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            巻末脚注(6)

 (2011年7月7日現在)


第四部   満州侵攻

 第十章 海軍力(1929-1930)

 (1) 朝日新聞(東京版)、1929年7月10日付け。
 (2) この節は、特記ない限り、島田、 『関東軍』 76、により、藤沢しげぞうとのインタビューによって補強。
 (3) 石原の役割や特徴については、 『日本人物史大系』 (東京、朝倉書房、1960年) 7、島田、 『関東軍』 79、藤本、 『人間、石原』 56-57, 67, 195, 203-4、Yoshihashi、137、大谷、 『憲兵隊史』 21-22、、 『軍』 155、および同 「人事記録」 。
 (4) 林房雄、261。
 (5)Brocade Banner,” 15。
 (6) 阿川、3-18, 50-51、Potter, 〔いずれの文献かの表示もれ、おそらくYamamoto〕 3-22, 、「人事記録」 。
 (7) 原田、1: 130。
 (8) 原田、1: 18。
 (9) Brocade Banner, 26、また原田、1: 17 および 222 参照。
 (10) 原田、1: 74-75。
 (11) 子息、Charles Allen Buchanan との電話によるインタビュー。
 (12) N. Y. Times, Dec. 18, 19, 1929。
 (13) 田中および松本とのインタビュー大谷, 『憲兵史』 73-4。
 (14) 原田、1: 54。
 (15) 原田、1: 70。
 (16) 原田、1: 98。
 (17) 田中とのインタビュー
 (18) 原田、1: 130。
 (19) トニー・加瀬との インタビュー
 (20) Yoshihashi, 85 に引用されている 宇垣日記より、また原田、1: 82 には同様な記録がみられる。
 (21) 木戸 『関係文書』 97。
 (22) 木戸 『日記』 1165。
 (23) 筆者は加藤の苦言事例を省略したが、原田、1: 35、および、Yoshihashi, 68-69 参照。
 (24) ゴルフ場での木戸と近衛の会話は、ゴルファー仲間がその後に休憩室で聞いた内容を、銀行家の息子とのインタビューより入手、また、木戸 『日記』 33 参照。
 (25) Brocade Banner, 22、Yoshihashi, 101。
 (26) Crowly, 88, 112。
 (27) Brocade Banner, 22、
 (28) 原田、1: 176。
 (29) 島田、 『関東軍』 81。
 (30) 原田、1: 210。
 (31) 室伏、223-28。
 (32) Brocade Banner, 9、原田、1: 222 および注記-9。
 (33) 原田、1: 219。
 (34) 原田、1: 219-20。
 (35) 木戸 『日記』 45-46。
 (36) 木戸 『日記』 45-46、室伏、223-29。


