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第十六章
追放国家
(1932-1933年)
(その1)
駐日米国大使
日本人は、なんと礼儀正しいのだろう、
彼は、いつも 「すみません」 と言う。
その彼が、隣の庭に入ってきて、
ほほ笑みながら、 「失礼します」 と言い、
おじぎをし、親しそうにニコッとし、
そして、腹のへった自分の家族を呼び入れ、
ふたたびほほ笑み、ていねいにおじぎをし、
そして言う、 「御免なさい、ここはもう私の庭です」。
1932年、オグデン・ナッシュは、当時、アメリカに広がっている雰囲気をこう表現した。満州における日本人の言動間の食い違いは、日本が嘘つきで人を食いものにする国であることを明らかにさせていた。しかし、欧米の知日派の人々は、オグデン・ナッシュの見方を、大衆の偏見だとみなした。彼ら専門家にとっては、日本の諸事件が日本を完璧に物語るものであり、日本での言葉が国家宣伝として大いに割り引いて受け止めるべきものとは、考えられないことだった。そうした欧米人に、日本語の会話に含まれる微妙な逃げ口上や、そのちょっとした形容詞や副詞が、たとえ高名な日本人であってもその名誉を何ら汚すことなく、愛国的な方便を駆使していていることだと理解するものは誰もいなかった。であるからこそ、1932年の満州征服、ドル買い、だましの戦争、井上、壇、犬養の暗殺、そして5・15事件が、成功裏に達成しえ、しかも、欧米のほとんどの歴史家にとって、〔本書執筆時の〕1970年においても、それらがまったくの偶然ではないとしても、日本人のエネルギーの偶発的発露であったとされているのである。
日本で政党政治が抹殺されたその日、裕仁の宮廷へと向かうアメリカの新任大使が、シカゴでサンフランシスコ行き大陸横断特急列車に乗り込もうとしていた
(1)
。プラットフォームでは、シカゴのヘラルド・イグザミナー紙の記者が、自社の日曜夕刊の記事を持って、彼に詰め寄っていた。その見出しは、 「日本の首相、殺害される。重大な叛乱。宮廷の危機」 と報じていた。その夕刻、大陸横断特急が穀倉地帯を西方へオマハに向けて走っていた際、その新任大使は、 「新聞はそう報じているが、皇位への広範な崇拝を思えば、私は、天皇が危機に瀕しているとは信じられない。この国では何かが誤っている」 と、自分の日誌に書き込んだ。
奉天占領からのほとんど8ヶ月間、東京駐在のアメリカ代表は、当時、日本での米国の諜報活動に役立つ機密を探る特権を持たない、駐在武官と領事によってほぼこなされていた。前任のW・カメロン・フォーブス大使は、日本の奉天占領の翌朝、日本を去って、だましの戦争の前に上海に戻り、一連の暗殺事件の二ヶ月前、ふたたびその地を後にしていた。彼は無遠慮な性格で、日本人にはまったく親しまれていなかった。
新任大使のジョセフ・C・グリューは、フォーブスより外交的で、同時に、もっと丁重で細心であろうと決心していた。グリューは、フォーブスと同じく、ハーバード出だった。彼は30年前、マレーのジャングルで虎に襲われた時、転倒して仰向きになりながら虎の眉間を撃ち、テディー・ルーズベルトの賞賛を含めた引き立てを獲得していた
(2)
。それ以来、彼は、ヨーロッパや中東での様々な要職に着いてきていた。彼の義理の兄弟の一人が、J・P・モーガンで、妻のアリスは、黒船のペリー提督――日本の子供たちにとっての鬼役――の孫娘だった。
それからの10年間、真珠湾攻撃後の1942年に交換船で出国するまで、グリュー大使は、日本におけるアメリカの眼であり耳となった。その後の戦時中、グリューは国務次官となって、降伏後の日本の統治者として天皇を据え置くように導いた国務省の一派閥を率いた。
グリューが横浜に初到着した1932年6月6日、日本の報道陣はその彼の名誉を傷つけるような歓迎しか見せなかった
(3)
。 『ジャパンタイムス』 は彼の発言をこう誤引用した。 「私は近代日本をほとんど何も知りませんが、真剣に勉強したいと望んでいます」。大手日刊紙の 『朝日』 は、 「世界でかつて見たこともない目覚しい発展を見せた日本について、彼の知識はおそらく、御伽噺のように、おぼつかない」、と書いた。
自重に努めようとのグリューの決意にもかかわらず、また、日本の報道の手荒な受け止めにもかかわらず、まもなく彼は裕仁の宮廷人に快く受け入れられ、彼らが作り上げた親身な思い込みに好印象を持った。そうした日本到着から一ヶ月が経過した
1932年7月13日
、彼は裕仁の内大臣であり陰謀の大御所である牧野伯爵を訪問した。その会見のあと、グリューは自分の日誌にこう記した。 「牧野伯爵は真の紳士であるとの印象を受けた。彼は天皇の側近だが、何と、今日の軍部の支配には大して重きを置いていない」
(4)
。 だが、一年もしないうちに、グリューは自分の日誌にこうした見解を残すこととなる。 「今日、この国民大衆は、誰が線路を爆破したかを知りはしないが、推測はしている。今日、この国民大衆は、誰が1931年9月18日の(奉天への)日本の攻撃を招いた事件を工作したかを知りはしないが、推測はしている。」
