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第五章
ペリー来航(9)
(その1)


空白の時代

 門を閉ざした日本の内で、天皇と将軍は、たがいに互いを必要とし、その身分制度を安泰に各々の子孫に引き継いでゆくという、同様の目的を共有していた。彼らは、学問と熟慮を通じて、日本が自身を「神の国」とさせるに足る特別の資質を再発見しえることを信じていた。1657年から1715年まで、徳川家と宮廷の共の後押しをえた日本の学者たちは、日本文化の源泉や、玉石をならした庭園、畳敷きの床、茶の湯、白木の神殿といった日本独特なあらゆる事柄について、精力的な研究に取り組んだ。そうした研鑽は、 『大日本史』と題した26巻の著作(訳注)となって実を結んだ。その題名にある「日本」という国名は、神道に由来するもので、太陽の子の国という意味であった。その著作のあらゆるページにおいて、著者たちは天皇の天照大神以来の神性と、霊魂の道を意味する神道による往古の精霊崇拝のもつ真実性を強調した。そうした著者たちは、天皇の使命をないがしろにする将軍には、それを権力の強奪者とする非難を向けた。
 その完成時、 『大史』 という扇動的になりがちな思想を大衆が間違って受け取らないよう、それは出版されないままにおかれ、その稿本が少数の貴族間で回覧されるのみとされた。その書物は、金ぴかな檻に拘束されていた皇王たちにとっては、徳川による彼ら自身の最終的な自由の保障を示すものであった。一方、徳川にとっては、それは日本を完璧な鋳型にはめ込ませる所以を示すものであった。また、軍事の重要性が薄れてゆく日本を憂い、不満をくすぶらす大名たちには、その書物は、天皇が再び全権力を回復した際には、再武装をするようにとの政策が提案されていた。
 徳川幕府においては、日々の日本の統治は、そうした根本的国家政策には半分も関知していない、年寄りの賢者たちの評議会
〔大老〕に任されていた。彼らはみな著名家系の出身で、広い日本国土から選りすぐられた利益を代表していた。個人的な野心を追うには年を老いすぎた彼らは、国を治める日常的法規の起案や大半の官吏を指名するためにその知恵を働かせていた。野心に燃える若い将軍がたまたま生じた際には、彼はその老賢者たちの指名に介入することがよくあった。同じように若い天皇が生じた際でも、老賢者たちの提案を握りつぶしがちであった。彼らは、そうした指名以外の高度な政策に関しては将軍の意向を求め、また、国の命運を左右する重大な決定については、天皇のそれを仰いだ。
 1638年から1853年までの間、徳川幕府の老賢者たちは――プラトンの共和政体のように――、無味乾燥した独裁的効率性をもって日本を統治した。創意にあふれる日本人に彼らが課した凍結状態は、生死の統計上の数値に表れている。そのほぼ二世紀間に、人口は2千6百万人から3千3百万人に増えたのみだった。農民は、重く課税され、取り締まられ、国家の予算規模を上回るすべての新生児を間引きしなくてならなかった。それと同時に、領主の権威は弱まり、多くの地方で、村々は自主的な独立を築き、自主統治の形をもった地区会合は、幕府の徴税人や取り締まりに対抗しうるほどであった。
 その二世紀の間、ほとんど何にも起きなかった。芸術は特殊化し不活発となった。国民の礼儀作法はより几帳面となった。日本に独特なものはいっそう独特となり、日本はまさしく統一された。平和を維持する施策は極めて入念に開発され、戦争のための技術は好事家の鍛錬のような地位へと後退させられた。1640年以降、幕府は鉄砲鍛冶のすべてを免許制とし、全国の鉄砲生産高を、年5000丁から200丁へと激減させた。そして遂には、生産される鉄砲は芸術品扱いされるものとなり、裕福な武士の収集品とすらなって無力化された。将軍の沿岸防備力は維持され、その砲台はよく整備されていたものの、7年間に一度ていど火を吹くのみであった。従って、大砲はすべて1640年以前製の骨董品となり、暴発しがちで、大砲を扱うものは、恐るおそる、長い竹竿の先に付けた種火で点火させていた。


