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天皇家の遺産
(その3)



朝廷分裂

 蒙古の襲来に対する偉大な勝利の後、日本の武士たちは、安堵はえたものの結束する理由を失い、お互いに争い始めた。鎌倉の将軍の統治力は失墜し、京都の皇室は二つの流れに分裂した。1339年から1392年まで、皇室は二つの朝廷となった〔南北朝時代〕。京都の南の山中〔吉野〕を拠点とする南朝は自らで統治権を握ろうと欲し、他方、京都の北朝は全権の代表を望んだものの、軍事的実力者将軍には宗教的な権威のみにあまんじようとした11。神道を強く信ずる者は、南朝が鏡、剣、玉の三種の神器を所有していることから、真の宮廷は南朝であると考えていた。首都京都の北朝は、反逆した詐称者によって占められていると見られ、正統を維持しているものとは見なされなかった。実際のところ、北朝は、相続権に関しては正統を継ぐものを持っていたが、聖権を継ぐお守りを欠いているために、自らそれを確信させえず、その権利の横領者としての汚名が忘れられるまでには、その後数世紀を要した。裕仁自身、1930年代、北朝の流れをくむと指摘する非難者によって手ひどく悩まされた。  朝廷の南北分裂時代、自らの主張を実証するために、南朝は宮廷の神道を見直し、重積したもろもろの仏教的装いを一掃した。それ以降、裕仁の時代まで、司祭行事の際に神道や祖先礼拝を重視する天皇は、自ら権威を行使しようと望む復古主義者となり、また、教理を説きお経を熱心にあげる天皇は、表看板で満足する儀式主義者となるということが、大雑把な傾向となった。
 1392年、南朝の皇太子が有利な財政的条件で妥協
〔三種の神器を返上〕し、天皇家の分家として京都に戻った。しかし、彼らの条件付き復帰は、平和の永続をもたらしたわけではなかった。1467年〔応仁の乱〕から1600年〔関ヶ原の戦い〕まで、内戦が絶え間なく起こった〔戦国時代〕。領主や地侍は、スコットランドの羊泥棒のように、その荘園を拡大し、確保するために争った。この世襲の武士階級は、神武天皇とその海賊出身の副官たちの子孫であり、ゆえに、帯刀することが許され、鎧をまとい、馬に乗って、農民を厳しく抑圧した。彼らは、スパルタ風の騎士道精神を遵守し、金銭を遠ざけ、報酬のために仕えることを良しとしなかった。だが、その極端な忠誠心は、その領主のみに有利なものであった。それ以来、彼らは、金や銀に触れることをタブーとし――19世紀の日本の陸軍将校は、いまだに、彼らの報酬を広げた扇で受け取り、下士官に手渡していた――、武士階級は土地からの上がりで生計を立てるべく身分付けられ、どこに投宿しようとも、その料金を請求されることはなかった。彼らは、平民から保護を求められている武士や領主である場合を除き、農奴や農夫を殺す権利を持ち、その行為の責任は問われなかった。また、武士は一対一の決闘で相手を殺す権利を持っていたが、その家族による仇討のしきたりは受けねばならなかった。
