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第八章
摂政裕仁
(その2)



大震災(75)

 予算が充当されて秘密の海軍力開発に着手され、そして若き摂政裕仁は、新たな関与である、バーデン・バーデンで提唱された陸軍の再組織化に取り組み始めた時だった。その被災から復興するために数年を要することとなる壊滅的災害がその帝王の国家計画の後退を余儀なくさせた。1923年9月1日丁度正午、ほとんどすべての家庭の七輪に昼の支度のために火が入っていた時、東京帝国大学の地震計は揺れを記録し始めた。火山国の日本では年に三百回以上の地震動を記録するが、最初の揺れはその程度のものだった。しかし、振れの記録は止まらず、しかも、数秒ごとに、揺れはより強く、頻繁となった。そして数分のうちに、そうした計測器に大波が襲ってきた。東京を取り囲む関東平野全体が、あたかも大海の表面のように、実際に波打った。幾千件もの家屋がぺしゃんことなり、12階建てを誇っていた新築の塔、「浅草凌雲閣」が空から消えた。13世紀に建造された鎌倉の巨大な仏像――高さ50フィート〔15m〕、胴回り100フィート〔30m〕――が、その台座から放り出された。震源に近い東京南西部の海岸には津波が押し寄せ、村落の崩壊家屋を流し去った。
 
主震は5分間ほどだったが、崩れ落ちた家屋の下で、七輪の火は残っており、やがて、東京、横浜の首都圏全体が燃え上がった。火炎の嵐 「龍の尾」は被災地を飲み尽した。横須賀の海軍基地では、備蓄されていた十万トンの石油が海に流れ出し、漂流して沿岸の浜を油まみれにした。今や、それにも火が付き、陸上の焼け地獄から岸辺に逃れてきた人たちを犠牲にした。地震は、東京の三分の二、横浜の五分の四を破壊し、およそ14万人――広島と長崎の犠牲者の合計――を焼死させた。
 地震が襲った時、23歳の裕仁は、赤坂離宮のプチベルサイユ宮殿で国主催の午餐会に臨んでいた。その宮殿は、日本で最初の耐震設計がほどこされた、大規模な2階建ての建物だった
#2。そのため、その建物は地震の揺れに耐え、壁にひびが入る程度で済んだ。裕仁や来賓客は、すべての日本人が子供の頃より習っている訓練の通りに、戸外へと退避した。そこで彼らは、首都が崩壊してゆくさまを目撃し、最初の火の手が上がるのを見た。
 摂政裕仁は、その時、生涯でほとんどその時だけ、政府活動へ自ら直接に関与することとなった。首相〔加藤友三郎〕は一週間前に死亡したばかりで、裕仁まだ後継首相を指名していなかった。その空位期間、裕仁は福田雅太郎陸軍大将を戒厳令司令官に命じ、救援任務に当らせた。その後の二週間、裕仁と福田は毎日、二度にわたって協議を持った。最大の問題は、その大災害の責任を何に帰させるかであった。当時の多くの日本人は、日本の近海の底には巨大ナマズが住んでおり、皇位の後を継ぐ息子に天照大神が怒りを抱いた時、それが暴れ出して地震を起こすと信じていた。古代、大きな地震の後には、その償いのために天皇が退位することがよくあった。この1923年の震災は余りに甚大で、病んで無能力な大正天皇の退位くらいでは不十分とさえ思われていた。
