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<連載>  ダブル・フィクションとしての天皇 (第87回)


二つの 《拡大主義》


 あらためて、先に掲載した、日本の領土が最大に拡大した、1942年の日本の領土地図をみてしまう。
 そして、いまの日本がもしそのままの領土を維持していたら、一体どんな国のイメージとなっていたのかと、とてもじゃないがまともな想像の範囲には収まらない、別次元の “現実” がそこにあった感を強くします。

 それほどもの急激な “自国” の拡大が、70年前には実際に実行され、その様子が今回の訳読で描写されています。それは、その前年の12月以来の、ほんの4か月間弱での出来事です。まさに、爆発的な拡大で、英国、米国、オランダの連合軍側は、日本のまさに電光石火の動きに対応しきれず、はるかに優位な兵員数をもちながら、次々に降伏してゆきます。恐ろしいほどの戦果です。しかもそれは、計画を一ヶ月も早くに達成したものであるといいます。
 昭和天皇を含めて、当時の日本人は、まさに狂喜してそれを迎えたのではないかと、私は、かって身近な人たちから伝え聞いた話を思いうかべつつ、そう想像しています。
 ふり返れば、こうした拡大は、日清、日露戦争の結果としての、台湾、朝鮮に始まり、そして満州から、中国本土沿岸部へと、破竹の勢いの国土の拡大に続くものです。
 小熊英二の初期の著作に、 『<日本人>の境界』 という本がありますが、そういう帝国主義を国是としていた時代の<日本人>のアイデンティティを考察したものです。そこには、いまの日本人の範囲とは確かにちがう日本人の範囲がありました。この本の副題で言えば、 「沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで」 です。つまり、その当時の<日本人>の範囲は、そうした各植民地を含んでいた――ただし、みなが平等な 「日本人」 ではなかった――わけでした。
 まさに、そうした拡大主義を国是とした感覚は、いまの私たちから見れば異常です。狂気であったともいえます。武力という暴力を行使して、そのように他国を自分の領土に獲得してゆく、帝国主義というその当時の世界の常識が、それをさせていたわけでした。
 思うに、かっての国是としての 《領土拡大主義》 は、今日の 《経済拡大主義》 に対応していると見れそうです。おそらく、当時の国力の指標は国土総面積で、GNPではなかったのでしょう。だとすると、こうした二種の 《拡大主義》 が、ほぼ一世紀の間で、入れ代わったわけです。そして、さらに想像をたくましくすると、そういう 《経済拡大主義》 も、その先導役であったアメリカの昨今のぐらつきを見れば、それも先細りの運命であるかに見受けられます。一体、その先には、どんな 《拡大主義》 がやってくるのでしょうか。

 ところで、私はこの訳読作業をここ、オーストラリアの地で行っています。
 他の箇所で幾度も触れたように、私はオーストラリアに、もう28年間、滞在しています。
 これくらいの長さにわたってひとつの国に居ると、どうしても、その国の過去の遺産、たとえば、その太平洋戦争時代の、オーストラリア側から見た日本像に、望まなくとも出っくわすことになります。
 それはたとえば、日本軍による、1942年2月のダーウィン爆撃です。視覚的には、その当時に使われた、「イエロー・ペリル」(黄禍) と呼んで、悪魔の顔をした日本人がオーストラリアの北から襲ってくる諷刺画との出会いです。そして察しられる、その当時のオージー感情です。
 実は、恥ずかしいことながら―― ただ、私の受けた教育では、一度もそういう知識をえられなかった産物でもあるのですが――、私はここオーストラリアに来るまで、日本がオーストラリア本土を空襲したとは知りませんでした。(小型潜航艇がシドニー湾に “勇敢な攻撃” を加えたことは知ってましたが。)
 ちなみに、その空襲は、真珠湾達成後に南下した南雲司令官率いる空母艦隊から発進した、189機のゼロ戦による、二波にわたった攻撃で、ダーウィン市はまさに壊滅的に破壊され、その際に投下された爆弾総量は、真珠湾のそれを上回ったといいます (真珠湾は一波だけでした)。
 私は、以前、旅行でそのダーウィンを訪れたことがありました。もちろん、その時はもう、私はこの空襲のことは知っており、だからでしょう、市の中心の公園の一角に設けられた、この空襲の記念碑を訪れていました。
 そして、その碑の前に立たずんでいた時でした。一人の白人の年輩男性が私に近づいてきて、私にアジア人かと聞きます。そこで、日本人だと答えると、彼は途端に態度を変え、あからさまな敵愾心を私に表してきたのでした。ひょっとすると彼は、その空襲で死んだ238名のオージーの、身内の人なのかもしれません。

