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天皇家の遺産
(その4)


日本のナポレオン

 織田の地位はただちに、彼の筆頭の家来である偉才、秀吉によって引き継がれた。織田や歴代の将軍と異なって、秀吉は平民出身で、足軽の息子だった。彼は織田の配下で数々の戦で手柄をあげて出世した。彼は策略の天才で、多くの難攻不落の要塞を、包囲戦や水攻めにしたりして攻落した。また織田と同じく、彼も天皇に敬虔な忠誠をしめした。1945年までの日本の歴史において、秀吉に統治された1582年から1598年までの16年間は、国の実際の統治が、皇室血族の広範な人材以外の一人の男に委ねられた一時代であった13
 秀吉は日本の統一を成し遂げ、すべての大名に、京都に参上し、天皇にあらたな忠誠を示すように強制した。秀吉は、忠誠の疑わしい大名の家族を京都に置かせて人質とし、首都にあっての特別の客人として扱った。彼は日本全土の検地を行って税収を確固とし、その〔領土の〕境界を書き変える過程で、古い反抗的な〔領主間〕結束を断ち切った。まったくの宗教心の詐欺的な賞揚ながら、世界で最大の仏像を建造するため、政府以外に存する刀剣を徴収した。さらには、仕事を失くした兵士たちに職を与えるため、海外侵略の道を決心し、朝鮮、フィリピン、マラヤ、シャム、ビルマ、そしてインドの獲得を豪語した。そしてまず、朝鮮から取り掛かった。
 よく訓練され、優れた武器を身に付けた秀吉の軍団が、もしヨーロッパへ派兵されていたら、どんなキリスト教国の軍隊にとっても好敵手以上であったであろう。しかし、朝鮮に渡ることは、当時、世界でもっとも豊かで最大の人口をほこる中国に挑むことだった。その朝鮮王国は中国の進貢国で、秀吉もそれを承知しており、もし彼がその国に攻撃を仕掛けた場合、中国が黙っているはずはなかった。そこで1591年、彼は、北京にまっすぐに進めるよう日本軍の行進に協力するようにと、いかにもぶしつけに朝鮮国王に要求した。だが朝鮮国王は、1億5千万人の中国は、2千5百万人の日本より、より持続する脅威であると考え、その秀吉の要求をはねつけた。
 1592年の春、周到な準備の後、秀吉は、かっての日本領土、カラクの釜山へ、20万5千人の遠征軍を送り出した。日本遠征軍のほとんどは無事に上陸したが、陸上戦の将軍である秀吉は、水軍の重要性を見落しており、日本の海賊や交易商が彼に供給線を確保してくれることを過信していた。日本の海賊船は、おもに、九州と本州の間の静かな内海向きのものだった。それに比べ、朝鮮の船は大型で、大砲を装備し、李舜臣〔イ・スンシン〕という優れた提督に率いられ、日本の供給船団を木端微塵にさせた。
 困難な通信手段にも関わらず、日本の遠征軍は、朝鮮に上陸の後、六ヶ月もしないうちに、釜山からヤル川
〔鴨緑江、現在、北朝鮮と中国の国境をなす川〕まで進んだ。そこで、予想されたように、中国が大軍をもって反撃に出てきた。中国は、最大時では百万以上の軍勢を繰り出し、その数を今日の人口で換算すれば、少なくとも四百万人にも達するものであった。それまで鉄砲の使用を見下していた武士らが後方兵站部に送った幾通もの手紙に注目すると、それらは、「鉄砲をもっと送れ」とくり返し伝えていたことである。五倍の勢力を相手とする日本の駐屯隊は、もはや武士の誇りやいさぎよさも問題にせず、ただ、効果的な殺害手段を求めていた。
 三年間の硬直状態の後の1594年、秀吉は二度目の遠征軍を派遣し、今度も、半島の南半分を一掃した。ほぼ50万人の犠牲を出しつつ、中国はその二倍の援軍を投入した。制海権を失う危険に至り、利口な朝鮮の李提督は、モニトル号とメリマック号
