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第十章
海軍力(1929-1930)
(その3)



海軍の偽装

 1930年山本は、その 「軍縮会議」 への全権代表の一人である財部海相とともに凱旋の帰国をした。その日本への帰路、彼らはシベリア横断鉄道を使って、満州に立ち寄り、そこで貴族院の主で長身陰気な近衛親王――裕仁がまだ幼児の頃からその手をとってきた大兄のうちの最も若く貴族的人物――に内密に会った。この会見は近衛が設けたもので、代表団に国際外交の人為的世界から、日本の支配階級のなす特異で孤立した現実に戻ってきたことを再認識させようとするものであった。近衛は彼らに、ロンドンでの成功は 「予想外」 で、東京では肯定的ながら困惑の種となっているものだとの警告を与えた。ロンドンでの合意は、西洋諸国が、裕仁が受け入れる積りであった米英主力戦艦10トンに対し6トンという比率以上のものを日本に許すものであった。それが、日本は文面上6.9945トンとの公式の数値を得、事実上は7.3トンの艦船を建造しうることを山本が獲得したもので、それは、日本が求めていたものを越えてしまっていた。そして近衛は笑いをうかべながら、それを、 「現実を超越し、信憑性を薄め、正気の沙汰ではないもの」 とすら表現した。日本は米国の半分の人口、十分の一の国民総生産、そして十二分の一の国土しかない国で、そんな国が、米国の70パーセント以上の海軍力をもつ権利を得てしまっていたのだった。(13)
 近衛は、財部と山本の偉業をたたえた後、謝意は表わしながらも、この達成について、世論に飲み込みやすくさせなければならない、と警告を続けた。10対6の比率が維持されることを予想して、裕仁の特務集団はすでに大衆的な声を作り上げ、その不当さに抗議する準備を整えている。特務集団の忠義ある構想者、その取り巻き、そしてギャングの親分たちの面子をつぶすことなくその準備を差し止めるにはもう遅すぎる。むしろ、国民の愛国心をかりたてる運動こそが切に必要となっている。数値的には、合意した6.9945トンは要求した7トンよりは少ないから、世論の声の形成は計画通りに進めうる。日本の新聞は、小数点以下の数字を無視し、天皇は合意の批准を遅らせ、そして彼が考慮している間に、人々は大々的な国家的論争へと導かれて行くだろう、と言うのであった。(14)
 合意に反対するために、特務集団は、保守的な海軍提督たちのグループを開拓していた。彼らは艦隊派と呼ばれ、大戦艦を信奉し、海軍軍令部長の加藤寛治はその一人だった。近衛は、伏見〔博恭〕元帥殿下を除き、艦隊派のメンバーは極めて誠実な個人たちであると山本に忠告した。彼らは、山本らの成した合意に、英米を相手とした戦争を起すことを密かに準備する狙いがあると見て反対していた。そして彼らは、天皇に訴えるためにタカ派のように語っているが、実際は、明治天皇が定めた国家的構想を放棄することをめざすハト派であると近衛は言うのであった。
 近衛の見解はその時はまだ推測に域を出ていなかったが、やがて事態の推移は彼の分析が正しかったことを証明した。艦隊派のメンバーは、その後の数年のうちに、それぞれの任務を辞職し、あるいは、予備役へと退いていった。それとは対称的に、山本の 「軍縮協定」 に賛同してハト派のように振舞う者たちは、その後タカ派へと変じ、山本の計画を支持し、1941年の真珠湾攻撃を実行してゆくこととなる。
 山本大佐と財部海相は、近衛より国内の状況について十分に忠告された後、1930年5月18日、日本の土を踏んだ。大勢の人々が自発的に繰り出し、彼らを凱旋者と歓呼して迎えた。国民の大半は、新聞で読んだことのみしか知らず、海軍力制限を、増税や戦争勃発に対する防波堤として歓迎していた。山本と財部の二人が宮廷に報告した際、裕仁は、 「御苦労じゃった」(15) と、いつもの味気のない褒め言葉を両人に与えたのみであった。
 ロンドン海軍軍縮会議への政府代表、若槻前およびその後の首相は、その一ヶ月後に海路で帰国した。その頃までには、世間の受入れ方にはさらに手はずが整っていた。大衆は歓呼をもって彼を迎え(16)、黒龍会のプロ扇動家はさらに、絹布で包まれた儀礼用短刀を若槻に贈った。新聞によれば、それは、国防を危険にさらした責任をとって腹を切れ、との意味が込められていた。
 壮大な偽装の論争が新聞の見出しや世論をにぎわしていたが、首相奏薦者西園寺と彼に同調する自由主義者は、直ちに海軍軍縮条約に署名するよう裕仁に働きかけた。他方、保守的な艦隊派は、逆に、それに署名しないように進言した。裕仁は、条約について決断するに先だって、今後十年間の軍事支出を統括する、統合国防計画を用意するように諮問した。そしてその計画は、その指示にそって、陸・海軍の有力官僚によって秘密のうちに書きあげられた。その文書は現存していないが、その草稿にたずさわったある高官は、 「それによって、1939年までにわたる日本の実際の軍備開発について、確固な同意が成された」(17) と回想している。
 この計画は、1930年7月23日までに、陸海両相と裕仁のいとこたちが牛耳る陸海軍両元帥らの会議によって承認され、裕仁に上奏された。そしてこの承認された計画には、海軍軍縮条約が一定の 「国防上の欠陥」 をもたらすものの、同計画によって増強される攻撃力はいかなる現実的弱点をも補い、 「国家計画の前進」 に実質的に寄与するであろう、との趣旨の添付文書が付されていた。(18)
 その翌日、裕仁は枢密院に同条約の審議と、それに署名すべきかどうかの見解を諮問した。天皇の穏やかな目配せや言外の推挙をうけて、枢密院は条約を承認するようにとは上奏しなかった。というのは、統帥者たる裕仁がその統合国防計画を提唱し、認可するばかりでなく、その計画自体が極秘となっていて、枢密院は〔その内容を〕知りようもなかったからであった。
 このギルバート・サリバン喜歌劇
〔訳注〕の如き膠着をもたらした理由は、その国防計画のための長期予算――ことにそのうちの最も費用を要する海軍及び海軍航空隊開発計画の予算――が選挙された政府によって承認されるまでは、たとえ裕仁といえども、海軍軍縮条約には署名することが出来なかったためであった。しかも、浜口首相は、80歳の西園寺の命令のもとに、なんとか口実をもうけて、その計画の初年度の財政支出すらも拒否してしまったのであった。


