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第五章
ペリー来航
(その3)


天皇の憤り

 孝明天皇は西洋との条約の承認を拒否し、徳川政権との政治的戦争を開始した。その抗争は、その後13年間も続き、十数人の日本の有力貴族が暗殺、または自殺へと追い込まれた。その最終的な犠牲者が孝明天皇自身だった。
 阿部正弘は宮廷との交渉を続けつつ、西洋諸国が譲歩を勝ち取ったたその立場をさほど急激には押し出しては来ないだろうとの根拠のない期待をもっていた。ペリー提督は一方、1854年の春を過ごすにあたり、江戸港の交渉場から海路、条約に定められた港である下田に行って調査を行った。しかし、下田が、江戸から80マイル
〔128km〕離れ、他の日本から山地で完璧に分断された地形の険しい伊豆半島上にあることを知り、ペリーは苛立たされた。彼の船員たちは、何処へ行こうと――たとえ売春宿であろうと――、彼らに影のようにつきまとう、いんぎんに目立たぬ警察官の姿があった。日本の監視人と彼らを描こうとする絵描きはいたるところにおり、大砲の砲口をのぞき込み、船の艤装を図面に描き、正餐用食器類や、下着までをもその対象とした。絵描きたちは、日本の田舎でのちょっと目にとまるものを描くペリーの絵描きたちをも描いていた。
 1854年6月28日、ペリーが帰国の途についた時、それと同時に、徳川幕府の役人たちの大軍も、江戸へと向けて下田を去った。町民たちはほっとしてひと息つき、いつもながらの退屈な野良仕事にもどった。そして1856年8月、最初のアメリカの領事、タウンゼン・ハリスが着任した。地元民は、彼の就任には全く準備をしていなかった。ペリーはハリスの着任が歓迎されないものだと知らされているにも拘わらず、ハリスがすぐにやってくることに固執するとは、考えられないことだった。住民たちはハリスに、住居が用意されていないと告げ、収穫も良くなく、地震もあって、農民たちの生活はいつも以上に貧しい、どうして、数年後に、もっと事情がよくなってから来れなかったのだろうか、と指摘した。だがハリスは駐留し続けた。彼は、ネズミやコウモリやクモの巣と化した廃寺玉泉寺 - 静岡県下田市柿崎31-6〕に領事館を置き、柱に星条旗を掲げ、日誌をつけ始めた。曰く、「厳粛な反省−変化の前兆−疑いもなく新しい時代がはじまる。敢て問う、真の日本の幸福になるだろうか?」#2
  •  #2 後年、日本人はこの日誌の冒頭部をハリスの寺の近くの記念碑に刻んだ。それは、日本の新時代の開幕を望み、その当初から気のとがめを感じていたアメリカ人による〔今日の〕日本人観光客へのひとつの暗示である。〔上記の訳文は、玉泉寺のサイトの訳からの引用〕
 ハリスはその後3年間、アメリカ、英国、ロシアの海軍の圧力に煽られれながら、日本との通商を全面的に可能とするよう、徳川幕府と通商条約の締結のための交渉を行った。だが阿部正弘は言葉をにごし、やむない軍事的準備をすすめる一方、主要な努力を宮廷との交渉に集中した。それ以上の開国をするには、それまでに行われたことへの宮廷の承認が必要だった。孝明天皇はその承認を拒否するばかりでなく、将軍の軍事的努力を見せかけと断じ、将軍の日本の神々への崇拝に疑問をていした。ハリス領事の事務官の若いオランダ人通訳は、その日誌に、日本側の担当者が「我々はふたたび、このように良好な形で会うことはないかもしれない」と述べ、それが切腹を命じられたことを時に意味していたと、悲しげに記録していた。