 その爆撃を、日本の 《領土拡大主義》 から見たストーリーが、今回の訳読の中ほどで、シンガポール攻略の成功に続き、オーストラリア本土への上陸と占領作戦の話として出てきます。
 上に述べた地図に見られるように、その最大に膨れ上がった日本領土の境界線は、まさに、オーストラリアの目と鼻の先までに達し、チモールは全部含まれ、ニューギニアはそれを縦断して引かれています。
 その時の日本の大本営の議論では、結局、オーストラリア本土への上陸は延期され、結果的にそれは実行されなかったのですが、もし、それが実行されていたとすれば、おそらく、私がオーストラリアに、これほど長く滞在できたかどうかは疑問で、むしろそれ以前に、来豪することすらなかっただろう可能性がおおいに高かったと思います。
 その上陸があったと想像すると、オージーの強い反権力意識からして、日本軍は強力な反撃に合い、中国以上の執拗な抵抗に苦戦したでしょう。またそうなれば日本側も、中国を上回る、残忍な手段を実行せざるをえなく追い込まれたかも知れません。あるいはそれ以前に、この乾燥したオーストラリア大陸を進軍するには、その不毛な土地から 「現地調達」 はきかず、水すら長距離の補給に頼らなけれはならないわけですから (しかもその時期は2月末ごろという灼熱の時)、その作戦はほとんど自滅的であったとみるべきでしょう。、
 いずれにせよ、いまの私からすると、このオーストラリア占領計画は、実行されなくて、心底、良かったと思えることです。むろんこの思いは、だからと言って、アジアの他の諸国への占領を是と受け止めているのではありません。話は少々込み入りますが、そうしたかっての日本の植民地側の人との、偶然ながら具体的な接点が、前回の 「案内人なき海域」 で述べたバエさんとの出会いでした。
 ともあれ、当時の日本は、それほどの拡大と狂気を本気で実施して、ここオーストラリアにまで手を伸ばし、現在までにも確かに痕跡を残す、巨大な脅威をもたらしたのは確かであったということです。

 最後に、今回の訳読末尾の 「バターン攻落」 の部分で、これまでずっと、私に重たくのしかかっていたある疑問へのひとつの回答が得られました。つまり、その疑問とは、日本軍がなぜそれほどな残虐行為を、しかも偶発的ではなく、繰り返し実施したかというものです。 
 その理由をバーガミニはここで指摘しています。すなわち、各部隊をそうした行為に関わらせることで、もし自分たちが降伏した場合、それが次はわが身の運命となると教え込み、決して降伏しない強靭な日本軍をつくるための手段であった、という説明です。
 この説明は、もしそうだとするなら、そうした残虐行為は、そういう “意図” をもって行われた組織だった作戦上の行為であるということになります。そしてそれは、そうした作戦の決定者の問題ではあっても、日本人将兵一般が持つ “本性” の問題ではないということになります。そしてそうであるならば、私にのしかかる 「重さ」 も、軽減されないまでも、その質を変えることとなります。
 ただ、それにしても、そういう敵味方双方の恐怖をあやつる作戦を編み出したのは日本人の誰かには相違なく、そういう鬼心な発想の出所をめぐっては、今回の訳読の限りでは、天皇の親族あたりらしいと読み取れます。
 むろん、戦争をする以上、その軍隊は強くなければ無意味ですが、その強さの源がこういう仕組みと出所に根差してしたと覚れば、私としては、それはそれで、ひとつの納得を得るものがあります。
 ともあれ、こうしたバーガミニの指摘をどう受け止めるか、それはそれでまた別の問題を含んでいますが、私個人として、少なくとも、ここまでの 「回答」 に接したのは、これが初めてです。
 繰り返しますが、それをなせた彼は米国人です。また、合わせて指摘しておけば、今回の訳読にあるように、マッカーサーのフィリピンからのいったんの退避をめぐり、そうして見捨てられて犠牲となった米兵の呪いのことばを紹介しているのも彼であり、おそらくそれを公的出版文献に取り上げたアメリカ人は、唯一、彼だけであったのではないかと推察します。

 それではそうした貴重な指摘を含む、第27章 南進 (その3) へ、ご案内いたします。

 (2013年3月21日)


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