ドアのノック

 出島という小さな人工島の交易所からもたらされる、オランダの報告紀要を読む特権をもっていた多くの若い貴族たちは、深まりつつある国の後進性と軍事的弱体性に苦言をていしていた。彼らは、 〔北アメリカ大陸という〕新世界での英国植民地の拡大、アメリカの独立、アメリカ合衆国の急速な発展についての報告を受け取っていた。彼らは、1780年代に中国海域に現れはじめた米国船に注目していた。中国からきた商人たちは、シャムやインドシナにおける中国の影響力の崩壊を告げていた。若い武士たちは、いつか、日本もいずれは戦わねばならず、その時ではもう遅すぎるのではないか、と不平をもらしていた。
 武士たちの不満の中心は、日本の南部、天照大神の地にあった。その地の領藩らは1600年の徳川の支配に強く反発してきた。そのうちのことに二藩は、代々の繋がりをもつ武家一族のいずれをも失うことなく、ただ領土の多くを徳川家に没収されていた。九州の薩摩藩は、2万7千人の武士一族をかかえ、本州南部の長州藩は、1万1千人を擁し、日本のいずれの地域よりも多くの、領地をなくした浪人層を従えていた。両藩とも、秀吉の朝鮮遠征に大きく貢献し、外的進出より内的結束を図る徳川の政策に対し、藩をあげて反旗をひるがえしていた。両藩とも、1853年から1945年の自縛を解いた日本において、主要な政治的役割をになうこととなる。
 薩摩藩は、島津――島の港との意――との氏の皇族の分家によって統治されていた。薩摩は、南九州という日本の中で最も海洋志向の強い藩であった。1274年の蒙古襲来の際もその矢面に立った。1592年の秀吉の朝鮮遠征の際には、その大半の船を提供した。1609年には、沖縄と琉球王朝を征服した。1941年には、日本帝国海軍に、自らの規模を越える割合の将官を提供した。1930年代には、東南アジアの西洋植民地に対する南進作戦を先導することとなる。
 同朋の藩、長州は本州端にあり、もうひとつの皇室の分家、毛利――毛深い者への有利さとの意――と称した。それは、陸上を基とした勢力で、地域主義と壮大で寛大な自治をその家訓としていた。それは金銭を軽蔑し、土地をいつくしむ重農主義をかかげ、物質主義をもととしつつ、厳格な復古的革命の信条を旨としていた。長州は秀吉の朝鮮遠征の際や1600年に徳川と戦った際、多勢の足軽を提供していた。1868年から1924年まで、その突出した精神論は日本陸軍を支配し、国の統治をも脅かした。1930年代には、ロシアに攻める北進論をとって政治的敗北を喫する一派を率いた。
 熱烈な忠誠心をほこる長州と薩摩の剣客は、京都からの激励の言葉を受け取るやいなや、いかなる時でも、反逆を起こそうとしていた。死をものともしない彼らの覚悟は、鎖国に入った最初の世紀、天皇たちを徳川の自尊心の内に留まっていさせる後ろ楯となった。しかし、西洋の船や大砲が脅威となるにつれ、徳川幕府はいっそう頑なに内向きで、非現実的に傾いていった。気まま勝手に振舞ってきた京都の宮廷は、さらに自らを精緻にさせていた。1779年、皇室の本流は男系子孫がなくて途絶え、傍系親族でより精力的な従兄、閑院家によってその皇位が引き継がれた。閑院家は、神道の再興と徳川幕府のいっそう注意深い監視を図っていた。
 1820年ころ、元光格天皇は、15歳から40歳までの貴族のための学校を設立し、後に有名な「学習院」となった。この学習院で、裕仁はその読み書きを習い、その学習院で、彼の息子、明仁は、マッカーサー将軍が推薦した上品なクエーカー教徒教師、エリザベス・グレイ・ヴァイニングのもとで、西洋式の教育を受けた。その学校が設立された時、その趣旨は、すでに美しい詩や指で音楽を奏でることを知っている若い宮廷人に、日本の歴史や政治の現実を教えることだった。その高貴な卒業生は、その数年後にやってくる困難な時代の政策決定を引き継ごうとしていた。