 孝明天皇の顧問、朝彦親王は、若い廷臣と藩主による破壊活動集団を組織した。それが、朝彦の寺である青蓮院――現存する寺院で最も貴族的で一般には非公開の京都の聖地のひとつ――で集まりをもった。その寺の二階には、従者がそうした会合のために秘密の部屋を用意していた。入口とは見えない戸口があり、当局の手入れに備えて、隠された階段、偽の戸、ツツジの庭に通じる地下の抜け道も設けられていた。この隠れ場所から、朝彦親王の隠密の使者が、今日の日本でも有名な「尊王攘夷」とのスローガンを放出していた。朝彦の孫の一人によると、そうした秘密の会合の後、朝彦は、さらなる協議のため、度々、宮廷に出向いたという。屋形舟や提灯ともる祇園街通いに精出すふりをして、彼は、宮廷敷地の南東塀に設けられた目立たぬ裏口に現れ、孝明天皇の私邸の庭へと直接に招き入れられた。その際の濃い紫の袈裟をまとった僧侶姿の彼は「たとえ寝静まった夜でも宮廷へ出入りできる」、完璧な自由をもっていた。
  •  #3 朝彦が策謀していた9世紀の建物は、不運にも1893年に焼失し、現在で見られる寺は、1895年以来の余り関心を引かない建物である。
  •  #4 宮中では、一般原則として、天皇は、遠い祖先の色である白を身に付け、皇王たちは、隠密行動の黒あるいは濃い紫を、また、藤原の廷臣は、色情と密通の深紅を、そしてそれ以下の貴族は、大地の色である緑を身に付けた。場合によっては、上層宮廷人は、思想の色である黄色もまとった。
 3年にわたる協議、策謀、そして行き詰まりの後の1857年、阿部正弘は、孝明天皇との約束と、彼を経済的に援助してきた海外志向の商人たちの間に挟まれて、身動きできない自分を発見していた。ハリス領事との数ヶ月の交渉の結果、阿部の部下は、アメリカ合衆国との通商条約の草稿を完成させ、それを天皇に提出するよう求めていた。無駄ながら、彼は使者を京都に送り、世界との通商のもたらす恩恵を説明した。孝明天皇が、その使者の説明を、信仰心に欠けると非難した時、その38歳の阿部正弘は、「急病」で突如この世を去った。彼を引き立てていた34歳の将軍も病の床にふし、8カ月もしないうちに、あの世へと旅立った。
  孝明天皇は、次の将軍は、御三家の水戸徳川家から出すことを確約されていた。亡くなった将軍も老中首座である阿部も、共にその扱いに同意していた。しかし、両者が京都からの圧倒的な宗教的圧力についえた今、幕府の重鎮らは反逆の機運に傾いていた。新将軍を指名する話し合いの際、御三家水戸藩主を無視し、天皇に反旗をひるがえして、別〔紀州藩〕の徳川家の12歳の御曹司を指名することに合意した。この不運な少年が徳川家茂
〔いえもち〕である。
  •   家茂は、占星術上の名で、その意味は「犬の家」で〔訳注:意味不明〕、西洋の星占いで言えば水がめ座にあたる ( 〔訳注〕 そのため、原文では家茂を 「水がめ座将軍」 と呼称しているが訳文では家茂とした)。
 阿部の後任の大老は、彦根藩の井伊直弼――43歳の強硬な実務派――で、老中の協議を舵取った。彼は、ただちにハリス領事との通商条約に署名し、西洋諸国に5つの港を開いた。孝明天皇は、その新条約の批准を拒否し、憤慨した手紙――外交の責任はすべて幕府にあると責任放棄した朝彦親王の入れ知恵――とともにそれを江戸に送り返した。
 京都の宮廷のある貴族――後に「近代日本の創設者」と呼ばれるようになる、33歳の岩倉具視――は、即座に天皇に抗議の文書を提出し、そうした姿勢では天皇の神性な権威を代表するものとはならず、将軍に対して自身の命令を出さなくてはならない、と孝明天皇に助言した。天皇は、その若い貴族の見解に打たれ、岩倉を天皇の助言者の一人に登用した。岩倉は、天皇の許しをえて、天皇は強制された外交関係をめぐる責任はなく、12歳の将軍が再考することを待っている、との情報を漏らした。