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天皇家の遺産
(その2)



御簾越しの統治

 天智天皇〔元中大兄皇子〕と内臣(うちつおみ〔新設された要職で後の内大臣〕)の中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、失われた聖徳太子の計画〔文書〕を記憶によって再現し、政府の全面的改革に取りかかることによってその成功へと漕ぎ着けた。この大化の改新(645−655)では、地方統治機関、戸籍調査、土地測量、皇位への請願権(訳注)などをもつ、中国をモデルとした官僚機構が導入された。武器は戦時のみに使用するよう兵器庫に強制的に収集された。こうして、少なくとも数世紀にわたる争乱の後、人は略奪に出くわす恐れなく、終日でも出歩けるようになった。
 670年、老いた賢者であり変革者である中臣は臨終の床にあった。その彼に名誉を授けるため、彼によって任命された者であり弟子である天智天皇は、妊娠中の自分の妾を彼に贈った。そこで天皇がそえた言葉は、「もし生まれた子が女なら、むろん私がその子の面倒をみる。もし男だったら、貴殿はご自分のものとなされよ」であった。そしてその子は男児で、天皇天智は、一年後に死ぬ前、この子に藤原の氏を授けた。この庶子の皇室一門、藤原家は、中臣の内臣の地位を引き継ぎ、その後1275年にわたって、天皇の側近の寵臣となった。1937年に日本を戦争に導き、1945年に服毒自殺した近衛宮は、その藤原家の最後の人であった。
 八および九世紀の間、右大臣、左大臣、内臣として、藤原家の宮廷生活は、儀式と衣冠束帯の壮麗さへと変じた。宮廷の中庭は、そのいたるところを、恰幅の良い老人たちがかしこまって歩いていた。その衣装の色や形、そのお辞儀の度合いなどすべてが定められていた。そしてその頭には、学者の角帽にも似た、身分を表す様々な形や大きさの黒漆の男根状のシンボルを冠した固い黒絹の帽子をかぶっていた。広い四角形の玉座の間は、白い畳敷きの床の上に、天皇は、口紅をつけた金ぴかの人形のような姿を次第に顕著としてゆき、かしこばったシュールリアリズムな風情の中に、ただ静かに座していた。そして彼自体、そうした世離れした禁忌な存在となり、もはや天皇とさえ呼ばれなくなり、天朝とか、禁裏とか、禁中とか、主上とかと、婉曲的に言われるようになった。その中のひとつが、作家ギルバートと作曲家サリバンによるオペラ『みかど』 すなわち「御門」である。
 藤原一族は天皇を制度の中に封じ込めつつ、天皇に与える全ての助言の責任を自ら引き受けていった。そうした責任のあり方が、日本人に天皇の「御簾越しの統治」として知られる、最高権威のあり方であった。つまり、そうした天皇は、特別の機会において「鶴の一声」を発する以外、彼は最後まで御簾の向こうに隠れ、明らかなことは何もなさなかった。彼は大臣たちの助言を受入れ、必要とあらばそれを再考するよう尋ねた。彼は統括し裁可したが、決して、公式には先導しなかった。すなわち、もし国事がうまく運ばなくなった時、藤原一族がすべての非難を引き受け、天皇はその批判や暴力的威嚇の対象外とされた。この宙に浮いた名誉と誇りの風土にあって、そうした責任のあり方は危なっかしいものであった。藤原一族は、一部、権力と富のため、一部、天皇に由来する純粋な宗教的確信からそれを引き受けていた。
 藤原一族による、この巧みな人造の幻想劇による支配を通じ、日本の人々は、次第しだいに、死すべき神、無限性の無、無力な全能者といった、逆説的な国の首長の存在を信じるようになった。そして国の統治とは家族問題という長く根付いた伝統が日本にはあり、藤原一族は人々に、天皇は国という一家の家長であると説いた。そうした社会身分制度のなかで、だれもが、自らの身分の軽重に応じて、その家族的話し合いにおける発言権を分有していた。うち天皇は、父親として、重すぎるほどの最高権威を持ち、誰もが、悪とされるものから彼を守る使命を負っていた。この国の家族として生まれることは、彼に対する「限りのない義務」を負うことであり、その家族の一員としての誇りに基づく、彼に従いかつ疑問をはさむ余地のない厳しい責任を負うことを意味していた。彼が行使しうる要望は限定されていたが、藤原一族の後見のもとで、天皇は、意味深淵で神託風な説話をとき、それはいかなる解釈をも可能とした。そうした天皇の隠れた意志にそい、国なす家族の利害に従うことは義務であった。明瞭な説明を求めることは常に不必要で、天皇の意思が誤解された場合、