 第十一章 1931年3月

 (37) 原田、1: 220。
 (38) その銀行家の家族の所有するノートをもとに、著者の質問に応えて提供されたもの。それに著者は、例えば、Omura Bunji からのペル・メル煙草といった幾つかの詳細を付けくわえた。また、彼を追って坂を登ってきたのは、彼の秘書の中川小十郎ではなく、執事の熊谷八十三〔やそみ〕かも知れない。
 (39) 原田、1: 226, 228。
 (40) 本庄, 257-58。
 (41) 原田、1: 231-32。
 (42) 本庄, 257-58 、および、その話を鈴木貫太郎から聞いた小泉信三によって確認と説明を得た。
 (43) たとえば、Brocade Banner, 26 を参照。
 (44) この暗闇の出来事について、原田、9: 344-53 に再録されている大川を取り調べた憲兵の調書のような重要な情報源を、ほとんど西洋の歴史家は見落してきたように思われる。その結果、模擬爆弾は1931年3月8日に軍に返されたといった、誤った見方が存在している(たとえば、Storry, Double Patriots, 63)。だが実際は、模擬爆弾は民間人の計略者によって1932年3月8日まで保管され、陸軍への脅迫・ゆすりのために使われた。この高度に凝縮された見解の根拠は以下の諸資料からも得ている。中野、67-84、室伏、229-32、木戸 『日記』 147-48、原田、2: 19, 22-30, 32, 37, 41-42, 44, 51, 55-56, 106, 111, 117-18, 121-24, 332-35, 4: 299, 343, 348, 5: 137, 6:14, 22, 78, 261、大谷, 『落日』 34, 109-11、、 『軍』 27-31、Brocade Banner, 28-32、IPS Documents Nos 2582, 2638, 2639, 2640 に提示された、徳川慶喜の日記, IMTFE "Proceedings", 1441-1605。
 (45) 田中との面会で述べられた張 勇の発言。
 (46) 同上。
 (47) 同上。
 (48) 大谷, 『落日』 109-10、およびBrocade Banner, 28 参照。
 (49) 大谷, 『落日』 34、室伏、231、中野、74、原田、2: 40, 55-56,。
 (50) 中央公論、1946年2月号の、岩淵辰雄著の記事に引用された IPS Documents No. 517 は、真崎はこの発言によって、台湾へ左遷されたとしている。
 (51) 中野、67- は、宇垣が岡村に会ったのは、1月、13, 16, 21, 24日であることを明らかにしている。
 (52) 原田、9: 344-45。
 (53) 原田、4: 348、、 『軍』 29 に引用されている小磯の自伝、Yoshihashi, 91 に引用されている宇垣の日記(原本の写しをコロンビア大学の James Morley 教授が所有)、原田、2: 44, 106, 111, 117-8、と田中との面会
 (54) 例えば Brocade Banner, 28-29 参照。
 (55) 原田、9: 251、、 『軍』 27-31。
 (56) IMTFE "Proceedings", 1627, 1610-13、Storry, Double Patriots, 62-63。
 (57) Brocade Banner, 28-29、原田、2: 30。
 (58) Brocade Banner, 28, 38、原田、9: 344-53、との面会。河本の仲介と解決金については 原田、9: 346-49、Brocade Banner, 31、IMTFE "Proceedings", 1402-, 1418-, 1441- 、大谷, 『落日』 34、、 『軍』 29。
 (59) 木戸の十一の会のメンバーである裏松との面会で得た会話による情報による。木戸 『日記』 65 にはその訪問は、宇垣と牧野の和解がなされた後の 3月10日になされたとある。これらの二つ異なった訪問は同じもののことで、それは、木戸の最後の記述、 「牧野とは午後11時まできわめて内密な話をした。そして東京へと戻った」 が、それを示している。
 (60) 木戸 『関係文書』 3。
 (61) たとえば、原田、9: 112 の三月事件についての原田のノート参照。


 第十二章 
奉天占領 (1931)

