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敗戦
(その2)


米国の上陸

 河辺大将がマニラから東京へ帰任してからの5日間、雨が宮中御殿の屋根を打ち、吹上庭園の木々に降り注いだ。その毎日の午後遅く、裕仁は歩いて皇居神社にもうで、滴したたる軒下にたたずみ、来るべき試練に思いをはせていた。神殿は靄にかすみ、光沢のある白石を敷きつめた境内は、これまでにはなく、身にしみるように、どこまでも静まりかえっていた。裕仁の憂慮は彼一人だけのものではなく、東洋の全地域にあって、不安に打ちひしがれた人々のものでもあった。厚木特攻隊基地では、占領軍を迎える準備を進めていたある将校は部下に、征服者の行動に対する攻撃を加える以前に、自決することを訴えた(36)。はるか南のマニラでは、ひとりの米兵が、銃を掃除しながらつぶやいていた。「人ってのは、お湯の蛇口のようには、開けたり閉めたりできないからな」。彼は、先遣隊として日本に――武装解除を待つ250万の狂信的日本兵の敵陣の真っただ中に――行く、数百人の米軍部隊の一人だった。
 8月27日、天候は回復し、予定の日程からは丸一日早く、ひとりの向こう見ずなアメリカ人が空母ヨークタウンを飛び立ち、日本の地上部隊を驚かせつつ、無許可で厚木基地に着陸した(37)。マッカーサー将軍が予想していたように、彼は丁重に扱われた。ちなみに、彼は「アメリカ陸軍歓迎、第三艦隊より」と書かれた看板を建てる助けをえた。だが、その地上部隊は、彼が離陸すると直ちに、翌日に予定されている本気の占領軍に無礼とならぬよう、その看板を取り去ってしまった。
 翌朝夜明け、45機のC-47輸送機が鎌倉の大仏の頭上を列をなして通過し、次々と厚木基地に着陸した。いざという場合に備えて追い風を受けて飛来した事情から、到着機は日本人が予想していなかった側の滑走路端に停止した。受入れ班がトラックを発進させ、空港を反対側まで急ぐ間に、アメリカ側は、カービン銃を構えて、機から降り立っていた。双方緊張のうちに挨拶が交わされ、滑走路の反対側に用意された歓迎式典の場まで、一行は長々と歩かねばならなかった。会場には、絞りたてのオレンジジュースの入った水差しが用意されていた。その飲み物はアメリカ人の好物と言われているものだったのだが、日本側がそれを最初に飲み始めるまで、アメリカ側は口にする様子はなかった。そうした緊張しきった雰囲気のさ中、日本の司令官は、その目的で東京より急きょ連れて来ていたロシア大使海軍武官を紹介した。期待されていた通りに、その白人はくつろいだ風で、こちこちのアメリカ人に体裁の悪い思いをさせた。間もなく、日米双方の将官たちは煙草を交わし合い、うち解け始めた。米国海軍の一グループは、近くの捕虜収容所に向かうべく、日本の車に乗り込んで出発した。日本側からは、白いクロスをかけたテーブルに、フルーツとワインまで用意された昼食が提供された。
 昼食の後、アメリカ軍司令官、チャールス・テンチ大佐は、盲腸炎で苦しんでいるひとりのアメリカ兵捕虜の件を取り上げた。日本側は、彼は定期的に付き添う外科医のもとにある、と説明したが、今やアメリカの管轄下にあるので、自国人の世話、あるいは、盲腸の手術をする医師を望んでいるのではないか、と付け加えた。テンチ大佐は、この件を扱っている日本人外科医を十分信頼していると回答した。彼は、この捕虜が収容されている、横浜の北、品川の収容所の病院について、その評判を何も知らなかった。その病院は、アメリカ人監視者が検査のために送られ、あるいは、盲腸炎手術が行われるとすれば、そこであるはずの模範病棟をもっていた。しかし、この病院のその他の施設は、シラミと排泄物の恐怖の病棟だった。後に、そこの担当医は、人間を虐待する意味のない実験を行った罪で絞首刑となった。健康な人が、死ぬまでその血漿を抜き取られた。病人は、不可解な注射で死に至らされた。その担当医は、豆乳や尿を動脈注射した。彼は、赤痢の患者の胆汁を結核患者に、マラリア患者の血清を脚気の患者に投与した。その日の夜遅く、その厚木の日本人司令官は、テンチ大佐のもとに、立腹してやってきた。というのは、ハロルド・スタッセン――後の大統領候補――に率いられた米国海軍部隊が、品川病院を急襲し、その盲腸炎患者を停泊中のアメリカの病院船に連れ去ったからであった。(38)