〔当事者は〕その全非難を受け止めなけれならなかった。
 藤原一族は宮廷の要職を占め、670年から1945年まで、歴代の天皇に助言し、あやつった。1165年までは、同一族は、政府の行政を積極的に率いた。その間数世紀にわたって、彼らは日本の政治に独特な性格付けを行った。それは、彼ら自身の資質――その家族的伝統と遺伝特質――を反映させたものではあったが、継承されてきた日本全体の特性に基づいたものではなかった。ほぼ例外なく、藤原一族は、近親血族である天皇と同じように、政府官吏を監督したり、必要な法体系を整備したりすることには大した関心を示さなかった。彼らの発想法においては、国を治めるとは、あたかもその一挙一動が美的実践であるかのように、合理的というより、芸術的――生きた事々を用いて演じられる技巧のゲーム――事柄であった。彼らは歴史を、あたかも自分たちが織る情緒的織物のようにそれを扱った。彼らは儀式と策謀を好んだ。彼らは、〔そうした形式を重んじない〕実務手腕を恐れたがゆえ、むしろ、手際のよい暗殺を頼りとした。繊細、洗練、好色、そして高い読み書き能力をもつ彼らは、同時に、迷信的、因業的、不道徳で、日本に天皇血族の神性を温存させ、自らの貴族的嗜好にふけった。
 藤原一族の勢力の根源は、さほど彼らの政治的手腕によるものではなく、あたかも、代々の外見の良さと、彼らの姉妹や娘の魅惑を丹念に活用したがゆえかのものであった。1300年の間、宮廷にこれ見よがしに出入りする妻や妾の四分の三以上は、藤原血族であった。そうした女たちの多くは、十歳に満たないうちから寵愛の技術の手ほどきを受け、15歳になる前に、皇子たちを生んでいた。724年より1900年の裕仁の誕生までの十数世紀にわたって、76人の天皇が
〔一代で〕、少なくとも54人の子を誕生させるという驚くべき多産な記録を打ち立てている。常時、通常20人の女たちが天皇の寵愛を受け、また、宮廷では流行病が十年ごとに一般家臣を激減させており、藤原女性の、衛生、魅力、官能、知性、そして献身的な熱情は、雄々しさに優るとも劣らないと考えられよう。
 670年から950年までの間、藤原一族は日本を巧みに統治し、次第に政府を強固なものとし、東日本へと勢力を広げ、そして内乱を最小限度に抑えた。藤原一族の大臣や女官による優れた治世のもとで、代々の天皇は、その荘厳な野蛮さを失い、教養を身につけるようになった。歌を読み、仏教の教義を学んだ。彼らは、その仏教統治の根拠地として、恒久的な首都を受入れ、710年に最初に奈良が大和政権の中心となった。そして794年、奈良において仏教僧侶による横行が過度となったため、奈良の北18マイル
〔約30キロ〕の京都が次の都となった。燦爛たる宮廷の庇護のもとで、みごとな絹織物、未塗装の香気ある木造物、気品ある磁器類、派手な漆塗り、そして屏風画など、日本がいまなおその伝統をもつ、様々な手工芸の発達をもたらした。
 日本の独特の料理法は、主に、京都の宮廷が生みだしたものである。当時、今日の主食である、米、豚肉、牛肉、鶏肉などは、庶民には高嶺の花だった。百姓たちは、大麦、アワやヒエ、魚、貝、海藻、豆、根菜、野草、蕨などで命をつないだ。宮廷の貴婦人たちのみが、そうした食物をためし、また、多彩に味わった。その富が、たくさんの、米、大根、魚、小麦粉を浪費し、比類なく多様な漬物や味噌や豆腐を考案することを可能とした。彼女たちの夫である武士たちは、弓や刀をたずさえ、日毎、鍛錬のために山に狩りに出かけ、野生のイノシシ、シカ、キジの肉や、タケノコ、キノコ、レンコンなどを持ちかえった。それらを用い、宮廷婦人たちは、たとえば今日のレストランで好き焼きとして楽しまれているような、日本の独特な肉料理を作りだした。大衆は、そうしたものが存在していることすら知らなかった。仏教は肉食を禁じ、宮廷は人々に信心深いことを奨励した。一千年間、皇室の王子たちは、著名な仏教寺院の高僧として仕えたが、私的には、京都の肉屋や肉料理人のギルドの秘密の後ろ楯であった。19世紀になって、食肉の習慣が再び広がり、神戸の〔輸入された〕家畜貯留場に初期の西洋食用牛が見られ始めた時、日本で牛肉を食した人たちは、自分たちが口にする新奇な日本料理が、新たに考案されたものであると信じていた。
