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第十五章
     暗殺による統治(1932年)
(その2)


戦争回避への投票


 軍が派遣された2月14日から20日の週はまた、総選挙に向けた最後の週でもあった。この選挙は、天皇が上海事変の出費を承認させる勅令を実施に移したいと望んでいる時に、国会を沈黙させるために仕掛けられたものだった。反政友会の若槻前首相は、この選挙に、 「犬養、ドル買い」、 「ドル買いの味方は大衆の敵」、 「上がる物価、下がる忠誠」 といったスローガンをかかげていた。一方、政友会の犬飼首相は、 「高橋蔵相は幸運をもたらした。前井上蔵相は不幸に見舞われた」 とうたって先に張り出したポスターで何やら狼狽させられていた。前井上蔵相は暗殺されるという不幸に会っていたため、そうしたポスターは余り気の利いたものとは見られていなかったからだ。しかし、人々は心得ていた。政友会はドル買いと前政府よりのだましの戦争を引き継いでいたが、それが彼らの責任であるとは受け止めていなかったからだった。(27)
 選挙の日が近づくにつれ、政友会はあたかも目覚しい勝利を得そうな形勢となっており、他方、裕仁の政治顧問は落胆させられていた。政友会への大きな支持は、伝統的に宮廷政策への不満を意味していた。政友会はそれまでの一世代にわたり、帝国の軍事的拡大よりその経済的発展、中国との長期的協調、減税と円安、大声をあげても権力はふるわない諸政策をとってきていた。
また、日本のビジネス界は、そうした社会の動向に勇気づけられ、姿勢を正し、引き続く暗殺の脅威に屈することを拒絶した。先の10月、多くの財閥首脳は、ドル買いを機会とみて、儲けのために老西園寺を見捨てていた。孤軍奮闘を強いられた西園寺は、愛想を付かして撤退し、興津の別荘にこもって事態を見守っていた。しかし今や、そうした大商人諸家系はふたたび、西園寺のご機嫌を伺い始めていた。彼らは、 「護憲運動」 に資金援助し、自ら用心棒を雇い入れて血盟団に対抗しうる勢力にしようとしていた(28)。そして、上海事変の戦費に足る金を政府に支払う代わりに、関東軍を買収し、裕仁の最も熱烈な支持者を剥ぎ取ろうとしていた。奉天の本庄大将は、選挙の週の水曜日の2月17日、最初のそうした買収の話を拒否しようとしていた。財閥第二位の三菱の代表が本庄の事務所にやってきて、 「寄付」 という名目で十万ドル〔現在価値で約5億円〕の小切手を渡そうとした。本庄はその小切手に触れもしないで拒否し、その額は余りに少なく、もし三菱がもっと太腹となった際は、その寄付を東京の陸軍大臣ないしは参謀本部に提供されたいと申し添えた(29)
 その週の金曜日、2月19日、11人の選良による大兄たちは、スパイ機関の工作員、地下組織のボスたちと、全日を費やして次々と協議した。彼らは、財閥が日陰者で無産な侍たちを手強い随員として囲い込むことを絶対させないと再確約し合った。地下組織部隊のもっとも物知りが言うところでは、 「右も左も、天皇を中心にしない限り、どんな運動の成功もありえない」 というわけだった。(30)


