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第二章
  
原子爆弾
(その2)




日本のジレンマ


 日本の官吏の大半は、降伏の必要をかねがね認識していたにもかかわらず、それを行動として表すことに禁忌を感じていた。それに、彼らは敗戦をどう認めたらいいのか、お互いに為す術を知らなかった。ただ、彼らが唯一分っていたことは、行ってきた征服と、一種の復讐される恐怖であった。それは、ワシントン界隈にみられる、倫理的問題を憂慮する政治家による唐突で直截な意思表示とはことなり、もたれあった当てこすりや封建的忠義心、あるいは、先送り精神と刺々しい武士の誇りが入り混じる、陰湿な政治環境の産物であった。
 天皇裕仁は、1942年2月のシンガポール陥落以来、有利な条件で和平を結ぶ機会を逃さないよう、家臣たちに忠告してきていた。事実、特殊な暗号装置と担当部員を駆使した海軍は、真珠湾攻撃の以前の1941年、和平特使をスイスに派遣した(18)。それは、アメリカの諜報員との交渉のチャンネルを閉ざさず、接触を維持する使命をおったものであった。しかし、裕仁をろうばいさせたことは、アメリカの指導者たちには、交渉を通じた和平が眼中にないことであった。米国は、たとえ彼らに幸運の女神が微笑まなくとも、最終的な勝利を得る自信を持っていた。そもそも、彼らの立脚点は、この戦争が日本の奇襲攻撃によって強いられたものであり、日本からその帝国を撤去し、平和志向の国へと変貌させるまで、戦争を終えるつもりはなかった。1942年10月、裕仁は、陸軍にその和平専門部隊をヨーロッパに送らせた。その使命を負った岡本清福
〔きよとみ〕大将は、天皇の弟、秩父宮の親しい友人で、西側には英国寄りの人物との評判が高かった。しかし、ソフィア〔ブルガリア〕でも、アンカラ〔トルコ〕でも、ヴィシー〔フランス〕でも、ベルン〔スイス〕でも、彼と三人の随行員が発見したものは、仲介する中立国による望み薄との姿勢であった(19)
 真珠湾の六ヶ月前、裕仁は海軍参謀本部に、戦況展望に関する調査をさせていた。その結果が天皇に提出された時、彼は、さらに、参謀の別のグループに再度調査するように命じた。その第二の分析は、第一のものを裏付け、米国との戦争は、1943年6月までの18ヶ月間、成功裏に展開できる、というものであった。それ以降は、和平交渉を行わねばならぬか、しだいに、すべてを失うだろう、としていた。そしてその転換時期が過ぎた後になっても、日本の特使たちは、和平締結に望みがないことを報告してきていた。陸軍も海軍も、戦況についての新たな調査をしていた。1943年末までに、こうした調査は、海軍のものは完成し、陸軍のものも、ほぼ最終原稿をつくりつつあるところであった。海軍の報告書は、戦争には敗北し、1880年以来獲得した領土のすべてを失うことになるだろう、と結論づけていた。陸軍の報告書も同様であり、さらに一歩踏み込んでいた。すなわち、日本は降伏にあたって、ふたつのみの条件――本土は破壊を避け、天皇制度は維持される――を付しえるだろうとしていた。(20)
 参謀によるこうした二つの調査の冷厳な結論を受け入れることは困難であった。裕仁の力はいまだ巨大な帝国を形成しており、カナダより広い地球上の面積と、南アメリカ州より長い地域を支配していた。東条首相は、戦時生産の慎重な数値と敗戦は共にうそで、情況はもっとよいと保証した。しかし、裕仁は数値を信頼していた。参謀の結論は必至ではないかもしれないものの、万一の敗戦に備え、何等かの用意が必要であった。そこで裕仁は、最も親密な民間人助言者、内大臣の木戸幸一侯爵に、世論と国内政局形成の専門家としての視点から、和平への調査を求めた。
 木戸は、広島に原爆が投下される丁度19ヶ月前の1944年1月6日、彼の考えを表した最初の文書をまとめた。戦争は基本的に負ける、とそれは結論し、我々は、ドイツが降伏する前に、現実的な和平案を作らねばならない、と彼は述べていた。そして曰く。我々は、太平洋戦争での中立国としてのソ連に、仲介国として行動し占領地の成り行きを定める「主要太平洋諸国の委員会」を開催するよう、依頼すべきである。我々は、占領地のすべてを中国に返還するなり、「スイスのような永世中立国」としての独立を与えるなりを覚悟しなければならない。そして、「我々が体験してきた深刻な磨耗をかんがみ」、我々は「自身の力をこの先百年間、保持、育成」せねばならない。とりわけ、我々は、アングロサクソンに対し、有色人種たる我々を破滅させないようせねばならない。我々は、天皇を中心に、「自身の力をこの国のうちに秘密に維持しなければならない」。(21)