 天皇は最初、仏教への新たな信仰を冷やかに見、改宗を制御する目的でのみそれを研究していた。だが、やがて多くの宮廷人や女たちがその寛大な神秘主義への祈りに傾くようになった。そしてついに、歴代の天皇自身も、その宗教的な精緻さに熱中するようになり、仏教僧の助言に頼るようになった。749年から758年まで皇位にあった考謙(こうけん)天皇〔女性〕は、おかかえの僧侶〔道鏡〕を寵愛したため、彼を自らの愛人として皇位に着けようと謀っていると言われた。しかし、これは、彼女の下の藤原一族の大臣らの行動を正当化するためにされた流言で、彼女の退位は同一族の復権を意味した。藤原一族の目には、彼女は反目を助長させる愚かな失政――動物の殺生を禁じ、さらに別の新宗教に傾注――をとっていると見えた。この新宗教とは、中国より京都を訪れたネストリウス教徒の一団の教えであったが、彼女の皇位罷免によって、キリスト教の影響は、以後800年間、日本から消え去ることとなった。
 藤原一族が皇位を御簾というカーテンで取り囲んだのは、その主を守るためのもので、抑圧するものではなかった。もし、ある天皇が政治への天性を示し権力を行使した場合、その在位中にその皇位をほしいままにしたとは思われず、もし彼が退位し皇位を幼少の息子に委ねた場合、彼が舞台裏よりその手腕に独裁的役割を与えることはもっともなこととみなされた。力ある天皇にとって、若くして引退して隠遁生活に入り、自らの宮廷を設立して治世拠点とし、それを通じて、政治をつかさどる藤原一族を動かす、というのが通常の〔院政と呼ばれる〕形態であった。時には、自分の後継者より長生きする天皇もおり、数代の天皇を背後より操った。あるいはまた、後継天皇が退位したとしても、策謀を駆使して彼に競合したりもした。1301年には、少なくとも五人の引退した
〔院政〕天皇がおり、それぞれが、自らの寺院から日本を治めようと奮闘した。
 794年から1868年まで日本の首都であった京都は、それまでの首都であった奈良に比し、僧侶たちによる支配がさらに強まった。松の森林に覆われた急峻な比叡山――天皇のそれに比べられる知恵の山――の頂きに、千を超える寺院が建てられ、そこを根城に、好戦的な坊主たちが頻繁に山を下り、対抗する政府庁舎に扇動的な急襲をかけるのも茶飯事であった。天皇家の宗教である神道は無用と化した。946年以来、歴代の天皇は、重要事項を祖先に報告するために使者をその墳墓へ送ることをしなくなった。そして自分が死んだ際にも、もはや自身を埋葬する巨大な山を築くことはせず、自らを火葬にふし、小さな白い箱に納め、京都の方形の墓苑の中のこじんまりとした石の碑のもとに埋葬した。しかし、彼らが身に付けた
〔神道への〕懐疑は、広く大衆に共有されていたわけではなく、時に応じて、民衆の迷信的信仰は宮廷に再感染し、一時的な神道の再興を起こした。
 性的密通や、歌、絵画、新しい妾、そして時々の争いをまどろむなかで、日々、年々、あるいは数世紀が過ぎ去っていった。人々は、藤原一族の世を満喫していた。彼らはモンペをはき、わら笠をかぶり、田を耕し、今日の日本の農民とほとんど同じように、十分の一税を払っていた。日本の中心の島、本州の谷という谷は、しだいに耕作用に転じられ、農耕民たちは、狩猟生活を維持していた石器時代のかつての同僚に山間地帯でのみで遭遇していた。しかし、そうした同じ国土内での兄弟争いも、〔一方が〕弓矢隊に加えて上質な鉄の刀を使うようになり、強敵となりつつあった。無法者たちは、そうして形成された厳密な身分社会から排除される運命にあった。