 このアメリカ側の行動の早さに、日本側はびっくりした。最初の4日間に、ぼろを着、痩せ衰え、意識もおぼつかない五千人の捕虜が、東京および横浜地域にある収容所から沖泊まりしている連合軍の艦船に避難させられた(39)。また、厚木と横浜の間15マイル
〔約24km〕に、油送パイプラインが新たに敷設され、一週間で稼働を始めた。8月29日は終日、米軍C-54輸送機が二分ごとに厚木基地に着陸し、日没までに、第11空挺部隊のすべてを移送し終えた(40 )。日本の航空隊員たちは、みじめな驚きとともに、ただたたずんでそれを見ているのみだった。その日の午後には、第4海兵連隊が横浜に上陸した。その隊員の一人はそれを、「どの海軍将官もマッカーサーより先んじて上陸しようとしている」(41)シーンだと描写している。
 二日目には、マッカーサー自身が部下将官と記者団を伴って到着した。後にウィンストン・チャーチルは、「本戦争の輝かしい功業と勇気のうち、マッカーサー自身の厚木への降り立ちこそ、最も偉大な業績と認める」(42)と書いている。マッカーサーは、コーンパイプを口に飛行機より降り立ち、同僚のロバート・アイケルバーガー将軍と抱き合い、そして、「これで借りを返したな、ボブ
〔ロバートの愛称〕」と話しかけた。彼は、日本側が用意したボロボロのリンカーンに乗り込み、15マイル離れた横浜に向かった。およそ40台の、そのほとんどが木炭車がそれにつらなっていた。列の先頭で、動いたと思うと止まってしまう、赤い火をふくエンジンが動き始めた。盛装した日本人将官は、アメリカ人の苦情に目を伏せ、これらが日本に残されている最上の車であると、恐縮して応答していた。(43)
 その15マイルの全ルートには、武装した日本兵が道路を背にして立ち、どちらの道端にも不詳事の気配がないかを見張っていた。こうした護衛は、通常、天皇のみに行われていたことであった。マッカーサーはそれに大いに満足し、その2時間にわたる車列の滑稽劇を楽しんでもいた。そればかりか、彼は、それ以降の日本での5年間、自分にボディーガードを付けないままで過ごし、彼と同行したり同乗する将官にも、武器を携帯することを禁じた。彼はこうして、たとえ石のひとつも投げつけられることなく過ごし、日本人は彼にとって信頼に値する人々となった。
 その夜、横浜の臨海公園にあるエドワード時代調のニュー・グランド・ホテルで、支配人はマッカーサーとその部下に、最上のステーキの晩餐を用意した。だが、支配人は、翌朝の朝食用の卵は約束できなかった。そこでマッカーサーの将官の一人は、卵探しの一団を送りだした。ボルチモアほどの大きさの横浜は完璧な廃墟と化しており、文字通り、わずか一個の卵を発見できただけだった。マッカーサーは、人々の窮状に大きく胸を打たれ、すべての米国関係者は完全に自給食で生活するように命じ、彼の物資配給所には、横浜市役所にトラック21台分の食糧を寄付させた。(44)
 マッカーサーと共に上陸したアメリカの従軍記者は、公共交通機関を使って陸路移動し、東京に陣を構えた。汽車や路面電車内で、彼らは好奇心をもって迎えられ、人々は落ち着いた丁寧さをもって、彼らのために席を空けた。厚木で彼らを出迎え、注意を与えた同盟の日本人記者は、東京に戻ると、彼らは彼のオフィスで彼のタイプライターを使っていた。AP通信のラッセル・ブラインズは、フランク・ロイド・ライトによって1920年代初頭に設計されたアズテック風の帝国ホテルへと直行した。涼しい洞窟のような火成岩のロビーで、ホテルの支配人は、あたかも待っていたかのように彼を迎えた。「お目にかかれて光栄です。お部屋をお探しですか」と、彼は尋ねた。(45)


                     
序曲

 8月28日の午後、警察が東京に到着した占領軍の行動について最初に報告した際、それは宮中にもなされた(46)。裕仁はそれに印象を深くし、東久邇宮を呼んだ。その謁見の後、東久邇は先の軍貯蔵物資放出の命令を撤回し、誤って分配された物資を買い戻すよう発令した。アメリカ軍兵士の振る舞いは模範的だった。8月31日、横浜方面におよそ5万名の占領軍がいた際、それに対する苦情がわずか216件、そのうち167件について、法律におよぶ問題として警察に申告されていた。残る49件のほとんどは、盗みの容疑だった。占領開始から9日たった9月5日、日本の警察の報告による米兵の犯罪率は、一日平均2件まで下がり、それまでの累計のうち、1件の殺人と、6件の「完全および不完全強姦」事件があったのみだった(47)
