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第七章
皇太子裕仁
(その6)

ヨーロッパへの航海(39)

 1921年3月3日の朝、裕仁と侍従および陸海軍将校による50人の随行員は、正装を着けて東京の市街を通り、横浜沖の戦艦香取に乗船、戦艦鹿島を護衛にしたがえ、外海へと船出した。日本の沿岸からの視界から消え去る前、同小艦隊は、病める大正天皇と節子皇后が、夏の御用邸として知られる別荘で隠遁生活を送っている海辺の村、葉山から3マイル〔4.8km〕の沖合いに一時停泊した。20歳の裕仁は、突如スクリューが止まった艦尾に立ち、両親の居る方角に礼をし、しばしの沈想の時を持った。やがて彼が向きを変えると、エンジンは再び轟音をあげ始め、二隻の軍艦は、その細長い煙突から煙跡をたなびかせながら、外洋へと出て行った。
 裕仁は、この大海原を行く航海が、自分の子供時代を終わらせ、かつ、治世者として最初の試練となるものであることを予感していた。それまでの一年間、彼は父に代わって、外国からの大使を迎えてきた。医師たちの見立てでは、大正天皇の症状は回復不能で、その外国歴訪から帰国した際には、裕仁は自国の指導者として全面の任を負うことが想定されていた。だがまだ彼には、その治世について構想する時間は与えられていなかった。そのインド洋から地中海を経る長い航海は、裕仁に事を考える機会になろうとしていた。
 裕仁は、悲しいことながら、父の統治は失敗であったとの認識にたって、すべての考察を始めた。日本に天照大神の神聖を維持し、神権政治をもって統治しようとする祖先からの夢は、実現されないままで終わっていた。裕仁はそうした夢について懸念を持っていた。というのは、それは余りに狭隘で、神秘主義的過ぎ、非科学的であった。裕仁は、自分の受けた地理や経済の教育が故に、日本を孤立して考えることができないだけでなく、アジアの一部――その先導的な一部――であると考えていた。彼は学んできた科学的知識から、天照大神の伝説をそのままでは受け入れることができなかった。彼は熱心な神道神主であり、祖先の霊魂を信じていたが、他の多くの人たちのように迷信的にではなかった。彼は最終的には、天体物理学者のジェームス・ジーンズ卿や生理学者のJ.S.ホールデインのような西洋人思想家の半科学的霊魂の考えを、そうした彼自身の信条に接ぎ木して合理的なものにさせた。裕仁は、霊魂は常に現存し、話しかけることが可能だが、それは霊気に浸透してゆく心霊波を通じてのみ可能である信じていた。彼は、日本人の多くが信ずるような、戦いにおいてそうした霊魂が物的な助けとなるようなことが可能とは考えていなかった。むしろ、もしその国が自らの天皇の野心を認識するのであるならば、その国はその敵を、近代的な武器で装備し冷静な作戦判断で展開する現実の人間として捕えねばならない、と考えていた。彼は、日本の自然な成長の大半は、東南アジアの島々への海の力としてなされるとする彼の父親の考えに同意しようとしていた。
#5
 裕仁は、自分のそうした考えを組織的に組み立てるため、四人の男を軍艦香取に乗船させていた。裕仁は、その後の最初の十年間の統治にあたり、その四人――牧野伯爵、珍田伯爵、奈良大将、閑院宮――に信頼をおくこととなる。
 牧野伸顕