 もし、天皇制が秘密裏に維持され、日本が百年の間、再興の時期をうかがおうるとするなら、その国民も周到に用意させられなければならない。戦闘員は、勝利の栄光を得るか自害するかを問われ、天皇の名のもとに、数十万人が死を選んでいる。もし、平和が時期尚早に宣言されたなら、愛国者は、裕仁は戦争を最後まで戦い抜く気概を欠いていたと言うだろう。未亡人や孤児は、天皇は肉親を無駄死にさせたと恨むであろう。したがって、国としての面子を保つため、この戦争は、誰もがその被害者となり、その終結が望まれるようになるまで、継続されなければならない。その時点で、国民は、空虚な戦争だったと感じ、天皇への失望を感じるかもしれない。そう至った段階で、裕仁が平和を宣言したなら、国民は天皇をありがたく感ずるだろう。
 木戸は、こうした彼の考えを、天皇をとりまく若手将校集団――今では皆50歳台となっているが――に語り、また、彼らも、同じように考えていることを見出していた。昔からの喩えによると、天皇は「鶴のように、雲の上に」住み、国全体を見下ろし、日々の政治運営は、任命した政府高官たちに任せていた。ただ、天皇がこうした部下たちに直接の命令をしいて与える必要があると感じる国家的危機の場合には、「鶴の一声」と言われる彼の介入があった。降伏を宣言するにたる時が来た際、あたかも、天皇の巨民が被った辛苦への憐憫の声たるかのごとく、天皇はそれを個人としてかつ予告なく行うという見解に、天皇の秘密顧問団の誰もが賛同した。そうして、天皇の行為は、内地においても外地においても、鶴の一声として発表された「聖なる決断」として、演出されようとしていた。そして、かってのいかる前例をもやぶって、その声は、ラジオで放送されようとさえしていた。
 日本人が天皇を許すことも難しかったが、戦勝国に天皇をうけいれるよう民主的に決定させることには、さらに計り知れない困難があった。裕仁自身としては、自分に何が起ころうとも覚悟はしていた。もし戦争に敗北し、しかも、天皇が敗戦をまだ認めていなかったとしたら、天皇はすすんで退位したであろう。しかし、守られなければならないのは天皇制度であり、天皇家代々の遺産であった。これをひとつの条件として、裕仁は木戸の平和策を押し、その時点での懸案、マーシャル群島の防衛に没頭した。
 天皇の黙認をうけ、木戸は、南京強奪の際に首相であった、痩身、シニカルな近衛宮を長とする一団に、敗戦を前提とした計画作成を命じた。その一団は、自らを「和平派」(22)と呼んだ。その一団には、元首相、数人の主要外交官、そして、幾人かの陸海軍参謀本部の戦略家も含まれていた。その最初の会合は、1937年の南京陥落以来、木戸が住む「荻外荘」で秘密裏に行われた。1944年末、同一団は、専従の事務局員を雇用し、皇居南東門を見渡す第一生命会館の一室を借りた。この場所はうってつけであった。その一階には、日本放送協会の秘密の緊急時ラジオ局が置かれていた。また、七階には、陸軍東京方面本部があり、皇居、警察本部、都内の兵営への電話交換所があった。
 この和平派の任務は、その名が意味するような平和を推進することではなく、降伏による損失を最小にすることであった。米国の日本向け宣伝放送の分析によれば、米国は日本の「軍閥」の支配を過大視する傾向を示していた。元外務大臣は、木戸内大臣に、「米国内では、日本に穏健派と過激派の紛争があると考えられており、過激派が穏健派を凌駕していると見ている」、と説明した(23)。この誤りの解釈を活用し、和平派は、木戸が構想する敗戦後の忍従の一世紀を耐え忍ぶという世論を形成するための、骨格をなすストーリーを作りあげた。陸海軍の参謀は、誰がその過激派であり、降伏の時に失望の反乱を率いるのか、を構想した。穏健派と呼ばれる人たちも、戦後の内閣を構成することとなる役割が与えられた。また、別の穏健派は、産業界から選出され、宮中の隠された資産を、自身の資産として管理する役目を負った。本物の穏健派の数は限られていたため、見せ掛けの穏健派が、特高警察が所有する破壊活動の可能性ありとされた記録ある者、という単純な方法から作り上げられた。一事が万事がこうした方法により、1937年にこの国を戦争に導いた近衛宮でさえもが、ハト派の衣を着ることが望まれたのであった。
 1945年の初め、内大臣木戸は、特高警察に、和平派とおぼしき四百人を逮捕させ、四十日に渡って拘禁した。木戸はむろん彼らと事前の相談などせずにそれを実行したのだが、その取り扱いが良かったので、彼らは木戸への反感は抱かなかった。(24) 彼らの多くは、かって、対米英戦の先導的提唱者であったが、その頃ではそうした態度も捨て、アメリカの占領下での政府の要職につこうとしていた。その中で、ことに吉田茂は、戦後、首相のポストを7年間にわたって勤めることとなる。彼は、1933年以来、英、米、オランダを敵とする南進論の臆面もない提唱者であった。だが今や、設備の整った独房で、一夜にして、反戦運動の認証付き英雄に変貌していた。声無き大衆にとっては、彼の突然の変身は当惑この上ないものであったが、それもそのはず、彼は、1926年から1935年までの間、天皇の主席顧問であった牧野〔伸顕
(のぶあき:大久保利通の次男)〕伯爵の義理の息子〔その長女雪子と結婚〕であった。牧野は、日本の軍事的対抗が、ソ連から米国へと転じた時期、その暗殺や見せ掛けのクーデタに、ことごとく関与していた。