 米軍上陸の前の5日にわたる悪天候の際、裕仁は、降りかかってこようとしている様々な運命について、思いをはせていた。彼は、自ら絞首刑になることも覚悟していた。殉死は、彼の息子への国民の忠義を強めるかもしれなかった。権力の剥奪や、立憲君主となることも恐れていなかった。皇位が継承されている限り、後継者が地位を取り戻す機会はあった。彼を最も悩ませたことは、国民の目の前で、連合軍が組織的に彼に不名誉を強いる可能性であった。もし、連合軍がその復讐行為を統率するよう彼に強要するならば――賠償金や戦争犯罪裁判――、国民の幻滅は避けられないだろう。連合軍は政府の民主主義化を行うだろう。彼らは、日本的なすべてのことを捨てさせ、完璧にアメリカ化させるだろう。(48)
 裕仁は常に、日本国内にかもしだされる国民感情が危険にさらされることを避けてきた。彼は、アングロ・アメリカ的な政府は、日本社会が受け入れるには余りに個人主義的であると考えてきた。民主主義制度においては、個々の有権者は、自分自身の完璧な黒白の判断を必要とする。しかし、日本には、そうした前提条件は存在していなかった。投票から殺人まで、その判断の黒白は、家族、氏族、国家の利害のもとで考えられてきていた。日本人がある行動をとるにあたっての最高の基準は「大義名分」――大きな正しさの中の個人の分担――であった。また、日本人にとって、考えられる最大の正しさとは、封建的な忠義――身分階級のより高い地位の人への忠誠――そのものである。裕仁の統治の初期において、彼は、責任や地位を与える際、いずれの人についても、「大義名分」が意味する氏族や家族の正しさよりも、国家のそれに果たす効果を重視してきた。普遍的基準体系に照らすことによって、個人的観点を集団的規律に優先させる考えは、裕仁にとって、西洋的な偽善であった。個人主義は、ただ、苦難と悪弊をともなう政府をもたらすのみと、彼は考えたのであった。#
 厚木のアメリカ人の行動についての先の報告は、マッカーサーが日本の征服を好意をもって実行しようとしていることは明らかだった。近衛宮は裕仁に、油断するなと忠告した。天皇は、交渉と妥協にあまり経験を持っていなかった時でも、最終的な決定権力は持っていた。だが今や、彼はマッカーサーの操り人形として、権力もなく、ただ、駆け引きのみが可能であった。マッカーサーは、自分の許可の基準を、アメリカ式「改革」計画に委ねようとしていた。それは、一部、裕仁の信用を高めもしたが、その多くは、彼の権威を弱め、あるいは、その人望を崩す役割も果たそうとしていた。近衛は、最も無難な道は、退位することだと裕仁に勧めた。誰も、彼の11歳の息子がアメリカ人に操られた責任をまっとうできるとは思わず、そして、そのうちには、アメリカ人は引き揚げるだろう、というものだった。(49) 
 裕仁は、近衛の退位せよとの助言を採用し、それから数週間、繰り返し、そうすると――ほとんど脅迫するように――表明した。もし自身がマッカーサーの操り人形であるべきならば、その道程のあらゆる段階で、彼が、いかなる自身の勝手な動機には基づかず、国家の運命のために、そうした強制された行動を引受けていることを、明らかにしようと望んだ。厚木からの報告を受けて一夜を過ごした8月29日、特別顧問である木戸を吹上庭園にある皇室図書館に呼んでこう言った。「戦争の責任を負う人たちを捕え、連合軍に引き渡すのは、自分としては耐えがたいことだ。もし、それが翻訳上、うまく伝えられないなら、一人の責任ある者として、退位して事を終わらせたい。」(50)
 「貴方の貴重な心情は、最高位の信頼を獲得するものです」と木戸は応え、こう続けた。「しかし、現在の連合軍の態度や前提からあえて断言すれば、そうした事について確かな合意を獲得するのは困難でしょう。また、外国の考え方は、我々のものと同じであることもめったになく、退位の宣言は皇位の基盤を揺るがすことになると受け止められるでしょう。その結果は、国家構造の民主的改造で、つまりは、共和制です。我々は、その種の議論が起こってくることに用心しなければなりません。陛下にとって最も重要なことは、おだやかに学研的な外貌を装うことにより、あらゆる相応な慎重さをもって、相手側の動きを見守ることです。」(51)