 年を追うにつれて、外国船が日本の港への寄港を無駄ながら求めてきていた。その多くは商人で、長い航海における中継地を探していた。またいくつかは、公式の外国政府の船で、日本との通商の機会を開き、外国の影響を受けることへの恐れを終わらせる使命をもっていた。1739年、ロシアの船が日本の漁港を訪れた。徳川幕府は、北方沿岸の砲台を一新することでそれに応えた。1791年、最初のアメリカの船が通商を要求して来航した。幕府は日本南部沿岸の大砲を整備させた。にもかかわらず、西洋との違法な貿易が盛んになり始めた。1808年、英国商人の一行が、長崎の娼館を訪れた際に騒ぎを起こし、不法な上陸が許されている事実に注目が集まった。その長崎の市長は、将軍の命令で切腹させられた。
 1837年、アメリカの二本マスト船、モリソン号が周到に計画された使命をたずさえて、九州沿岸に接近した。平和的な意図であることを表すため、その船の大砲は除去されていた。同船の船倉は、進呈物とニューイングランド産の上等布地の商品見本でふくれあがっていた。そして甲板には、送還されてきた7人の日本人漂流漁民が立っていた。幕府はその使節の意欲的な通告を受け取ったが、その船が乗組員や貨物を上陸させる前に追い返そうと、時代遅れの沿岸砲台が実際に火を吹いた。
 モリソン号の無益な来航は、高まる内的危機の時と重なっていた。その国の行く道は、耐えられる限界に達しており、将軍の評議会の守旧派は解決不能な問題に直面していた。中国とオランダの船は、それまでの数世紀を通じて、悪性の天然痘を持ちこんでおり、いまやその猛威が慢性化し始めていた。何年かの不作は飢饉をもたらし、盗みや人殺しをはびこらせた。完璧な徳川専制主義も、二百年の治世をもって、いまや破産の淵に達していた。大阪では謀反
〔大塩平八郎の乱〕が発生し、容赦なく潰されたものの、将軍徳川家斉は退位し、徳川家慶がその後を継いだ。新将軍は緊縮財政策をとり、崩れかけている官僚体制からすらその支出の無駄を省かせなければならなかった。それでも、危機はおさまらなかった。自由貿易や開国を謀った罪で、見せしめの処刑が行われた。徳川一族は、その衰退と窮余の策から、すぐに政治の改革と、王政復古があることを約束した。宮中の若手は、すでにその任を引き受ける準備を整えていた。


内的恐怖

 1838年から1840年の〔相次ぐ暴動や一揆による〕国家的危機のさなか、学習院の最初の卒業生が、その学業を終える40歳に近づいていた。徳川家は権力の維持に汲々としており、時代はまさに世の末を露呈していた。退位した後水尾天皇と将軍との1634年の盟約以来初めて、皇王たちは、武士と結んで策謀を始め、徳川家がその誓約を守らない場合、内乱の恐れが高まるであろうと威圧した。京都の重要な寺院や神社のほとんどは、天皇の直系親族である皇室聖職者たちの拠点となっていた。そうした寺院は各地に分院をもっており、それを通じ、天皇は忠誠の固い領主のもとに密使を派遣し、将軍に圧力をかけ、いっそう沿岸防備を固めるようにさせた。ことに宮廷は、水戸藩の徳川斉昭に接近していた。
 水戸の尊王派は、自領のすべての寺院の鐘を溶かし、大砲に用いることでそれに応えた。九州薩摩の島津藩主も同じように動き、日本でもっとも近代的な大砲工場を作った。幕府の首脳はこれに、無許可の戦争準備は中央政府への反旗と見なしうるものと警告を発した。薩摩と水戸の両藩主は大砲の製造を中止せざるをえず、幕府当局はその策謀の中心である京都の無防備な宮廷に対しても手を打った。幕府は天皇の義理息子の晃
(あきら)親王に対して一撃を加え、彼を自身の寺に幽閉する一方、彼の父親である邦家(くにいえ)親王にでっち上げの罪をきせて、「謹慎蟄居」を申し渡した。