 それがゆえに、新たな責任の帰し方がその国民に導入された。戒厳令司令官の福田大将は、そこに生贄の犠牲者を作り出させた。彼の憲兵隊は、朝鮮人や社会主義者が地震の前には時勢に逆らい、いまや、火を放ち、店を略奪して震災に乗じようとしていると噂を流した。福田の兵隊は、宮廷が後援する軍体操倶楽部の若者自警団や黒龍会のごろつきたちの応援を受けて、日本語を正しく発音できない東洋人の狩りだしを始めた。スラム街に住む見下げられた四千人の朝鮮人が臨時裁判や簡単な発音テストにかけられ、路上で首をはねられた。社会主義者は憲兵によって東京の亀戸刑務所へと連れ去られ、当時の職務記録によると、独房で労働歌をうたい続ける彼らを、「看守規則第12条にもとづいて、死に至るまで責め立てた」。
 燃え盛る火炎の中を逃げまどう群衆は、お堀で囲まれて安全な皇居前の緑地へ入ろうとしていた。だがそこで、警官に行く手をさえぎられ、後方には火の手が迫り、警官隊の列を前にふくれ上がっていた。「ロシアを見よ、決して武器を捨てるな」と叫けぶ社会主義者の大杉栄の扇動を、群衆は喝采して受け入れた。警察はその職務を執行し続け、幸い火炎はその群衆を襲わなかった。しかし、残り火も燃え尽きた二週間後、特高警察は大杉を逮捕し、その妻と7歳の甥も共に、東京の麹町区にある、誰もが恐れる特高警察本部へと連行した。9月16日、その本部で、甘粕大尉は湯浅倉平の訪問を受けた。湯浅は裕仁付きの侍従で、後の天皇の主席顧問である内大臣となった。その夜、暗くなってから、甘粕大尉は大杉の独房に入り、背後から物音も立てずに首をしめて彼を殺した。(77)
 甘粕はさらに下士官を伴って大杉の妻の独房に入った。夫ほど油断を欠いていなかった大杉の妻は、ただちに振り向いて彼らを見、殺される寸前、喉を押さえられたうめき声を上げた。隣の独房の7歳児は、彼女の声を聞き、恐怖で叫び始めた。そして遂に彼女が静かになる頃には、その少年も首を絞められて死んでいた。
 日本人は子供を大事にするが故に、また、大杉の事件に宮中が直接に関わっているとの噂が広まったが故に、甘粕大尉の子供殺しは、地震のどさくさに紛れようとしたたものの、処罰されるべき犯罪だった
#3。見せかけの裁判の後、天草は禁固十年の刑が言い渡されたが、裕仁は後に、ひそかに三年に減刑した。その釈放の際、甘粕は自称「天皇の友人」と称する者から、「ヨーロッパへの留学」のためにと金を受け取っていた。彼はそうして、1927年から1929年の間、パリにおけるスパイ網の端くれとなった。その後の彼は、満州での名目のみの仕事で安楽に暮し、1945年8月20日に青酸カリを飲み、「我々は大きなかけに負けた、これで終わりだ」とのメモを残して死んだ。