 和平派の参謀たちは、共産主義に強迫的に恐怖心を抱くアメリカの政治的心理に、第二のアメリカの弱点を見出していた。そして彼らは、アメリカ人に日本の近代史をもっと同情的な目で見させる可能性のあることを感じていた。そしてその役は近衛宮に与えられた。すなわち、後年、ソ連で捕虜として死ぬ事となる彼のタフな息子がプリンストン大学に学んでいたことから、その道の専門家として目されたためであった。近衛は、首相としての三年間の出来事を記した“ノート”や“日記”を作ることで、その仕事を成そうと考えていた(25)。だが、偽物を作ることは、予想していたより困難であった。彼は、日本の政治の込み入った実情に詳しいあまり、単純な話をしたてるには無理があった。1944年の夏の間中、彼の出来損ないの原稿が秘書のファイルを埋めていた。そのうちのひとつ、特別に編まれた「日記」は、1967年になって、彼が男女の連れを引き込んでいた、ある旅館で発見されることとなった
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 ついに、近衛宮は、大部で眉つば物の「天皇への回顧録」(27)を書き上げ、後には、連合軍諜報部に引き渡された。彼は、それに国家的文書としての地位を与えるため、1945年2月14日、裕仁にも読んで聞かせた。彼と天皇は、そこに記された物語を、薄笑いを浮かべて読んだに違いない。近衛は、1931年の「満州事変以来」、日本の軍国主義を駆り立てたのはその「意図的計画の一部」、と共産主義者を告発していた。彼によれば、「現在の窮状」は、「敗戦の混乱」の中で下層階級による革命情勢を作り出すための赤のしわざによるものであった。近衛の説にはあいにくのことに、1920年代末以降、日本のあらゆる共産主義者やいかなる意味での左翼も、ことごとく投獄されていた。軍国主義を煽ることのできる民間人といえば、皇室が後押しする「愛国組織」に属する、雇われた一味しかありえなかった。こうした不都合な事実に対処して、近衛は、「わが国の右翼は、共産主義者の変装者にすぎない」とすら説明していた。
 和平計画では、木戸内大臣は、戦争を終わらせるために戦うとの世論形成を図るよう、終始、天皇に働きかけていた。つまり、それによってこそ武士の誇りは満たされ、それによってこそ国民はその役目が得られ、それによってこそ、日本の領土を縮小するために生じた損失を敵は認めうることができ、さらには、それによってこそ、日本の実際の力が、華族という打算ずくの民間人にも下層階級出身の過激兵士にもよるのでもないとアメリカ人を納得させうる、とするものであった。
 1944年の春、裕仁は、長野の険しい山岳地帯の三つの山の下に迷路トンネルを掘ることを許可した。それは、最悪の事態に備え、最後の大本営の会議がそこに招集され、彼の選りすぐりの部隊とともに、死まで戦おうと信じさせるものであった。その10キロにわたるコンクリートの坑道は、7万5千人の人力と2千万ドルの費用を投じて完成された。裕仁専用の浴室も用意されていた。しかし、彼は、それを使用する積もりはなかった。彼がもし東京を去るとすれば、国民は総崩れとなるであろうと、彼は近親者に打ち明けていた。(28)
 その年の秋、裕仁は、神風特攻機と潜水艇という「特別攻撃武器」の製造許可を与えた。彼はまた、家屋を取り壊して、主要都市を横切る防火帯をつくり、焼夷弾爆撃の被害を最小化する計画を承認した。さらには彼は、米国政府は、敗戦と至った場合には、強姦や破壊をことごとく推進するつもりであると国民に説く国内宣伝運動を、その布告や勅書で承諾した。
 その一年後、日本は、悲惨な戦闘を経て、敗戦することとなる。1944年6月、サイパン島とマリアナ諸島が攻落された時、裕仁は、新任の首相が米国政府を和平案提出に誘い込むであろうとの進言をうけとる。そこで裕仁は、アメリカを主戦主義と見る東条首相への支持を撤回し、秘密顧問団のなかの穏健派の一人である小磯国昭大将を新首相にすえた。彼は、1931年の満州攻略の際、多くの策略の発案者であったにも関らず、外国には余り知られていなかった。しおれた小さな目の新首相は、日本国の代表というより、中国のアヘン巣窟の主のように見えた。彼は、国内では、その狡猾さと、実戦より諜報戦の専門家として知られていた。彼の就任は、日本は通常兵器による闘いではもはや勝利できず、策謀による勝利しかないとの見方を広げた。日本はもはや、人間爆弾や人間魚雷、あるいは万歳自決に訴えるしかない、というのが小磯首相のもとでの戦法であった。それは、アメリカの勝利を犠牲の多いものとしたが、こうした神風戦術は、米軍の着実な前進の速度を遅くする以上のものではなかった。


                  巨大なはったり(29)

