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マニラへの特使(22)


 死の崇拝者が死にたえ、生の施策が熱望されるようになっても、日本は、占領軍とのコミュニケーション手段を無線以外には持っていなかった。こようとしていた侵入者は顔を見せず、その忌々しい計画の司令や指示を、モールス信号を通して与えてきていた。
 天皇が降伏を放送し、マニラからのマッカーサーの命令に服するようになってから四日後の8月19日、陸軍の副参謀の河辺虎四郎は、日本軍爆撃機で沖縄に飛び、さらに米軍爆撃機でマニラ南西のニコラス飛行場へと飛んだ。12時間の飛行の後、彼とその随行員は、くすんだオリーブ色のアメリカ軍人の、あるいは、握手のために差し出した手を意図的に無視する者たちの、あるいは、日本の代表の困った表情に表れる恥のたじろぎとしこりの一切を記録に収めようとする休みないカメラの放列の、そして警察官の列の背後に立ち、日本軍兵士から過去数年間に受けた恨みを投げつけるフィリピン人群衆の、そうした人々の海の中へと降り立った。市内へと向かう車は、スペイン時代の城壁の一画を通過したのだが、そこは、ほんの数ヶ月前、日本帝国海軍陸戦隊の自殺的な若い日本人エリートによって、荒らされ、略奪され、強姦され、虐殺された場所であった。車が到着したのは、マニラ湾を見下ろすロザリオ・アパートメントだった。その宿泊所は快適だったがやはり歓待はなく、というのは、そこは、日本の陸戦隊員の一団と人質として捕えられたフィリピン女性が最後の数時間を過ごした場所であった。
 アメリカ式の夕食が、冷やかな几帳面さをもって提供された後、日本代表は、半壊したマニラ市庁舎にあるマッカーサー司令部で、夜を徹した8時間におよぶ会議にのぞんだ。マッカーサーは、彼の首席参謀であるリチャード・サザーランド将軍に代理させていた。河辺とその随行員はその夜、東洋での日本軍の配置の地図やリストを、その一項目ごとに、サザーランドに引き継いだ。そして彼は日本側に、日本におけるアメリカ軍の配備とそれを受諾するようにとのマッカーサーの司令を伝えた。アメリカの最初の輸送機が数機、厚木飛行場に着陸するのは、それからわずか8時間後の8月23日とされていた。
 「日本としては、上陸がそれほど即座にではないように助言したい。その準備には、少なくとも十日を必要とする」、と河辺将軍は時間的余裕を請うた。河辺は、厚木の特攻隊員の気持ちの休まらなさに思いをめぐらせていた。彼はそれに触れなかったが、厚木基地は穴だらけで、それを安全に使用するには、総力をあげた復興工事も必要だった。
 サザーランド将軍は、五日間の延期を認め、さらに、横浜のニュー・グランド・ホテルを、マッカーサーが占有できるよう完備すること、および、随行員の移動用に、整備の整った50台の車を求めた。河辺は、出来るだけのことをすることに同意したが、一週間の準備では十分ではないことを警告してその会議を終えた。「貴殿は勝者である。従って、貴殿の決定は絶対だ。しかし、我々の考え方では、何がしかの心配が残されてはいる」、と河辺は言った。
 ロザリオ・アパートメントに戻った日本の代表団は、太陽が上がってくるのを見つめ、アメリカ側の要求の幾つかを読み上げた。アメリカの将官クラスには各三人、佐官クラスには各二人、尉官クラスには各一人のメードを付けること――アメリカ人は中国人を扱っているつもりであったのか? 加えて、ワシントンが準備した天皇の名によって発せられる声明があった。日本語によるその声明では、天皇は、自分を「私」と呼んでいた。しかし、天皇が自分を呼ぶ時、古い中国皇帝の呼び名である「朕」――天と話す月を意味する――が用いられていることは、誰もが知っていた。河辺は就寝する前に、ロザリオ・アパートメントのアメリカ人警備係に、こうした詳細な事々が不満であることを知らせた。四時間後に彼が目を覚ますまでに、連合軍の翻訳者は、東京への一連の指示を用意し、そこには、無礼な呼称や使用人の要求は消されていた。