それと同時に、天皇の主席顧問の朝彦親王は、北の水戸に秘密の使者を送り、大砲を製造し「大日本史」を印刷した親王派の水戸藩に、孝明天皇の署名のもとで、将軍に逆らう新強硬派を追い払うように命じた。井伊大老は、その動きを知り、大規模な反クーデタを実施した。強力な幕府の警察力が京都へと動員され、丁重ながら力ずくで、百名を越える親王派の貴族、領主、侍を逮捕した。朝彦親王は、京都の外の田舎の荒れ果てた寺に追放され、幾人かの下位の身分の侍は処刑された。宮廷では、孝明天皇はその理想主義的な若い貴族、岩倉を主席顧問にとりあげていた。
 かつて、幕府がそれほどの赤裸々な力に訴えたことはなかった。孝明天皇は井伊大老に、京都からほんの一日の距離である神戸や大阪の港が開放されれば、内戦を招くと警告した。そして彼は井伊に、冷静かつ淡々と、「我々は外国人を明確に遠去けねばならず、鎖国という正しい政策に戻らなければならない」、と助言した。井伊はしかし、何らの考慮も見せず、若い将軍をして、日本の名において条約に署名させ、そして1860年、18人の藩主と53人の家臣を代表としてアメリカに送り、批准の手続きを交わした。
 日本の使節たちは、アメリカ船ポーハタン号に乗り、一隻の日本の護衛船
〔咸臨丸〕と、牛、羊、豚、家禽そして沢山の贈呈品や芸術品などの50トンの荷物とともに旅をしていた。互いの通訳上の問題は、18年前にアリューシャンの島で救われた漁師、万次郎がその橋渡しをした。伝統にのっとって、二本の刀を差し、武士の羽織を身に付けた彼らは、ホノルル、パナマ、ワシントン、ベルチモア、フィラデルフィア、ニューヨークと、どこに立ち寄ろうとも、深い印象を人々に与えた。ワシントンで、彼らが大統領、ジェームス・ブキャナンに謁見するためにパレードをした際、2万人と見積もられた群衆に歓迎された。ニューヨークでは、「この国がかつて与えたことのない、最上の公的もてなし」――1万人の客を招待した晩餐と舞踏会に、必要とあれば夜通し演奏を続けるよう指示された五つのバンド――が提供された。
 何事にも動じぬ侍たちは、歓迎のにぎやかさには驚かされなかった。そのうちの一人は、「挨拶をする人たちは引きも切らず、ある者は静かに、ある者は声高に腕を振り回して話していた」。だが、議会を訪れた時、ある上院議員が「声を限りに叫んでいる」有様に接した時はさすがに驚かされた。彼らは、さらに、氷の入った飲み物や、自分の夫と「とび回って」踊る裸の肩を見せた女たちにはいっそう印象付けられた。だが、彼らをそれ以上に驚かせたものは、南北戦争
〔1861〜1865〕のために進行中の膨大な準備と、カリフォルニアまで、その巨大な大陸をうねって横断する鉄道だった〔1869年、大陸横断鉄道完成。後の彼らの報告の中で、彼らは、西洋の技術を見習うことを主張してはいるが、西洋の文化や宗教とのそれには触れていない。彼らは、その文化が「余りに見せびらかし的で」、その宗教は「人々の倫理としては関心できない規範」で満たされていることを発見していた。
 将軍の斥候たちが、海外の敵を偵察している間、自国にこもった天皇は、彼に反抗した江戸の大老に対し、密かに謀略を練っていた。今や、京都の宮廷の孝明天皇の宮殿は、尊王運動のために動員された貴族の夜間の拠点となっていた。彼らの酒の世話や純ろうのろうそくの供給は、天皇が寵愛する妾である中山慶子
〔よしこ〕――文字通り「慶びの子」――が行っていた。彼女は貴族の娘で、その家系は徳川によって度々苦難をなめさせられていた。1852年、彼女は孝明天皇との間に、唯一の健康な男子、後の明治天皇を生んだ。彼女の父や兄弟はみな、国を統治するために天皇家が再登場することを熱心に信ずる人たちだった。そうした彼女の鼓舞をえて、孝明天皇は彼の主席顧問である岩倉に、江戸の幕府とのいよいよの決着を付けるために、日本西部の藩主や武士たちを結集するように命じた。また彼女に急き立てられて、天皇はついに、水戸藩主に井伊大老を追い払うよう指示した〔戊午の密勅(1858)〕