 邦家親王
〔1802−1872〕は、こうした扱いに足る軽視すべき人物ではなかった。重々しく立派で、恰幅よく、色欲盛んな彼は、無数の人脈と限りない影響力をもっていた。仏教徒でも神道信者でもない、卑猥で無骨で世俗的汚点にまみれた司祭であるかのは、貴族というより俗界の男であった。淫蕩者であって道化者、死刑執行人であり聖職者である彼は、いかにも横柄な宮廷人をも意のままに動かした。邦家親王は、天皇の後継者ともくされる四つの「皇族家」のうちの最大のものを率いていた。幾代にもわたって、その他の皇族家は、世代を担う男子を残すために、その遺伝子に重い負担を課していた。宮廷に鼻風邪がはやるたびに、少なくとも一人の皇子を失っていた。
 邦家親王の伏見宮家は、それに比べ、何世紀にもわたり、各世代、少なくとも三人の健康な男子をさずかってきていた。邦家親王自身は、二人の兄弟と五人の息子を持っていた。だが、彼が63歳になるまで、たくさんの妾から、生きているだけで、12人の息子をもうけている。彼が授けた子のうちから、1930年代に裕仁を取り囲んだ、およそ50人の皇王たちのなす天空が生まれていた。彼の息子、閑院宮は、1931年から1940年まで、陸軍参謀を率いた。彼の孫、伏見宮は、1932年から1941年まで、海軍参謀を率い、久邇宮は裕仁の皇后となる良子(ながこ)の父親で、朝霞宮は1937年、南京を強奪し、東久邇宮は1945年、首相として日本をアメリカに手渡し、そして梨本宮は、マッカーサーによって、1946年に新しい日本国憲法が受け入れられるまでの人質とされた。(10)
 邦家親王は、将来、一族の曲者精神に感謝することになるとは予想していなかったが、事態とはいつもそういうものだった。彼の伏見家は、1372年に皇室本家から枝分かれした最古の分家だった。それ以来その地位を維持し、代々の天皇の行き遅れた娘たちに夫を提供することで、平民の身分に降格することを免れてきた。その種馬の血統の活力は、藤原一族の雌馬のそれに匹敵していた。伏見家の皇王たちは伝統的に活動的で、裏取引にたけ、天皇に陰謀の密使として使われていた。その氏名、伏見とは、視界からは隠れてという意味をもつ。
 邦家親王とその息子、晃親王が幕府によって蟄居を余儀なくされた瞬間、二世紀にわたる天皇・将軍の協力関係は、厳しい政争関係に変わった。邦家親王のおじ、兄弟、息子たちはみな、日本の神権政治の大主教たちであった。彼らの説教とその紫の法衣によって、幕府当局がただその身体を拘束できたのに対し、彼らは人々の心を捕えることができた。その寺院で、彼らは巧みな説教を繰り広げ、徳川家は忠誠に足らぬ、不信心な暴君とされた。徳川家はそうした非難にさいなまれ、ますます自らの使命に無責任となっていった。彼らは、あたかも扱い切れぬ問題であるかのように、幕府をたらい回しにした。その後に20年間、
四人の将軍がその地位に就き、そのいずれもが、過去にない失政をおかした。
 日本の内政環境が真空同然の崩壊状態となった時、最新の侵入者であるアメリカ人は、外圧をもっとも厳しく加えて、その引き金になろうとしていた。1844年、アメリカの捕鯨船、マンハッタン号は、太平洋の真っただ中を漂流していた日本漁民を救助して江戸に連れてきて、将軍を説得しようと努めた。その船長、マーカトア・クーパーはその人質の上陸を許され、将軍の手紙を持たされてその説得をかわされた。「彼は漁民を救助したことを感謝したが、再び来てはならないとの言葉を私によこした」、と彼は書き残している。
 マンハッタン号が引き上げるとすぐ、水戸藩の徳川斉昭は、自分の従兄である将軍に逆らって、大砲の製造を始めた。その動きに対し、幕府軍が水戸に侵攻し、斉昭を寺に幽閉して、領地の統治を17歳の息子に移譲させた。幽閉の間の時間を無駄としないよう、斉昭はその寺の彼の部屋に印刷機を設置させ、1715年の完成以来、その稿本が回覧されるのみであった極めて皇室寄りの「大日本史」の印刷を準備し始めた。僧侶たちの助けをえて、その尊王派の水戸藩主は、9年間におよぶ幽閉の最後の年の1852年、その26巻の印刷の準備を終えた。