(5)
妾工作
(6)
グリューが東京に到着しようとしていたある日、天皇裕仁は、皇居の庭園の午後の散歩中、いつもと違う道をとった
〔
皇居地図
参照〕
。いつものように、裕仁は仕事場であり生活の場である皇居図書館から南へ、彼が毒性菌類や海洋ぜん虫を飼育している生物調査研究所へとそぞろ歩いた。その研究所からさらに南へ、今では親王たちにより臨時の宿泊や会議場として使われている、かつての明治天皇私邸へ向かった。そこで彼は北東へと向きを変え、皇居神社境内の白い玉石の上で拍手を打ち、短く祖先に祈って日課をすませた。そして北へとさらに歩いて吹上庭園の中心部にさしかかり、行く路に沿って美しく配置された、節くれだった松、置き岩、初夏の花々に見とれて幾度も立ち止まった。ひょうたん池を見下ろす丘の上からの眺めを彼はことのほか好んだ。そこから下って虹橋を渡り、良子皇后が趣味として実験的に養蚕している池の端にある霞錦館に立ち寄った。そこで皇后は、皆がスラックスにブラウスを着、前掛けをした使用人と一緒に、いろいろな蚕の群れに与える桑の葉の選別に熱中していた。
皇后と霞錦館を後にしたところで、裕仁はいつもの道順から外れた。養蚕研究所から普段なら北西の皇居図書館へと向かうのだが、その日はそうせずに、北東への路をとり、古風な名の花蔭亭、あるいは妾館として知られる、半木造半レンガ造りのイギリス様式の建物の前を通った。そこで、彼と皇后は、私的な楽しみを持っていた。そこを過ぎると、路の反対側は宮内省の敷地との境界となっており、その先に、6歳、2歳、1歳の三人の娘たち
# 1
が住む家があった。その娘たちの家から田舎風の土の道をへだてた向いに、宮廷女官の寮が建っていた。彼が娘たちの家に立ち寄り、子供たちとふざけ合わないことはめずらしかったが、この日彼は、そこを意図的に素通りして、宮廷女官寮に行き、女官たちの休憩室に自分で入っていった。そこでは、良子皇后の侍女たちがフランス語で噂話をし、皇后のパリ製のガウンに真珠を縫い付けていた。
# 1
もう一人の娘、次女は、誕生の際に死んだ。
宮廷女官たちは、〔裕仁の予期せぬ訪問の〕驚きを必死に押し隠し、気の利いた会話で裕仁をもてなした。彼はぶっきらぼうな挨拶を返し、女官の一人ひとりを見定めるようにその部屋を歩き回った。かっての美貌を維持している年増の女官もいたが、若い女官のほとんどは、身長5フィート
〔152cm〕
、体重120ポンド
〔54kg〕
の皇后良子のように、ぽっちゃりとしていた。裕仁はその内の何人かにほめ言葉を与え、会釈をしてその部屋を去り、皇居図書館へと戻る路をたどってその日の散歩を終えた。
その翌日、侍従職の管理者より驚かされた女官たちに内密の指令が出された。それは彼女たちに、次の三事項を留意させ、助言し、通告するというものだった。第一は、皇后は29歳になったばかりで、まだ皇位を継承者を生んでいない。第二に、天皇は妾をとることを考慮している。第三に、裕仁に出来うる限り魅力的でその意向にそえることが女官たちの国に仕える義務である。女官たちはお互いに、裕仁――まだわずか32歳――の気まぐれさに悩まされているかを装いながらも、誰も、たくさんのお金を費やし、毎日、最高のドレスや香水を身に着け始めた。
1932年の初夏を通し、裕仁は午後の散歩のさいには欠かさず、女官の休憩室に立ち寄った。彼は各々の女官の上品なおしゃべりに真面目に耳を傾けたが、どの女官に関心があるのか、いつも何らのふりも見せなかった。一方、女官たちというのは、ブリン・マウル
〔米、フィラデルフィアにある私立女子大学〕
、ラドクリフ
〔フィラデルフィア、ケンブリッジにあった私立女子大学〕
、オックスフォード、ソルボンヌの卒業生だった。彼女たちは、日本の昔の女性隷属を遺憾としていたが、そうした過去の露骨な慣習に利点を見出し始めていた。彼女たちは、明治天皇がベッドを共にしたい女性の前に単にハンカチを落としてゆくという30年昔の宮中の習慣を、ある向学的郷愁とともに思いおこしていた。
そうした切ない女性たちは、スパイ機関の老蜘蛛、田中が繰り広げる奇怪な社会操作のための広報政策の言わば犠牲者だった。つまり、日本の温厚な人々にとって、女官に示す裕仁の生真面目な態度について聞くことは、古く薄汚い宮廷侍従の圧力にさらされている人の良い夫というイメージを連想させ、それはまた、裕仁とは、1920年代に宮廷が公開した写真映像のような、品性正しく先進的な若者である、とのイメージ作りに寄与するものであった。