 戦勝のないことを自らの日記に認めてからきっかり一年後の1945年1月6日、木戸内大臣は、宮内庁ビル4階の書籍の並ぶ書斎で、ページを繰りながら、昼食をとっていた。彼は、きゃしゃな体格をもち、しかめ面をした55歳の男で、頭髪は短く刈り、実用本位の眼鏡をかけ、ヒットラー風の口ひげをたくわえていた。彼は、友人の間では、こざっぱりした身だしなみ、明るい色合いのベスト、そして「獲物をえた動物のような目」をし、天気であろうと廃墟となった街の様子であろうとどんな話題をも受け入れることから、何とも解し難いながら、懇意な人柄として知られていた。だが、彼の友人ではない人々の間では、木戸は、ヒステリックな芝居じみた言動で知られ、彼にたてつく部下を金切り声で罵倒した。彼を嫌う人々は、彼が生肉を常備し、警察犬を入れたおりを彼の屋敷の要所々々に配置しておき、戦時中の配給の間でさえも、肉をそうした犬に食わせていた、といった話を好んだ。木戸の強迫的性格というマスクの背後に、友も敵もいずれもが認める、政府の顧問中もっとも怜悧で堅固な人物が存在していたのであった。木戸のことをその生涯にわたって知り、1922年以降、あいたずさえて執務にあたってきた天皇裕仁は、彼の判断力に信頼を置き、真の懇意の情を彼に与えてきていた。1946年、木戸が戦争犯罪人として裁判にかけられた時、裕仁は、もし木戸が死刑判決を受けたなら、皇位を退くつもりでいた(30)と語ってていたという###
 電話がかかり、天皇が木戸を呼んでおり、話をしたいとのことであった。木戸は、彼専用の木炭車を呼びつけ、階下に降りてそれを待った。かっての宮中近代化の輝かしいコンクリートの象徴、宮内庁ビルは、戦時下の防空縞をほどこされ、威厳を保っていた。弱々しい冬の太陽は、その威厳にふさわしくはなかった。車が到着し、1937年に松井が南京進攻の際の指令杖を授かった外宮北部の例祭用の建物にそって、木戸を乗せた車は走りはじめた。左にお堀と内宮の石垣を見ながら木戸の車は進んだ。反対側は、裕仁の生物学研究所や実験水田、皇后祥子の蚕小屋、白い玉石の庭園に囲まれた宮中神社、そして、もはや用いられていない極めて伝統的な居住殿など、天皇や皇后の個人的な使用に供される施設が点在していた。それらすべてが、吹上げ御苑の手入れの行き届いた植木の海で囲まれていた。そこには、戦時下がゆえの倹約の気配は少しも漂っていなかった。その驚かされる対比はやはり普通ではなく、その見事な並木は目を見張らせ、道には孔雀や鶴が気取って歩き回り、太鼓橋、石庭、蓮池、盆栽を育てる温室など、中には、千年の歳月を数えるものもあった。
 木戸の車は左折し、お堀を横切って土手道を進み、内宮への門をくぐった。庭園の美を尊重するかのように、車道は短かいものであった。左手の木々を通して、英国農家風の三角屋根が垣間見られた。そこでは、皇后と名だたる貴婦人たちの、戦時下の宿舎となり、また、天皇と皇后が親しい友人と時間を過ごす場所であった。それは、公には、華やかな古い名、かいん亭(めかけの館)として知られていたが、裕仁の時代の20年間は、めかけがそこに住んだことはなかった。
 車道の突き当たりには、ずんぐりしたコンクリートの建物、皇文庫(皇室図書館)が位置していた。裕仁は、執務場所としてこの建物を建て、多忙な時期は、彼の居宅ともなっていた。現在、その執務室のほか、控えの間も備えられ、また、この建物の建つ丘の地下18メートルには、防空壕も造られていた。そのコンクリートの壁は6メートルの厚さがあり、換気装置、来訪者のための待合室、居心地の良い西洋風の居間と浴室、そして修道院風な家具がしつらえられた大きな謁見室があった。それらの壁には二本の斜坑が穿たれており、一本の謁見室からのトンネルは、階段によって、皇文庫の背後の丘の斜面に設けられた鋼鉄製隔壁へと結ばれていた。二本目は、その居住部からのエレベーター抗として、地上の裕仁の執務室の隠しドアまで通じていた。(31)
 木戸は、その図書館へと、守衛や執事の前を通りながら、その接見には満足を感じていた。裕仁は彼を待っていた。裕仁は前置きもなく、「米国艦隊が」と切り出し、「リンガエン湾の海岸を砲撃し始めた。米軍は上陸し、ルソン島の防衛は難しくなるとの報告を受けた」(32)、とそれに続けた。ルソン島はフィリピンの最も主要な島で、裕仁が得た情報は正しく、最新のものであった。その朝、同海岸の抵抗力をたたくことは、三日後の上陸への準備であった。天皇は続けて、「情況は極めて深刻で、長老政治家たちと相談している時間がなくなる恐れもある。貴殿ならどう考えるか」と語りかけた。
 さらに裕仁は、自分には政府と国民に降伏を命ずる用意ができている、と木戸に告げた。よほど重要なことでない限り、裕仁が、元首相といった長老政治家に相談を持ちかけるようなことはなかった。それ以前、彼がそうしたのは、真珠湾の件のみであった。その時は、過半数の長老たちはアメリカとの戦争に反対したが、彼はそうした見解を無視した。今、再び相談を持ちかけるにあたり、天皇は、征服の道が最初から誤っていたこと、つまり、彼の人生が、事実上、失敗であったことを認めようとしていた。その43歳の天皇はもはや、1922年当時の、張りつめるほど野心的な皇太子ではなかった。彼はもう中年で、太り始め、働き過ぎと運動不足から、息切れも表していた。家臣たちは彼に不平をもらし始めていた。彼が考え込んでいる時、伸びた口ひげは震え、神経質となっている際には、誰もがするように、彼もその短い足をぴくぴくと動かしていた。ほんの青二才の頃に経験したように、そうして敗北を迎えつつある時、日本を率いる彼は沈んだ姿を見せまいとし、機会主義の日本の象徴たらんとしていた。(33)