 戦で領主一家が全滅した時、その家臣たちは、主を失った武士、つまり浪人――字義上ではさまよう人――となり、運命に身を任せ、機会をとらえては自らの忠誠を売った。同じ浪人という言葉は、八百年前、アングロ・サクソンの英国で、主を持たない兵士たちを言う言葉でもあった。英国の浪人は雇われて山賊や荒海の海賊になった。日本でも同じであった。16世紀の初め、日本の浪人たちは中国の沿岸を襲い、遠くは、バンコック湾やマニラ湾までもの海域に出没した。1550年までには、ビルマ、タイ、カンボジアの王たちは、日本の信念ある人殺しを雇って、自らの護衛とした。
 日本では、庶民たちは、終わるともしれぬ兵たちの行軍に悩まされたが、死ぬのが武士であり、破産したり領地・財産を奪われるのが領主であった。そうした戦国時代、統計が示すように、その国は全体として、裕福であったと見られる。人口は1500万人から2500万人に増加し、同じ時期のフランスのほぼ2倍、スペインのほとんど4倍、そして英国の優に5倍を超える人口を持っていた。商工階級は、物質主義者として武士たちからは蔑まれたものの、戦からの利益をえて富を築いていた。日本の漆塗りや鉄製品は世界で最高であった。日本の貿易商人は、バタビアやカルカッタまでも商売の手を広げていた。東アジアで、日本は追随をゆるさぬ武器輸出業者であった。鋭い刃をもつ日本刀は、トレド
〔スペインの名刀の産地〕のムーア人職人の間でも、有名かつ羨望の的であった。
 京都地方は、その都に大半の大領主
〔大名〕たちが自らの軍勢を保持していたために、戦国の世の最大の打撃をうけた。各々の領主は、隣り合す敵をせん滅する作戦への天皇の承認をえようとした。しかし皇室は、皇太子同士の間で、復古主義に傾くものと、儀式と宗教力に頼るものとの対立をかかえており、ほとんどその希望にはそえなかった。そうした混乱の時代にあっては、天皇は、領地を1平方マイル〔約2.6平方キロ〕も持たぬ、気位の高いばかりの家臣に、満足な食事を出すよう命ずるわけにもゆかず、そうした皇室内の議論は、最上の場合でも口論上の域を越えなかった。その幾年もの間、皇室は幕府からの何の手当ても得られず、京都周辺地方では、わずかな皇室所有の土地や森林からもその地代も徴収できないほど、世は乱れ切っていた。その当時、天皇や藤原系大臣に近くない宮廷の下層の家臣たちは、安全な生活をもとめて、自分の郷里に戻らなければならなかった。
 1500年、将軍が公式の葬式に十分な費用を出し惜しんだため、後土御門
(ごつちみかど)天皇は、埋葬されぬまま45日間放置されるという恥辱にさらされた。その後継者、後柏原天皇によれば、その公式の即位式典を、財政上の理由で22年間も延期するほどに困窮していた。その次の後奈良天皇(1526−1557)も、自分の書を持ち歩かせて京都の街頭で売るといった、哀れな貧困劇を演じさせていた。こうした訴えが功を奏し、彼は勤皇家より十分な資金を集め、宮殿を新築し、地方に避難していた貧しさに苦しむ家臣たちを呼び戻すことができた。