 河辺は午後一時、自らの使命の成功に大いに満足しながら、その地を発った。数時間後、彼の搭乗するベティー型爆撃機が日本へと向かっている時、パイプに燃料漏れが発生した。同機の操縦士は、飛行コースを日本の海岸線に沿うように変更した。ほぼ真夜中ごろ、彼は、同機の燃料の最後の一滴まで使い果たし、その厄介者を、本州中央部の海岸からほんの数メートルに非常着水させた。衝撃を受けながらも代表団メンバーは、何とか浜にたどりつき、月光の中の富士山――「幸運な武士の山」と呼ばれる日本の象徴の火山――を見つめている自分たちを発見していた。東京までにはまだ数百キロの距離があり、代表団が村人を起こし、一台のトラックを用意させ、凸凹の道路をへてなんとか首都までたどりついたのは、その日の昼前であった。
 河辺大将は直ちに首相官邸に報告し、東久邇宮は車で彼を皇居へと連れて行った。天皇裕仁は、午後1時15分に彼と謁見し、河辺の精力を使い果たす苦渋の体験の全報告を聞いた。その報告は、「全般的に、敵の態度は予想外に良好」、との確認をもって終わった。翌日、天皇の弟、高松宮の友人であるすご腕の労務者手配師は、アメリカ軍の着陸に備えて、厚木特攻隊基地を修復するよう、トラック業者と建設業者を手配した。かくして、狼人間への準備はおおむね放棄された。だが、近々のアメリカ軍の到着の新日程に合わせて、文書類の破棄と娘たちへの教示は熱心に推進された。(23)
 その週、マニラのマッカーサー司令部でも、ワシントンの国務省でも、明かりは夜遅くまで点灯されていた。この戦争の間を通し、米国外務政策の専門家たちは、日本との戦争に関して定まった考えを持っていなかった。ルーズベルトの側近においては、日本は道具と見なされ、太平洋は副次的な戦域にすぎなかった。その結果、日本が罰せられるべき厳しさの度合いについても、厳密に決定されたことはなかった。日本は、欧州の同盟国に野蛮な方法を表した国であり、ドイツのように単に病的であるのではなく、本質的に略奪を目的とする国であると言う者もあった。そうであるがゆえに、それはほとんど理解されていない社会であり、野蛮かつ未開文化の遺物であり、孤立して発展した国であるからこそ、ペリー提督とアメリカによって、近代社会への参加を強いられている国であった。(24)
 日本は、太平洋を征服するにおいて、ルーズベルトの最悪の想定を越えるまでも成功したのであり、その道を引き返すにあたっても、それは長い道のりとなる。だが、アメリカ政府は最初から、この戦争には勝利することを知っており、そのために何をするかを議論してきた。すなわち、オーストラリアが主張するように、日本は農業国へと縮小されるべきか。あるいは、日本社会は、ニューディール派学識者達が求めるように、底辺から徹底的に再教育されることにより作り直されるべきか。あるいは、長い日本通の多くが主張するように、非軍国化され穏和化された日本が自身を倫理的に再構築することを信じるべきか。それとも、かっての同盟国イギリスが求めるように、単に、日本の植民地を取り去った上、日本の港に調査団を配置するのみでよいのか。
 こうした考えはいずれも、相応の犠牲と倫理的献身を必要としていた。日本を農業国にするには、軍による徹底した平和化運動を展開しなければならず、その後も、数年間にわたる抑圧的駐留を続ける必要があっただろう。それに、農業だけに頼って暮らしてゆくことができるようになるまでには、その人口は幾度にもわたり激減されなければなるまい。日本社会を西洋風に作り変えるにしても、それは人道的にはより高度な目標というべきであったろうが、それにも、数十年にわたる占領継続が欠かせなかったろう。日本が、学んだ教訓を生かし、自らを改めることはありえたとしても、過去の経験からして、それを望むのは無謀なことであったかもしれない。単に、日本を厳しく罰し、卑屈な貧困と戦うよう仕向けたとしても、それもやはり近視眼的なことであったかもしれない。
 だが、いずれかの選択肢を賢明に選ぼうとしても、相手側からの情報が入手できないかぎり、それは事実上不可能なことだった。日本の政府は、箱の中の箱にいれられており、閉鎖的かつ秘密な組織の中の閉ざされた機関であった。日本の侵略的政策がどのようにして、誰によって決定されたのか、誰も知らなかった。天皇は、儀式上の超実在とされていた。国会の力は、予算上のものに限られ、内閣は頻繁に変えられていた。F.D.ルーズベルト大統領の時代