だが本当は、裕仁は息子をもうけねばならないとの圧力は何ら感じていなかった。と言うのは、もし彼の二人の側近の証言――当時の文書には、それを裏付ける広範な兆候が見られる――を信じれば、裕仁はすでに一人の息子を持っていたからだった。1931年3月、四番目の娘の誕生の後、彼はいよいよ皇位継承者の必要という問題に遭遇し、真剣に取り組むべき時期がきたとの主要家臣たちの見解に同意していた。同時に、彼は個人的な理由から、妾をもつことには不本意だった。良子皇后との親密な関係と自分の家族――伏見家のいとこたち――からの信頼は、ないがしろにはできない余りに重要なことだった。そこで、もし彼がただちに息子を必要とするなら、その子は、万一の場合のためだけの、ただ手段上でもうけられた継承者で、時が来るまで、表沙汰にならないようにされておかれなければならなかった。そして、後になっても良子皇后が男子を生まなかった場合、その男子は皇子として養子の扱いを受け、皇室の体裁にいささかの傷は残そうとも、若気の至りの結果として説明されたかも知れない。しかし、もし良子が男子を産んだ場合、その用意された跡継ぎは秘密のままにおかれ、手厚い境遇が与えられたろう。
1931年春のある日の午後、裕仁が生物学研究所を訪れた時、彼は試験管に入った自分の精液をそこに預け、彼の主治医のひとりにそれを任せた。その精液は培養され、分割されて何人かの貴婦人に提供された。そのうちの一人が、この1932年の初め、首尾よく男の子を出産していたのだった
# 2
。
# 2
この話を筆者に伝えた人は、その母親が誰で、その子がその後どうなったのかとの質問については、その答えをはぐらかした。しかし、木戸日記の目立たない記述は、試験管皇子の存在は、1937年11月まで、皇室の問題として扱われていたことをにおわせている。だが木戸はその段階で心配をやめている。おそらく、その少年は、日本の伝統的手法により、跡継ぎを欠く貴族家系の養子となったと思われる。
いったん皇位継承の問題が解決し、裕仁が息子を生ませる男子たる能力の証明が成立すると、天皇の信望の厚い侍従の幾人かが、裕仁を喜ばせ、その生殖能力に政治的意味を持たせようと思案をめぐらすのは時間の問題だった。その役を任されたのは、この世紀の初め、裕仁の一年遅れの誕生劇を演出した、蜘蛛の田中だった。89歳でいまなお好色旺盛な蜘蛛は、その宮廷従者の主席キューピットの役をおおせつかった。5・15の犬養暗殺の後、蜘蛛は、自分の常陽明治記念館を博物館に変え、そして自分の住居を侍従寮に移し、20年前に明治天皇の宮内大臣として10年勤めて退職して以来のいかなる時より、宮廷内部での采配をふるい始めた。
裕仁の女官寮への最初の訪問に続いて、田中は、 「女官問題」 についての公表不可能な物語を、ほぼ毎日の会見を開いて記者たちに事情説明した。田中はそうした記者たちに、裕仁は 「余りに堅物」 な 「一夫一婦制の信奉者」 とぐちをこぼし、ともあれ天皇が必要としていることは、 「そうした彼でもその気持ちにさせる、素敵で健全な女性である」 と言った
(7)
。
1932年真夏、新聞が 「宮中の機微な状況」 と、説明抜きで婉曲に報じ始めると、うわさがうわさを呼んで広がった。蜘蛛こと田中は、女官の休憩室を自ら訪れてそうしたうわさ話に油を注ぎ、その藤原家の血を引く女性たちに、もしあなた方がその任務を果たさないなら、宮廷外部でもっと魅力ある貴婦人をみつけることになる、と警告した。
田中はこれみよがしに、それにふさわしい若き貴婦人のリストをつくり、写真家と侍従らからなる 「シンデレラのガラスの靴の主をさがす」 代表団を送り出した。相当な数の毛並みの良い今日のシンデレラたちが、 “繁殖牝馬” として皇位に仕えたいと名乗りを上げた。老田中と老練侍従たちによる委員会は、写真をしげしげと眺めながら、追憶の飽食と自慢話の交換を楽しんだ。そしてその最後に、もっとも快活で、健康そうで、しなやかで、そして適格かつ献身可能な、三人の候補者を選んだ。さらに田中は自分で、その三枚の十×八版
〔25.4x20.3cm大〕
写真の裏に直筆で、各皇后候補の血統を書き込んだ。そしてそれらの写真を上等のライス紙でつつみ、裕仁の机上の書類箱上に置いた。翌朝、裕仁が皇居図書館の机の前に座った時、彼はそれらを一目見ただけで、書類の山の一番下に入れてしまった。その夏中、そうした毎朝の措置が繰り返され、三枚の写真はそこに置かれたままだった。
国中に広がったうわさに加えて、その 「女官問題」 は論争の最大の焦点となった。女たちは良子皇后に同情し、男たちは政治的意味について抜け目なく論じた。8月、田中が古い友人で良子皇后の伯父である東久邇親王と仲たがいしたとのうわさが流れた時、誰もそれに驚かなかった。8月4日には、東久邇親王がある歓迎会に遅れた際、彼の自宅への電話で、彼が田中との衝突で足止めをくっていることが明らかとなった
(8)
。その老スパイは、その皇室の若いスパイを、姪の良子皇后の立場をおもんばかった嫉妬が自分の国益上の憂慮に横槍を入れるものだとして、非難したらしい。また数日後、老蜘蛛の田中は、他の古い友人である一木宮内大臣より刀を突きつけられたと報道された。というのは、彼が一木を、天皇に妾を勧めるにあたって余りに及び腰であると、非難したためだった。