欠席戦術の蔓延

 この統合国防計画〔の決定〕が暗礁に乗り上げるなかで、西園寺は、陸軍のある人物――将官たちの名だたる官僚主義をもってすれば、その計画の一部始終の変更すら何とでもなる――に大きく期待をかけた。その人物とは陸軍大臣の宇垣一成――1925年、陸軍から長州閥を排除して裕仁に仕えたずんぐり首の士官――だった。その国防計画の承認をあいまいかつ不承々々に受け入れつつ、宇垣は、中耳炎を口実に、その後の四ヶ月間、郷里宅での静養にこもってしまった。そうしながら、彼は宇垣派――陸軍の将官および佐官の多数派をなす――への裕仁の信頼を失くさせてしまった。彼らは、日本の軍事国家としての強さのその現実性を検証する軍事的専門家たちであり、満州を帝国の領土に加えることには熱心であったが、米英との戦争に備えた長期的海軍力増強計画を支持してはいなかった。
 宇垣が東京を留守――オックスフォードで学んだ裕仁の秀才の弟、秩父宮は、それを 「病欠ストライキ」と呼んだ――にしている間、首相奏薦者西園寺も、インフルエンザの流行に巻き込まれてしまい、天皇に代わる彼の政治的影響力の行使が不可能となっていた(19)。そこで西園寺はその隔離病床から、降参することのないようにと、〔見舞いにことかけた〕本心とは裏腹の書状を宇垣に送った。
 1930年8月17日、貴族院の大兄、近衛は木戸侯爵――大兄の第一人者かつ裕仁の子供時代の養父の息子で、1945年には裕仁自身の代理として刑務所に入ることになるほどの侍従――を、横浜の木戸の別邸に近い保土ヶ谷〔ゴルフ〕クラブの一ラウンドのゲームに招待した#7。その日は晴天で暑く、藤原家の血を引く長身で物憂げな近衛親王は、スタートのグリーンの脇で伸びをしたりしていた。小柄で厳めしげな木戸侯爵はゴルフ狂で、近衛を威圧するように立ち、しばし講釈をたれた後、もう一人のプレー仲間である日本銀行総裁にスタートするようにうながした。
 木戸侯爵はそれまでの一年以上、近衛親王と個人的に会話を交わす機会がなかった。1929年初め、木戸は、張作霖暗殺の責任の一部を取るとの公的見せかけとして、長期の海外物見遊山旅行に旅立った。木戸は米国を旅したが、見るもの聞くもの、あらゆるものを嫌っていた。ナイアガラ滝での一日を過ごした後、彼は自分の日記に、横柄にもこう記している。 「この陳腐な上流社会にまみれて、私は1930年の新年を祝った」。一月末、その国外追放の旅から帰国するやいなや、彼は商工省の職務に 復帰した。それ以来、十一会の会員による閲読のため、彼は、産業動員に関する原案を書く作業に没頭した。ところでこの十一会とは、大正11年(1922年)の11月11日に木戸が創設した会合で、少なくとも月に一回、通常は11日に、東京のどこかの一流レストランの個室で、昼食ないし夕食をとりながら開催された#8。創設後、会への参加者は、三名から二十数名へと増えた。木戸による巧みな運営により、当会は大兄たちの意見調整の基軸となり、さらには裕仁の特務集団のブレインともなっていった。(21)