〔1933-1945〕、日本の首相は11人にもわたって交代した。日本の「怪物」を支配したと考えられる「大本営」の軍国主義的官僚も、一人の人間が二年以上も同一の地位に留まるのが珍しいほどに、頻繁に交代した。しかし、日本の侵略的政策が一貫性をもって展開されるには、幾人かの人あるいはその集団によってまさしく舵取られていたにちがいない。にも拘わらず、日本を訪れたことのある人は誰もが、日本人を、優しく、思いやりがあり、法を守る人々といい、その国内政治は、世界のどの国より、秩序にとみ、効率が良いと考えていたのだった。
 こうした謎に、日本を研究する西洋人学者や、日本に住んだことのある日本通の人々の誰もが、何らの光明を与えることができなかった。彼らの内のほんの数人が日本語に堪能であるのみで、その他の人々は、誰もが合い通じている白人居住区を除き、日本の何事に関しても権威をもって語ることができなかった。日本の慣習をより詳しく研究してきた語学者は、西洋の規範にうまく当てはまらない日本社会を描写してきた。憲兵と並んで騎馬する勲爵士たち。封建的忠義の上に築かれ、封建領土のように運営される巨大な産業複合体。ブッヘンヴァルト
〔虐待で有名なナチの強制収容所〕やディアフィールドの虐殺〔1704年開拓途上のアメリカ大陸でフランス軍が英国の植民者を殺した〕と並び称されるべきかどうかは明らかではない南京のような惨事。日本は、高度に産業化されたファシスト国家という衣をまとって、不吉な二十世紀を体現させてきたが、マッカーサーに言わせれば、「神話の本から抜け出てきた何か」(25)ということにつきた。
 日本の謎を扱う数々の試みのなかで、寛容な英国案や報復的なオーストラリア案は、政府がとった行為の責任はあたかも日本国民全体にあるとでも扱うことにおいて、いずれも共通していた。だが、そうした見方は、理想主義的なアメリカ人の考えにも、また、明らかになった事実にそくしても、受け入れられはしなかった。アメリカの見方は、日本社会の何らかの要素が日本国民を間違った方向に導いたがゆえのもので、それは癌細胞のように切除可能なものであった。アメリカ国務省のディーン・アチソンやアーチボールド・マックリースに率いられたニューディール派学識者は、体制の総体――帝国上部指導層における、あるいは政府官僚や警察組織における、あるいは兵卒や将校における、あるいは封建的商家や近代的財閥の持主における、そうした世襲的身分階級構造――を転覆させるには、変革と民主化が唯一の道であると信じた。日本に住んだことのある元外交官や事業家たちによる、学識ではやや劣りながらも寛容な人々は、前大使のグリューと同盟を結んだ。彼らの主張は説得力あるもので、日本の支配階級こそ、自国をどのように治めるかを知っており、また、外交関係の経験を持っている、唯一の日本人たちであると説いた。また、その主張によれば、もし改革が必要とされるなら、それは再興の礎石となるものでなければならず、さもなくば、日本は無政府状態に至り、米国は日本を、自国の属領として永遠に統治せざるをならなくなるだろう、と言うものであった。
 こうした議論は最終的には、支配階級を統率する天皇をどう扱うのかという議論の中核をめぐって、諸論に分れた。あるものは戦争犯罪人として裁判にかけられるべきだとし、あるものは退位すべきだとし、あるものは立憲君主として統治を続けるべきだとした。裕仁についての信頼すべき情報の欠如のもとで、論争は加熱空転した。ニューヨークタイムスの最後の日本特派員の二人は、同紙の翻訳や特報の資料を用いて、この問いに互いに対立する角度から各々の本を書いた。ヒュー・ビアス記者は天皇を活用しようとし、オットー・トリシャス記者は逆であった。論争は、問題が論理的に解決不可能であるがゆえに、終わりがなかった。日本はその神のごとき天皇を破棄しなければ再建ができないのか? それとも、日本はその天皇の協力なくしては再建が不可能なのか? この二つの問いかけへの答えは、いずれへもの「ノー」であった。ルーズベルトも同じ考えで、戦争の初期より、最適の道は天皇を人質としてとらえておくことだと決めていた。巧妙にさえ取扱えば、天皇は変革を支援しえたし、そして同時に、自らの特権と権力の基盤を弱めることにもなりえた。すでに1942年の時点で、戦争情報局(OWI)と戦略役務局(OSS)は、政治家、ジャーナリスト、そして両局の職員を通じ、アメリカの風刺漫画家は白馬に乗った裕仁よりメガネ着用の東条将軍を題材にすべきである、との見方を広めはじめていた。