〔まきののぶあき〕伯爵は、裕仁の内大臣、最高民間人顧問、そして1935年末まで策謀計画の主査を務めこととなる。彼は、59歳の、痩せて長身、神経質、薄い唇の紳士で、機知に富んだウイットや、気品ある振る舞い、そしてそのビロードのようにソフトな声でならした人物であった。彼は申し分のない英語を話し、米国に留学して、8年間のあまり幸福でない少年時代を過ごしていた。1917年から1919年まで、シベリア出兵をめぐる論争の時、外交に関する大正天皇への顧問会議の書記長を務めていた。1919年には、ベルサイユ講和会議に次席代表として参加し、会場に姿を見せない代表に代わって答弁に当った。牧野伸顕は、明治天皇の寡頭政治家の一人、薩摩藩士大久保利通の息子で、父大久保は、1877年、薩摩藩士が反旗をひるがえした時、政府軍を率いてそれを制圧した。
 珍田捨巳
〔ちんだすてみ〕伯爵も、非長州の出身で、彼もアメリカでの教育を受け、ベルサイユへは同じく西園寺に率いられて出席した。1912年の大正天皇のもとでの桂内閣では外務大臣次官をつとめ、1916年から1920年までは英国大使となり、いまや、アングロ・日本同盟の更新をめぐって、裕仁を支援する立場にあった。65歳の温和な彼は、1929年に他界するまで、侍従長として裕仁に仕えた。
 53歳の奈良武次大将は、栃木県出身の非長州人で、慈父然とした寡黙、てきぱきとした人物だった。後に裕仁の侍従武官長となり、1933年の満州征服完了まで、陸軍と天皇の間の連絡役を務めた。
 裕仁は、対米戦が始まるまでは、他の侍従武官長や侍従長や内大臣を持っていたが、香取艦上の一行の四番目の重要ポストにある閑院宮は、1945年5月に重症の痔で死ぬまで、裕仁とともに、最高戦時会議の最高位の地位にあった。1921年の段階で、すでに閑院宮は時代遅れな人物であった。彼は朝彦親王――孝明天皇の顧問――を兄とする当時生存する三人兄弟の末っ子で、1924年からは唯一の生存者だった。生まれて間もなく孝明天皇の養子となり、皇室家系では、裕仁の大伯父、明治天皇の兄弟となった。閑院は、まだ56歳で、後に空襲で東京が焼けるところを目撃することとなる。活力に富み、大正天皇の六人親王の内では最も活動的で、日本陸軍で最も若い元帥となって、山縣とその身分と地位において肩を並べることとなった。1916年の奉天クーデタを画策したのは閑院で、また、1931年から1940年まで――満州征服、中国侵略、1939年のロシアに対するノモンハン事件、そして対米戦の準備のあった――陸軍軍令部長官であったのは彼であった。閑院は年よりも若く見え、目立ってハンサムで、見事な髭をたくわえ、筋肉質で、常にきちんと着こみ、磨きあげられていた。
 牧野、珍田、奈良、閑院――それぞれ、政治、外交、戦術、戦略の顧問――に加え、裕仁は、その艦上随行員に、彼の大兄のうちの三人――婚約者の従兄で体育教育に当った小松侯爵、小松の義理兄弟で皇室の広報にたずさわる二荒伯爵、そして海軍武官で真珠湾攻撃の準備に入っていた1941年時の海軍大臣であった及川古志郎大将――を同行していた。さらに裕仁が連れて来ていた私的側近の八人は、西園寺八郎、近衛親王の従兄の前田利為伯爵で後の1942年初めにフィリピンのバターン攻撃を指揮、そのほか、裕仁を血生臭い将来へと導く貴族生まれの六人の陸海軍大将たちであった。
 甲板の椅子でくつろいだりクリケットをしたりしながら、裕仁とその随行員たちは日本の将来につていて議論した。彼らは、海洋志向の薩摩藩の関係者で占められ、南洋への進出を好んでおり、明治天皇に寡頭政治家の多くを供給していた長州勢とは対立していた。ヨーロッパでは、他の非長州関係者が合流しようとしていた。裕仁の外遊が発表された時、自身の情報に拠って立つ非長州勢で、ヨーロッパ行きのチケットを買うために旅行社に駆け付けなかった者はほとんどいなかった。ことに、セイロン沖で香取に追いつくはずであった三島丸の予約は満員だった。そうした同行者たちの多くは、姻戚者や債務者たちで、彼らを通じ、裕仁は自ら望むどんな取り巻き連中をも組織することができた。ただ彼が肝に命じておくべきことは、父親の失敗――先祖代々の権威を余りに専制的に振り回すこと――を繰り返さないことであった。