 「ごもっともです」と木戸は言い、「フィリピンの戦況は極めて悪く、展開次第では、我々は戦争指導を根本的に考え直さなくてはならないでしょう。しかしその前に、私は陛下に、いましばらく、距離をおき、情況を見守るよう、心よりお願いいたします。また、まったく非公式な形で、二人の参謀総長の真実な見解をお確かめになられてはどうかと存じます。その上で、閣議を召集され、さらに、陛下がご自身の根本政策を変える必要があるとご判断の折は、陛下ご出席の御前会議として、内閣閣僚と長老政治家を交えた会議をお開きになってはいかがでしょう」、と続けた。
 天皇が自らの誤りを認めたり、時期尚早に平和宣言を言い出すことなどは、木戸の和平計画には予定されていなかった。計画によれば、その第一段階は、天皇が軍事作戦への自身の直接の関与を放棄し、それ以上の敗北の責任は参謀本部にあることを明言することであった。第二段階は、必要な政治的対処をとるよう、政府閣僚に、天皇自身の考えが変わったことを告げることであった。最終段階は、世論が熟してきた時、天皇が長老たちに彼の決定をただ告げることであった。裕仁は、こうした木戸の助言をすすんで受け入れ、その日以来、木戸がかねてから設計してきた機械の歯車となった。(34)
 木戸内大臣には、天皇の輔弼として、いつが天皇の決断に最適な時かを判断する重大な責任が課されていた。木戸の細心の計画は、極めてゆっくりとしたペースで進められた。早すぎる平和の宣言は大惨事をもたらすおそれがあった。木戸は、自身の計画が果たして首尾よく進むかどうかの確信はなく、それだけに、完璧なタイミングで進められなければならなかった。国民は、戦争疲れへと巧みに誘導されなければならず、かつ、兵士達の誇りは高く維持されなければならなかった。また、もし可能であるなら、敵を、恥と哀れみもって見ることも必要であった。
 B-29はほぼ毎夜のように来襲していた。木戸が頼りとする人たちはそうした空襲のなかで命を落としていた。人びとは、防空壕の中で眠れぬ夜を過ごしていた。人びとは何かにむけて強要される必要があった。裕仁自身も、動揺にかられることがあり、鼓舞が必要な場合もあった。木戸は、1945年1月22日、裕仁を元気付けようと次のような歌を書いた。
 こうして、木戸が最適な時を待つ間、20万人の日本人が死んでいた。
 1945年の1月の最後の週から4月の初めまでに、裕仁は、軍組織の上層にある総督や将軍、かっての首相、著名な弁護士、教授、事業家、そして任侠界の代弁者などの一人ひとりと、非公式な会見を続けた。3月半ばまでには、そうした国家の存続計画に、無私の貢献を誓わない有力者はほとんどいなかった。皇室図書館あるいは地下防空壕の謁見室の面会者のなかからそうした人びとが選別され、そして木戸内大臣と面接のうえ、いかなる貢献が可能であるのかが吟味された。(36)
 そうした政治的結集が続けられている間、軍事的には、こけおどしや虚勢が行われていた。旧式化した九千の飛行機が木々に覆われた滑走路に隠され、それに搭乗する特攻操縦士が訓練された。農村出身の献身隊は、日本の神聖なる海岸にそって杭を打ち込み、塹壕を掘った。くわ、すき、なた、竹やり、そしてその他の粗野な秘密兵器が、たとえば首相官邸の広間といった公共の場に集められて鼓舞に供された。長野の山岳地帯の地下の最後の大本営にも、コンクリートの打ち込みが終わった。そして、その秋と予想されていた米軍の上陸が敢行されたならば、そうした「最終決戦」と戦わねばならないはずであった。
 1945年3月24日、しわくちゃ顔の小磯首相――彼の援助により、裕仁の微妙かつ洗練した力が発揮されることが期待されていた――は、紛糾した閣僚会議をおえ、興奮さめやらぬまま、皇室図書館に姿を現した。彼は即刻の謁見を求め、軍部が完璧に独占する政府を設立する計画への許可を申し出た。だが裕仁は、陸軍に、すでに所有する以上の力を与える積もりはなかった。もしそれを許せば、日本は自滅の道を歩みかねなかった。裕仁は、小磯首相がその夏まで政権を維持し、それまでに、国や武装勢力が平和に向かう準備を整え終えることを望んでいた。しかし、事態は緊迫度を高めており、小磯は耐え難い政治的圧力にさらされていた。彼に最後の戦いを準備させるか、それとも降伏の内閣をもって彼に置き換えるか、いずれかが必要と小磯は天皇に進言していた。
