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<連載> ダブル・フィクションとしての天皇 (第37回)
「すさまじさ」 の始まり
本訳読もいよいよ昭和へと入り、日本が 「アジア・太平洋戦争」 へとかかわってゆく、その歴史的前夜期にさしかかってきています。
私は、昭和ことにその戦前期について、ずっと抱いてきているある関心と疑問があります。
それというのは、5年前、始まったばかりのこの 『両生空間』 の「郵政解散」総選挙に際しての両生風視界」 にも書きましたように、明治、大正と、克明に日本の足跡を書き刻んできたあの司馬遼太郎が、昭和に入るとそのペンの迫力が急に空疎となって、 「鬼胎」
などという抽象的な言葉でしかものを言えなくなっていることに関係しています。司馬自身も、昭和は書けないことを認めていたのですが、彼ほどに究明精神に富んでいた人物ですら、なぜ、その精神の勢いが、こと
「昭和の時代」 には通用しなくなってしまったのか、そういう疑問です。
私はそれは、天皇制にからみ、当時、それほどに言及を困難とする重大な出来事や発展があったのではないか、とにらんできています。それは、司馬がそうであったように、日本人には余りに重たい何かが生じ、どうしても、そこに踏み込むことに躊躇を持ってしまう、そうしたこととしての天皇との関係です。
私個人としても、いつかはその重たい課題のドアをたたかなければと思いつつ、先送りにかまけていたところで遭遇したのが、このバーガミニの本でした。
さてそうして、その原著者の解明作業も、前史の時代が終わり、いよいよ、昭和という、 “本番” へと移ってきています。
そうして、それがたとえ翻訳という、他人の成した仕事の補助作業とはいえ、自分がそうして日本語化している文章の真の意味を覚ればさとるほど、その歴史上の重大さに、思わず身の引き締まるような緊張を感じないではいられません。
原著者の解明はまだその途についたばかりですが、天皇裕仁を頂点に、日本という国が行いはじめていることが、実にすさまじいものであったことを、あらためて認識させられてしまいます。覇気をもった国とは、そういうことまでしなくてはならないのか、そうではない覇気というものもあったのではないのか、そんな考えも頭をかすめる、本訳読の進行です。
司馬が 「鬼胎」 などという言葉に避難せざるをえなかったのも、それが故にであったのでしょうか。
ところで、この日本のすさまじい試みも、それはただ、日本のみの特異なものとしてあったと見るのは、片手落ちでしょう。つまり、当時の帝国主義的世界割拠の、英米仏独露など、それぞれの策動のなかで、あらたな帝国として台頭しつつある日本が、天皇を頂点としたそういう制覇戦略をとっていたと見るのが妥当でしょう。そういう絡みで見ないと、戦後へと続く、
「ダブル・フィクション」 の第二段階が、よく見えなくなってしまいます。
そういう脈略で言いいますと、今回の訳読にありますように、孫文や蒋介石が、日本との盟約のその基盤においていたあるアイデアリズム、すなわち、互いにアジア人同志として、西洋の覇権に協力して立ち向かって行こうとする互いの共通項、いわゆる
「大アジア主義」 の思想があります。ただ日本は、その満蒙欲しさが先走って、その共通項を見失しない、悲しいかな、そのアジアはおろか、世界すらをも敵にまわしてゆきます。
話は飛躍しますが、ここで視点を今日の世界に見られる底深い変化に移してみますと、この変化を西洋世界の凋落の始まり、あるいは、世界の中心の西半球から東半球への移動
(少なくとも、西や東といった多極時代の到来)、と見るとすれば、およそ一世紀前に試みられたそうした思想や行動が、いよいよ、現実に適用できる歴史状況が形成されつつあるのか、と思わされたりもしています。
では、今回もその探究にご案内いたしましょう。
(2010年12月15日)
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