 皇太子の小艦隊は、荒波をこえて日本本土の最南端に達した。乗船客の多くは船酔いに悩まされていたが、裕仁は甲板にいた。無線員が、何百人もの学童が海岸線で手を振っていますと彼に告げると、彼は礼節をもって双眼鏡でその方向をのぞいた。しかし、二荒伯爵が言うように、「距離がありすぎ、沿岸の人々を見ることができないのは残念なこと」であった。その二日後、艦隊は沖縄に入港し、裕仁が那覇の街中を行く沿道――かってペリーが歩いた道――を、島の人々が沈黙して深ぶかと礼をしていた。その二日後、艦隊は台湾の南端をかすめ、日本帝国領土を後にした。裕仁は、1895年にその台湾征服の際マラリアで死んだ大将、北白川能久親王のため、その子息小松侯爵が催す祈祷式に加わった。
 それからさらに二日後、艦隊は香港に立ち寄り、週末の宴を持った。その際、裕仁はビクトリア島にある水源地を視察する特別の目的があった。というのは、1941年になった際には、それは王室植民地の戦術的なアキレス腱となる。1921年3月13日、その港に続く海峡は14隻の蒸気ランチが整列し、「香港日本協会による公式見送り、万歳」との意味の14枚の大文字の看板を掲げていた。
 さらに五日後、艦隊はシンガポールの要塞に入り、そこで裕仁は、彼を迎え、案内するために集まってきた愛国心あふれる海外居住日本人にこたえ、甲板に立ってほぼ四時間にわたり敬礼し続けていた。翌日からの四日間の日程は、国賓行事で満たされていたが、裕仁はそこに、自分の興味によるいくつかの事項を挿入させた。彼は、博物館と有名な植物園をたずねた。この植物園は、1857年にアルフレッド・ラッセル・ウォレスが自然淘汰につての学術論文を記述し、ダーウィンが進化論を出版するきっかけとなった場所である。彼はある朝、公式の時計を止め、その間、日本の方角を向き、祖先の春のお盆を祝った。彼はヨットを借り、シンガポール島を一周した。その際、二荒伯爵は、「島は、狭い海峡でジョホールと分けられている」ことに注目している。
 シンガポールからスエズまでの長い25日間の航海の間、それが中断されたのは、セイロンのコロンボに立ち寄った時のみだった。そこで裕仁は、現地人の踊りや40匹のゾウが一斉に膝を折ってお辞儀するさまに驚き、また楽しんだ。洋上での日々では、彼は甲板上でのゴルフを楽しみ、プールで泳ぎ、フランス語を磨き、また、同船する親戚や日本の有力者から、知識や話題を仕入れた。艦内のにわか仕込みの映画館では、部屋の後部に固まる乗組員たちに、彼の側近のすぐ後ろの席に着くようにと命じ、彼の進歩的な傾向が現れていた。


戦場ツアー(40)

 エジプトでの四日間では、カイロの街路を吹き抜ける実際の砂嵐を見る幸運に恵まれ、マルタ島での二日間では、一次大戦の際、護衛航海で命を落した77名の日本人の冥福を祈り、ジブラルタルでの三日間では、その強固な要塞の水槽やトンネルを視察し、そして5月8日、裕仁は英国、ポーツマスの埠頭に降り立った。その後の数週間は、晩餐会、歓迎式典、披露行進と続き、裕仁は、自身の生涯で始めてかつその時一度のみ、菊のカーテンの外に立ち、西洋のカメラマンや記者による検閲をうけた#6。英国の報道陣は、ほどんど例外なく、彼の謙虚さ、平静さ、そしてその知性に印象付けられた。リッデル卿〔英国の新聞経営者〕の形容によると、「感じがよく」、「きどらず」、「礼儀正しく」、「目の肥えた」、「優れた観察眼をもつが故と思われる、注目すべき思考力をそなえた」人物と見られていた。(41)