 井伊大老は、江戸城のお堀をへだてて向かい側の、広々とした屋敷に住んでいた。今日では、江戸城は皇居となっているが、当時は将軍の居城であった。井伊大老は毎朝、かごに乗って、お堀を渡り、まだ思春期にある将軍家茂に日々の報告をするために参上していた。1860年3月24日の朝、彼は、いつものように屋敷を後にした。まだ早春で、桜の開花には早すぎ、季節外れの寒気のため、雪やみぞれが白いつぼみの上に降りそそいでいた。井伊大老が江戸城南東
〔「南西」の間違い――「皇居地図」参照〕角の桜田門に近づいている時、大きな笠をかぶり、油紙の雨具を付けた従者や護衛たちは、風に逆らって前かがみに進んでいた。門前の橋の向こう側では、薩摩の島津藩主の後衛たちが、門内に消えようとしているところであった。
 井伊直弼は、島津藩主が若い将軍に何を進言しようとしているのかを知ろうと、登城を急ぐよう家臣に命じた。江戸城の天守閣に感嘆している外套をはおった何の変哲もない見物人の一群を、井伊の護衛は肩で押しのけて進んだ。その彼のかごが、橋のたもとに差し掛かった時だった。見物人の中の17人が、突如、雨みのを投げ捨て、現したその姿は、侮辱を受けてきた水戸藩士たちであった。
 刀を抜き、身構えて突進し、間髪を入れさせず、取り乱した井伊の家臣らを切り倒し、雪を赤く染め上げた。将軍の守衛が門内から駆け出てきたが、暗殺者たちは逃げ去っていた。事は決していた。彦根藩主井伊直弼は、首のない胴体となって崩れ込んでいる姿でかごの中に発見された。井伊の首は、逃げ去った暗殺者の一人によって、その行動を命じた水戸藩主、徳川斉昭
〔なりあき〕に届けられた。斉昭は、その首につばを吐き捨て、それを孝明天皇のもとへ送った。そこでその首は数週間、処刑場で公共の面前にさらされた。そこに付された立て札にはこう記されていた。「これは、外国人がこの国に立ち入ることを禁じた、日本の最も神聖なる掟を破った売国奴の首である。」(12)
  •   将軍側は、その首は偽物で、門外での斬り合いの後、その全遺体は回収された、と主張した。


国家統一計画

 それからの数週間、江戸の目抜き通りでは、将軍を売国奴と非難するビラがまかれた。全国各地の京都皇族の僧侶が支配する寺院では、骨董品であるはずの巻物に、徳川将軍の運命を予言するものが続々と出現した。東日本では、徳川家領の悪名高いやくざや賭博師のところに、彼らの刀を買いたいと申し出る、京都より隠密にやってきた密使が訪れた。覆面の一団は、宿場の郵便物を略奪し、そのうちの商人の金を横領して貧乏人に配った。尊王派の過激集団は、足利氏の霊廟に侵入し、日本を統治した1338年から1573年までの13人の将軍の像の首をすべて取り去った。
 脱藩した浪人たちが、全国各地より大挙して上洛し、孝明天皇に仕えたいと申し出た。孝明天皇の側室、慶子の周囲の王制復古主義者たちは、将軍からの権力奪還を宣言し、徳川政権に対する一斉蜂起を命ずるよう、天皇に進言した。「権力奪還」は即座になされ得るべき、と天皇には聞こえたはずだった。しかし、孝明天皇は、藤原家の血を引く保守的な家臣たちに言い含められ、権力の奪還は基本的に望まず、また、内政問題のいずれにも直接に関わろうとする意欲もなかった。彼はただ将軍に、その責任をまっとうし、野蛮人たちを追い払えと望むばかりであった。