それから半年間、田中は、ゴシップ記事欄で、一木宮内大臣および東久邇親王と対決し続けた。だがそうした衝突は名目的なもので、実際の対決ではなく、結局、拍手をもって終幕となる。ただ彼らがあおっているのは確かで、そうしたゴシップ談の中で良子皇后は、夫が自分を置き換えようと考えているのかも知れないという恐ろしい可能性に気付きつつある主として描かれた。宮廷の付き人たちは、彼女が目にハンケチを当てているのを幾度か目撃した。そして彼女は、彼女の付き添いのもっとも若くやせた者に名を隠して電話をかけ、その者を 「太っちょ」 と呼んで悩ませ始めた。
その太っちょさんの伯父は侍従次長だった。彼は太っちょさんに、天皇の机の上の写真について話した。皇后の嫉妬をやめさせようと、太っちょさんはその話を、皇后の衣装係主任に伝え、そしてその主任はそれを皇后にとりついだ。皇后の伝記の著者によると、皇后良子は、宮廷の広報専門家の計略にまんまと引っかかった形でそれに反応した。 「信じることはできません。彼が私にそうするとも、また、そうできるとも思いません」 と彼女は静かに答えた
(9)
。
数日後、皇后良子はお付きの者たちに、もっとも感動的な場面の話を聞かせた。彼女によるとそれは、その前夜、 「格子戸の部屋」――天皇の寝室の婉曲的呼び名で、昔日に遡れば、天子が床を共にする相手とうまく行っているかを確かめるため、護り役が常にのぞき穴の外に立っていた――でおこったことだった。裕仁が優しい気持ちでいるのを見て、良子は自分から、9月の夜気にのって庭からハイビスカスの甘い香りが漂ってくると彼に話した。彼女は初夜のことを追憶した。そして、涙を流しながらこう言った。 「私は何もかも知っています。どうか私に、あなたの本当の気持ちをお話し下さい。たとえ貴方が私をもう愛していないとしても、私は貴方を愛しております。」
(10)
良子が言うには、裕仁は彼女が何を言わんとしているのかを理解するのに一瞬の時を要したが、妾をとるつもりなぞ毛頭ないことを、たくさんの優しい言葉とともに、彼女に明言したという。
この格子戸の部屋での話から5ヵ月後の1933年2月、老蜘蛛の田中と一木宮内大臣の間の仲たがいは、両者の引退で幕引きとなった。そして、うわさの世界には、裕仁はその言い争いにうんざりさせられ、もうこれ以上女官問題にかかわらない、との広報がなされた。手の込んだ話だが、こうした公的断言は、事情通の日本人たちの解釈によれば、一木と田中は妥協し、暗殺や流産した5・15叛乱
# 3
の社会的責任を共に果たすと合意したがゆえのものだった。いっそうの法的責任を果たすべきと思われる牧野内大臣だが、それからほぼ3年間、裕仁のもとに留まりつづけた。
# 3
一木は、犬養首相の暗殺に反対したにも拘わらず、その責任を従順に認めた。その反対は、5・15の三日前、大兄の木戸がスパイ秘書の原田に、 「一木じゃだめ」 と通告するほどに、強行なものだった。
(11)
1933年3月、こうした落着から一ヶ月がたって、皇后良子はふたたび妊娠した。宮中の産婆たちは、男の子を生みそうだと確信した。4月、人工授精による裕仁の息子を生んだ女性が、その子を他の待機中の女官たちに見せるため、休憩室を訪れた。皇后良子は、その女がいる間に休憩室に立ち寄り、そのよちよち歩きの庶出の跡継ぎを、天皇の私生活住居に連れて行ってはどうかうながした。そして良子はその子に熊のぬいぐるみを与え、その母子がつねに厚く処遇されることを確約した。女官たちは、その子が皇后に従い、彼女の胎内の子の指導力を認めるようになるよい兆候だと語り合った。
(12)
リットン調査団
グリューが、大使として日本での微妙な意思疎通になんとか慣れ、また裕仁が宮廷で前年春の暗い出来事を覆う煙幕を張り終わった頃、リットン卿は満州にあって日本の政策を精査していた。
1931年11月、日本を相手に果敢に戦った中国の英雄、馬将軍は、1932年2月には、日本に寝返るふりを見せていた
(13)
。追放されていた満州軍閥、張学良は、彼の部隊に払うべき2百万ドル
〔現在価値で約120億円〕
に近い小切手を馬に送った。 その小切手は、日本人が所有する銀行から支払われるものだった。日本人は、馬が満州国の新政府の傀儡陸軍大臣職を引き受けることを条件に、その現金化を許した。しかし、六週間後、馬は、その200万ドルのほとんどと日本製の武器や軍服を積んだトラック部隊と共に、北西満州の荒野へと逃げ去った。4月14日、彼は、ロシア国境上の町、ハイルンにあって、自分の独立と日本への反逆を宣言した。
その一週間後、リットン卿と国際連盟の調査団が奉天に到着した。リットン卿が滞在中の六週間を通し、馬将軍と急遽召集された部隊は、北満州への攻撃をしかけ、満州政府が大衆の自発的な支持を得ていると日本が主張する、その統一なぞは存在していないことを見せ付けて、日本への痛切な打撃をもたらした
(14)
。馬将軍は、毎日、リットン卿へ、北部を訪れ本当の満州人の満州を見るようにと放送した。だが、リットン卿はその招待に応じるどころか、それを受け入れる余地はなかった。