 1945年8月、トルーマン大統領は、天皇を扱うルーズベルトの政策の実行を、ダグラス・マッカーサー元帥に委任する賢明な判断を下した。元帥の連絡文書がその判断をまとめるに役立ったからであった。マッカーサーは、アメリカ国内では反対派を抑えた実績を、東洋においては変化する環境に適合し柔軟性をもった政策を実施した体験をもっていた。日本の降伏文書を受け取った8月14日、トルーマンはマッカーサーを日本占領軍最高司令官に命じた。それ以降、トルーマンはマッカーサーを、アメリカ史で他に例をみない、独奏の巨匠かのごとくに支援した。その5年間、マッカーサーは日本において絶対的権力をもち、他の連合軍政府からの提言をことごとく無視したため、トルーマンは彼を召還したこともあるほどだった(26)。スシキオ・アフリカヌス
〔紀元前2世紀のローマの将軍〕の時代でも、植民地総督がそれほどの権力をもつのは珍しかった。およそ八千万の日本人に、マッカーサーほど名を轟かせた者はいなかった。
 マッカーサーは、1904年、父親のアーサー・マッカーサー将軍がスペイン・アメリカ戦争の後、フィリピンの平定を任務とした時以来、日本に出入りしてきた。マッカーサーは輝かしい経歴の持ち主で、ウエストポイント士官学校で首席の成績をおさめ、米国史上最年少の師団長および幕僚長官となった。1937年、合衆国陸軍を退役し、フィリピン陸軍元帥となった。1941年のフィリピン防衛の際、親友でありかつ政敵であるF.D.ルーズベルトによって現役に呼び戻された。第二次世界大戦中、敗北も勝利も経験しながら、マッカーサーは、太平洋地域においてアメリカ陸軍を司令してきた。(27)
 1945年8月14日、日本の軍事統治への任命を聞くやいなや、マッカーサーは、マニラの部下や諜報部員に、占領の兵站を精査し、さらに、天皇を手なずけ活用するための構想と最適方法を提出するよう指示した。マッカーサーの諜報部長チャールス・A・ウィロビーは、補佐役と協議し、天皇は丁重にかつ時間をかけて活用されるべきだとし、裕仁は「リベラルな助言者」で包囲され、「日本の再生」の「シンボル」と感じさせるようにすべきであると助言した(28)。マッカーサー自身は、この問題には十分時間をかけて考えてきており、何が必要か、うがった見解をもっていた。彼は自らをフィリピン救済にあたる東洋専門家とは考えていなかった。彼は、近代日本史の詳細をほとんど知らず、それを欲しようともしなかった。彼は、過去のことは過去のことにすべき、と考えていた。アメリカ人が日本人の人を欺く狡猾さと戦おうとした場合には、日本側が勝利し、しかも誰も勝てるものはいないと彼は確信していた。日本の問題の解決はありえず、名医の権威によって裏付けられた処方以外に、その方法は存在していなかった。つまり、日本人は自分で自分を治療するしかないのであった。
 マッカーサーは、1944年9月、モルッカ諸島東部のモロタイ島に上陸した時点で、日本が患っている病気とその治療についての彼の考えを表していた。彼はその病気を、「日本国民の基本的願望と奇異に敵対する一種の国家的蛮行」と呼んでいた(29)。彼は、その治療には自発的なものが必要と考えていた。つまり、「日本国民は、国民が軍をもっとも必要としている時にそれが無用であると知った時、軍部への偶像崇拝をやめようとするだろう」というものだった。日本の有権者の過半数が決して軍部を偶像化しておらず、1937年段階でも、投票においてそう表現する勇気を持っていたことを(訳注)、マッカーサーは知らなかったし、知ろうともしなかった。おそらく、マッカーサーは子供時代、アーカンサスの陸軍駐屯地でのインディアンとの接触体験の結果、自らの虚偽の神が崩壊すると同時に自らの自尊心をも失ってしまう未開人として日本人を見ていたのだろう。彼の見方は偏見をもったものだが、敬虔なクリスチャン信念から発するものであり、自分の人生を正しさに賭けようとする意志の表れだった。8月10日に最初の降伏文書が届いた時、彼は、自身と小規模な空輸特派部隊が、天皇の降伏を後押しするため、東京空港に至急着陸すべきであると要請した。それは、彼も日本人も両者が好む見せかけ的行為だったろう。ただし、もし彼がそれを実行することが許可されていたとしても、それが彼に損害を与えるものとは到底ならなかっただろう(30)