 自らの責務を果たして同じ徳川家系の忠臣を殺した水戸藩主は、数ヶ月後、自分の浴室で、自殺か暗殺か、不審な刺傷で死亡しているのが発見された。考え抜かれた平和の精神は、かくして、この国から急速に消え去ろうとしていた。内乱は、外国勢力の侵入の脅威を前にして、どこから見ても、意味ある対応ではなかった。それからの一年間、この国は、その為政者を欠いた、政治的な真空状態にさらされた。天皇の理念先行の若い助言者、岩倉具視は、公武合体を説いて、孝明天皇の妹
〔和宮(かずのみや)〕と15歳の家茂将軍との婚姻を画策した。その一方、将軍の家臣たちは、神戸と大阪の開港を1868年まで遅らせる承認をハリス領事から得ようと苦心していた。その婚姻の儀式上で、少年将軍は、天皇の使者に、1876年までにすべての外国人を追放することを真面目にも誓約した。
 江戸城の妹とともに、孝明天皇はいまや徳川家は尊敬しうる同盟者で、敵対者に対する撲滅策をただちに推進できると考えていた。しかし助言者の岩倉は、問題はそれほど簡単に片ずくものではないと考えていた。彼は、外国人を追放するに十分に国が強くなるまでに必要な、長期にわたる内政改革と近代化を見通していた。彼は、江戸での婚姻の交渉にあたって接した幕府について、望みは持ち得なかった。この国家的危機に際して、すべての藩や党派をあげ、天皇のもとに結集した新政府の樹立が必要だった。彼は天皇に、外様の――1600年以来、幕府に意見を反映させる道を閉ざされいた――49藩に働きかけ、日本がいかなる政策を必要としているのかを尋ねてみるように説得した。
 大半の藩は、天皇が決定したものであるのなら、いかなる行動へも彼らの忠誠を表すと返答してきた。しかし、本州西端の長州藩は、天皇のもとでの全国統一と、外国排斥のための長期戦略の詳細計画を送ってきた。最初に、統一、近代化、強国化をあげ、次に、「海を越えた進出」をもって、敵との戦争を開始し、そして、日本と西洋との間の緩衝帯を作る、というものだった。要するに、長州案は、その後の262年間、それに忠誠を誓ってきた16世紀の秀吉のものと同じであった。孝明天皇の同意をえて、岩倉はそれを日本の長期計画として採用するよう、将軍に働きかけた。それは、日本の基本政策として、1945年まで維持されるものであった。
 長州計画の第一段階である統一は、最も困難なものであった。京都の退廃的宮廷と江戸の官僚は、その計画にともなう根こそぎの変化の用意ができていなかった。1862年初めのこの段階では、京都においての愛国者の最先鋒は、薩摩藩を脱藩し、尊王を誓って京都へと上ってきている血気盛んな志士たちであった。ライバル藩である長州の案が孝明天皇によって採用されるや、長州の武士たちもこぞって上京し始めた。そうした薩摩の一団とその新参者たちとが、祇園の色街で騒動を起こした。その斬り合い騒ぎがきっかけとなって火災が発生し、京の街の大半を焼く事態にいたった。
 孝明天皇の命令で、薩摩藩主の島津が、かつての家臣の狼藉を鎮圧するために上京した。主をも恐れぬ血気にはやる彼らの一団は、島津の動きに怒り、かつての領主を暗殺する謀議のため、旅宿寺田屋に集まった。1862年春、またしても、桜が花開く、騒動の季節であった。藩主島津は、その謀議を知り、その旅宿に押し入り、まったくの暗闇の中での名高い激闘の末、7人を殺した。自らの家臣の血を流させたことに悲観し、彼は、長州首脳と宮廷の若い助言者、岩倉の統一計画から抜けることを決心した。