大逆罪(79)

 地震から14週間後の1923年12月27日、摂政皇太子裕仁は、新国会での開会式辞を述べるため、復興されつつある粗末な街並みを車で通っていた。皇居から数区画南西の虎ノ門地区に差しかかった時、土下座する人並の中から、一人の若者が警察官の防御線を肩で押しのけて飛び出し、裕仁の乗るダイムラーのリムジンの窓から3ないし5インチ〔8〜15cm〕の至近距離で銃を水平に構え、その摂政の頭にねらいをつけ、そして引き金をひいた。公式の発表では、弾丸は奇跡的に裕仁から外れ、強化板の上に豪華に内装された車内を少なくとも5回は跳ね返り、一人の侍従に傷を負わせた。それから三ヶ月後、日本の知識人は、華頂博忠〔かちょう ひろただ〕という、裕仁にそっくりで、おとりとしてその代役をつとめていた遠い皇室の一員が、22歳で「心臓マヒ」で急死したと発表されていると、密かに指摘した。
 裕仁を銃撃しようとした男、難波大助は、警察官より即座に銃殺されないよう、両手を上げて、静かに皇室のリムジンの後について走っているところを逮捕された。警察は彼を11カ月にわたり尋問し、拷問にかけたが、一般的な政治的不満と殺害された大杉栄とその7歳の甥への同情以外にはその犯罪行為の説明を与えなかった、と最終的な発表を行った。警察によると、彼は処刑の前に、「プロレタリアート万歳」と叫んだという。多くの日本人にとって、彼がボルシェビイキ派の売国奴でもなんでもなかったことは、明白なことであった。
 事実、暗殺者難波は共産党員でもなかったが、すでに同年5月には、数百人の日本共産党のメンバー全員が投獄されていた。むしろ難波は、長州閥の陸軍重鎮、故山縣――裕仁がその排斥を計画した――と強い繋がりのある知識豊富な人物だった。難波の父親は、自由主義派の衆議院議員として知られていた。彼が息子の失敗を聞いたのは、自分の領民と選挙基盤を固めるため、汽車で帰郷中のことだった。彼は退職して自宅にこもり、訪問者を遠ざけるため門を「青竹」で結び、自宅二階の自室に永遠に蟄居した。息子の処刑の六ヶ月後、彼は死骸となってその部屋から運び出された。
 多くの日本人にとって、若い難波のおこした事件の最も象徴的な特徴は、彼が使った銃だった。それは杖の中にしこまれたピストルで、立憲政友会の創設者で、首相奏薦者・西園寺の師でもあった長州人伊藤博文が、1909年にハルピンで暗殺される前、ロンドンから持ち帰っていたものだった。伊藤はその仕込み銃を、護身のためにと、親戚の林文太郎に与えていた#4。林はそれを、この暗殺計画のために、身内の難波に貸していた。その銃が使われて裕仁の暗殺に失敗し、伊藤の霊はあの世での面目を失くしただろうし、伊藤・西園寺の立憲主義の運動は、この世での勢力をいくらかなりとも弱めることとなった。
(80)