野蛮人

 最初のヨーロッパ人が日本にやってきた時は、朝廷の不運が最悪の事態に達していた丁度その時であった。そうした最初の欧州人には、困窮と権威、ましてや宗教的権威とが結びつきうるとは考えられなかった。したがって、彼らは、皇位の最初の印象をただ貧困とのみ受け取り、そう記録した。そしてそうした記録は、その後、天皇がキリスト教徒を恐れ、あらゆる情報を外国に出さなくしたため、後々まで修正されることはなかった。ほとんどの日本人にとって、外国人はよその地からやってきた人間なのではなく、他の惑星からやってきたかのような、人間の姿をした別の生き物であった。したがって、彼らは 「夷(えびす)」 ――もともと、残忍で、狭隘な、ギリシャ的意味における、野蛮人との意――と呼ばれた。京都の司祭的支配者によって、彼らは、聖なる土地をけがし、そこに埋葬された霊魂を怒らせる、不浄な害虫とみなされた。
 朝鮮や中国よりはるかに遠く、海のかなたでの人間の存在は、日本では、6世紀以来、認識されてはきており、12世紀以降では、最初、海賊によって報知されるようになった。世界一周航海者マゼランがフィリピンの所有権がスペインにあると主張した1521年から、少なくとも1世紀前、日本の船乗りは、南フィリピンのミンダナオ島スルのサルタン国に仕え、そこに定住するようになっていた。1510年以降、日本の冒険者は、インド西岸のゴアで、ポルトガル人と交流を持っていた。1529年、日本の海賊は話を聴取するために何人かのインド人を日本へ送り、京都の宮廷官吏が彼らを尋問した。海賊のもたらす世界についてのニュースは、定期的に南九州薩摩の島津家――1274年に蒙古を撃退した際の功労者――に伝えられており、それは分析のために京都の将軍や天皇に取り継がれていた。
 1542年、最初のポルトガル船が九州の港に姿を現した。それを早くから予期していた日本の役人は、彼らを歓待をもって迎え、敵意は表さなかった。六年間にわたった西洋人との交流は、散発的だったが友好的で互いに危害は加えなかった。そして1549年、長崎に最初のキリスト教宣教師が到着した。彼らは、後に聖人と認められることとなった、イエズス会のフランシス・ザビエルに率いられていた。政府は聖ザビエルの行動を念入りに追跡した。彼は、たゆまぬ精勤によって、すばやく日本語による有用な知識を身につけ、彼の表現によれば、その困難さは、まるで 「悪魔の操る仕掛けのごとき」 であった。
 二年間の勤勉の後、彼は、日本には将軍の上に天皇がいるという、禁じられた知識達した。彼は、ほとんど徒歩で困難な旅をして京都に上り、後奈良天皇への謁見を申し出た。それへの返答は、将軍は京都を離れているのでその要望を中継ぎできないし、ともあれ、天皇――書を売っていた天皇――は隠遁生活をしている、というものであった。京都の街路は斬り合う武士たちであふれ、聖フランシスはそこで宣教をするのは望み薄であると覚った。そして数日後、彼は南九州へと引き返した。彼は天皇に会えなかったが、彼は手紙で、京都で自らの地盤を築く 「天皇」 と呼ばれる無力な精神的指導者の存在を
〔本国に〕伝えていた。その後300年間、天皇に面会した西洋人はおらず、西洋世界では、彼の存在は忘れ去られてしまっていた。
 そうした戦乱の日本を注意深く観察していたヨーロッパ人は、侵略の恐怖と鉄砲の知識、という二つの切り札を日本に持ちこんだ。1543年、三人のポルトガルの冒険家が、中国の交易船にのって、九州南端先の種子島に到着した。その際、種子島の領主は即座に彼らを雇い、彼らの持ち込んだ武器、鉄砲の使い方を習った。一ヶ月間の教習の後、領主は大いに感嘆し、かれらの火縄銃二丁を、驚くような高額である2千両で購入した。この額は、日本の職人がおおむね30年間で稼ぐ収入にも相当するもので、現代のアメリカの基準に照らせば、およそ18万ドルになる12。そしてその領主は、その鉄砲を模作するため、それを刀鍛冶の親方に渡した。銃尾のスプリング部がうまくゆかないその親方は、その数ヶ月後に種子島に立ち寄ったポルトガル船の船長に自分の娘を贈り、その見返りに船の鉄砲鍛冶からの教えをえた。
(8)
 一度銃作りのこつが飲み込まれると、それは急速に広がった。すでに世界一の刀鋼の製作者である日本の職人たちは、たちまちのうちに、火縄銃の銃口と銃尾を大きくし、銃の殺傷力を強めることができるようになった。多数の購入者のために、彼らはその使い方を試して見せた。また彼らは、火薬の敵である雨から守るため、かれらの製品を見事な漆塗りの防水の箱に収めた。その当時のヨーロッパでは、鉄砲はまだ特殊な装置で、通常の戦争の道具を補助するものとしてのみ使われていた。だが日本では、それがあまりに急速に改良されて採用されたため、軍事史研究家の中には、最初の近代的な歩兵隊と歩兵術は、この国で発達したと述べるものがいるほどである。それから十年以内に、日本のあらゆる領主のもとの兵器廠では、鉄砲と大砲が作られており、それまで二世紀にわたった武士道による戦争は、火薬の爆発音とともに姿を消していった。