 裕仁は、小磯首相が国民の士気の荒廃と抜本的な政治的再編が必要であることを述べている間、沈黙してそれを聞いていた。窓の外は、その日も、おだやかな春の午後で、吹上げ御苑には柔らかな日差しが降りそそぎ、風雲急を告げる時の情勢はうそのようであった。その後二週間の間に、米軍の最初の焼夷弾空襲による大火により、十万人以上が焼死した。四週間後には、硫黄島が陥落した。この島は、何世紀にも渡って日本の漁民が住んできており、日本の本土防御線上の最初の損失であった。硫黄島での2万人の兵士の死をはじめ、追い詰められた情況で新特攻作戦がどれほど必至であったとしても、その効果は無きに等しかった。この2万人の兵士は死を決し、出来るだけ多くの敵兵を道連れにしようとした。そうした日本兵は、八ヶ月間に渡り、岩肌の露出した島にトンネルを掘り、また自然の洞窟を活用していた。そしてそのどたん場では、米兵を七千人弱道連れにし、五週間ほどを持ちこたえた。その惨劇は、もし裕仁が陸軍の計画を承諾し、長野の山岳地帯のゲリラ戦の首領となっていた場合、彼が演じることとなる終末劇の予告編であった。小磯首相は、その報告を終えようとしていた。(37)
 「貴殿による苦渋の努力にお礼をいいます。貴殿の申し出のように、その辞職を承認します。しかし、貴殿は、世がふさわしい後継者を指名するまで、その辞職を伏せ、任務を継続するように」、と裕仁は命じた。(38)
 天皇への助言者木戸は、その後の二週間、難渋な交渉を行わなければならなかった。前年秋の段階では、和平計画のもとで小磯政府を引継ぐ首相や閣僚は、終戦までの暫定的なものであった。だが今では、そうした指名は誰もが時期尚早と感じていた。また特高警察司令部は、軍部が和平内閣を承認する段階にいたっているとは見ていなかった。政府は、イタリアのバドリオ政権がそうであったように、国の一部のみが降伏する場合に遭遇せねばならない恐れもあった。ともあれ、危機が深まるなか、長老たちとも協議を続けながら、内大臣木戸は遂に、天皇に対し、計画を進めるよう進言した。(39)
 裕仁は木戸の提案を受け入れ、1945年4月7日、80歳の元海軍大将、鈴木貫太郎を次の首相に任命した(40)。その夫人は、裕仁が子供のころ、その世話を手助けした人でもあり、大将自身も、1929年から36年まで、四人の輔弼の一人として、裕仁の侍従長を勤めていた
#####。もはや誰も、天皇の目を南方のインドシナの資源に向けようとするものはおらず、彼以外には誰も、平和志向の立憲君主としてのイメージを植えつけようとするものはおらず、また、彼にまさって天皇とじっ魂であるものはいなかった。裕仁は、「鈴木になら、気を許すことができそうだ」(41)と語ったことがあった。
 その経歴にも関らず、老いた海軍大将侍従長は、若々しいひょうきんさを保っていた。大きな耳、いたずらっぽい表情をもち、ユーモアのセンスも優れていた。彼はまた、あたかもその煙で敵を欺くかのように、次々と葉巻を喫った。暇のある時は、老子哲学の本を著し、それに没頭しているようであった。彼は、中国の古い格言から多くを学んでいた。彼は人に反対するようなことはなく、ほとんど、自分の意見を表すということがなかった。そういう彼は、「統治の真髄は統治しないことにある」、と好んで語っていた。
 鈴木首相は、就任すると同時に、国民に、最後まで戦って死ぬようにと訴えた。後の説明によると、彼の言葉は、いわゆる「腹芸」のひとつで、そうした内心とは逆のことを口にする技は、西暦十世紀に、その国が武家社会となって以来、育まれてきたものであった。鈴木は、国内でも国外でも、「和平首相」と受け止められるであろうことをさとっていた(42)。後年の回顧談によると、その首相就任式では、戦争を終結させなければならないことを「肝に銘ぜられた」(43)ということだった。
 熟慮しぬき、そして木戸内大臣との話し合いの後、鈴木は、自らの使命を、古い日本の物語の中にみつけていた。すなわち、闘いに敗れ、武士道の華を飾れなかったある領主は、敵より、その城を明け渡すよう求められた。生き残った家臣は、彼に、生存の道とその条件を探るよう懇願した。しかし彼はそれを拒絶し、家来を解散させて自ら籠城し、ただひとりで城門に立った。敵がやってきた時、彼は叫んだ。「来れるものなら来てみろ」。策略に巻き込まれることを怖れた敵は撤退し、そのしたたかな領主は自分の領地を再度、立て直すことができた。この話は、征服者アメリカ人に天皇位を明け渡す際、裕仁が用いようとしているものであった。
 ワシントンでは、元大使のグリューが、鈴木内閣の指名を、和平へのサインであると正しく読んでいた。グリューは、鈴木が望むよう、天皇制の維持を確証するよう日本に提案してみることを進言した(44)。だが、トルーマン大統領がその案を受け入れなかった時、城門に立つ鈴木首相の番人は悪夢にさらされる気分であったにちがいない。その時、日本の同盟国、ドイツの第三帝国は、急速な崩壊の淵にあった。1945年4月半ば、ライン川を越えてドイツ領に入って一ヶ月後、アイゼンハウアーの部隊はベルリンから96キロの地点に迫っていた。東方では、ソ連赤軍がオデル川の橋頭堡を撃破してドイツの首都へと進撃していた。軍隊はその自国土で戦う時、奇跡をおこすことができる、との考えがある。しかし、その本土の海岸線での決戦でも、決定的な勝利が得られるとの日本の希望は馬鹿ばかしいものとなりつつあった。警察を取り仕切る内務相や宣伝を担当する教育相は、広がる国民の不安を抑える方法について、木戸内大臣と協議せねばならなかった(45)。4月29日、裕仁の44回目の誕生日は、その前日に、彼のかっての同盟者であるムッソリーニがコモ湖で処刑され、その遺体は切り裂かれ、怒ったイタリアの群衆により溝にすてられた、とのニュースで不吉に傷付けられていた。