 1846年、アメリカの提督、ジェームス・ビドゥルは、二人の軍人を従えて、強引に東京港に入り、アメリカ人漂流者に良好な取扱いを与え、そして領事館員の駐留を約束する協定に署名するよう要求した。将軍はそれをいんぎんに拒絶し、幕府の警備艇を出動させた。できる限り穏やかに、警備艇はアメリカの船を包囲し、その錨を切り、綱をマストや支柱に取り付け、否応なしに外海にまで曳航した。アメリカの水夫は帆を張ったが、あいにく風が弱く、小舟に乗って命がけの二百人余りの笠をかぶった男の漕ぐ櫓の力がまさっていた。温情のあるビドゥル提督は、その沈着な拒絶を受入れ、さらなる指令を得るために帰国した。
 ビドゥル提督の不法侵入のわずか数週間前、学習院の教育のもとで成長した最初の天皇が皇位に就いていた。その名は孝明(こうめい)天皇といい、強健、粗野かつ男前で傲慢な16歳の若者だった。彼は1800年前の最初の天皇、神武のように、細長顔に鼻梁の張った大きな鼻をもっていた。一世紀を費やした古典的学問に鼓舞されて、彼は熱心な神道信者となっており、長く飼いならされ休眠していた彼の家系の、生来の戦争の才能を信じていた。
 彼は、江戸の将軍に遠慮のない注文――国の防衛に関する全容の報告、防衛の完璧さ、攘夷政策の維持、外交政策の一切につき天皇との協議を即刻に始める――をつけることでその治世を開始した。それに対し、将軍は内容のない約束をする丁寧な返答をよこし、若い孝明天皇はなかば満足した。同天皇は、奈良で幽閉中の邦家親王
、江戸の北方の寺に蟄居している水戸藩主の徳川斉昭、そして、南九州ではるかに自由であった薩摩の島津藩主と、頻繁かつ秘密に連絡をとりあっていた。将軍の監視体制の外側で、島津は大砲の製造を続け、西洋の船にも匹敵する何隻かの軍艦の実験的建造も行っていた。
 1849年、米国海軍の一本マスト船、プレブル号が来航した時、将軍はそれを秘密にしようとし、日本が保護していたアメリカの捕鯨船員をすみやかに引き渡した。そのうちの何人かは、江戸のキリスト教院――1640年以来、西洋思想の門徒からの逆改宗のために幕府警察によって維持されていた機関――に収容され、尋問を受けていた。
 1851年夏、沖縄の沖で、万次郎という才能ある日本人漁夫が、ベルチモアの快走帆船サラ・ボイド号より小舟に下ろされていた。彼は、母親が死ぬ前に会いたいと決心して、日本に帰ってきたところだった。とてつもない幸運に恵まれて、すべての日本人の中で彼のみが、アメリカ合衆国を知ることができていた。彼はアメリカで7年間過ごしてきていた。1842年、彼は16歳の貧しい漁夫で、日本近海の浅瀬でひどい嵐に巻き込まれていた。彼と四人の仲間は、はるか北東へと流され、氷の世界、アリューシャン列島の一つに漂着していた。それから5カ月間、彼らは、雨水と魚と海藻で命をつないでいたところを、ニュー・ベッドフォード出身の捕鯨漁夫、ジョン・ホーランドによって奇跡的に救助された。その船長によって、マサチューセッツ州フェアヘブンに連れ帰られ、そこで万次郎は、英語、数学、そして基礎的な航海術を学んだ。そして彼は、南洋の捕鯨船員となる四年間の契約を結び、そこで乗組員からの選出によって、副船長となっていた。その捕鯨船員としての稼ぎで、彼は金鉱堀りの道具をそろえ、手際良くその仕事をこなし、まもなく、サンフランシスコ近くの金鉱地帯で、玉子大の金塊と出くわすこととなった。その成果を金に換え、そのサラ・ボイド号の光栄な船客となって旅をし、ハワイのホノルルにある仏領の港で購入した小舟を、今そうして、サラ・ボイド号から下ろそうとしていた。