 裕仁は、何も言うことなくただうなずき、そして翌日、叔父の東久邇宮は、首相として、横浜のニュー・グランド・ホテルのマッカーサー将軍に、儀礼にのっとり面会をもとめた。その会見は純粋に形式的なものだったが、マッカーサーは、もし日本が前進的な指導性の兆候を見せるなら、アメリカ本国における日本支配層への評判は大きく改善されるであろうとの見解を表した。それはたとえば、日本国憲法の改正を意味していた。(52)
 裕仁は、憲法を神聖な文書と考えていた。何年にもわたり、彼は思いのままにそれを用い、解釈してきたが、それを改正しようとは考えたこともなかった。その憲法は、彼の神格化された明治天皇によって発布されたもので、かってローマの元老院がネロやシーザー・アウグストゥス皇帝に与えたものより、もっと絶対的な力をその皇位に与えていた。それは、こまごまとした押し付けられた義務と、授与された巧妙な制限付きの権利を列挙していた――「法の制限内の」表現の自由、「秩序に害せず、臣民の義務に反しない」信教の自由。そしてその総体的な傾向は、たとえば、請願における絶妙な日本的条項に実例が見られた――「日本臣民は、望ましい形の敬意が認められ、そのために特別に用意された規定に従うことにより、請願することが許される」。
 裕仁に憲法改正の意志がないのははっきりしていたので、彼の家臣たちはアメリカの改革派を買収しようと、いろいろと鼻薬を探し始めた。マッカーサーは、彼自身、厳密な考えを堅持し、東久邇宮の申し出に応えようともしなかった。彼の部下の中には、裕仁に謁見し、何が彼に求められているか話してみてはどうかと提案するものもあった。しかし、マッカーサーは、天皇は適切な時期に自らの進展をすすめるだろうと、部下たちをさとした。(53)  その一方、すべきことは山積していた。毎日、一万人を上回るアメリカ人が来日し、記録や武器の隠し場所を探すために、チョコレートをやっては、子供たちを手なずけていた。(54)
 日米双方の指導者たちは、9月2日、東京湾の戦艦ミズリー上で行われる降伏式典の準備を進めていた。連合軍は、日本軍の捕虜収容所から解放されたばかりのジョナサン・ウェインライト将軍とアーサー・パーシバル将軍、そして、アメリカや英国人将校を送り込んできていた。両将軍は骨と皮同然に痩せこけていた。両者ともに、ウェインライトはフィリピンで、パーシバルはマレーで、共に敗者として、降伏テーブルに着いた者たちだった。両人に会う任務は余りに屈辱的なので、それを引き受ける日本側の相当階級者を見つけるのは困難だった(55)。裕仁は裕仁で、皇室には降伏文書に署名する者が誰も居ないのではないかと疑問を持ち始め、自分の問題をかかえていた。陸軍将官の何人かは、式典に参加するくらいなら自決すると告げて、先例に従っていた。梅津参謀長は、ついに日本海軍を代表することは認めたものの、裕仁は、署名締結の日の午前1時まで、降伏文書の文面に自分の許可を与えなかった。(56)
 その日、天気は晴れわたり、50マイル
〔80km〕を隔てた富士山も姿を見せていた。陽光は、アメリカ水兵の白いユニフォームにまぶしく映えていた。東京湾は連合国の軍艦であふれ、かって見たことのない巨大な無敵艦隊をなしていた。マッカーサーは式辞を述べ、五本のペンを用いて降伏文書に署名した。日本の署名者達は、まるで機械人形のようにぎこちなく歩き、そして挨拶した。彼らは用意されたランチにそそくさと乗り込み、岸部へと向かい、上陸後、ただちに皇居に行き、天皇に報告した。翌朝、裕仁と側近は、皇居神社におもむき、先祖と天照大神に戦争の終了を告げた。(57)