しかし、馬の態度は、日本の憲兵を恐れずリットンに事実を知らせようと、多くの満州人を勇気付けることとなった。その声は、〔ホテルの〕バスタオルに包むとか、メニューに書き込むとか、ケーキに埋込むとかといった、思いつく限りのあらゆる工夫を通じてリットンに送られた
(15)
。北部の都市、ハルピンだけで、調査団と連絡をとろうとしているとして、日本のスパイ機関の雇われ人が捕らえた者たちは、5人の中国人、2人のロシア人、1人の朝鮮人で、その8人の全員が警察の拘留中に死亡し、そのほどんどは長い拷問を受けた後だった。一人の若いロシア人学生は、彼が学んでいるハルピン工科学校の閉鎖に抗議したかっただけだったが、モダン・ホテルの二階で逮捕され、近くの部屋でベッドの用意をしたり報告書を読んでいた調査団員が、何の音にも気付くことなく、静かに殺された
(16)
。
1932年6月4日、リットン卿は、風通しの悪い阿片窟の臭いを鼻腔に残して、中国に戻った。彼は北京の大使館地区にこもり、彼や団員が集めた資料をまとめ、ジュネーブの連盟本部へ送る公式報告書を編纂した。満州で彼につきまとった日本陸軍将校たちは、彼をごまかすことに失敗しているのではないかと疑心暗鬼だった。彼らは、その恨みを油断のならぬ策士、馬将軍に向け、彼のゲリラ部隊を一隊また一隊と追いまわしていた。
(17)
1932年7月27日、日本軍部隊は、ロシア国境でロシアへと逃亡しようとしている8百騎の中国騎兵部隊に待ち伏せ攻撃をしかけた。その殺戮の後、戦闘現場の死体の中から馬将軍の馬と鞍袋が発見された。裕仁天皇は、公式に馬将軍死亡の報告を受けた。その数日後、上海の不遜な新聞編集者は遠まわしにその虚をついて報じた。「神にとって、誤報がありうるだろうか?」。馬将軍は生きており、ロシアで健在だった。そして彼は世界をめぐる旅行に出て、満州人の主張を広げてまわり、最後に、君主とする北京の張学良の下に戻った。
(18)
楽園とは程遠い
裕仁は、馬の逃亡成功を、満州征服者、本庄関東軍司令官を日本に呼び戻す口実として使った。本庄と裕仁には、満州で展開されるべき植民地政策について、丁重ながら、互いに同意できないものがあった。本庄は、帝国のその最新の獲得物をひとつの理想国家――全アジアのための日本の優先性の実例となる 「楽園」 ――にしたいと考えていた。しかし、陸軍々人がゆえに、本庄は経済的分野では実務者ではなかった。彼はそこで、その新植民地が長期的投資先として扱われ、ただちの利益獲得先としては除外されることを求めていた。だが、裕仁の大兄たちには、その新植民地は、その発足の時点から採算の合うものでなければならなかった。もし本庄と北進派の理想主義者がその道を進めれば、日本の余剰なエネルギーは、十年間かそこらで、満州において浪費尽くされ、その国家計画は予定通りには進まなくなる恐れがあった。
(19)
だが本庄はその最初から、強固で優れた武力外交の門下――参謀として本庄の部下となっている裕仁の特務集団の若手将校たち――のカモであることを自ら発見せねばならなかった。こうした若手将校は、東京の宮廷との間に独自のチャンネルを持っていた。そのうちの幾人かは、満州作戦を計画した宗教的熱意をもつ戦略の天才、石原中佐のように、本庄を賞賛させた理想主義者だった。しかし、満州占領の作戦行動段階が終わると、本庄は、自分を賞賛させなかった他の部下たちの役割に気付かされた。つまり、そうした者たちとは、スパイ機関の工作員、虐待的憲兵、そして、大陸浪人たち――若い頃は 「中国ゴロ」 で鳴らし、やがて上海や漢口や天津の日本人男色街で白人おかまや麻薬売人と取引することを覚えた――だった。
満州についての当初の計画は、本庄の知る限りでは、その地の鉱物と化学資源を開発し、工業国としての可能性を現実化させ、そして、日本の入植者をその国境地帯や未開発地に定着させようとするものであった。参謀総長の老閑院親王の命令に従って、本庄は、日本人入植者に置き換えるため、およそ2万5千人の中国人や満州農家を移動させることを認可した。だが彼は、その移動事業の実行をスパイ機関や特務集団メンバーである部下――共に彼の管轄外で東京からの指令によった――にまかせねばならなかった。
(20)
その移動政策が実行されると、それは、本庄の名誉に永遠の汚点を残すものとなった。スパイ機関に雇われた中国人盗賊が土着農民の村を取り囲み、彼らに取って代わる入植者のために、彼らを日本式の家を建てる仕事に就けさせた。そうした仕事を終えた土着農民には、所有する新たな土地や種や農具が約束された。そしてそれが終わった時、彼らは、新たな土地へと彼らを連行する日本陸軍の正規部隊に引き渡された。だがそうした部隊の兵士たちは、こうした土着農民は盗賊団家族で死刑が宣告されており、囲いに閉じ込め、機関銃で殺さなければならない、と命令されていた。またそうした農夫の一部は、日本軍の歩兵中隊に提供され、満州に遅れて到着した新兵が実際の戦闘を経験して鍛えられていなかったため、その銃剣演習用に使われた。
(21)
