか、 「来る戦争と我が海軍」 といった記事を寄稿していた。
(9)

 1929年10月24日、ニューヨークの株式市場は乱れ飛ぶ相場情報のうちに崩壊し、世界の自由経済は十年間の金融的闇夜に突入した。日本はすでに国内的な不景気を克服しており、政府と主要銀行財閥との間の協力的な対処が功を奏しており、世界恐慌の影響から国内経済を守る正しい方策と考えられていた。
 ウォール街の崩壊は、〔海軍軍縮会議に〕出席している西洋諸国代表と本国の関心に亀裂を入れさせ、交渉に臨む日本の位置を大いに有利とさせていた。裕仁は11月、日本の代表がロンドンへと出発する前に、彼がそれ以下の受入れを指令するまで、10:10:7比率を固執するよう自ら指示を与えた。代表団の出発の前夜、西園寺は彼の別荘に主要代表たちを呼び、彼の指示を与えた。すなわち、彼は代表たちに、あらゆる犠牲を払っても、西洋諸国とは宥和的な協定を結ぶようにと熱心に説得した。
 代表の一人、財部彪
〔たからべ たけし〕海軍大臣は、天皇や国民や世界に対し個別に働きかける対処をとることは得策ではないのではないか、と西園寺を問いただした。 「我々が天皇との御前会議を招集し、それをもって、世論の統一をはかり、帝国国家による要求として決定してみてはどうか」 と彼は提起した。西園寺は財部に、その意見を考慮したいと返答したものの、財部が去るとただちに、西園寺は牧野内大臣――裕仁への首席民間顧問――に、その考えには 「絶対反対」 と明記した文書を送った。西園寺はいまだに、裕仁の拡張主義的な考えを変えうると望みをつないでおり、もししたいようにさせれば、裕仁は日本に世界の半分を求めさせる恐れすらあると考えていた。(10)
 財部海軍大臣と以前およびその後の首相である若槻礼次郎
〔わかつき れいじろう〕は、日本の代表団を率いてロンドンへと向かった。しかし、その日々の決断は、特務集団の一員で、後の真珠湾攻撃の英雄、山本大佐であった。会議の公式会場であるロンドンへの途上、山本はワシントンで三週間を過ごし、米国と非公式の事前合意を追求した。彼はワシントンで、かつての旧友でハーバート・フーバー大統領の海軍補佐官であったアレン・ブキャナン大佐#5を通じ、高次の交渉にあたった。山本はそこで、米国が1936年まで、戦艦と航空母艦の建造を猶予するよう宣言する用意のあることを察知することとなった。
 山本はすぐさま、日本も同様に行動することに同意を表わした。山本は、戦艦はその実用価値以上に建造費がかかり、また航空母艦のいくばくかは、日本側の西太平洋においては日本の統治領の島々上に永久に固定された滑走路をつくることで代用でしうるとも考えていた。だが目下の問題は、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦についての日米比率をどうするかであった。日本は10:7を求め、米国は10:6を求めた。その人望、 「誠実さ」 そして数時間にわたるブリッジゲームのお陰によって、山本は、かれのアメリカ人知人を通じて、日本が望む比率に近い数値を得られるとの保証を引き出していた。
 1929年12月18日、日本代表団は、ホワイトハウスにおいて、フーバー大統領夫妻との晩餐をもって、その探り合い交渉を終えた。そのテーブルには、ピンクのキンギョソウ、蝶々のようなバラ、クサナカズラの花々が飾られていた。山本は、フーバー大統領の補佐官、ブキャナン大佐とは反対側の席に着き、その公式晩餐の間中、とてもくつろいでおり、マッチ棒やホワイトハウスのワイングラスを用いて、参列客に手品を見せるほどだった。(12)
 その四ヶ月後、ロンドンで、英米の代表が、英米10トンの巡洋艦と駆逐艦に対し日本が6.9945トンを正式に認めた時、山本の予想は満たされるものとなった。さらに、米国の代表は、日本に米国に対する73パーセントの海軍力を与えるために、その割り当てに含めていた三隻の重巡洋艦の建造を、少なくとも1936年まで遅らすことにすら同意した。その上に、山本が最重要視したのは、海軍航空機の製造には何らの制限も課されないことだった。
 こうした輝かしいばかりの期待外の外交上の成果をえる一方、山本は、何らの確約を与えることもなく、彼、天皇、そして日本海軍は、ただ日本領海を中国人海賊やロシア漁船から守ろうとしているのみであることを、西洋諸国に納得させることにも成功していた。だがその12年後、山本が真珠湾に忍び寄り、その太平洋艦隊の半分を沈没させた時、彼の笑顔がかもす安心感や晩餐での座興は、〔アメリカ人にとって〕二度と忘れられぬ、そして許されぬものとなった。そして、戦争が始まってその機会が訪れた時、米国政府は、ルーズベルト大統領によることさらの命令をもって、その日本の海軍司令官に対する異様な個人的復讐がなされようとしていたのであった
#6

 つづき
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