 肥大する貴族階級は、屈強な殺し屋を仕立てることを思いついた。天皇や藤原一族はたくさんの子供をもうけており、次男たちがそのために役立てられた。彼らには地方領主としての地位が与えられ、都から追いやられ、不満のうちにそこに赴いた。だが彼らは、次第にあらゆる古代部族を一掃し、日本には荘園領主に天皇一族が納まっていない地方はほとんどなくなる程となった。しかし、次男たちに無税の領地を与え、彼らに土着民を農奴として与えたことが、不可避な問題を引き起こした。北部のアイヌ族はくり返し謀反をおこし、皆殺しにされなければならなかった。中央の貴族たちは、地方の統治を過大評価し、自らは京都問題に専念することを望んでいた。だが悪いことに、辣腕の次男たちに与える土地には限りがあり、それにその無税の領地は、政府の拡大する支出にその収入が追いつかなくさせる事態を生んでいた。
 歴代の天皇は、近視眼的にも、つねに全国土を自身の領地と見なしたが、特定の皇室御領地を収入のために用いるようなことはせず、わずかな景勝地のみを愛でるための地とした。950年ころまでには、細る税収では賄いきれない宮廷の不足額を埋め合わせるために、藤原一族の金力に頼らざるをえなくなっていた。日本は、それぞれに豪族階級の手に陥りつつあった。その豪族とは天皇一族のことではあるのだが、彼らは親族でありながも、鉄器時代の武士の一族でもあったことから、古代部族の首領のように手荒には扱えなかった。それなりの領地を保有していると自任していた藤原一族の京都の諸分家ですら、平安を維持するために、武士階級や護衛たちに危なく頼っていることを覚らざるをえなくなっていた。もはや、有効に政治的バランスを保持し均衡を保つためには、用心棒を雇う程度ではすまなくなっていた。腕の立つ大将に率いられた武士階級を備えた地方領主の身内との忠誠関係を維持することが不可欠となっていた。 



将軍


 天皇を牛耳る藤原一族に取って代わろうと企んだ西の平氏〔平家〕の一団との戦争〔源平の合戦〕の後、東の源氏は、1192年、東京に近い鎌倉に設立された当座の組織を、東日本を統治する恒常的な本部、すなわち幕府―― “天幕(テント)住い政府”――と定めた。後鳥羽天皇は、その首領〔源頼朝〕に、征夷大将軍、つまり野蛮部族を征服する大将、との名称を授けた。この名称は、後に 「将軍」 と短縮され、西洋の辞書で言う、「日本を支配する軍事総督」との意味をもつようになった。ただし、実際に将軍が日本全体を支配したわけではない。というのは、将軍は、表面的な忠誠、時には服従をもって、天皇の家臣としての地位を維持したためである。そうではあったが、将軍は東国を支配し、その後の700年間、日本の軍事バランスを握る武士階級を統率した。
 かくして、頂上の「御簾の背後」の天皇、第二層で宮廷での実権を握る藤原一族に代わり、第三の政治勢力が登場することとなった。さらに、この第三勢力は第四勢力も従えていた。将軍とは、地方住いの小君子で、その幕府つまり天幕政府の実権は、参謀ないし憲兵司令官という行政執行者たちにあった。この第四勢力の武士階級統率者たちは、天皇の遠い親戚ではあった。彼らは、自らをのしあげ権力を握るために兄弟も殺したが、その頂上に位置する神のごとき存在である皇位までは手を出そうとしていなかった。
 宮廷が優位をほこる京都にあっても、そのほんの近辺まで、将軍つまり武士団司令官の軍事政府とその参謀、諜報員、そして兵卒は、土地豪族を統率し、税金を取り立てていた。彼らはやがて、そうした日本の現世的勢力を独占し、天皇をもっぱら宗教的権威以外には何も持たない存在にさせていった。しかし、高僧として、天皇は常に、政府高官の就任のすべてに、それを授与し祝福する権威を維持していた。それをもってはじめて、彼らは国事の統治者であることを自ら名乗ることができ、逆に、国の重要事項について
〔天皇と〕相談する義務を負った。ことに、そうして彼らは、日本の下層武士に関する絶対的権威を名乗りえた。移り代わりはありながら、そうした彼らの主張は決して否定されなかった。
 この新たな四層建ての統治機構において、各々の階層の要職は世襲となった。鎌倉幕府の参謀長は、戦に敗れると、その地位を息子や兄弟に譲った。鎌倉幕府の将軍も、敗戦は同じく辞任の理由となり、京都の藤原一族の国務大臣は、失政をもって同様に退職し、そして天皇は、一身上を唯一の理由に退位するか、あるいは甚大な地震の後、国のみそぎ儀式のジェスチャーとして退位した。