宇垣陸軍大臣

 裕仁は、若い難波の天皇殺害の試みを、閣僚を改編する口実に用い、陸軍の近代化と暗殺者難波の長州派閥の勢力を割くという、バーデン・バーデンの構想を前進させるための政治的リスクの回避に利用した。首相の海軍提督山本権兵衛は、地震の後、第二次山本内閣を組閣したが三ヶ月の命で、難波の襲撃の形式的な責任をとって総辞職を申し出ると、裕仁は意外にもそれを受入れた。山本に代わって、裕仁は、この天皇暗殺事件の後、予想外に従順となっていた内閣総理大臣奏薦者・西園寺に、清浦奎吾伯爵――明治天皇時代以来の従順な老法律家――を指名させた。清浦は、敬われるべき自分の74歳の高齢と、二十年以上の司法大臣としての経歴を除き、他はなにも推薦されるもののない人物だった。(81)
 この清原新内閣の閣僚は、年老いた平凡な貴族たちで概ね占められ、あたかも皇居の石垣の割れ目から現れたトカゲを思わせるものがあった。しかし、その一つの例外は、1912年以来初めての、長州人以外への陸軍大臣の指名だった。その人、宇垣一成
〔うがき かずしげ〕は、瀬戸内の岡山出身の人だった。彼は陸軍中将で、54歳、野心的で首が太く、正直そうながら、豆腐のような個性のない顔をしていた。宇垣は政治的な使い走りとしてどこかを尋ねる際、必ず、風呂敷にくるんだお握りの昼食を持参した。彼は必ずしも賢い男ではなかったが、長州の老人たちにしてみれば、出世の階段に乗せておくには最も安全でほどよく賢い、非長州閥人だった。裕仁は、自分の学生時代、「皇太子学」の教科で、いくつかの補助講義を受けたことで彼を知っていた。いまや、裕仁は彼を、日本でもっとも重要な天皇の下僕――第二の西園寺――の一人となるまで、利用し、酷使しようとしていた。(82)
 宇垣は、陸軍大臣の地位にまで昇格した際に、彼の任期中の基幹計画が、1923年初めにパリより帰国したバーデン・バーデンの三羽烏によって、すでに注意深く進められていることを知った。その計画は、何よりも陸軍の将校の実数を減らすことに加え、予算削減と軍縮を求めていた。その計画において、宇垣の使命は、陸軍から長州藩の影響力と、裕仁に敵対する故山縣の手下を排除することだった。そして最終的には、近代的な戦車や航空機を装備することで、陸軍の戦争遂行能力を高めることにあった。宇垣は、そうした計画は、切迫さに欠ける官僚層ならびに国会の立憲主義者に対する、長州人による目立った反撃があってのみ実行されうることを知っていた。宇垣は自分の任命を受入れた際、自らの日記にこう書き残している。「高度な目的を持つこの重大な責務を恐れることなく引き受け、実行に移さん。腹を固め、刷新姿勢を保ち、果敢な精神を込めて、前進させん。」(83)