〔南北戦争時の鉄装甲軍艦〕よりはるか二百五十年前に、世界で初めて、船に鉄装甲をほどこした。獰猛な亀のような東洋風の立派で凝った装飾をもち、その船は日本の木造船の間を櫓漕ぎ力で圧倒して航行し、そして、連続砲撃を加え、我がもの顔に突進した。再び、秀吉の軍勢は供給に困難をきたし、海際に追い詰められた。日本のキリスト教徒と仏教徒の駐屯兵は、どちらがより長く持ちこたえられるか、互いに競い合った。中国軍も甚大な損害を出し、再び、引き分けを余儀なくされていた。
 1598年、和平にむけた交渉が開始されるなかで、秀吉は死んだ。その最後の時、彼は、最も信頼する古くからの同志、徳川家康を、五歳の子の保護者と摂政にさせようと求めた。家康は、秀吉の子の面倒を見ることは約束したが、摂政となることは拒絶した。それに代わり、政権を、秀吉の五人の大将の合議制によって治めることに合意した。本国での勢力争いを予見して、五人の大将は、中国との即座かつかろうじての面子上の和平協約を受け入れた。戦争は終結した。無惨な殺戮という意味では、それは、二百年以上後、ヨーロッパがナポレオンの戦争を目撃するまでのどれをも上回っていた。



暴君徳川

 徳川家康は、冷血で愛想のない男で、ものうい表情とブルドックのような血走った眼をしていた。だが、統治の才と驚異的な忍耐力に恵まれ、かつ、秀吉とは異なって皇室の血統をもっていた。秀吉の死から十四ヶ月後、家康は、京都の東、60マイル〔96キロ〕の草原で、ライバルの大将たちとの形勢を分ける戦い〔関ヶ原の戦い〕にのぞんだ。宮廷の藤原家系の陰謀を通じて、敵将の何人もを、最後の段階で寝返えらせ、彼を容易な勝利へと導いた。そうして彼は、自身とその子孫を、日本の新たな将軍の地位へと上らせた。
 彼は敵を殺さずに生かしておき、賢明にも、その領地を切り取り、その断片を自分の手下に分け与えた。彼は、京都と江戸の間の海沿いの通商路にそう街道を整備し、新たな宿場や駐屯所を設置した。彼はまた、あらたに金貨を鋳造して信頼しうる通貨とし、日本の混乱した金融制度に秩序をもたらした。彼は、全国的な警察機構〔奉行体制〕を設立し、職を失った武士に新たな仕事を創出した。それから二年間で、地方にわたるまでもの平和を作り上げ、日本を奇特な警察国家に仕上げていった。長崎に拠点をおいたある英国商人は、その徳川の独裁と本国のジェイムスI世のそれとを比較し、日本は、「世界がこれまでに知った、最も偉大で最も権力ある専制」を持つと結論づけていた。
 1603年、徳川家康は、まだ若年の後陽成天皇に会い、税収の寛大な分配を与えた。それは、天皇に、申し分のない生活を保障し、深い尊敬を払って、徳川の子孫に対する策謀に彼を走らせないための金ぴかの檻であった。軍略を除き、家康は天皇をもはやその地位から退けずにおき、フランス国王が自らを法王と宣言〔王権神授説〕したのに比べ、皇位を自らのものとしなかった。その代わり、家康は後陽成天皇に、自分の孫を義理娘として受入れるよう求めた。
 後陽成天皇は、そうした縁談は、家康が白人の優勢とキリスト教という双子の脅威に攻勢をかけて日本から追い払う何らかの方法を示さない限り、皇室にとっては不可能なことであると主張した。家康は、日本を外人排斥に導く必要をそれほど感じてはいなかったため、1611年、後陽成天皇はそれに抗議して自ら退位した。そして、さらなる交渉の後の1614年、元後陽成天皇は徳川家と皇室の婚姻に同意し、家康としては、外国人司祭の追放、教会の撤去、「国の政府を変え、その土地の領有」を求める全てのキリスト教徒の信念の放棄を命ずる布告を発した。
 最高聖職者たる天皇の外国人嫌いとの妥協をなすにあたっては、家康は、ポルトガルのイエズス会やスペインの修道士に何の愛着ももたない、あるプロテスタントの平信者の考えの影響を受けていた。彼は名をウィル・アダムスというケント出身の英国人で、1600年に事実上の漂流者――オランダ船の水先案内人だったが、彼の船は嵐、飢え、渇き、そして脚気によって乗組員の四分の三を失っていた――として日本に到着していた。徳川政府の囚人としてながら、アダムスは日本人のために二隻のヨーロッパ式の船を建造し、武士の地位