スパイ機関の手先となり、後にその経験の手記を秘密出版した白系ロシア人学生は、この銃剣演習を詳しく叙述した。彼はそれを、加虐的ではなく、被虐的――自動人形のための学校の演習授業――と形容した。そうした日本兵は、茫然自失で愚か者のようだったと書いている。彼らは、その演習に入る前、地面に打ち込まれた杭に彼らを申し訳なさそうに縛りつけ、笑いながら彼らにキャンディーを与えていた。そうしてそうした兵士たちは、装着した銃剣でその縛られた捕虜に突進し、ロープの間から生肉となって崩れ落ちるまで、それを繰り返した。
その手記の中で、自らをオレグ・ボルギンス
(22)
と呼ぶその白系ロシア人学生は、1932年2月にハルピンに入ってきた日本軍のオートバイ部隊を、解放軍として歓迎した。1920年のロシア革命の難民として、オレグとその家族は、反革命派なら誰であろうと仲間であると考えた。最初オレグは、日本人は 「素朴な修行僧のような兵士たちだ」 と母親に安心させた。彼が一年間スパイ機関工作員として働くようになり、彼の母親が人質とされ、そして彼の妻が売春婦として日本人の奴隷とされるに至って、彼は自分の雇い主を嫌悪することを知った。彼の手記が欧米社会で出版されたのは、その執筆から7年がたち、彼が死んだと見られた1943年になってからだった。
オレグ自身は、日本の憲兵による教化課程――彼にとっては満州で日本兵に与えられる教化と何ら変わりなかった――の下にあった。加藤という名の憲兵の彼の教師は、 「君は釣りをするかね? その時、誰も魚をかわいそうとは思わないだろう。君も同じ態度をしなくてはな」、と彼に言った。そうして、共産主義者と疑われた一人の若い満州人が、 “教室” である取調べ室に連れてこられて殴打された。彼は煙草の火で、ほお、くちびる、まぶたを焼かれた。そして水と唐辛子を混ぜた液を鼻の穴に流しこまれ、死ぬほどに焼ける苦しみと、溺れる苦しみを同時に味あわされた。さらに彼はつるされて鞭で打たれた。そして “実習” していた者たちがその煙草の火で、彼の陰部を焼いた。彼は意識を失った。そこに、見るからにそうした教育と侮辱の措置に慣れた一人の日本人医師が笑みを浮かべ、会釈をしながらその部屋に入ってきて、蘇生の注射をした。その若者の手の爪は抜かれ、次は足の爪をはがれた。肉片が彼の身体からナイフで切り取られ、その歯も折られた。最後に、教師の加藤は、 「彼のお気に入りの道具である煙草を用い、きちょうめんに、彼の両目を焼きつぶした」。
「幸いなことに、そこで彼は死んだ」 とオレグは書いた。
工作員によって実施されたこうした方法は、本庄関東軍司令官の管轄外で行われ、1932年6月、彼は、使えるあらゆるチャンネルを通じて、満州にもっと良質な行政をもたらすようにと裕仁に訴えた。その回答は一ヶ月後に与えられ、裕仁は満州に166人の若い専門技術者――その全員が木戸の11人クラブの関係者だった――の派遣を許可した。そうした技術者たちは、満州に効率はもたらしたが、その後のその植民地の状況をいっそう悪化させるものとなった。
(23)
満州国航空会社が、日本の資本と操縦士を用いて設立され、 「中国への空路開発」 に貢献するとされた。その後5年間、この会社は、明らかに、日本空軍の民間部隊として行動し、何千回もの領空侵犯飛行を行い、無通告で中国の飛行場に着陸し、地上勤務員費用はおろか滑走路使用料も無視し、そして、諜報員を除いて人はたいして運ばずに、武器、資金、麻薬など、すべて中国の瓦解を誘発すると計算されるものばかりを密輸した。
(24)
日本の南満州鉄道会社――英国植民地政策の、東インド会社やハドソン湾会社をモデルとした――は、新施設権を用い、その路線を千マイル
〔1600km〕
以上も延長した。その各々の路線の行く先は、戦略的意味を持っていた。すなわち、一つはシベリア横断鉄道の満州領内支線と交差し、第二はモンゴルへの路を開き、第三は、北朝鮮の海軍艦船のための新たな人造港であるウラジオストックに連結される見込みの地点にあった。
(25)
新京とよばれる新たな首都が、奉天の北の旧中国人都市、長春に建設された。その道路は測量され、満州事変以前に都市計画されていた。リットンが訪れるまでに、その新都は、ほぼ完成しており、一ヵ月後の1932年7月のヘンリー・溥儀の移転と彼の傀儡政府の開設の準備は整っていた。
石油精製所と硝酸カリ、リン酸、そして硫酸の化学プラントが、旧関東租借地の大連の面する湾の対岸に姿を現しつつあった。奉天の真東、世界で最大の露出石炭層――延長10マイル
〔16km〕
、幅2マイル
〔3.2km〕
、深さ350フィート
〔105m〕
――の脇の撫順に、日本人はモデル企業都市を作った。そこでは、坑夫たちは、無料の住居、電力、交通、そして中央暖房施設を使うことができ、会社の売店で食料や薬を買う以外、その給料から何ら支出するものはなかった。その日当は米ドルに換算して40セントにすぎなかったが、全国平均日当の四倍以上であった。地元の満州人が肉体労働職のすべてと事務職の1.3パーセントを満たしたが、技術と管理職には誰もついていなかった。