 (62) 本章について書かれた英語文献には二つの優れた著作がある。Ogata の Defiance in Manchuria と Yoshihashi の Conspiracy at Mukden である。全体として、著者はかれらによる要約を引用した。それらの出所文献は彼らのものによっている。
 (63) Kurzman, 110-13; 木戸 『日記』 78-80; および原田、2: 12, 82 を参照。
 (64) Crowley, 92, 107; Taiheiyosennsou, 1:366-74 Yoshihashi, 137-43。
 (65) 詳細は、島田、 『関東軍』 97、Japan Chronicle, July 22, Sep. 9, 16, 1931; IMTFE "Proceedings," 19195, 19210; 原田、2: 25-38, 41。
 (66) 本庄, 3-4。
 (67) 藤沢とのインタビュー
 (68) 本庄, 3 を梶浦および田中とのインタビューで補強。
 (69) 同上。
 (70) 同上。
 (71) 本庄の日記の以下の日付の記述からの著者の解釈。7月16日の5行目、同月18日の3行目、同月19日の4行目、同月22日の2行目、同月23日の一行目。。
 (72) 原田、2: 9-12。
 (73) Vaughn, 261-62; Japan Chronicle, Sep. 16 1931。
 (74) 原田、2: 12。
 (75) Abend, My Life in China, 150-151 参照。
 (76) 島田、 『関東軍』 100-101、Yoshihashi, 133-34、原田、2: 77、IMTFE "Proceedings", 1990。
 (77) 板垣の役割と性格は、森島の随所、伊藤、1: 234, 2:351、島田、 『関東軍』 75-84、Ogata, 42-50、Yoshihashi, 134-37。
 (78) 本庄, 8。本庄はその後、閑院親王と会い、またその日の夜遅く、バーデン・バーデンの選良の一人の教育総監部第2課長磯谷廉介から電話をもらう。
 (79) 本庄, 8-9。
 (80) この見方は、非公開を条件にした面会から得た情報を基にしている。それはしかし、本庄, 9 にある、本庄がその翌日の8月4日午後、東京駅ホテルの彼の部屋で鈴木と板垣に会ったとしてるのと、やや食い違いがある。
 (81) Ogata, 56。一方、本庄, 9 は南は彼と夕食をとっていたと書いている。本庄はその日にはまた、岡村寧次と真崎甚三郎と会ったとしている。
 (82) Crowly, 109。
 (83) 1931年8月8日付け朝日新聞(東京版)。
 (84) 木戸 『日記』 96。
 (85) 原田、2: 40-41。
 (86) 木戸 『日記』 96。
 (87) 原田、2: 46。
 (88) 原田、2: 52-53、9-123、Ogata, 58。
 (89) Yoshihashi, 115、花谷、45-46。
 (90) Yoshihashi, 115、それ以外は田中とのインタビューによる。
 (91) 本庄, 9。
 (92) 山口、112。
 (93) 『太平洋戦争への道』、1巻434。
 (94) Yoshihashi, 156-58、『太平洋戦争への道』、1巻438。
 (95) 本庄, 21、田中とのインタビュー
 (96) 『太平洋戦争への道』、1巻438、Yoshihashi, 158-59、IMTFE "Proceedings", 30261、藤沢および田中とのインタビュー
 (97) Yoshihashi, 159-60、藤沢とのインタビュー森島の宣誓書、IMTFE "Proceedings", 3004-。
 (98) 本庄, 22、ぎが しょういちろう とのインタビュー
 (99) 同上。
 (100)
『太平洋戦争への道』、1巻438-39。
 (101) Yoshihashi, 3, 165。
 (102) 同上 2-3。
 (103) 藤沢および田中とのインタビューYoshihashi, 166-67。
 (104) 梶浦とのインタビューYoshihashi, 158-59。
 (105) Yoshihashi, 3。
 (106) このパラグラフと続く3つのパラグラフは藤沢とのインタビューの要約、IMTFE "Proceedings", 18890-92, 19111, 19326, 19518, 22119, 22237、島田、 『関東軍』 102-7『太平洋戦争への道』、1巻436- による。、
 (107) 本庄, 22-23, 351-55、Yoshihashi, 167-68, 170。
 (108) Yoshihashi, 4-6、本庄, 23 は9月20日の午後、朝鮮からの8爆撃機、8観測機が到着したことを記している。犠牲者数は IMTFE "Proceedings", 19457。
 (109) 藤沢とのインタビュー
 (110) IMTFE "Proceedings", 18901-5、Storry, Double Patriots, 81。
 (111) 原田、2: 71。
 (112) IMTFE "Proceedings", 18901-5、梶浦とのインタビューで補強。
 (113) 梶浦とのインタビュー
 (114) 原田、2: 64-66、木戸 『日記』 100。
 (115) 原田、2: 64,68、Takeuchi, 352。
 (116) 田中とのインタビュー, Yoshihashi, 174、および 56.
 (117) 本庄, 23。
 (118) これは諸事からの著者による解釈で、 IPS Documents No. 904 にある1931年10月7日の枢密院議事録を参照。著者の見方では、この解釈の最も強い証拠は、原田 2: 41, 65 の記述に示されている。即ち、事変のほぼ二ヶ月前の7月末に、もし、裕仁に最も近い友が、天皇の公的許可なしの部隊移動の適否を議論していたとするなら、公的に未許可の部隊移動は、裕仁の非公式許可を得ていたものと結論される。そうでないなら、西園寺や他の自由主義者は、韓国軍に移動するなとの正式な命令を出すように、裕仁を説得しただろう。また、二月事件(第20、21章参照)は、裕仁がそうした命令を出しえることを示しており、実際、それは遵守された。さらには、済南事件〔1928年、9章の記述参照〕は事前の公的許可のない部隊移動が起こしたものとの原田の見方は、著者には、裕仁が、報復虐殺――その責任を負う事は皇位は必ずや避けるべき――になりうることを事前に知りながら、部隊の移動を認めていたということを意味しているとしか解釈できない。
 (119) Rappaport, 25。
 (120) 同上, 26、N.Y. Times, Feb. 27 1932, ix, 2: 7。
 (121) Rappaport, 26。


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