 1221年、皇位から退いた後鳥羽上皇は、将軍――鎌倉という田舎に住む――の勢力の拡大に危機を感じ、将軍を排斥しようと企んだ。上皇は、その計画を準備しつつ兵を集める一方、日本の伝統的策略――警戒が必要とは気付かれぬよう酒色にふけり――に出た。その策略において彼は、透けた着物を着た宮廷の女たちより水割り酒を勧められるままに飲んでいた。将軍の諜報員たちはそれに感服したが、それには騙されなかった。将軍は京都に進軍し、後鳥羽上皇の操る幼少の天皇に退位を強い、後鳥羽上皇の甥をそれに代わる別の幼少天皇とした。その日以来、京都は日本の政治の中心としての地位を失い、東国がそれにとって代わった。しかしながら、皇室の扱いは相変わらず丁重で、国の聖職として、京都での閑職を維持することがゆるされた。



フビライハン

 最初の将軍家である源氏の政権の間、隣国中国はロシアの平原からやってきたモンゴルの騎馬民族によって侵略されていた。1268年、北京の新たな支配者であるフビライハン〔元の第一代の皇帝〕――彼の祖父、ジンギスカンはアジアのほとんどを征服した――からの使者が、「貴国のような小さな国の王」は、モンゴル宗主国に服するか、それとも侵略されるか、と要求する手紙をもって日本に到着した。その手紙は、至急に鎌倉の将軍に送られた。彼はそれを大変重要とみなし、天国のような>宮廷の平和を乱させようと決断し、その手紙を天皇に託した。
 京都では、フビライハンの要求を拒否する周到な文書が用意された。その返信は鎌倉に送られ、将軍に深慮を求め、その内容が適当なら送付するよう促した。それをきっかけに、将軍は国をまもる自分の責任を肝に銘じた。将軍は、天皇の文書が、余りに奢り高ぶりかつ緩慢で、非現実的であると決心し、返信も受信の確認も持たせずに使者をフビライハンのもとに帰らせた。フビライハンは憤然として、忠誠を誓っている朝鮮の国王たちに大船団を作るように命じた。朝鮮の王たちは、外交的な判断から、そうしたフビライハンの意図を日本側に伝え続けた。
 両国は、6年間にわたって準備を重ねた。そしてついに、1274年、1万5千人のモンゴル人と8千人の朝鮮人が朝鮮の港を出帆、日本の西部に向かった。彼らは最初、九州沖の二つの島
〔対馬と壱岐〕を襲った。それらの島の日本人守備隊は、全員が死ぬまで闘い、英雄的な先例を打ち立てた。
 次に、モンゴルの船団は、小倉――671年後、原爆投下からかろうじて逃れた幸運な第一目標都市――の南西の博多に上陸した。日本側は、海岸線で猛烈な防御作戦を展開、一方、九州中部に待機する部隊には、参戦が命ぜられていた
9。その夜、嵐が吹き荒れ、侵略船団の朝鮮人船長は退却を余儀なくされた。上陸したモンゴル人大将は、しぶしぶどころか、その機会に飛びついた。彼らの損失は膨大だった。彼らが本土に帰り着き、態勢を確認するまでに、2万3千人のうち、1万3千人を失っていた。
 フビライハンは、悪天候という言い訳は受け入れたが、彼の誇りへの挫折には至らなかった。翌年、平然にも、彼は再度、使者を日本に送り、戦闘が始まる前に、日本の降伏を要求した。だが将軍は、その使者の首をはね、国の総力をあげた防戦態勢への天皇の許可を獲得した。フビライハンは南中国での戦乱に勢力をさかれ、彼の突進を再開するまでには、さらに6年を要した。
 日本はその準備を精力的にすすめ、「無数の夜討ち船」を造って中国船をなやまし、延長百マイル
〔160km〕以上の石垣を築いて防衛線とした。日本のあらゆる、男、女、子供がお金や労働を国の兵器工場にささげた。
 1281年、フビライハンはその憤懣を放出した。彼は、広東と朝鮮の船のすべてをこの戦に投入でき、14万人の部隊――そのうち4万人は恐るべき彼自身の北部兵士――を輸送可能としていたことに満足した。部隊は、日本人が築いた石垣の――ことにその突入点となりそうな両端はもっとも強固となっていた――境界線上に上陸した。中断のない53日間にわたる接戦が繰り広げられ、ことにその長い石垣の両端ではなはだしかった。そしてついに、1281年8月15日と16日、「神風」が二日間にわたって吹き荒れ、モンゴル艦隊を打ちのめした10。嵐が去った後、その14万人の中国部隊のうち、生きて本国の土を踏んだのは、半分以下だった。


 
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