このような経済的発展の見本をまかなうため、裕仁の166人の若い専門技術者たちは、それまでどんな植民地勢力も導入したことのなかった極悪非道な資金調達方式を編み出した。ハルピンのスパイ組織のイタリア人工作員、アムレト・ベスパ
(26)
は、それを 「史上最大の組織的搾取」 と呼んだ。それは最初、1932年夏のある日、名を知らぬ皇族風の彼の上役が、 「日本は貧しい。日本陸軍は毎日何百万円もの金を喰う」
(27)
と言って、彼にその概略を説明した。
満州の農民は、あまりに小賢しい百姓根性に長け、順当な率の普通の税金すらも取り立てが困難だった。そこで、日本のスパイ機関、憲兵、そして特務機関の工作員は、満州人の人的弱みを利用して搾り取ることを考案した。すなわち、阿片、ヘロイン、ばくち、そして売春の独占的営業許可を、中国各地の日本人入植地のあこぎな連中の組織に売りつけた
(28)
。そのうちで、もっとも冷血な――血の池を泳ぐサメのごとき――一味が、麻薬売人たちだった。彼らが満州にやってきてから、あらゆる主要都市の郊外のごみ捨て場の周辺は大墓地と化し、そこは、毎朝、街頭から除去されてくる麻薬中毒犠牲者遺体の捨て場となった。
日本人自身は、常時、麻薬中毒に健全な恐れを維持し、それを禁止せねばならなかった他の植民地からはうらやまれるような記録を保持していた
(29)
。ケシの吸煙は、1650年頃、オランダ人によって中国に持ち込まれた。以来1800年頃まで、それは、主に、老人で、リューマチ病みの金持ちの中国人が行う贅沢な行為だった。それが、英国、ポルトガル、オランダ、アメリカの商人間の競争がおこり、価格の引き下げと、供給量の増加が発生した。18世紀の中国では、中毒になった高齢の役人は、公務の旅行の際、 “授乳係” ――その女自身が麻薬で陶酔している間に彼らにその乳を与え、彼の弱った臓器に消化しやすい栄養物〔と麻薬成分〕を提供した――を同行させることが常だった。1800年以降、そうした習慣にとらわれた貧乏人には、とてもそうした上等な方法は無理だった。彼らは、働き続ける必要のために、その良く効く鎮痛剤のパイプを食事もぬいて常用し、その最中に、文字通りに倒れて死んだ。それは、20世紀の今日でも広く観測され、人力車夫は、ご飯一杯と阿片のパイプで20マイル
〔32km〕
を走り、何の苦言を発することなく、その足跡を絶っている。
日本人は、その最初から、麻薬が中国人の品性を落とした危険を知っていた。1858年、外の世界といかなる条約も締結される以前、幕府は英国と、阿片を日本では禁制とずる交渉を行っていた。1895年、日本の節度ある兵士たちが台湾を征服した時、台湾人の14パーセントが阿片を吸っていることを知った。それから40年後、日本の警察の冷静で効果的で父親的な努力によって、台湾の中毒者は全人口の0.5パーセントにも満たなくなった。日本の麻薬取締官は、中毒者に時の闇価格をはるかに下回る価格で3日間分の阿片パイプを供給した。そして、政府の独占体と対抗できる密売人が現われないようにきびしい監視を続け、遂には、若者たちがその習慣を始めなくさせた。老人の中毒者もいつかは死に絶え、新たに現われた中毒者も、ほとんどそれを続けることはなくなった。
1926年、裕仁が天皇に即位した時、日本は世界のどの国より、良好な麻薬撲滅の記録を持っていた。その当時、3千人に1人のアメリカ人が薬剤の形――特許睡眠薬使用の副作用――の阿片中毒患者だった。それに比べ、日本では、1万7千人に1人が中毒患者であるにすぎず、日本の最新の植民地、朝鮮でも、住民4千人余りに1人にすぎなかった。しかし、満州においては、日本は新たな政策を敷いた。1920年代末、関東租借地以外で商売する日本人の麻薬売人は、満州で出来る限りの量を売りまくり、満州人の拒絶反応を切り崩した。1931年9月に日本が奉天を占領した時、国際連盟の統計によると、満州人の120人に1人が麻薬中毒者だった。そして7年後には、満州人の40人に1人が中毒者となっていた。
日本の阿片売りつけ活動は単純かつ直接的だった。大豆とケシを輪作する農家には手当てが支給された。すべての阿片吸入者は登録され、雑誌の予約購読者が週刊の雑誌発行に料金を後払いするのと同じようような方法で、毎週の配給に料金の支払いが期待されていた。最初に、購入物が入門価格で届けられ、家族から離れて夢を追いたい者には、快適な吸引所も提供された。
そうした吸引所の他に、満州の主要都市の下町通りに設置された、およそ3倍の数の阿片窟があり、そこでは、吸引習慣者も初心者も、皮下注射による楽しみも体験することが出来た。そうした阿片窟では、男も女も、少年も少女も、モルヒネ、コカイン、そしてヘロインの陶酔旅行を経験することができた。十代の者や子供には、一服5セントにもならない割引料金が用意されていた。どの吸引者も公式には中毒者として登録され、彼らには、阿片独占体から認証医療記録が発行された。しかし、事実上、そうした阿片窟は誰にも開放されており、数枚の銅貨が支払えるものは誰でもその客となることができた。そうした阿片窟の調剤者はあまりに分け隔てがなく、暴露記事を書こうと訪れた勇気あるアメリカ人新聞記者にも注射をしたほどであった。そうした記者の一人は、20枚の銅貨を一人の荷揚げ労働者に払うと、袖がまくしあげられ、テントの穴の中にその腕を突っ込まされたが、針を刺すところまでは見えなかった、と書いている