結婚の儀

 長州藩閥との戦いの直前、慎重に考慮されたタイミングをもって、皇太子裕仁は、結婚式を挙げることによって、彼の地位と国民の心を結合させた。孝明天皇の顧問、朝彦親王の孫娘、皇太子妃良子〔ながこ〕は、六年前の1917年に婚約者に選ばれて以来、父親の別邸において特別の教師陣からの教えを受けつつ、彼との結婚を準備していた。その結婚の儀は、宇垣の陸相就任の二週間後、また、難波の暗殺未遂事件の一ヶ月後、そして、地震からほぼ五ヶ月後の1924年1月26日に挙行された。(84)
 その婚姻の儀式の間、招待された七百人の来賓――すべて日本人で黒龍会の頭山も含まれていた――は、皇居庭園の森林部にある皇室神社の外に立ちつくしていた。古代よりの宮廷の礼装をまとい、良子は扇子を、裕仁は笏
〔しゃく〕を手にし、二人は神社の入口に集った立会人の前で会合した(85)。門が開かれ、裕仁は完全に一人で、内殿へと通じる中庭に入った。儀式を司る侍従が、高い声で神道の祈りを詠唱した。内殿の扉が開かれ、裕仁は奥の院の中に姿を隠した。簡潔に敬意を捧げ、自らの意志を祖先の霊魂へ宣言した後、良子の待つ門へと戻ってきた。二人はそこで三々九度を交わし、儀式は終わった。東京港の艦船は101回の祝砲をならし、地球上のどの統治者に捧げられるものより、二倍以上も長い儀礼となった。(86)
 その結婚の儀のために、裕仁の広報の専門家、二荒伯爵は、1921年以来、彼の主人のために造り上げてきたイメージを繰り返し唱えていた。裕仁は若い自由主義者を代弁し、西洋の考えに通暁し、そして1922年にエドワード英国皇太子が日本を訪問した時、ツイード地の帽子付けてゴルフをして、四打差で勝ちをゆずった。だが裕仁は他のゲームにおいては、赤坂離宮の庭に9コースのゴルフ場を造って、西洋人に勝とうと熱心に練習していた。また裕仁は、国民に知ってもらおうと、公共の浜辺にあらわれて水泳を行ったりもした。著名な日本駐在の英国特派員は、こうした報道キャンペーンを、「彼への個的親密さを増進させるための手の込んだ配慮」と表現した。しかし日本国民は、幾世紀にもわたるスパルタ式礼儀や軍隊調規律に辟易していたため、そうしたキャンペーンを温かく迎えていた。