演出家たちの会議

 同じ金曜日の宵、宮廷の内大臣事務所からやってきた大兄の木戸侯爵と、貴族院からやってきた大兄の近衛親王は、侯爵の井上三郎大佐――大正天皇時の桂首相の息子――の瀟洒な別邸で、陸軍の同僚たちと会って夕食を伴にした。主催者井上は、特務集団の陸軍側半分の意向を取り入れるため、彼の取り巻きである、鈴木中佐――例のどこにでも顔を見せる人物――と、バーデン・バーデンの三羽烏の内で最も貴族的な小畑敏四郎大佐を招いていた#4。一人の親王、二人の侯爵、そして二人の陸軍廷臣は、79年前、ペリー提督が黒船を乗り入れた横浜港を見下ろせる、井上侯爵の洋式のベランダで、カクテルのグラスを交わした。(31)
 その五人は、天皇が厳しい政治的危機に直面しているという点では同意見だった。その国の自分本位なビジネスマンたちは、有権者の支持を獲得し、それが今や、陸軍を買収しようとすらしていた。それに犬養首相は、満州を中立国化させようと、蒋介石との交渉を追求しており、日本帝国の外側に自治政権を設立しようと画策していた。首相とその政府は、自らの政策の有効性に自信を持っていた。他のどの政党も、それに勝るものはなかった。つまり、〔その5人にとって〕そうした政治家たちは、皇位に忠実に従うには、あまりにも金と西洋的な国会概念に 「汚されている」 というわけだった。
 だが、裕仁を公然と独裁者に仕立て上げる宮廷クーデタというその対抗策も、実行可能であるわけはなかった。クーデタの脅威は、有効な政治的手段ではあるものの、赤裸々なクーデタは、憲法を侵害し、皇室を不必要に露出させるものであると、裕仁に仕える高位廷臣たちによって反対されていた。
 残された唯一の可能性は、認知された国家的長老――宮廷計画を理解しその任を果たしうる年長者――による、 「超越的」 な反政党的政府というものだった。そうした政府は、1920年代初期の大正天皇の時代に、幾度も試みられていた。国民はそれを好んではいなかったが、過去においては、超越的家長政治家たちは慎重で多くを求めなかったために、常にそれを我慢してきた。
 だが今や、その国家計画を実行する超越的内閣が必要とされていた。その内閣は、言うまでもなく、強靭な陸軍大臣をもつ必要があった。というのは、陸軍の兵士たちは、自分が適正にその大臣によって代表されていると感じない限り、そうした政府は、故郷への手紙などに表されて貧農の不満の原因となり、増税や洪水や飢饉より以上の問題を引き起こしかねないからであった。
 現職の荒木陸相は、そうした兵卒に好感されていることで知られていた。実際、大兄の木戸が認めるように、彼は 「代理がありえないほどに、人気があった」。だが不幸なことは、彼が、日本の真の使命はボルシェビイキロシアへの北進にあると信じていたことであった。このため、彼は皇位と見解を異にし、大兄たちは、彼がどれほど忠誠であるのかを確認したがっていた。そこで彼らは、北進派の指導者で、親しい友人として荒木の人柄について語るに足る小畑を、そのカクテルパーティーに招待していたのだった。
 荒木陸相は、今後四年間の軍事力増強計画に際し、国の団結に誠実に仕えるだろうと、小畑は自分の考えを表した。また、荒木は、ソビエトに対してその新たな力を使おうと望むだろうが、彼の見方が皇位と最終的に異なるように至った場合、大元帥陛下の意志にそうだろうとも述べ、〔そうした姿勢は〕第二の烏の小畑も同じだった。ロシアは日本の本来の敵であったが、もし裕仁をロシアに対するように説得できなかった場合、小畑と荒木はいさぎよく退任し、その終末戦争戦略を他のものに譲るだろうというものだった。
 腰の低い、どこにでも姿を現す鈴木中佐――常に、舞踏会向けの軍服を着た銀行員であるかのように非の打ち所のない端整な装いをしていた――は、荒木陸相が原則を重んじる人物であるので、扱いにくい同盟者となるだろうと、冷静に指摘した。
 裕仁の政治演出家たちは、こうした危険を認識しつつ、その夜、会合を解散するにあたり、そうであってもなお、北進派の荒木陸軍大臣の大衆受けの良さを幹にしてその超越的政府を樹立し、犬飼首相に置き換えて彼を据えることを裕仁に推薦するよう決定した。
 翌2月20日、土曜日の朝、人々は投票を行い、予想されていた通り、犬飼の政友会に301議席、反政友会に147議席をあたえた。大兄たちによる裕仁の御前内閣は、ただちに、うわさとあてこすりを流す工作を始め、国民の投票を無にし、犬飼政府を転覆するよう画策した。(33)
 その夜、大兄の木戸の要請で、スパイ秘書の原田は西園寺に、関東軍は完全に制御不能となっており、 「政党を抑圧し」、 「政党の思惑による搾取」 から満州の防衛を図るための綿密なクーデタ計画を作り終えていると伝えた。(34)
  「そういうことかね」 と西園寺は言い、 「もし叛乱計画がすでに完成したのなら、それはそういうことなんだな」 と返答した。
 四ヶ月間の蟄居と思索を経て、西園寺は、皇位周辺の生硬者たちを凌駕する位置にあった。彼は、純正なクーデタなどありえないと知り抜いていた。独自情報を経て、彼はすでに、荒木陸相への自らの判断を固めていた。荒木は自尊心と熟慮の男で、いかようにも大衆を導きうる演説の達人との結論にも達していた。後1936年まで、荒木は裕仁をロシアとの戦争に巻き込もうと企てる。〔荒木にとって〕ロシアとの戦争は、日本にとって、もしせねばならないものなら、欧米諸国の連合軍に攻撃をしかけるよりもはるかに好ましいものだった。そうして荒木は、シベリアの広大な無用の緩衝地帯に、裕仁のサムライたちの情熱を膠着と消耗の果てに、埋葬してしまうかもしれなかった。(35)