 木戸は、いずれの十一会の会合でも話せないようなことが聞けそうに感じ、深い草むらの中に腰を下ろした。そしてその彼の脇に座った近衛は、 「現状の要約」――近衛が重要な提案をする際にいつも述べる前置き――についての自分の見方を話し始めた。そして、今こそ、宇垣大将と老西園寺の 「病欠ストライキ」 を止めさせる時だ、と近衛は言った。事態は、軍縮に反対し天皇に条約への署名をしないように助言する内大臣の牧野伯爵を、西園寺が個人的に非難するようにまで至っている。その一方、艦隊派の加藤大将は、6月に海軍軍司令部長を辞任して以来、牧野伯爵を、条約をめぐって、天皇に不適切な影響を及ぼしていると非難している。ことに加藤は、牧野伯爵が天皇に報告をする特権を利用して問題をはぐらかし、裕仁を真実を知ることから遠ざけていると苦言を表していた。(23)
 牧野に対する西園寺の告発に反論し、かつ加藤大将の非難をかわすために、裕仁は牧野の秘書官長
#9を辞職させるつもりでいる、と近衛は言った。それは、海外からは、天皇に報告しようとする加藤大将に関連する幾つかの不祥事の責任を彼〔牧野〕がとらされたと騒がれよう。また世論は、裕仁が、海軍軍縮条約に反対する保守的な大将たちの意見を聞くより、軍縮のために、宮廷規則の違反を容認してしまったと見ることになろう。
  「私の感じでは、天皇は世論の動向に失望しているのだと思う」 と近衛は言った。世間の見方は、西園寺にも平和主義にも背を向けておらず、裕仁は、彼の最も忠実な家臣の前ですらも、自分を押し隠さざるをえなかった。そうした状況のもとで、 「裕仁が自らの国家的指導力を強める」 ことを決定することとなった、と近衛は続けた。そこで裕仁は、バーデン・バーデンの三羽烏の筆頭、永田鉄山大佐を、その影響力が拡大している陸軍省軍務課の長に任命した。このような経過のなかで、内大臣の秘書官長の職は空席となっていた。
  「私の考えですが、木戸さん、陛下は、その空席への候補者に貴殿が指名されることをお望みかも知れない。もし、貴殿が経歴を変え、牧野伯爵の秘書の職に奉じることがおできになるのならば、その空席は間違いなく貴殿のものであることを保証しますよ」 と近衛は言った。
 木戸は、自分が大兄たちをまとめることに尽力してきた業績を天皇が認めてくれていたことに大いに満足だった。その時まで、天皇と特務集団の文官側半分との間の主要な媒介者は、裕仁と社交の場で頻繁に接することのできる皇族の地位にある近衛親王であった。いま、もし木戸が内大臣秘書として自分の持ち場を宮廷内へと移すのであれば、彼は昼夜を問わず、文書類を天皇の執務室に持参することとなるだろう。そうなれば、特務集団を御する手綱となって、いつであろうと、裕仁の身近に仕えることとなる。
  「無条件でその職をお受けしましょう」 と木戸は言い、そして、 「2,3ホール、プレーしませんか」 と立ち上がった。(24)
 二、三日後、皇室の年長者の陸軍元帥、閑院親王は、騎兵時代からの古い手下で、名だたる腰ぎんちゃくの建川美次
〔たてかわ よしじ〕少将を自分の屋敷に呼んで宣告した、 「宇垣陸相をもって、膠着状態を打ち破る時がきた」 。北京で、張作霖暗殺の後始末を首尾よく片付けたいかにも重宝な建川は、いまや陸軍諜報部長となっていた。建川は、閑院親王の支援を得つつ、参謀本部の宇垣派の将官の忠誠を、懇願し、買収し、からめ取る作業に取り掛かった。彼はまた陸軍省では、軍務課長に就いた永田大佐の応援をえようとしていた。


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