鉄砲の威力

 鉄砲の発射音を初めて聞いた者のひとりに、その父親の死により年若くして自領の指導者にのしあがった15歳の少年がいた。1535年、京都に恒例の火災で宮廷の半分が焼け落ちた時、その父親は気前よくその修築のための寄付を行った。そのおかげで、その息子は、まだ若年にもかかわらず、宮中よりの恩寵と情報を得るようになった。彼の領地は、東京と京都の間、尾張地方にあり、名古屋港や三種の神器のひとつである剣を所有する熱田神宮を領有していた。
 その少年の名は織田信長といい、天皇家や藤原家の血を引いていた。彼はまだ無茶な年頃であったが、それまで、本に代わって、父親の武将たちとともに過ごしてきていた。その父親が織田城を彼に残して他界した時、彼の師範はその後を追って自決し、彼に自分の道を改めるようにとの遺言を残した。若き織田は、戦に初めて鉄砲を用いて威力を発揮した歩兵の自慢話を聞き、父の後を継いだ最初の行いが、種子島の鉄砲鍛冶に、その新しい武器を500丁以上、注文したことだった。それは1549年のことで、その種子島の鉄砲鍛冶は、その事業を始めてまだ6年にもなっていなかった。
 若き織田は、軍事的な天才へと成長した。他の領主も銃をもった歩兵を備えていたが、織田のみがそうした歩兵を巧みに展開できた。彼が28歳となった1559年、正親町
(おおぎまち)天皇は、彼のもとに密使をよこし、京都に来て荒くれる侍どもを追い払うよう命じた。だが、織田が東京と京都の間のすべての領地を征服する1568年まで、彼はその命には応じられなかった。だがその後、彼は完璧に統制のとれた軍勢を引き連れて京都入りし、将軍を退位させて傀儡の新将軍をすえ、正親町天皇には豪奢な新宮殿を建て始めた。以来、その建造にあたる職人たちの目に、天皇といっしょに誇らしげに歩き、植木や石や池の配置の助言を与える織田の姿は、おなじみの光景となった。その無邪気なほどに自惚れた男は、中国の虎皮の陣羽織をまとい、自慢げに生え際まで伸ばした髭をたくわえていた。
 天皇の後ろ楯をえて、織田は領主大名を打ち破り、日本の統一に乗り出した。彼は冷血にも、すべての貴族一族に自殺するよう命じた。彼が忌み嫌う政治的意図のある仏教僧を、彼は、はりつけにして焼き殺した。彼は、地方の聖山のものを除き、京都や大阪の武装した僧院をことごとく壊滅させた。そして、それを包囲しながら手をかけなかった所とは、天皇からそうするようにとの要望をもらっていた所のみであった。
 しかし、彼は、キリスト教徒には寛大さをもってのぞみ、京都地区の1万5千人の転教者と2百の教会を生き残らせた。ポルトガルのイエズス会の純な論理と純な生き方は、
〔自らが〕聖人という彼の考えに適しており、また、人技としてではなく、神の成せる仕業として人を殺すイエズス会の見方は、彼自身の感覚とも一致していた。彼はキリスト教の教えを、鉄砲の弾のように、直接的で実用的であると見た。それは、彼のもっともスパルタ風の武将たちの精神を燃え上がらせた。彼らは、キリストの十字架をかかげ、その象徴を首に下げて出陣して行った。彼らが、最高の神道者よりいっそう頼りになる狂信者であることを織田は発見していた。
 織田が41歳の1575年、彼の生涯でもっとも大きな戦において、日本北岸の領主たちと遭遇した。それまでに、彼は十万をこえる軍勢を率い、そのうちには、多数の大砲と一万丁の鉄砲を装備した部隊を持っていた。彼の敵対者は、より多くの人と、騎乗した武士と、そして同じ数ほどの鉄砲を擁していた。だが、織田は、過去26年にわたり、火器の戦術的な使用において卓越していた。彼は、三千人からなる――すべて下層民による――最精鋭の鉄砲隊を組織し、もっとも果敢な騎馬部隊の突撃が予想される地点に設置されたジグザグの矢来の背後に、三列にそれを配置した。彼はその千人ずつからなる三隊の鉄砲部隊を、効果的に発砲できるように訓練していた。第一隊が引き金を引いている間に、第二隊は
その火縄に火をつけ、第三隊は火薬を装填して銃口を下に向けていた。それまで、騎馬部隊の突撃は、常に、飛び道具部隊を突破することを原則としていた。しかし、長篠の戦いにおいては、織田軍の平民からなる三列の鉄砲隊は、ひざ立ちで構え、狙いを定め、発砲するくり返しを素早く行い、騎馬隊はその刀の届く範囲内まで突入できなかった。およそ一万六千の、その北部武士道の花であった騎馬武士が、矢来の前の野原で死んだ。ヨーロッパにおいてそれに匹敵する戦争は、それからほぼ百年以内には見られなかった。
 長篠の戦いから7年後の1582年、織田は48歳になり、彼の力は絶頂に達していた。彼は、軍勢を率いて南に向かい、天照大神の国、九州の制圧をねらっていた。その途上、京都
〔本能寺〕での最後の夜、彼がもっとも信頼していた武将の一人〔明智光秀〕によって、その動機も、誘因も不明なまま、暗殺された。その武将は、数日後に見つけられ、その背後を明かさぬまま死んだ。権力を掌握した者の精神としては、織田の誇り高さと容赦のなさは、過度に達していた。彼は自分を自らの目的のために仕えさせた。彼のその彗星のような生涯の間、日本の首都である京都の人口は、1550年のわずか2万人から回復し、ほぼ50万人へと増加していた。


 
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