 裕仁はその立て込んだ日程のなかでも、しなくてはならない乾杯や短い挨拶の言葉を何ら困難もなさそうに覚えた。彼は前もって、歓迎式典で面会する何十人もの将官や外交官――日本そしてヨーロッパの――の名前と経歴を覚え、しかもそれを忘れなかった。ある場面では、彼が英国陸軍組織の特徴についてある英国将校に尋ねられた際、「大戦の初期、英国は師団のみをもち軍団を持たなかったことだと思います」と答えた。彼は、その発言の簡潔さと率直さ、そして自分の部下を扱うに当っての正確さ、公平さ、そしてマナーの良さで、人々に強い印象を与えた。彼は毎朝6時に起床し、夜は零時までには就寝し、その分刻みの日程にも、これといった緊張も見せずに、あたかも時計のように行動することができた。
 ロンドン市長による歓迎式典では、彼の生涯で初めて大勢の観衆に接しながら、二荒伯爵の言葉によると、裕仁は「落ち着いて会場全体を見渡し、そして、軽く敬礼した後、軍の礼帽を左脇にはさみ、返礼の演説文書を開き始めた。巻き上げられたその文書は厚くそして固く、それを読み上げるために広げるのが難しいように見受けられた。・・・しかし、いささかも慌てることなく、彼はその文書を落ち着いて広げ、はっきりとした、よく響く声と、雄弁な口調をもってそれを読みあげた。・・・一団の日本人は、その困難で骨の折れる仕事の見事な成し遂げを見て、それぞれの顔を紅潮させていた」。
 そうした数日が過ぎ、裕仁の随行員たちは、彼らの主がそれまでの誰よりも、沈着で洗練されていることに気付くようになった。5月10日、ウィンザー城を見学した一日を終え、その夜、バッキンガム宮殿で催される晩餐会への着付けを行っている際、ドアがノックされ、予告もなく、ジョージ英国王が、裕仁のように、スリッパをはき、シャツとズボンつりのままの、まだ着付け途中の姿で入ってきた。お付きの者たちは慌てふためいた。そのうちの最も高尚な人でも、宮殿内部での王族の私生活の習慣には長けおらず、そうした親族外の者による前例のない非礼に悪意を表わすのではないかと恐れた。しかし、裕仁の見識はそれほど狭くはなかった。ジョージ王は、裕仁の肩に手をかけ、二人してベッドに腰掛け、バッキンガム宮殿に彼を迎えることがどれほどか喜ばしいことかと述べ、さらに、裕仁が最も関心ある話題、すなわち先の戦争について、一部フランス語で、一部、緊張しきった通訳を通し、気さくに話し合った。
 そのやり取りの中で、ジョージ王は、イープル
〔ベルギー北西部の都市で、一次大戦の際、初めて毒ガスが用いられた〕で英国は15万人を失い、皇太子に、ベルギー滞在中に時間があるなら、その戦跡を見学してみるのもよいことだと意見を述べた。後に裕仁は、その時間をこしらえ、そして英国王にその印象を以下のように打電した。「目の前のその光景は感慨深く、著しく自分を啓発し、イープルの地での血生臭い戦況について語られた閣下の言葉を生々しく思い出させます」。
 王賓としてのバッキンガム宮殿での三日間と、国賓としてのチェスターフィールド館での八日間でのあわただしく相次ぐ見物と式典の後、裕仁は、ブレアー城のアトール卿と、狩りや釣りの一週間を過ごすため、スコットランドに向かった。彼は、彼の訪問によって生じる多大な用務に自主的に働く使用人たちを繰り出し、また同時に、そうした “下僕” がある宵、卿自身とフリングダンスを一緒に興じるという、地方豪族の民主主義のシステムに大そう印象を深くした。
 プルマンでの一泊と、航空機と船舶製造の会社を視察した二日間の後、裕仁は5月27日、ロンドンに戻り、日本大使館の客として、英国での最後の四日間を過ごした。そこで彼は、彼と会うために諸事をやり繰りして集まった日本海軍の将来の提督や司令官を約束されている若者たちと、式典や宴会をもった。
