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<連載>  ダブル・フィクションとしての天皇 (第40回)


日本の 「気概」


 ここ数カ月、私のサイトを訪れる人たちの大半が、この 『天皇の陰謀』 の 「訳読」 を目指してやってきているようです。しかも、そのヒット数も、 「うなぎ登り」 とでも言ってよいような増加ぶりです。
 もちろん、その制作者として、それは大いに喜ばしく、歓迎すべきことではあるのですが、その好反応の背景には、ある輻輳した今日の日本の状況があるように見受けられます。
 それを端的に言えば、昭和天皇とは、世界を相手にした、それほどまでに偉大な人物であった、と見るのか、あるいは、それほどまでに 「すさまじく」 恐ろしい人物であった、と見るのか、の違いにあります。
 私個人の見方は、すでに読者のお気付きのように、後者からの見方を出発点としているのですが、ただ、単純にそこに固執できているわけでもありません。
 すなわち、日本の真に自立したあり方から見れば、言いかえれば、米国の属国たる日本の見直しを考えれば、上記のような対立視は、さほど意味あることではなくなってきます。
 どうやら、私のこの 「ダブル・フィクション」 と題したサイトを訪れる読者の増加には、何か、きりっと立ち上がった日本の 「気概」 を読みとろうとする、昭和天皇にまつわる、単なる “いい者わる者論” では片付けられない、いっそう深い見方を探る動向の表れのように思えています。
 私自身のこの 「訳読」 を進めてゆく楽しみとしては、今後、 「ダブル・フィクション」 の擬制がますますあばかれた時、その向こうに何が見えてくるのか、そんな、旅でもするような、興味と関心をそそられるものがあります。

 ところで、今回では、石原莞爾に引き続いて、山本五十六が登場してきて、いよいよそのストーリー展開に具体性の色どりが増してきています。
 また、そうした傑出した日本人たちが、当時、どのようなことを考え、それをどう実践していたのか、その規模や狙いを読みとるだけでも、大いに意味ある 「訳読」 となっているかと思います。

 それでは、その深みを求めて、今回も 「ダブル・フィクション」 ストーリーにご案内いたしましょう。

 (2011年2月20日)


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