(30)
。
阿片窟に隣接して、売春宿も花盛りだった。その建国後の最初の一年に、7万人を下らない売春婦が日本や朝鮮から満州に連れてこられた。そうした売春宿、認可された吸引所、そして無許可の注射阿片窟に加えて、日本のやくざ団体が公認の十数件もの闇商売を組織した。彼らは、日本の憲兵ともつるんで、次のようなさまざまな権利を設定してその使用料をかき集め、金儲けにいそしんだ。そうした権利には、結婚式、お通夜、あるいはただ宴会をする権利、歩道を掃除する事業の権利、新たな強制的住宅番号を持つ特権についての権利、かっては無料だった川から氷を切り出す権利、あらゆる不動産や事業契約の際の無数の印紙、印章、副署名に関する権利、二ヶ月に一度煙突を掃除する事業の権利、偽の借用書で定期的に催促されない権利などがあった。また、すべての銀行取引には、特別の料金――30ないし40パーセントの損失なしには資産の清算ができなかった――が課されるという試練を覚悟せねばならなかった。
(31)
粗末な饅頭の朝食、昼食は空気で済まし、夕食に阿片をとって、満州人はそうした諸代金を払い続けた。そうした闇商売を営む日本人や朝鮮人の権利所有者もまた、それを払った
(32)
。彼らは最初その独占体に支払い、次に、テロや拷問で自分たちの強奪を後押ししてくれる憲兵に、幾度も賄賂を贈った。つまり、東京からの皇位の密使たちは、二度、うまい汁を吸っていた。一度は、権利所有者からその認可料を受け取り、そして次に、憲兵から、権利所有者から搾り取れるその職位への任命の見返りを受け取った。そうした警察の仕事の最上のものは、東京で競売にかけられ、その年間給与の十倍もの値で取引されるくらいであった。裕仁の取り巻きたちは、そうした搾取者を搾取する任命権を利用して、かれらの総収益の実質部分を実現させ、そしてそれを、皇位の陰謀と武器の研究機関に再投資した
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。だが裕仁は、幾重もの御簾の背後で、完璧に隠されたままであった。そして、一人の信用しうる侍従
# 4
が宮廷より満州国に派遣されて居住し、傀儡溥儀の宮内大臣次官として、そうした闇商売を監視した
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。
# 4
入江貫一
満州国を統治するために、日本は、本国の 「御簾の背後政府」 の精巧なコピーを作り上げた。その御簾の前には、現地満州国内閣の各大臣が座し、その各々は、日本人の次官と官房書記官の言うなりとなった。御簾の背後にはヘンリー・溥儀が、日本の憲兵に護衛されて玉座していた。溥儀は名義上の満州国軍の最高司令官であったが、その軍は、日本人将校を据え、また、その兵隊は関東軍によって労働力として雇用されていた。関東軍の司令官は、裕仁の大伯父である、閑院親王元帥に報告する地位にあった。また憲兵の司令官は、東京の憲兵長官に報告していた。閑院親王も東京の憲兵長官も、天皇裕仁に報告する地位であった。
満州国で成長した一人の日本人が描写しているように、その傀儡国は、 「厳密な美的ものまねによって作られ箱庭」
(35)
だった。すなわち、各々の植木は入念に選ばれ、剪定され、栽培され、本物の自然の森の美しさを表しているかのようだった。同様に、各々の官庁や制度は機能をなすかに見せかけられていたが、その真の姿は、現実世界の生々しい産物である、日本の写しという事実は隠されていた。
満州でのあらゆる日本人は、いかなる時でも、完璧にかつ冷笑的に、自分の舞台監督としての役割を自覚していた。東京から派遣されてきた166人の専門技術者も、関東軍の参謀将校との協議の上、その傀儡国家の計画を立案していた。そしてその計画は、参謀本部諜報部長の永田少将――バーデン・バーデンの三羽烏の筆頭――によって修正され、その永田の計画が閑院親王によって承認された後、裕仁が少々の論旨的手直しを加えた。その最終文案が満州に送られ、関東軍の参謀将校らの閲覧をうけた。飾った言葉などひと言もなく、それはこう述べていた。満州国政府は、 「日本経済との共存共栄」 に努めるものである。それは、形式的には 「立憲的体裁」 をなしていたが、 「実質的な専制」 だった。その 「内実の指導者」 は、 「日本人の血統」を持つ国務大臣と協働する関東軍司令官であった。
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つづき
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