視察前夜

 総選挙の翌週は多忙なものとなった。国際連盟の調査団は、そのうるう年の2月29日に日本到着の予定だった。上海の日本軍は、いまだ大した成功は収めておらず、まだ中国の第19路軍を追い出そうと試みている最中だった。3月1日、満州が中国の先の少年皇帝、溥儀を元首として、独立国家であることが宣言されるよう計画されていた。もし、すべてが首尾よく行けば、連盟の調査団の到着の際には、 「極東の危機」 が去り、上海での停戦や満州の新国家設立という、その調査が学術的意味をもつ程度のものとしかならない、あらゆる証拠がそろうはずであった。
 犬飼首相は、蒋介石と立て込んだ電報を交わしながら、二者が連盟の調査委員にどう自分の話を提供するのか、その了解をさぐり合っていた。犬養と蒋介石と調査委員が足並みをそろえて裕仁を説得し、満州を真の独立国とし、関東軍を租借地内に引き上げさせるというのは、犬養の考えであった。(36)
 だが裕仁の大兄たちは、犬養首相の足元をすくおうと躍起となっており、彼をすげかえた政権樹立のため、結束して動いていた。彼らは、陸軍のクーデタが切迫しているとのうわさを大業に広げ、また、日本の兵士が上海で死んでいっているにも関わらず、犬養首相は蒋介石と売国的な交渉に精を出していると新聞記者に発表していた。(37)
 2月24日、水曜日、近衛親王は海路で興津へ行き、なぜ、彼の老いた親戚の西園寺だけが、クーデタの可能性にそうも大様でいられるのかを探ろうとした。そこで彼は西園寺に、クーデタの後、荒木陸相のような軍人が首相となるに違いなく、裕仁の側では、東久邇親王か朝香親王(スパイ機関員である天皇の二人の伯父)が内大臣になるだろう、と話を持ちかけてみた。(38)
 正式に選任された首相としてなら、西園寺は荒木に反対するものはなかったが、憲法に違反するがゆえ、クーデタには大いに反対だった。また、二人の天皇の伯父、朝香親王と東久邇親王について、西園寺は二人を信用していなかった。そして、二人のいずれかが内大臣――西園寺の藤原家の最も確かな長老が過去何世紀にわたって占めてきた左大臣がつく伝統的地位――に就くとの考えに、西園寺は憤激した。
 彼ははき捨てるように言った。 「そうした選任を私が奏薦する前に、私は皇位への最高顧問の職を辞そう。そして私は、親王としてのすべての地位と特権を放棄する。そして私は平民の地位に成り下がろう。」
 その老人が表す着物の袖をたくし上げるほどの剣幕に接し、近衛親王は、そうした西園寺の決意と自負をたずさえて東京へと戻った。そしてすぐさま、スパイ秘書の原田を、彼を身近で観察するため、興津へ行かせた。しかしその長老は、意気軒昂である以外、何も表さなかった。翌、2月25日木曜日の夜、寝酒のコニャックを飲みながら、彼は原田に言った。 「もし、君ら若い世代が犬養首相を暴露だか何だかを駆使して辞任に追い込む時、私は、君らが望むその 『興国政府』の組閣に君らが何をなそうとしているのか、それを確かめることとなろう。」(39)