 万次郎は、亜熱帯の沖縄のヤシの木に囲まれた島にむかって、恐るおそる漕ぎ始めた。徳川幕府の鎖国令は、海外のかつての日本人町からの帰国を試みるいかなる者にも、死刑の処罰を科していた。万次郎は、自分の弁舌、獲得した富、そして外の世界についての彼の知識を活用し、彼の場合への例外扱いを引き出そうとした。彼のしたたかな判断は正しかった。沖縄の警察は彼を長崎に送り、80日の尋問と踏み絵を果たした後、さらに江戸へと送られた。将軍はただちに彼に、アメリカ諜報を任務とする
政府要員としての地位を与えた。1851年12月から1853年7月まで、画家や執筆家とともに、彼が見聞きしたその野蛮人の地についての一切を記録に残した。彼の報告の一産物が、ボストンの旧北教会の驚くべきほどに正確な図である。
 1853年の初め、長崎港出島のオランダ交易所の所長が、ペリーというある米国海軍の高官が、日本を開国させるために、中国沿岸で小艦隊を編成しつつある、との情報を将軍にもたらした。万次郎は、そのアメリカの武力による威嚇は、次第に反発を増やしている鎖国政策を放棄する、幕府にとっての口実として使えると勧めた。将軍の行政官たちは、万次郎の助言に傾注し、彼に身辺保護の護衛をつけた。彼らの多くは万次郎に賛成したが、国家政策のそうした変更は、国家首脳会議において天皇が説得されなければならないことだと考えていた。
 それは扱いの極めて微妙な問題だった。西洋人が強力でいくつもの分野で目覚ましいとしても、東洋の文明に対しては有害でもあった。江戸と京都の双方は、1842-3年の英国による戦争――中国人大衆にアヘンを売りつける彼らの商人の権利のための戦争――に、英国が勝利していることをよく承知していた。中国皇帝の威信は、この英国の勝利で大きく傷つき、今や、さまざまな謀反を抑えるための謀反が中国国内で拡大していた。その太平天国の乱は、洪秀全
(フン・シウチャン)という独特のスタイルの中国人救世主の指揮のもとに、なかばキリスト教徒化した百姓が結集した少数派の起こしたものだった。彼は、中国中部に、新教徒的なユートピア農業共同体を作ろうとしていた。しかし、今や、彼やその熱狂者たちは、ただ、殺戮を繰り広げていた。1864年に、その叛乱が鎮圧されるまでに、5百万ないし1千万の生命が犠牲となっていた。統計的に――中国の統計数字は常に世界のいずれより大きいのだが――、それは、第二次世界大戦以前では、歴史上最大の戦争にランクされていた。
 1852年、ペリーの艦隊は、中国本土をおおう混乱に際し、中国沿岸のアメリカ交易所を防護することを任務としていた。日本においては、扇動的な「大日本史」の最初の本を天皇と将軍に送った徳川斉昭は、その9年間の幽閉から突然に解放されていた。それは、邦家親王や京都の二人の息子も同じだった。将軍の官吏たちは、その小さな譲歩に、孝明天皇をして、外国との貿易に日本を開放し、ペリーの強要に抵抗しようとすることを不要にするよう、説得できるかもしれないとの望みを託していた。しかし、孝明天皇は外国嫌いをいっそう強めるだけだった。徳川の期待に反し、天皇は間髪を入れず、解放された邦家の息子、朝彦親王を自身の筆頭顧問に任命した。
 朝霞宮と東久邇宮という裕仁の二人の残忍な伯父の父親となる朝彦は、当時29歳で、孝明天皇よりわずか6歳年上だった。朝彦は、母方の親族――みな魅力と経験をもつ宮廷婦人たち――をへて孝明天皇の近親者で、彼らを腹違いの兄弟というものもいた。彼は孝明天皇にそっくりで、あえて違いをあげれば、彼はもっと男前で傲慢だった。宮廷に儀礼的にこもりがちとならざるを得ない孝明天皇と違って、
朝彦はのぞむところ何処にでもでかけることができた。青蓮院という名高い神仏一体の寺院の神主かつ住職である彼は、京都のあらゆる場所に出向く職務を果たしていた。(11)


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