 5月1日、裕仁は木戸に、ドイツ降伏の切迫性を警告し、その件について50分にわたって協議した(46)。その翌日には、二人に、アドルフ・ヒットラーの自殺についての話が伝わった。16ヶ月前の和平計画では、木戸は、ドイツの敗北の前に和平交渉に入ることを望んでいた。連合軍が、日本の首を絞めるにも両手が自由に使えるようになった今、終戦の条件交渉の最後の望みも消滅し、無条件降伏は避けられない事態となっていた。しかし、日本は、合理性の通らぬ国家として理解されなければならなかった。そうでないと、天皇の介入や、「鶴の一声」の必要も考えられなかった。またそればかりでなく、正気を失った状態すら維持されることを必要としていた。ドイツが公式に降伏した5月7日、木戸は、自分の金庫室に入り、天皇を犯罪人とさせるかもしれぬ文書や回顧録を運び出していた(47)
 二日後、皇居南門外の広場の道路向いにある海軍ビルに、「緊急、極秘」と記された、暗号の作戦電報が届けられた。それは、スイスに居る海軍和平特使の長を勤める藤村義郎中佐からのものであった。祖国の窮状を心底懸念して、藤村は自らの努力を強化していた。そこで藤村は、日本が敵対関係を終了することを望む場合には、ヨーロッパのOSS(米国戦略事務局)長官のアレン・ダレスが動く可能性のあることを、誇らしげに報告していた。藤村は、その後の十日間に、最初の電報に続く六通の電報を送ってきていた。彼は、ナチの徹底抗戦派がもたらしたドイツの大混乱を伝え、そして、連合軍が、欧州から太平洋方面へと配置を変え始めていることを指摘していた。ソ連はまもなく、日本に宣戦布告するとの情報も送ってきた。藤村は、アレン・ダレスが北部イタリアに平和をもたらすことに尽力し、同地方を混乱から救っていると報告していた。(48)
 スイスからの藤村の電報は、引き続き海軍ビルに届いていた。海軍参謀を率いる二人の高官には、何らかの返答を与えるべく、プレッシャーが増していた(49)。5月18日、5通の電報が要回答書類箱に重ねられている時、海軍参謀長で、裕仁の弟の高松宮は、そうした電信について天皇および木戸内大臣と協議するため、皇居を訪れていた(50)。ただ、真珠湾攻撃を命じた後でもなく、また、先の条件付和平の提案を米国が見下した後に、その米国と直接に和平を結ぶことは、天皇にとっては考慮外のことであった。しかし、高松宮はその可能性を指摘しただけであったが、最終的には、裕仁は、その皇位を11歳の息子に譲って退位すべきであったし、取りざたされる責任やアメリカ人に降伏する屈辱を他の者にゆだねるべきであったろう。だが木戸は強くそれに反対した。退位は卑怯であったばかりでなく、一種の有罪の自認でもあった。それは、国民の眼前での天皇の権威の失墜であり、戦勝者に民主化をやりやすくすることを意味した。裕仁は木戸に同意であった。
 あるアメリカ側の和平工作員がその職から下ろされたとのうわさは、東京の官界における裕仁の信頼を地に落とした。また、皇族の長老である閑院宮が5月21日、つまり、上記の高松宮の皇居訪問の三日後に死んだ時、その死の原因が痔であることが、いっそう評判をおとすうわさ話の種ともなった(51)。ともあれ、その翌日、スイスの藤村中佐は、OSSの提案は「敵の策略がうかがえる事項を含んでおり、極めて用心した対処が望まれる」と警告を打電してきていた######


 次の一週間、沖縄では193名の神風特攻パイロットが自決攻撃をするなかで、海軍参謀の長官と副長官は、ダレスの仲介を拒絶するなら、それ以上の責任は負えないと申し出ていた。裕仁は5月25日、彼らの辞任を受理し、数日後、スイスからのさらなる電報を黙殺するに足る強硬派の長官らをその後任にすえた。
 5月25日のその辞任の夜、不用意な電文のやりとりは惨劇をもたらすこととなった。すなわち、病院や大学や皇居への爆撃を避ける実績をつんでいた米国の爆撃編隊は、その夜、皇居の南の区域を焼夷弾によって焼き払った。それは、計算された軍事行動の拡大であった。他の空襲は多くの生命を奪っていたが、この空襲は皇族たちを標的とし、天皇に示唆を与えるものであった。それは、政府の主要官庁と、日本のもっとも著名な家系が所有する91の屋敷を灰燼と化するものであった。七家系の皇族と無数の侍従たちは、燃えさかる家屋から逃げ出し、皇居前広場の避難民に合流しなければならなかった。