〔日本名三浦按針〕にまで身分を引き上げられ、領地も与えられた。帰国は禁じられていたものの、彼は定期的に英国の家族のもとに金を送り、彼の好みにそった日本の暮らしを持っていた。「私は英国の領主のように、奴隷のような80から90人の百姓を持っている」と彼は書いている。
 アダムスは1620年、彼の日本人妻に看取られて死んだが、彼の魂は日本の神道信者によって崇拝されており、彼を祭る神社がその領地の丘の上に建てられている。生前、アダムスは徳川将軍との懇意な関係を活用し、プロテスタントとして、スペインの領土獲得の野望やその秘密工作者である「カトリック信者」のことを継続して警告した。その結果、家康は、すべてのスペインの宣教師やポルトガルのイエズス会の大半の信徒を、国の転覆を謀る危険人物として見るようになった。
 ローマの
〔カトリックの〕手先には敵意があったものの、アダムスはあらゆるキリスト教宣教師が日本から追放されるのを見たいと欲していたわけではなかった。また家康も天皇のご機嫌取りをさほど欲さず、宣教師に続いてもたらされる西洋との貿易と知識のうまみ多い流れを止めたいとは望まなかった。そしてアダムスの助言に従って、家康は、オランダや英国からのプロテスタント商人を奨励し、自らのキリスト教に対する布告をイエズス会や修道士への単なる忠告として用いた。
 徳川家康は1616年、ウイリアム・シェクスピアと同じ年に死んだ。そして彼は、江戸時代と呼ばれる、江戸を中心にした国家統治の王朝システムを残し、その子孫は、その後252年間、その権力を維持し続けた。そうした子孫は、外国からは日本の「皇帝」とか「王」とかと呼ばれたが、伝統に縛られた日本人たちに限っては、将軍の上に真の天皇が居ることを知っていたろう。家康の37歳の息子は、もう十年間以上も名義上の将軍ではあったが、15歳の孫もすでにその父の跡継ぎとして訓練されていた。
 1617年、後水尾天皇が京都の宮廷の実権を引き継いだ。後水尾天皇は、厳格な学者肌の22歳の若者で、1680年、80代の元天皇として死ぬまで、最高の国事にたずさわった。1620年、ついに後水尾天皇は、華麗な儀式をもって、将軍の若い妹と結婚した。同将軍は、キリスト教徒の過酷な迫害を制度化することによってそれに返礼した。1597年、その死の前の最後の怒涛のような年、秀吉はある実験――処刑のキリスト教的な形と彼は理解していた――を命じてその前例を作っていた。彼は、フィリピンから来た6人のスペイン人修道士と20人の日本人改宗者を、十字架に釘づけにして殺した。1620年から1635年までには、約6千人のキリスト教徒が犠牲となり、そのうちの多くは、聖ペトロのように、逆さづりにされて殺された。
 天皇がキリスト教徒に見た脅威は現実のものだった。1620年までの70年間、その新たな宗教は、日本人の50人に1人の心をとらえた
14。改宗者の大半は農民で、そのうちの多くは、鉄砲の扱い方を知っている足軽であった。彼らは、そうした戦において、隔たったところから目上の者を打倒す方法を訓練されており、いまや6人のキリシタン大名の統率のもとにあった。彼らは、他の日本人を取り囲む、霊や魂の世界をほとんど重んじなかった。彼らは、天皇の上の世界であると信じた超人間的な世界のために、命をかける準備をしていた。
