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              巻末脚注(2)



 第二章 原子爆弾
 この章のために、引用あるいは参考文献に挙げた資料以外に、以下の諸文献をその背景資料として使用した。Ronald William Clark, The Birth of the Bomb (New York; Holizon Press, 1961); Hiroshima Plus 20, by the editors of The New Yor Times (New York; Gelacorte Press, 1965); and Willam Bradford Huie, Hiroshima Pilot (New York: G. P. Putnam's Sons, 1964).

 (1) 爆撃指令の詳細については、Amrine、152-55, 176-79, 199-202。広島の描写については、John Hersey, Hiroshima (Noew York: Alfred A. Knopf, 1946), 死については、『原子爆弾災害調査報告誌』 (東京、日本学術振興会, 1953, 1961) 19-。
 (2) ボックス・カーの飛行詳細については、Craig, 75-88, 90-97、長崎の描写と攻撃の詳細については、Robert Trumbull, Nine Who Survived Hiroshima and Nagasaki (Rutland, Vt., and Tokyo, Charles E. Tuttle Co., 1957), 第二部の随所。
 (3) Feis, Japan Subdued, 116, 注5。
 (4) 上掲書 Trumbull, Nine Who Survived, 111。Nagai Takeshi, We of Nagasaki (New York: Duell, Sloan & Pearce, 1951), 102, 146。日本人の集計については、原爆国内 『秘録大東亜戦史』(東京、富士書店、1953年)、330, 340。
 (5) 乗組員の否定については、Craig, 85-86。小倉上空の飛行についての描写は、Craigによる乗組員へのインタビューによる。
 (6) 爆撃手への電話インタビューによる。
 (7) Craig, 97 に引用されている。
 (8) スティムソンの記事("The Decision to Use of the Atmic Bomb," Haper's magzine, February 1947
)の回顧録から。
 (9) Amrine、53。
 (10) Feis, Japan Subdued, 15。
 (11) 上掲書、16。
 (12) Amrine、79。
 (13) Feis, Japan Subdued, 18 に引用されている、Robert Sherwood, Roosevelt and Hopkins, 903-4 より。
 (14) 以下の暫定委員会については、上掲書、30-40。
 (15) Amrine、108。
 (16)Feis, Japan Subdued, 40-44。
 (17) エドワード・テラーの引用は、N Y Times News Service dispatch, Aug. 1965 の William L. Laurence による。
 (18) 脚注(48)(49)参照。
 (19) 岡本の使命の全容の記述については、田々宮、115-42。
 (20) Butow, Japan's Decision, 22, 26。
 (21) 木戸、『日記』、1078-79。
 (22) 和平派の形成が敗戦への準備計画であったというのは、証拠に基づく著者の解釈である。私は、1966年に、小泉信三(皇太子昭仁の教育に当たった廷臣)にそう説明したが、彼は異議をはさまなかった。私の脳裏にあった主な考察は以下のものであった。
 松谷誠大佐と高木惣吉海軍少将は、1940年以降、敗戦準備計画にたずさわるよう任命された(秦との面会、および、Butow, Japan's Decision, 20-22, 2-27, 38-40, 83 n.3)。高木はことに、和平派の民間人メンバーと密接な関係を維持した(例えば、原田、第8巻、316-18, 365-69, 379 を参照)。民間和平派の指導者、近衛と吉田は、裕仁の右腕、木戸内大臣とその秘書であり後継者の松平やすまさと密接な関係を保った(例えば、木戸、『日記』、945-47, 967-68, 1005, 1024-25, 1056-57, 1109-10)。東久邇宮、賀陽宮、高松宮はともに、戦争中、何らかの形で和平派構想にかかわった(例えば、Butow, Japan's Decision, 14, n.18、Coox, 8, 100, 126、Toland. Rising Sun, 824; 木戸、『日記』、1003-05, 1057-59)。戦時中、彼らは裕仁と毎週のニュース映画上映の際、皇居で非公式に会った(安藤 『戦争と華族』、下巻、89)。和平派のメンバーは、裕仁は軍国主義者にとられた人質で、かつ、同派自身、警察の追及の恐れから、秘密裏に運営されなければならなかったという、戦後の虚像を作り出す責務を負っていた。前者の虚像は、侍従武官長官本庄がその日記(17-21章の私の注記を参照)に表している。後者の虚像は、以下のような点を活用して捏造された。すなわち、現および前内大臣として、木戸幸一は日本の警察組織に格別の支配力をもっていた(日本本土では、ゾルゲ事件が示すように、憲兵と警視庁と特高警察は互いに融通を利かし合える同僚をもっていた)。