陸軍の縮小

 1924年初め、組閣工作の舞台裏で、長州出のつわものたちは、最後の必死な抵抗を始めていた。長州派閥の首領、田中義一大将――陸軍重鎮の山縣に追随する純朴な人物――は、故郷で在郷軍人会を招集した。そして、「我々は薩摩藩との策謀に対峙せねばならぬ。彼らを徹底的にたたきつぶす」 と宣言した(87)。その六ヶ月後、長州出身の将官たちは、立憲主義者たちと合同する〔田中の政友会総裁就任〕ことで、公衆に対する口実作りにはなんとか成功した。そうして彼らは、巨体のトカゲ、清浦政府を倒すことが可能となり、その代わりに、陸軍の近代化を受け入れた。
 1924年6月、単眼鏡をかけた外交官――10年前、中国に対する21カ条要求に関わった――加藤高明
〔かとう たかあき〕に率いられた新内閣は、定まった経済政策の一環として陸軍の縮小に取り掛かるとともに、社会の眼を新たな課題――徴兵制度――へと向けさせた。1902年以来、あらゆる日本の自由主義者は3円の選挙税の撤廃に取り組んできていた。加藤首相と裕仁は、今に至っては、その撤廃に賛成で、有権者を330万人から1,400万人――25歳以上の全男子――に拡大することに前向きになっていた。保守的な新聞は、有権者の拡大に反対する超保守派の解説者を担ぎ出し、意図的に捻じ曲げられた論争を一面に掲げていた。 
 社会の論争が広まる中で、宇垣陸相は、さして注目もされないながら、陸軍の表面的な “軍縮” に専念していた。だがその実相は、彼は将官たちの軍団の中で、込み入った駆け引き――長州の大将たち〔の削減〕を筆頭に、薩摩からのバランスをとった削減、そして他の藩出身の大将の自主退任等など――に奮闘していた。その総計は、約2,000名の将官と、少なくともおよそ8万名におよぶ兵員が免職となるかに見られた。第13、第15、第17、そして第18の4師団が解散されたが、そのうちの多くの中隊や大隊は、そっくりそのまま残されたり、待機命令下に置かれた。(88) そうして、長州将官は除隊し、その多くの部隊は、保存された師団に再配置されたり、新たな援護部隊に組み入れられた。だが総体の再編は、一人の熟達した簿記係の巧みな手さばきで処理された。その処理が完了した時、陸軍から、僅か33,894名の人員と6,089頭の馬が削減されたのみで、減ったはずの残りの46,000強の人員は、再吸収されていた。また機甲運輸部隊、全歩兵中隊への機関銃分隊配属、近代兵器を開発する研究チーム、諜報のための新部門、新たな2航空連隊、1防空連隊、5,500名の戦車部隊員、そして、数校の特別軍事学校――神奈川通信学校、化学・細菌戦争に備える千葉県の習志野学校など――が新たに設置された。(89)
 加えて、国家総動員時に備えた、すべての若い男子の軍事教練義務に要する政府への負担をへらすため、その期間が6週間に短縮された。そして、その結果の教練の簡潔化を補完するため、1,200人の演習指導官からなる陸軍教育部隊が新設され、主な高等学校と予備高に配属された。こうした身体教育教官は、入隊の前の学生時期に、武道の基礎、行進、剣と銃撃の実習を済ませることを使命としていた。そうした教官は、その後数年のうちに、特別研究員の脅迫的な後押しと合わせて、教科全般に確固とした足場を固めるようになり、日本の教育に、思想教化の標語に満ちた無味乾燥した実行をもたらしてゆくこととなった。
 陸軍の改編計画が、一段階づつ、あるいは、一大隊づつ明らかにされるに連れて、除隊する長州の将校たちは、個人的に不平を並べるものの、公的には、反対もなく奇妙な静けさがあった。その静けさは、一部、命令に従順な日本の兵隊精神のゆえであったが、例の三羽烏の巧みな人員配置計画の賜物でもあった。三羽烏の筆頭、永田鉄山中佐自身、1924年の4ヶ月間、解散される運命にあった連隊のひとつ――長州に拠点を置き、長州人で構成されていた――で、一将官として過ごした。巧みな政治的手腕をもって、彼はその連隊員たちが叛乱に動くのを防いだ。皇居の大学寮の学生たちは、同様の使命を帯びて広く散らばり、大学寮は、地震の損害による旧測候所建物の痛みを理由に、1924年に閉鎖された。
 1925年3月、4師団――祖先の死をもって築かれた四つの聖なる戦闘法を持つ――が公表された時、皇太子裕仁の地位は大きく強化されており、貴族院の彼の手下たちすら、普通選挙法案の賛同者として挙げられるほどであった。1925年5月5日、同法案が可決された時、その賛成者は同時に、治安維持法案にも賛成票を投じていた。治安維持法は、裕仁の大兄の、ひょろっと背が高く女性的な藤原貴族――後に南京強奪時の首相として日本を先導することとなる――、近衛親王による働きの産物であった。同法は、告発者には「危険思想法」として知られていたが、普通選挙法通過の一週間後の5月12日、目立った反対もなく可決された。それから14年後、同法は、近衛親王が普通選挙体制を翼賛体制――帝国主義的な単独政党制――へと変質させることを可能にさせてゆく。