 1600年に家康が天下を制した後、負け戦側に立った多くのキリスト教徒たちは、家康がにおわす切腹を拒否し、それに代わって、不名誉な公共の面前での打ち首となった。こうした殉教者の正直な反抗心はすべての日本人の心を動かすものがあり、将軍は、政治的な難事として、キリスト教の撲滅を図るしかなくなっていた。1620年にその実行を天皇と確約した後、若き将軍は、引き続き周到に動き、あまたの反キリスト教宣伝を繰り広げ、首切り役人や警察任務に多くの資金をつぎ込み、また、外国貿易を厳しく削減あるいは監督して、悪魔の根を断とうとした。彼は新たな外国人宣教師が密入国してこないよう排斥する一方、古くからいた宣教師たち――有力な日本人転向者の保護下に居つづけることは許されていた――は、絶え間ない警察の嫌がらせによって無力とされた。それでも、日本人司祭の秘密の努力によって、〔家康にとって〕手におえない破壊的教義は拡大を止めなかった。
 キリスト教徒に加えて、戦に敗れた反徳川の一派が残留していた。家康によって設置された警察と密告制度は有効に働いたが、不満は新たな内戦を抑える彼の全体主義国家の水面下でいまにも暴発しそうであった。それを予防するため、徳川家は、形の上だけとしても、皇室の協力を必要としていた。そして天皇とその近親者は、徳川家が彼らを平和を敬愛する脅威のない非キリスト教国家のトップとしていまだ復帰させていないと不平をもらした。和平の現実的漸進政策に対する皇室の裁可えるため、将軍はまず最初に、力ずくで天皇をねじふせようとした。将軍は配下の腹心を京都に駐在させており、その許可なくて天皇は宮廷からでることはできなかった。
 後水尾天皇は、その徳川家の妻を持っているにも拘わらず、それに逆らった。1629年、度々の抗議の後、彼は退位して、7歳の自分の娘を皇位につけ、769年以来の初めての女皇とした。それは、徳川家の権力が皇室の力を侵害し、その幼い少女のみが跡継ぎにふさわしいことを国民に示そうとする印であった。将軍徳川家光はその虚勢に応え、丁重にその傀儡女皇を受入れ、退位した後水尾天皇に僅か年百万ポンド
〔454万kg〕の米の収入を与えて決着させた。天皇はそれでやってゆくよう決心し、策を練るためある寺院に引きこもった。その後の5年間にわたり、徳川家は挑戦的な暴君の世の後ろ楯となった。



鎖国

 1634年、徳川家光は江戸から京都へと談判のために上京した。それは平和的だったが、とてつもない儀式と権力の見せ場だった。30万7千人を超える配下勢力が彼を護衛し、京都までの300マイル〔480キロ〕の東海道と呼ばれる主要街道を行進した。彼の家来の宿泊する宿屋は、京都周辺にまでわたって満杯となり、彼の陣地は、京都平野の地平線までをもおおった。都の歓楽街の曲芸師やおいらんのお出ましはなかったが、吟遊楽人、砂糖菓子屋、賭場師らが、陣地の夜のかがり火に群がって商売に精を出した。織田信長が建造した二条城では、将軍は退位した後水尾天皇のまだ十代の女皇やその宮廷人をもてなした。
 たいそうな饗宴や贈り物の進呈の最中でも、将軍家光と元後水尾天皇は、時折その場を離れ、舞台裏での深刻なやり取りに終始した。後水尾天皇はそれを「無礼」としたが、二人は畳の上に、座机を間に向かい合って対等に座った。将軍は、ウィル・アダムスが自分の祖父である家康に地理の話をした際に与えられた、地球儀を手にしていた。用心深い、遠回して言質を与えない数時間の前談の後、二人は、世界における日本の位置を、あらゆる角度から吟味し、ある見解の一致に達した。
それは、その後の233年間の日本の最重要国家政策の決定であった。ただその詳細は記録されておらず秘密とされたが、その後の進路は、この決定の結果であったと判断される。
 江戸に戻ると、将軍は、他のどんな国の歴史にも見られない、厳格な保守主義の道を導入した。1635年、彼はすべての大名に、毎二年間のうち一年間、江戸に居住し、
〔自領に戻る〕他の一年間も、その家族は人質として江戸に住み続けるよう命じた。つまり、彼は反逆を事実上不可能とさせた。翌年、あらゆる商人に事業は国内に限るように命令し、外洋船の造船を禁じ、外国に住む日本人の国籍を剥奪し、もし帰国した場合には死刑にし、そして、いかなるキリスト教の布教