 藩主島津は、江戸にも京都にも、多くの友人をもっていた。彼は将軍とは義理の親戚関係にあり、彼の姉妹は宮中の側室となっていた。彼は、水戸の故徳川藩主とともに、沿岸防備に努め、それが故に、孝明天皇のお気に入りでもあった。彼は、江戸と京都の完全な不和を防ごうと官僚と努力し、それが故に、徳川家のお気に入りでもあった。寺田屋の忌々しい騒動の後、彼の最初の行動は、京都郊外の荒れ寺にそれまで三年間幽閉されてきた朝彦親王――裕仁の伯父たちの父親――を解放することであった。そうなれば、彼と朝彦が、まず最初の取り組みとして、孝明天皇を成り上がり助言者岩倉とその新兵の、これまた成り上がりの長州藩から切り離すことに同意するにも、さしたる困難はなかった。
 近代史における日本の道筋はこの瞬間に決定されといっても、それは単純化ではあっても誇張ではない。1930年代のロシアへの侵攻を説く北進派の陸軍支援者は、岩倉と長州の党派的末裔である。また、シンガポールやマニラの西洋勢力に侵攻をかけようとする南進派の提唱者は、薩摩藩主島津と朝彦の息子や孫の海軍提督らである。
 神道の最高の司祭として、孝明天皇は、外国人は何人であろうとも、聖なる国土から排除されなければならないとの考えに捕らわれていた。したがって、今やまさしく国の要塞化と復活を考える時であった。内親王の地位にあって魅力的な朝彦は、たとえ寝室であろうと常時の立ち入りが許され、その固定観念においても、実際にそれに同意もして、天皇を満足させた。朝彦にとって、古い秩序こそ理想的だった。近代化や変革は、彼らにとって、望むべきものではなかった。
 だが岩倉にとって、見解は大きく異なっていた。彼は、古い秩序は日本を息詰まらせ、自身の窒息の危機は、神聖が汚される危機より危険と考えていた。そうではあったのだが、岩倉は、有能な宮廷人でありながら、「新興貴族」の一人にすぎず、だからゆえに、孝明天皇に面会するには許可が必要という不利さをかかえていた。彼の天皇との共通点は、その献身だった。天皇は宗教的隠遁者として、先祖代々引き継がれてきた神道を維持することに献身していた。岩倉は、類いまれな洞察者として、彼の見る日本の将来に献身していた。
 1862年春、藩主島津
〔久光(1817−1887)〕 と朝彦親王は、ともに謀って〔天皇に働きかけ〕、将軍にその権力の多くを放棄することを命じ、同時に、外国人居留地に圧力をかけ、日本から外国人を追い出しにかかるよう、遂に孝明天皇を決意させるに至った。そしてこの意を伝えるために江戸に出向いた際、島津は16歳の将軍家茂の重臣たちに、天皇の通達のすべての部分に余りこだわらないないようにと助言した。彼は、重要な個所は、外国人の定住にたいする威圧であると忠告した。島津は臆病な将軍の家臣たちに、天皇は国内統治については折り合いを考えていることを確約した。そして、対西洋諸国についても、その高姿勢が見せかけにすぎない場合には、妥協点を探るつもりであるとした。故国から何千マイルも離れ、沿岸のほんの一部を砲撃できる大砲以外に何の優越さも持たずして、外国人たちは何がしえようと言うのであった。
 薩摩藩の剣客たちは、水戸藩の志士たちに煽られて、横浜の出来立ての外人居留区に襲撃を繰り返し、幕府の重臣たちに揺さぶりを試みた。彼らは、将軍の顧問たちを、一人ひとり切り崩すのに成功した。彼らは、フランス人、ロシア人、アメリカ人への攻撃を始めた。彼らはことに英国公使館に火を付け、英国領事館の二人の守衛に致命傷を与えた。彼らは、たわいもない将軍が義理の兄である天皇の願いをようやくに理解したと信じ、薩摩藩主島津のもとで、再び京都へ戻ることにした。
  •   彼らが英国のみをその悪だくみの対象としたのは、英国が西洋諸国のなかで強力な海軍力を保有し、海洋志向の薩摩藩の島津家にとって、とくに意識した危険な相手であったからである。