 また和平派は、公開窓口を通じて、特定の任務に豊富な志願者を採用していた(Kato Masuo. 15)。第一ビルディングに部屋を借りて(岡田けいすけ証言、IMTFE "Proceedings." 29259-63)、和平派は、降伏前も後も、東京の治安を監視していた陸軍地方本部と場所を共有していた。
 (23) 木戸 『日記』 1206。元外務大臣とは東郷茂徳で、1945年4月、外務大臣として内閣に復帰した。
 (24) いわゆるバドリオ事件のことだが、証拠に基づく私の解釈による。矢部、2:45 は、近衛と吉田に対する警察の摘発の根拠となった情報を木戸のみが提供できたことを表している。戦時中における木戸と近衛・吉田の関係にあっては(木戸、『日記』、933-1171の随所に )、木戸が、敵意や無思慮から友人を裏切るようなことは考えられない。
 (25) 『近衛日記』(東京、共同通信社、1968年)として出版。
 (26) 幾人かの面会者からの情報。武田、『政治家』、99 参照。
 (27) 木戸 『関係文書』、495-98。Butow, Japan's Decision, 47-50 からの引用(の訳文)。
 (28) 今井清一 「密室の」、78-。
 (29) この節は、木戸の『日記』と小泉信三および宮中官吏との面会情報に基づいている。。
 (30) Vining, Crown Prince, 170. ヴィニング夫人は皇太子昭仁の教師で、戦争犯罪裁判の時期、皇居内に住み、天皇の取り巻きたちのことに精通していた。
 (31) 皇居や宮中の詳細については、上掲書の随所より。
 (32) 木戸と天皇の会話は、木戸 『日記』 1134。
 (33) 天皇の発言やその根拠については、joint Army-Navy Report on War Prospects, Jan. 1945, reproduced in Translations, 1; No.15 を参照。
 (34)Statements』、2: 175 で木戸は、「重要な解決は彼の胸中でなされつつある様子が感じとられ、その後、私は天皇といっそう親密に意見の交換をした」と述べている。
 (35) 木戸 『日記』 1167。歌は英文からの訳者による模作。
 (36) 非公式な謁見のうち、よく知られているものは、近衛宮とのもので、その秘密を最も明らかにしている内容は、林茂他 『日本終戦史』、19- に見られる。謁見した七人についての回顧は、木戸 『関係文書』、492-510 を参照。こうした七人の謁見者以外に、裕仁は、2月と3月に木戸の事務所に立ち寄った著名な日本人のすべてないし幾人かと、非公式の謁見をしている(木戸 『日記』 1169-84 の随所を参照)。
 (37) 木戸 『日記』 1180。
 (38) 林茂他 『日本終戦史』、2: 45。
 (39) 木戸 『日記』 1181-94。
 (40) 同上。
 (41)Statements』、2: 418-24 の松平やすまさ。
 (42)Statements』、2: 616 のながいやつじ少将。参謀団の中では、阿南陸軍大臣は終戦の使命を与えられていると理解されていた。
 (43) Butow, Japan's Decision, 67。また、『Statements』、2: 418 の松平も参照のこと。「戦後、天皇は私に、『私は鈴木の気持ちは判っていた・・・ そして、彼も私の気持ちを理解していると確信していた。』」
 (44) Feis, Japan Subdued, 15-16。
 (45) 木戸 『日記』 1197。
 (46) 木戸 『日記』 1198。
 (47) 木戸 『日記』 1199。
 (48)Statements』、1: 135-58 の藤村。
 (49) プレッシャーのひとつのケースについては、林茂他 2: 128-29 を参照。
 (50) 木戸 『日記』 1199。
 (51) 朝日新聞 1945年5月22日。
 (52) Brooks 133。
 (53) 木戸 『日記』 1203。
 (54) 木戸『日記』、1208-9。
 (55)Statements』、1: 295-302 の蓮沼しげる、および、同書 2: 417-31 の松平やすまさ。。
 (56)Statements』、2: 425 の松平やすまさ。松平の別の注記では、「天皇は終始、努力と策謀を続けていたが、それはほどんどが隠れて行われたので、取り扱われた場や事項は微小で、その詳細をここに説明するのは困難である」。
 (57) 木戸『日記』、1209、『Statements』、2: 418 の松平やすまさ。木戸の計画について、「国璽保持者の書記としての私の任務のなかで、彼に諜報報告を提出する職務はことほほか重要であった。彼と私はふたりとも、軍部が戦争を始めたとの印象であったので、彼らがそれを終わらせる確固とした計画を持っていることに疑いはいだいていなかった。そうした計画は極秘であったので、私は、軍はそれをたとえ国璽保持者にもそれを守っていると理解していた。さらに、天皇は決して、木戸とは、最高命令に関する事項は話さなかった。」


 (2006年11月15日)
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