 空襲が終わって数時間後、外宮の儀礼殿から火の手があがった(53)。侍従たちは、その因果応報にいやみを込めて、1.6キロ先の陸・海軍省が燃えている時、古い戦時計画書類が空へと舞い上がり、燃えながら皇居の屋根に落ちてきたと苦情を表していた。五千人ほどの皇居守備隊と数百人の職員は、その夜、皇居内に陣取っていたが、火は瞬くうちに燃え広がった。急遽組織されたバケツリレー隊が、宮内省ビルに水をかけ、類焼から守った。しかし、壁を接して建つ、不死鳥の間、宴会場、王子住居、皇室の記録を保存する倉庫数棟など古い建物は、すべて灰となった。防火の全責任を負う消防士の何人かが、後に、近くで銃殺体となって発見された。その残り火も消えた時、裕仁は、吹上げ御苑のコンクリート図書館より、「私は、国民と苦難を共にできることを嬉しく思う」との声明を発表した。
 日本の裕福で有力な人々を戦争に巻き込もうとする米国の試みは、封建的地主階級を天皇に接近させる効果をもたらした。そしてもはや、アメリカ人は、それが必要なら、日本の身分社会そのものを転覆する用意ができていた。彼らは、天皇ひとりの退位が、戦争犯罪の適正な罪滅ぼしであるとは考えなかった。天皇ら選民たちは、生きるも死ぬも、いっしょでなければならなかった。だが天皇の主席助言者、木戸内大臣は、新たな支持者を得ていることを発見していた。彼による和平計画に巧みなごまかしがあることについて話した時、その含蓄に気付いた華族たちの目は輝き始めた。その火災から三日後、皇居の被害の責任をとって、軍事大臣が辞任をほのめかした際の裕仁の言葉は、許可をえて、広く公表された。すなわち、「わが国の存亡の危機がやってきているこの時、貴殿は必要とされており、どうかその地位に留まって下さい。」
 6月の最初の週は、木戸の和平計画の最初の段階が実施され、降伏の必要が公に決定されるよう、日本政府の高官たちが動員されていた。計画によれば、彼らの仕事は、一方では世界に向かい、他方では国内の政治的玄人たちという特別の観客に向かって演じる、腹芸の極致であった。6月7日、内閣は、最終的な決戦の前には首都を放棄しないことを決定した(54)。これは、長野の山岳部で、最後の戦いを行うとい構想を、裕仁が放棄したことを意味していた。つまり、日本は降伏を先行させ、最後の決戦はもはやないことを物語っていた。
 こうした含みのもとで、その翌日、閣僚と参謀本部将官は、宮内省において、正装のもとに、天皇列席の御前会議にのぞんだ。この会議への出席者には、事前に参謀本部が用意した一対の文書が手渡されていた。そのひとつは、「世界情況」を分析したもので、他は、「我国の国力の現状」を述べたものであった。そこには最も悲観的観測として、最も厳しい統計値や、戦況が「不吉な展開」をしており、戦争の継続は「克服しがたい困難」に面しているという、二つの研究報告もあげられていた。(55)
 天皇と他の参加者がその暗澹たる報告書に目を通した後、ひとつの声明が大声で読み上げられ、全会一致で採択された。それは、七千万人の、男女、子供が、最後まで戦うことを国民に呼びかけるものであった。そしてそれは、「戦争の遂行にあたり、今後追求されるべき根本的政策である」と謳っていた。さらに、決定された政策は、和平の追求のためのものでもあると、小さく表された別の暗示も記されていた。曰く、「敵もまた隠された困難に面しており、戦争を早期の終わらせる努力を懸命におこなっている・・・ 我々は、その神のもたらす機会をつかむ、あらゆる政治的、軍事的ステップを踏まねばならない」。言い換えれば、日本は、降伏の交渉にあたっては、米国とソ連の間の不信の拡大を必要としていた。降伏という明瞭な言葉を使うことはなくとも、会議のすべての参列者は、和平が要点であることを理解していた。後年になって、裕仁が侍従の一人に説明したように、「文章 X と呼んでもよい隠された条項は、この6月8日の御前会議の前に示された提案に含まれていた」(56)
 会議が散会するやいなや、木戸は和平計画を実行するための計画を草稿した。彼の考えは、さもないと日本は中国をソ連に渡してしまうという恐れから、米国は隠された条項を認める可能性がある、というものであった。したがって、彼は、日本はまず、二つの項目をめぐって、ソ連との接触を始めるべきであると提案していた。つまり二つの項目とは、ソ連にわいろを送って中立国にとどめ、そして、仲介者としてのソ連が日本のために和平協定に入れようと望むであろう条項、であった。木戸はまた、天皇制の維持と、誇りに傷つくことなく面子を維持して和平をえるという、二つの条件を日本は固持するように求めていた。
 翌日の6月9日、裕仁は木戸の計画を承認し、東郷外務大臣#######は、ただちに東京のソ連大使館と交渉を強く進めることを約束した。裕仁は東郷に、「必要以上に慎重にならないよう」と促した。東郷の使節のひとりは、ソ連大使のマリクと、一週間にわたり接触を取った。二人の男の遣り取りは共にお茶を飲むといった段階を越えはしなかったが、日本の地方ではロシア人の性格についての理解が不足している、との程度の話を交換するまでには至っていた。(57)


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