脅威に挟まれて

 西園寺が人を煙に巻き、連盟の調査が接近するなかで、逆上した行動の機が熟そうとしていた。2月27日、土曜、連盟の調査団が東京に到着する予定の2日前、新聞の朝刊各紙は、漏らされた一通の手紙――アメリカ国務長官のスティムソンから上院外交委員会議長のウィリアム・E・ボラー宛――について報じた。その手紙は日本に、平和の維持を意図する相互条約の骨組みのいかなる修正や破棄も、アメリカ合衆国をして、そのもとのいかなる義務からも解き放つものとなろう、と警告していた。つまり、もし日本が、中国の 「開放」 と 「領土保全」 を保障する9カ国条約に反するようなことがあれば、たとえ非難を避けえたとしても、アメリカは海軍力制限条約を越えて制限なく主力艦船を建造し、フィリピン、グアム、ハワイにおける同国の軍事的常備力を増強する、というものであった。(40)
 犬養首相は即座に宮廷に電話を入れ、このスティムソン長官の日本の意図についての誤解を晴らすため、特使をアメリカに派遣すると伝えた。犬養が考えていた特使とは、三井の首脳の団琢磨男爵だった。(41)
 その日の午後、陸軍参謀総長、閑院親王の騎兵隊時代の部下、小磯――後の1944年の神風首相――は、三井財閥本社に団男爵を訪ねた。小磯中将は、三月事件の指導の功で、裕仁により陸軍大臣次官への昇格を得ていた。小磯は団に、アメリカへの友好特使の役を受け入れてはならないと、無骨に要求した。団男爵は、暗殺から彼の家族を守り切ることはできなく、また、彼の財閥が軍の契約を失いかねないことも、よく承知の上だった。と同時に、彼はまた、脅迫の厳密な程度を小磯と駆け引きすることに誇りさえ感じていた。彼は、幾度も頭を下げ、こわばった笑みを浮かべて、現在、自分が日本を去るつもりは無いことを伝えた。むしろその反対に、彼は、国の存続の愛国的戦いに献じており、自分が勝利するかそれとも死するか、その時までその任務から去るつもりがないと言った。 
 小磯陸軍大臣次官は陸軍省に戻り、参謀総長の老閑院親王にそれを報告した。その夜、黒龍会の天行道場を運営する教導師井上は、使いの学生を血盟団の暗殺者の一人のもとに送り、三井の団琢磨男爵を殺す準備を整えるよう、指令した。その殺し屋は、菱沼五郎という名のやくざ上がりの男で、直ちに、団男爵の日々の行動や勤務習慣を徹底して調べ上げ始めた。(42)


西園寺の手

 翌、2月28日、日曜日の朝、老西園寺は、冬の新鮮な寒さの中に目ざめた。彼は、漁をする舟を浮べ朝日を踊らせるお伽話の光景ような駿河湾を眺めた後、心を切り替えて東京へ電話をかけた。自分自身を宣言する時が到来していた。まだ寝ていた原田を起こし、、直ちに船で興津にやってくるように命じた。揺れる4時間を過ごした後、原田は、地元風の挨拶を交わし、西園寺宅の畳の上に正座して、その老人が、新たな着物を身に着け、何か大きな目的を持っているかのように大股で自分の方にやってくるのを見つめていた。(43)
  「私が君を呼んだのは、先日、侍従長がやってきて、天皇をいたく心配していたからだ。彼が言うには、天皇は良く眠れないらしい。その夜は11時ころ、一人の侍従を侍従長のところによこし、すぐにでも相談したいといったそうだ。天皇は確かに何かをご心配されているというが、この老いた西園寺なぞ、懸念はもっと深い。・・・だから、私は、3月5日ころ、上京しようと考えている。こうして私、西園寺が上京するのは、ことを公表せねばならないからでも、平穏を期待するためでもない、と宮廷に伝えてもらいたい。それは、私自身の道にたって、正しかろうが誤っていようが、立ち上がり、自身の義務を果たす機会とすることだ。もし、何か疑問をお持ちであるのなら、 『それはそもそも、陛下に敬意を払うがゆえのことで、私が参上し、今のような時期に際し、責任ある人たちに個々に会うべきだと念ずがゆえにである』 と言ってもらいたい。」 (44)
 原田は、その老人が顔を紅潮させ、嫌悪を抑えきれないように話すのを聞いていた。自分の不健康を理由に、天皇との謁見を繰り返して拒んできた西園寺であったが、いま、そうして上京し、かつ、翌日に東京に到着しようとしているリットン調査団との会見を可能にしようとしていた。それは、皇位に叛く行為に見えた。原田は急遽、東京に戻り、西園寺の東京の電話に盗聴器をつけ、一味の大兄、木戸には、予見が足らなかったことを詫びた。

 つづき
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