にも死の苦痛が与えられるとの禁令を発した。かくして、彼は秀吉の海外進出に代わる政策を採用し、皇室の願望である日本に安全な神道を維持することに満足を与え、日本を外界の世界から閉鎖させたのであった。
 キリスト教の禁令が実施されると、50万人の〔キリスト教への〕改宗者にその放棄が要求され、多くの日本人は自ら十字架をこしらえ、それに磔になることを待った。幾千人もが考え直すよう牢屋に入れられ、幾百人もがみせしめの犠牲となった。隠れて住んでいたイエズス会の神父たちは、自ら進んで殉死しないよう教区民に警告を出すよう強いられた。にもかかわらず、何万人もの教区民は死を選んだ。本土政府に反旗をひるがえして九州島原に閉じこもった3万7千人のあるキリスト教徒集団は、最後の男女、子供まで虐殺された。何万人もの他の信者は地下に潜行し、235年の後、九州や本州の北端で、いくつかの集会が公然化してその存在が明らかとなった。
 1638年、将軍の取り締まりによって、最後のポルトガル司祭が海外追放となった。その後、数人のカソリック司祭が密入国したが、捜し出されて処刑され、すべてのカソリック教徒国からの船は、大砲を向けられて追い払われた。1640年、交易を口実として到着したポルトガル船は、その61人の乗組員一団が打ち首の処刑にあったとのメッセージを世界に向けて持たされて送り返された。プロテスタント教徒国であるオランダやイギリスに対しては、家康の助言者ウィル・アダムスが、いくらか寛大な扱いをあたえるよう、政府に申し出ていた。1673年、通商を求めてきたイギリス船は平穏な扱いを受けた。将軍は、その荷を陸揚げさせようとまでしたが、それも、イギリスのチャールスII世がポルトガルのブラガンザ家のキャサリーンと結婚したことを知るまでのことだった。それ以降、すべての交易はご法度とされ、イギリスの東インド会社員は脅かされて追い払われた。
 日本では、ただオランダの小さな交易所のみが許され、その商人たちはその儲けに高い税を払わねばならなかった。またその宗教上の中立を証明するため、1638年の島原の乱の際には、彼らは船を提供し、その要塞への砲撃に服さされた。1641年以降、彼らは長崎港の出島という小さな島に閉じ込められた。出島は、日本国土の神聖を守る天皇の気持ちにそうための、わずか300歩ほどの長さの人工の島だった。毎年、オランダの貿易商は江戸に徒歩で参上し、将軍の足にキスをし、科学の実験やおどけを演じ、また世界で起こっていることをまとめた概略書を提出せねばならなかった。また、定期的に踏み絵をさせられた。
 アイザック・ニュートンの生まれた1642年、最後の日本人司祭が処刑され、日本は貝殻の中に閉じこもった。その後211年間、その国はその状態を続けた。日本は、90年間続いた論争の後、その道を意図的に採用した。日本と外国との間の中間地帯を征服しようとする秀吉の試みは失敗に終わり、今や日本は国を閉ざし、その国内のみでの進展を望み、精神的に難攻不落の地になろうとしていた。日本がまだ東南アジアで傍若無人をふるまっていた時、平和とは哲学者の考える事柄であった。平和実現の重い責務を負うべき学者肌の元後水尾天皇だったが、日本で職人が優れた刀や扇子を作っている間に、世界の強国では産業革命が起ころうとしていることなど、思いもよらぬことであった。またそうした彼にとって、当時の地球上での二つか三つの最強の国の一つとして、そうした鎖国に入った日本が、数世紀の後、明らかな二流の国として出現することになろうとは、想像だにできないことであった。


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