 日本での政策実行を代表するマッカーサーに仕える部下たちは、すべて彼とともにマニラに控えており、彼の思惑通りに動けるよう教育し尽くされていた。そのうちの主役が、アイヘルバーガー、ウィロビー、ウィットニーの三人だった。ロバート・アイヘルバーガー中将は、もの優しい知性的な男で、マッカーサーの右腕だった。彼は、占領の物理的面である非政治的分野を受け持つ第八軍の司令官だった。日本の各地方に配置されるのは彼の部隊で、マッカーサーの内部頭脳集団によって決定される捜索や逮捕を実施するMP(憲兵隊)は彼のもとにあった。
 マッカーサーの諜報部長、チャールス・A・ウィロビー大将――チェッペ-ヴァイデンバッハという姓のドイツ貴族の子息で、粗野で機知にとむ大喰らいな男――は、マッカーサーの目となり耳となった。マッカーサーは自身の命令を出来る限り自分のものとするために、戦争情報局と戦略役務局になるワシントン中心の作戦司令を常にしりぞけ、ウィロビーを彼の独自の情報源とした。自ら接して知った日本の指導者たちの過去の経歴をマッカーサーに教えたのはウィロビーで、また、後に、朝鮮戦争に中国が介入してアメリカを驚かせた時、その部分的責任をおうのもまたウィロビーであった。
 アメリカ陸軍に三十年もいながら、ウィロビーは家系のプロシア的な見方を維持していた。1939年に出版した著作 『Maneuver in War (戦時策略)』 の中で、彼は、「西洋女性をまさぐる黄色人の指」を別として、日本の中国における「生活圏」獲得のためのほぼすべての攻勢に敬服している。「その時代をとらえる心情的あいまいさから自由な歴史的決断は、ムッソリーニをして、敗北の記憶を拭い去り、伝統的な白人の軍事的優越性を将来何代にもわたって再確立させる信念を生んだ」と彼は著している。要するに、彼は根っからの軍人であった。彼はムッソリーニのエチオピア征服と、不承々々ながら、日本の数々の侵攻を称賛した。辺鄙な植民地戦争における戦闘についてまでも、彼は実に博識であった。(31) マッカーサーの日本統治の計画を練りながら、ウィロビーはそれを、「現存する日本政府、天皇、および伝統が持つ心理的権威を活用」することによって、日本の「恐ろしいほどの緊張」を解きほぐすための「極めて的確な方法である」と自画自賛した。(32)
 占領統治部長官のコテニー・ウィットニー准将は、マッカーサーの口でも書き手でもあった。1930年代のマニラでちょっとした財産を作った、その強靭で頭の回転の良い法律家は、日本の指導者との政治的折衝を指揮し、日本政府の改組を指令し、マッカーサー自身の発言原稿をほとんど彼が書いた(33)。彼は後日、日本についてのマッカーサーの政策を仮借なく表現して、「我々は日本を脅迫し、、、天皇についての議論は、、、主要な変革の速度を上げるように行動を促進すべく企図されていた」、と述べている(34)
 河辺大将がマニラを訪れ、最初の米国占領部隊が厚木特攻隊基地に着陸するまでの一週間、ワシントン・マニラ間を特使と電報が行き来した。こうして、マッカーサーの構想は国務省担当官の構想と一体化され、米国政府の公式な政策となった。こうして出来上がった文書は、「降伏後の初期対日政策」と題されていた。その最終文書は、8月29日、マッカーサーに打電された。彼はすでに日本に向けて出発しており、その夜は沖縄に滞在していた。その文書には以下のような指示が述べられいた。
 この文書には、マッカーサーが手掛けるべき社会改革として、以下のような諸項目が添えられていた。武装解除、戦争犯罪人の処罰、土地と産業保有の解体、宗教・出版・労働・女性の解放。

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