 かくして、彼の歴訪の英国編が終ろうとしていた際、彼は観兵式にのぞんだ。彼は、英国将軍の制服を着て写真を撮った。そこで彼は、幾度も同席した皇太子エドワードの身の振る舞いを注意深く観察し、その若者の磨かれて無頓着な品のよさに、時に羨み、時に気を害したりして、大いに感嘆させられた。裕仁は話される英語のかなりを理解でき、その歴訪の終盤では、フランス語でもなんとか会話することができるようになった。だがこの段階では、彼とエドワードは通訳のために同行する日本と英国の係員に頼って交わされた会話の内容は、ひとりの英国側の通訳者の話から推測される。長い観閲が終わりに近づき、エドワード皇太子はうやうやしく裕仁皇太子の席を見やり、そして、「私がキャヴァン卿下の第4軍団に属していた時、君(通訳)は同じ軍団の第20師団におり、ある日、君は自分の馬を私に貸してくれた、とあちらの皇太子に伝えてくれ。」。常にものおじすることない裕仁はその顛末を尋ねた。英国皇太子は、「すばらしい! 今日の主役の一人の気が変ったぞ」、と言って姿を消した。
(42)
 ジョージ国王の人の良さとエドワード皇太子の堅苦しくない態度を胸にしまったまま、裕仁はパリへと向かった。最初に公式の式典を済ませた後、エッフェル塔に登った。翌日の6月3日、ルタン紙で辛らつに報道されたように、ルーブル美術館とミロのビーナスを「駆け足で」訪れ、そして、オテル・デ・サンヴァリッドのナポレオンの墓におもむき、アウステルリッツ
〔ナポレオンがロシア・オーストリア連合軍を破ったチェコの町名〕の剣にじっと見入った。そこにルーブルの三倍もの時間を費やし、ナポレオンの遺品の維持費として400ドルを寄付して感銘を与えた。この額は、皇室の通常のほどこしの基準で言えば、皇太子や皇太子妃の滞在を歓待した日本の村に支払われる20回分の報酬に当っていた。
 6月4日、裕仁は閑院親王と彼のもとサンシルレコル教師のひとり、マレシャル・ペタンともに、フランス砲術学校を視察した。当時ペタンはヴェルダンの――忘れられてはならない――英雄だった。すでに、イタリアのダンヌンツィオの黒シャツ隊の称賛者である彼は、その栄光を萎えさせており、後には、ナチに国を売ることにもなる。ペタンは、その後の滞在のすべてを通じ、フランスの軍事的な名所について、若い皇太子の案内役を務めた。
 6月5日、裕仁はベルサイユ宮殿訪問の予定をキャンセルして仲間のところに行った。日本の報道はこの勝手な行為を故意に無視し、翌日の記事は皇太子のフランス文化への熱心な関心についての一般的な解説を長々と報じていた。実際のところ、裕仁の5月31日から6月9日までのフランス滞在の文化的側面は、さほど熱のこもったものではなかった。彼は、ほとんどの名所には形の上のみの訪問をするのみで、できるだけ自身の用件のために時間をとっていた。
 6月7日、裕仁は、東久邇親王――大兄のひとりでパリに在住する陸軍諜報員で、裕仁のために山縣と反山縣グループのスパイ網を組織中――と長く親密な昼食をとった。その日の朝、二荒伯爵――皇室の広報係――は東久邇のことを、「東伯爵との偽名のもとで研鑽に当っている」とのみ語っていた。
 二日後の6月9日、裕仁は、その生涯で最初でまたその時のみ、自分も偽名を用い、単独で街を歩き、自分自身でお金を使った。いくつかの店に立ち寄り、家族や婚約者のために、帰国にむけたおみやげを買った。また、自分自身のために、生涯の記念として、ナポレオンの胸像を求めた。それはその後、彼の書斎に置かれ、1920年代にはダーウィンの像が、そして1945年にはリンカーンの像がそれに加えられた。征服、進化、そして解放、これは、彼の統治に運命的に課される時折の事柄であった。