 9月3日の午後、マッカーサーが日本に対して行う積もりであることが何であるのかをめぐり、熱気を帯びた交渉が開始された。重光外務大臣は、横浜のニュー・グランド・ホテルにマッカーサーを尋ね、最後の日本の兵器工場が閉鎖されたことを告げた。マッカーサーは、それは喜ばしいことだ、と応えた。そしてさらに、もし日本政府が継続して占領軍政策に積極的に協力するのであれば、ゆくゆく、地方政府までアメリカ軍人がなり代わらないですむかもしれない、と述べた。それこそがマッカーサーのねらいだったのだが、そこに込められた威嚇は有効に働き、同外務大臣は感謝の念を表明した。マッカーサーはそれに続いて、もし日本政府が戦争犯罪人検挙と憲法改正に協力するのであれば、天皇制度を存続させることも可能となりえると示唆し、その圧力をいっそう強めたのだった。(58)
 その夜、重光外務大臣は皇居におもむき、マッカーサーの言葉を伝えた。裕仁はそれを聞いたが、それについての記録された言葉はなく、翌日の国会の臨時議会での公開演説において、裕仁は、日本は確かな理解をもって無条件降伏を受諾したところであると、マッカーサーに遠回しな留意を送った。いんぎんに「敗戦」との言葉は避け、「敵対関係の終了」と置き換えつつ、裕仁は国民に、もしポツダム宣言の条項を平和的に守るのであれば、日本は再興と「国体」すなわち天皇制度の維持が可能である、と語りかけた。翌9月5日の朝、重光外相は、横浜でマッカーサーとの交渉を開始し、天皇の表明には裏表がある、と微妙な指摘を行った。つまり、もし日本国民は国体の維持が許されない場合、ポツダム宣言を平和的に守ることが出来ないかもしれない。マッカーサーは穏やかにその指摘を無視し、再度、重光を空手のまま引き返えらさせた。(59)
 9月6日、近衛宮は京都――古代の日本の首都――へゆき、裕仁が退位を決心した場合に備えて、ふさわしい引退の場を用意しようとした(60)。ペリー来日以前の古い日本では、退位は、よくある皇室の策略だった。そうした場合、天皇は宗教的影響は駆使するものの動きは乏しく、その政治的、軍事的権威は将軍に委ねられていた。しかし、もし将軍が皇室の意志に沿わないような場合、天皇は自分の子のひとりを皇位に残し、自らは、京都の権威をほこる仏教寺院の法王あるいは摂政となって身を引くことがよく見られた。こうして、彼は皇位を引き続き支配しつつ、すべての公式な任務や責任から自由となった身で、将軍をおびやかす政略、陰謀に終始専念した。
 9月7日、近衛宮は、そうした構想を念頭におきつつ、前夜を楽しんだ由緒ある宿を後にして、祇園――京都の歓楽街で、千年にわたって継承されてきた男を楽しませる芸術の宝庫――の華やいだ小路を通って、車で西に向かった。その京都西北地区の緑濃い道の終点で車を降り、彼は禅寺、仁和寺の白砂の庭園へと足を進めた。僧長に案内されて、松と杉の庭を通ってやや登り、御室御所に至った。近衛は、一方に京都の町並み、他方に小さな渓谷を見渡すその景観に目を見張った。そこは、裕仁が老後を過ごすには理想的な場所であった。近衛は、改修と模様替えの指示を与え、市内に引き返して、母親の墓参をした。
 近衛が京都へと出かけている間、マッカーサーは儀式的な上京を行った。9月6日、彼の報道係官のひとりは、「占領が報道陣によって先導されるのは、アメリカ軍の方針ではない」ので、首都から立ち退くようにアメリカ人記者に要請した。9月7日、すべての日本軍部隊は北方へと撤収し、皇居を警護するため、一師団の近衛兵が、目立たないように、平服で配置された。翌朝、マッカーサーは横浜を出発した。彼は日本政府に、警備は不要と伝えていた。しかし、その途上、彼の車が立ち往生した際には、どこからともなく一群の警察官と平服の男たちが出現し、代わりの車が最後尾から持ってこられるまで、一行を助けるかのごとくたたずんでいた。そうこうして、マッカーサーは戦禍による廃墟と化した地域をぬけ、東京の市境へと至った。そこには、米軍第一機甲師団のベテラン戦士たちが待ち受け、パレードのために整列していた。命令の声ひとつで、彼らは敵国の首都へと前進し、将来のマッカーサーの拠点となるアメリカ大使館への道を先導した。夕闇が迫るまでには、彼らは石垣の城壁で囲まれた裕仁の皇居をめぐる全要所を固めた。日本帝国の中枢はかくして確保された。(61) 二日後の9月10日、木戸内大臣は皇居にいない方が安全と感じ、この一月間で初めて、自らの居宅で眠った。

 
つづき
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