中国の新星(90)

 若手将校による裕仁の陰謀団の一員でかつ大学寮の卒業生の一人、どこにでも顔を見せる鈴木貞一は、そうでありながら、バーデン・バーデン計画の実行においては、終始、彼の姿はなかった。彼は当時、つねに中国にあって、新しい中国の星、蒋介石――日本の陸軍士官学校時代の士官候補生同士――の、初期の戦いとその隆盛を観察していた。1920年、鈴木が裕仁の大兄たち#5の内部集団に初めて参加して以来、鈴木大尉は諜報幕僚より、蒋介石に助言者として常に近接しているように指令されていた。だがその任務は、1920年に着手された時点では、蒋介石は上海の商品と通貨のブローカーとしてわずかに知られていただけで、外部者には奇異なことであるかに見られていた。(91)
 灰色の目をした蒋介石#6は、第一次大戦中に、先物取引で一定の財を蓄え、中国の最大の銀行一族たちと懇意となっていた。銀行家たちは彼を、気前の良い、無口で単刀直入かつ押しのある、手ごわいディーラーとして尊重していた。彼は妻と何人かの妾を持っていたが、後の蒋夫人〔宋美齢(孫文の妻、宋慶齢の妹)〕にはまだ出会っておらず、キリスト教徒への改宗もしていなかった。彼は、中国、保定の士官学校を卒業後、日本の陸軍士官学校で学び、自分の選んだ日本にいまだ好意をもっていた。彼は南京強奪の朝霞親王、南京を空襲した東久邇親王、「南京の殺人鬼」として絞首刑となった松井岩根、そして黒龍会の遠山――蒋の師、孫文の亡命を助けた――を含む、何十人もの日本の友人と連絡を取り合っていた。蒋介石は、アジアの愛国主義者たちや、自分が属すると感じながら不倶戴天の戦いを運命付けられた征服者すなわち日本のエリート軍人たちの、あらゆる世代との面識を持っていた。
 蒋は、1911年の中国革命〔辛亥革命〕の際には、日本が資金援助する連隊を率い、以来、孫文の国民党の定期大会には毎回参加していた。蒋は革命は成功しないと考え、袁世凱やその軍閥は北中国を支配し、孫文は南中国の港町広東の信頼しうる支持者の中で、気短かな理想家として年を重ねていた。将来の財政基盤を固めた上で、蒋は1923年、上海の商売をたたんで35歳で引退を決め、広東の孫文の運動に自らを傾倒させた。鈴木貞一は、日本の参謀より、蒋を追って南下するよう指令を受けていた。  
 蒋は孫――1911年の共和主義運動の「ジョージ・ワシントン」――について、北京の軍閥政権に冷酷であることと、今や肝臓がんで幾ばくかの命でしかないことを発見していた。孫は、毛沢東や周恩来といった若い共産主義者で囲まれていた。また彼は、二人のロシア人助言者の影響下にあった。その一人は、ヴァシリ・ブルーヒャー大将で、1921年のシベリアで、コサックを未熟な赤軍新兵とともに敗北させていた。もう一人は、ミハエル・ボロディン――アメリカ人にはマイク・バークとの名で知られていた――というビテブスク・ゲットー
〔ロシア南部、今のベルラーシの都市のユダヤ人地区〕の出身で、一次大戦前、シカゴのデヴィジョンあるいはハルステッド通りの街角で街頭演説していた人物だった。蒋介石は、彼の老いた英雄からその側近など簡素な財産を引き継ぎ、1923年の秋には二ヶ月間モスクワを訪れ、本場での共産主義を学んだ。その短い訪問で、レオン・トロツキーとの主導権争いに没頭していたジョセフ・スターリンからの称賛と支援を得ることができた。
 蒋は、1923年12月、広東へ戻ると、日本の友人や信奉者や鈴木貞一といった協力者のリストを作り、日本の大学寮をモデルとした思想教化センター――黄浦大学と呼ばれた――を設立した。1925年、かっての大学寮の卒業生がその計画を日本で実行している時、黄浦大学の卒業生は北中国の私兵軍閥の将校層に浸透していた。1925年3月、バーデン・バーデン計画が日本の議会を通過した時、孫文は遂に癌でその生命を閉じ、蒋介石がその後継者として浮上した。蒋はその後一年でその地位を確固にし、翌年3月、その権力の見せしめとして、自分の憲兵を用いて広東の中国共産党員全員を逮捕し、北京の形のみの共和制政権に対しては軍事的対決に乗り出した。彼の軍隊は北伐を開始し、立ちはだかるすべての勢力を制覇して行った。
 鈴木貞一は、中国農民によるいたるところでの蒋の軍への支持に注目していた。そして東京への至急報に、彼は蒋を真の大衆的指導者であると分析し、中国を考慮に値すべき勢力に変らせうると報告した。1915年の21カ条要求に関与した加藤高明首相は、1926年1月28日、その冷徹で計算高い一眼鏡の人生を清算したが、国の高所には、鈴木の報告の重要性に気付き、裕仁に上奏する他の「中国専門家達」がいた。
 かくして、1926年春、裕仁は軍人と民間人双方からなる彼の手下の一群#7を送りだし、中国の鈴木と合流させ、ただちに状況の調査に当らせた。その結果、蒋介石は支援に値するというのが彼らの見立てで、蒋は中国の統一を目指しているがゆえ、完璧に信頼に足るわけではないとしても、現段階では、彼は満州、蒙古、北中国に傀儡自治政府を設立することを許す意向をもっており、日本にとって有利になりうるというものであった。