 6月10日、裕仁はパリを発ってブリュッセルに向かい、それからの10日間は公式の日程に戻り、ワーテルローやイープルや北海沿岸の低地帯の戦跡、そして、オランダやベルギーの王室との式典に臨んだ。6月20日、再びパリに戻った際、彼は何かに取りつかれているようだった
(43)。彼は下院議会に短時間立ち寄っただけで、そして再び仲間と会い、彼の個人的な必要から、セーブルにある国際度量衡局で、プラチナ製の国際メートル原器を視察し、またしても、長い昼食を東久邇親王ととった。それ以降の彼の時間――その十分の九――のすべては、閑院親王とペタン元帥との親交、砲弾跡の残る森や草地の調査旅行、軍事学校の訪問、そして戦車や航空機の展示の視察に費やされた。彼が学んだ戦車の操縦はあまりに現実味にあふれ、その教官の馬が暴れて彼を放り出した際、骨盤を骨折したほどだった。(44)
 裕仁は、グレイブロッテ
〔普仏戦争の戦跡〕、サン・プリバそしてメッツ近くのサン・クエンティン砦で二日、ベルダンで一日、ソンム〔第一次世界大戦最大の戦地〕で一日、ランス付近の戦場で一日、それぞれ過ごした。日程の隙間には、彼は、工作隊や地形学の古い軍事学校、科学技術専門学校、サムールの騎兵学校、そしてサンシルレコルの陸軍士官学校の見学を入れた。7月5日朝、彼は東久邇親王と再び会い、ラブリエでゴルフをした。
 翌 7月6日の夜、裕仁は、ヨーロッパの日本人外交官や調査員のために、幾つかのパーティーを催した。それ以前、欧州にそれほど多くの若い日本人将官が滞在していたことはなかった。それは余りに多かったので、以降、米、英、仏の諜報員が詳しく監視しはじめた。彼らはそれまでに、パリ、チューリッヒ、フランクフルトの三都市を基盤に、ルールやザール地方やスイスの工場にあって、戦争中に機密の内に開発された新技術を、適用可能ならば、日本のためにコピーしようとしていた(45)。こうした産業スパイで目覚ましかったことは、そのスパイ行為そのものではなく、その一群が長州人で占められていたことで、薩摩人は一人もいなかった。さらに驚かされることは、その人員には、後の1930年、40年代の有名な日本人ファシスト将軍となる者たちが、およそ半分も含まれていたことである。裕仁はその全員と対面し、知識溢れる会話と熱い奨励を与えて、彼らに名誉をもたらしたのであった。
 7月7日、南フランスのトゥーロン港で待つ艦隊で帰国の途につくため、特別列車に乗り込んだ。7月10日から18日まで、裕仁はナポリとローマを訪れ、コロシアムとシスティーナ礼拝堂をぞんざいに訪問した後、再び、戦車と大砲の実演と現地の日本人将官との会話に時間を費やした。バチカンで彼の関心を引いたものは、1613年、日本の初期のキリスト教徒がローマに来て法王ポール5世に謁見した際の筆で書いた記帳だった。
 恐らく、裕仁はそうしたした外国体験にうんざりしていたかも知れない。彼が艦隊に戻るや否や、最初に彼が行った運動は、ゴルフでも水泳でもなく、相撲だった。彼は33歳の小松侯爵と三番の相撲をとり、そして、彼と取り組むことを気にしない側近のだれとでも気安くそれに応じた。二荒伯爵は、「たとえ鼻血を流しながらも、殿下は繰り返して、相撲のお相手をなされた。彼の得意手は突き出しであったようです」、と述べている。8月9日、艦隊がセイロンに停泊した時、ある英国人夫人は、四ヶ月半前の来訪の時に比べ、気楽さと落ち着きが顕著に増したことに注目していた。

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