 1862年9月14日、藩主島津とその一行が東海道を京都へと向かい始めた時、横浜の外人居留区からの早朝の乗馬で出てきた英国人夫妻と遭遇した。その外国人旅行者は、うかつにも、日本人ならば誰もが承知している決りである、大名行列のある時には道を開ける義務があることを知らずに、島津藩の行列に入り込んでしまった。島津の武士のひとりがいかめしく前に進んで、上海から来日していた商人、チャールス・レノック・リチャードソンに勝負を挑んだ。リチャードソンがそれを無視したので、その武士は、馬上の彼に一刀を加えた。リチャードソンの後ろにいた婦人の馬が武士の列に走り込んだ。日本の武士の一人があざやかな一撃で、その婦人の束ねた髪を戦利品として切り取った。恐怖にかられた婦人は、横浜の英国人居留地に逃げ込み事を告げ、彼女の背後で事を逃れていた二人の馬上の英国人は、ののしりながら、島津の一行に道を譲った。
 リチャードソンは地面へと崩れ落ち、道路の端に倒れて血を流していた。藩主島津の一行が過ぎ去った後、彼は一軒の農家に這いずってゆき、数時間、そこで手当てを受けた。藩主島津は、何が起ったかを聞き、家来を彼のもとにやり、その死体を処理した。その武士はリチャードソンの遺体を切断し、その農夫に埋葬を命じた。
 起こるべきことが起ったのだが、藩主島津は、彼の最後の仕事に満足してはいなかった。京都にもどって、彼は、彼の志士が江戸の同士ほど巧みに殺害を行っていないことを知った。彼らは、長州の一味を京都の街から撲滅しようとして失敗し、その古都を彼にとって危険な場所としていた鹿児島の町への英国の報復を心配して、藩主島津は、天皇に表敬訪問した後、九州の領地へと向かった。
  •   この果たし合いの中で、天皇裕仁の内大臣となる木戸幸一の養子関係上 〔訳注:養子関係はなく、藩主から授かった改姓による。著者の誤解か〕 の祖父である木戸孝允〔桂小五郎〕は、彼を愛する芸妓〔幾松〕による通告で、待ち伏せから逃れることができたというロマンチックな話題を持つ。彼は長州生まれで、斬り合いの中では薩摩側についていた。彼はその後、その芸妓と結婚し、木戸家の養子に迎えられ正式な息子となった。
 領主島津は、天皇との短い謁見の中で、江戸で将軍家茂を取り込んだ天皇の命令が、外国人の排斥について、自分が理解していたより不明瞭であると苦情を述べた。孝明天皇は、用心深い助言者、朝彦親王の口添えをえて、調査を行い、命令の最終文書の写しに不審な骨抜き化がほどこされている個所を発見した。江戸城にそれを運んだ宮廷貴族は、とある寺院に追いやられ、元文書に筆を加えた岩倉はそのとがめを受けた。十月、岩倉は宮廷の監視のもとにおかれ、十一月、孝明天皇は、宮廷での彼の身分と職務を剥奪する布告を発し、京都から追放した。だがその処分がなされる前夜、岩倉は、宮廷の衣装部屋の女官である妹に隠れて、京都から抜け出すことに成功していた。彼は近辺の田舎に隠れ家を得、都の信頼しうる長州の志士の一部や宮廷の若い貴族と連絡をとりあった。孝明天皇は、あらたに密使を江戸に送り、将軍家茂に、外国人を直ちに追放すると、明確に告げた。
 1863年1月、勝者朝彦親王は、いまや陛下の信頼を一身に受け、その39歳の誕生日を祝っていた。彼はその日、近衛忠弘――1937年の中国との戦争を開始した時の総理大臣の祖父――、島津忠義――23歳の薩摩藩主――らをゲストに迎え、小宴をもった。その際、朝彦親王と若い薩摩藩主は、朝彦邸の冬枯れの庭園において、今は幹と枝の立派で神聖なカエデの元で会い、近衛の立会いのもとで、双方の家族の永遠の親交を誓った。この、皇室の伏見家と海洋志向である薩摩の結びつきは、変幻自在の1930年代の政治の中でもまだ有効となる、信義を重んずる封建的忠義として継続したのである。

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