大正天皇の死

 1926年のクリスマスの早朝、葉山の凍てつく浜辺に太平洋の波が打ちよせている時、47歳の大正天皇は、数年間の隠遁生活をしてきていたその御用邸で息を引き取った。休んでいた26歳の皇太子裕仁は、数週間前に大正天皇が意識を失くした時以来、つながれたままとなっていた電話を通じて、たちどころにそれを知らされた。電話線の反対側の侍従が聞いた裕仁の声は、それまでの一ヶ月、彼が父のもとにいられなかったことをどれほど悔やんでいたかを告げていた。
 二時間も経ないうちに、サイレンを鳴らした自動車の行列は、東京の皇居に到着、門が開かれ、皇太子裕仁は、お堀に沿った公園を通り抜け、皇居の森の中にある皇居神社への入り口へと向かった。随行員をリムジンに残し、彼は、二人の親王と貴族界からの立会人二人とともに、霜の降りた神社の玉石の庭を進んだ。そして一人で奥の院へと入り、三種の神器に面し、日本の新たな天皇として、祖先の霊魂に自らを宣言する荘厳な儀式にのぞんだ。最初に彼は、古びた錦の袋に触れた。それは、日本の緑の自然に覆われた島々を意味する、聖なる緑色の玉が納められているものだった。彼は、その袋の中に、コンマの形と楕円形の紫水晶やトルコ石が数珠状に連なった首飾りが入っていることを知っていた。彼はまた、その原型は、1185年の壇ノ浦の戦いで、安徳天皇と共に瀬戸内海の底に沈んでいるものと確信していた。公式には、その首飾りは戦いの後、箱に入って浮かんでいるところを発見されたことになっている。だが彼はその袋を開けてそれを拝んだことはない。次に彼は、力の象徴である聖なる剱――天照大神の息子によって龍の尾から引き抜かれた魔法の――の複製を取り上げた。彼はその原物の剱は本物で、名古屋の熱田神宮に納められていると心得ていた。彼は、自分が皇位にある最中に、B-29の爆撃によってそれが焼かれることになるとは予想だにしていなかった。
 最後に彼は、そうした三種の神器のうちでもっとも有力な、知恵の銅鏡の複製を高くかかげた。西暦一世紀以来のその原物の鏡は、最初の天皇がやってきた海を見渡す〔志摩〕半島にある、伊勢神宮の金庫に納められていた。もし人がその鏡をのぞき込むと、その人は天照大神をそこに見ることができ、彼女と話を交わすことが可能という。しかし、西暦960年、1005年、そして1040年の宮廷の火事によって、その鏡は溶けて数滴の金属玉となった。裕仁はそのほぼ千年も昔の鏡を手にしているが、それは模造品でしかなかった。
 そうした神器に確かに触れ、漂う祖先の霊魂に熱意をこめて自らの意志を宣言し終わってその神社から出てきた裕仁は、今や聖別された存在で、もはや普通の人ではなかった。西洋の人たちには、それから一年以上も後に、最も古い首都である京都で催された式典によって天皇の即位が公式となるのだが、信心深い日本人には、この段階で彼はすでに天皇となっていたのだった。
 天皇へと変ったその夜、裕仁は赤坂の小ベルサイユ宮殿の書斎に戻って、自分の時代を表わす幾つかの名前のリストより、「昭和」――「平和のもたらす顕示」との意――との年号を選んだ#8。その表意文字は、「舌と話すべき黄金時代」
〔訳注〕とでもいった含みを持っていた。そして彼は筆を取り、自分の時代への望みを託した布告の原文案を以下のように記した。「無益な表示より簡明さを、盲目のまねごとより独創性を、進化の時代をにらんだ進歩を、文明の前進とともにある改革を、目的をもち行動をもつ国の調和を」。
 裕仁が、プチ・ベルサイユ宮殿の暖炉の火の前に座し、将来の構想を練っていた時、二年前に取り壊された大学寮の卒業生たちからなる若手将校の一団が、裕仁付きの侍従武官に率いられ、大正天皇の逝去に哀悼を表しに来た。その武官は阿南惟幾で、後に、宮廷の見せかけのクーデタを統括し、1945年8月14日の長い夜に切腹することとなる。阿南はその時、あらかじめ金を用意してきており、そうした若い将校を神田の学生相手の飲み屋街に連れ出した。そして大学寮の元学長、大川博士は、日本の将来の満州征服を祈念してと、その席の乾杯の音頭をとった。
 後に戦時中の首相となる東条中佐は大川に、「だがしかし、天皇がそれを承諾するまでは、我々は決して軍をうごかしてはならない」 と釘を刺した。
 「心配するな、俺が友人の牧野内大臣に天皇を説得させるさ」、と誇らしげ言った。
 東条は大川の傲慢さに腹を立て、もし穏やかな板垣中佐――バーデン・バーデンの信頼しうる11人の一人で、後に満州征服を組織することとなる――が中に入らなければ、喧嘩騒動にもなるところだった
 東条の師で三羽烏の筆頭、永田中佐は、「満州の独立は望ましいことと思うが、しかし、完全な独立であってはならない。それは日中間の永遠な対立の種となり、極東の将来の平和の混乱要因となる。従って、中国には、公式上の主権を持たせた方が賢明だろう」、と冷静に述べて話にけりをつけた。
 続けて、陰謀組織のそうした若手将校たちの間では、国民の闘う気概の嘆かわしい退潮について議論となった。公共交通機関に乗った際、制服を着けた男は、「路面電車に拍車をかけて何のお役に立ちます?」、とか、「私たち乗客には、長い刀はいかにも物々しいですな」とかといった挨拶をされそうだった。時代のそうした憂鬱な状況についての話におよんだ後、陰謀者たちは解散し、阿南武官の気前の良い配慮で、彼らは自分たちの宿舎までタクシーで帰った。ひとつのグループは阿南を皇居の正門前の広場で下した。そこで彼らは、月明かりの中に、農民が土下座して新たな天皇に祈っている姿を目撃した。彼らの一人が言った。「この光景こそ、まるで満州の独立がすでに終わったかのように、我々の気持ちを安堵させるものですな。」(93)


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