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北中国の中立化は、天皇の計画のひとつの章の終わりを意味していた。日本の影響下でのそうした自治地域は、西洋諸国に対する緩衝地帯――19世紀に、裕仁の祖々父の孝明天皇やその摂政たちが日本の安全を維持する手段として考え出したもの――として用意された。北中国は日本陸軍にとって、北進しようと、南進しようと、そしてたとえ蒙古やチベットへと西進しようとも、その部隊集結に使われるべき地域であった。おおかたの日本陸軍将官たちには、それで充分であった。だが、その内のある者たちには、それは危険なもので、日本の対処能力を越えており、幻滅と士気喪失と貪欲に終わるものに思えた。そうした古強者たちには、さもしい金儲け第一の商人ら――彼らの眼には人間のくずと見えた――が、そうした地域をむさぼり合い、東南アジアの米や油田獲得のための踏み台にしようとしていると映った。
1935年6月の何・梅津協定締結の数日後、石原莞爾大佐――先の1931年の満州進出計画を立案した狂信的指導者――は、裕仁と一般参謀に、以下のように告げる緊急文書を提出した(01)。 「我々には唯一の道があるのみ。即ち、結集し、そして目標を完遂するのみ。もし我々が、たとえ満州国内のみでも再建の任務を果たすなら、他の中国も、当然のこととして、それに従うだろう。」
対ロシア攻撃の時は、幕僚はかねてからその最適時を1936年と計画してきたが、その時がにわかに近づきつつありながら、その準備は整っていなかった。北進派は、機関説論争よりさらに効果的になりうるような、新たに加えるべき圧力を探し回っていた。二人の若い反ファシスト――士官学校事件で逮捕され、1935年2月末に釈放されていた――が、5月11日に出来上がった
「粛軍に関する意見書」(02) と題した文書を配布した。その中で、彼らは、三羽烏や11人の選良たちから、天皇に近いと考えられている幾人かの名をあげ、1931年の3月および10月事件といった言語道断な非合法行為に加担していたとして非難していた。
もっと一般的な方法においては、そうした派閥争いに火をつけたその文書の書き手たちは、広く信頼された人物のもとの陸軍に、正規の天皇の指揮が与えられるようになるまでには、静まりそうにはなかった。寺内伯爵の提示した問題将兵を厳しい規律と即座の降格によって
「粛軍」 する政策は、効果を持つかも知れなかったが、肝心の患者を殺し、最良の士官たちを排除しかねなかった。一方、与党統制派が進める重なる操作と策謀という別の政策は、いっそう悪質な結果以外には何ももたらさなかった。統制派のメンバー――鈴木貞一の1927年研究会〔東方会議〕、バーデン・バーデンの選良たち、そして三羽烏――はいずれも、指導性を強化しようと、あまりに深く責任と脅しにか関っていなかった。それに対し、その書き手たちが言うには、北進派の真崎と荒木は、それを妨害する以外には、策謀には加担しなかった。そしてそれに続き、規律と法規が陸軍に取り戻されるならば、二人は若手将校のための信頼しうる手本となり、純正な改造運動を率いるつもりであった。
そうしたことが文書で表されたはのはそれが最初であり、1935年6月までには、その文書が私的に印刷され、それを手に入れた者たちの間でむさぼるように読まれた。その文書は、8月の配置異動をめぐっていまにも火をふきそうな陸軍内の抗争のため、きわめて時機に即したものとなった。林陸相が真崎を教育総監の地位から外し、北進派の最後の汚点を陸軍の高級将校から一掃することを確約した、とのうわさが持ちきりとなった。(03)
荒木と真崎の支持者たちは、自分たちに同調する士官に手紙を送り、予想される権力闘争を支援するように訴えた。6月末までには、こうした手紙に応えた形で、もし真崎の解任が実施されたなら、北進派は少なくとも一千人の将校に公然とした叛乱を号令するだろうとのうわさがささやかれた。軍事参議院に出席したかろうじて過半数の古参将官らは、裕仁、閑院参謀総長、そして林陸相に、そうした粗暴な不服従は無視し、粛清は計画通りに実行されるべきである、と進言した。6月末、林と閑院は、関東軍の眼地現地総監たちにその粛清を説明するために満州に飛び(04)、天皇への忠節の誓約を彼らに再度記銘させた。そして二人は東京に戻り、ほとんどの現地の将兵は命令に服従すると判断されると確約した。
7月10日、林陸軍大臣は、皇居の森の端にある自分のオフィスに真崎教育総監を呼び、8月の配置異動の一覧表を渡した。陸軍省内のほとんど全員の北進派同調者は、予備役か前線司令官に左遷されていた。真崎自身は、総監からは解任されてはいたが、軍事参議官としての名誉職を与えられていた。
林は早口で言い渡した。 「閑院親王閣下は現役職からの解任の望んでおられるが、私は閣下にそれは不可能だと報告申し上げた。しかし、もし貴殿がこの異動に承服されないなら、私は陸軍の綱紀に鑑みて、貴殿の将校退任を求めなけらばならない。」
「よかろう。もし大臣が公にそれを求められるなら、私は退任しよう。だが、人事異動は三長官(陸相、教育総監、参謀総長)の合議の上でなされるのか慣行である。もし大臣がこの決定をご自身のみで強行することが許されるべきとお考えなら、監察官制度を損なわせることとなる。しかるがゆえに、私は個人的事柄として承認はできず、公的になされなければならない」、真崎はそう返答した。
かくして真崎は、林陸相および閑院参謀総長との全面対決を打ち出し、事実上、皇室最年長親王の閑院親王が、陸軍から北進派を追放する決断についての公的責任をとることを求めた。この責任を引き受けることとは、南進決定といういっそう重大な決断についてもそうであった。つまりそれは、日本の他の由緒ある諸家系――いまだに日本の近代政治の下部構造をなしている封建的集団支配勢力――に何らの相談もなく、秘密裏に、それがなされたもの、ということを意味していた。
専制的な閑院親王は、その挑戦を受けて立ち、その翌日の7月11日、林陸相に異動を実施せよと告げ、12日に三長官の会議を入れるように命じた。林がその知らせを真崎に電話で知らせると、真崎はその延期するよう要望したが、林陸相はそれを断った。
「それなら結構。出席しよう。だが、私はその準備ができないので、何もそれについては存じてはおらん。私はただ、何も言うことなくそこにいるだけだ」# 1、と真崎は言った。
- # 1 その日の午後、偶然ではなく、予備役少将江藤源九郎――貴族院での機関説提唱者美濃部教授への攻撃を支援した――は、天皇に自分が政府の機関ではなく絶対君主であることを宣言するように求める正式請願を宮廷に提出した。内大臣秘書の木戸の助言で、裕仁は、江藤少将に謝意を表し、その請願は皇位の今後への参考として内大臣府の正式書類として保管することを約束することを決定した。(06)
翌日の朝、三長官の会議が始まると、真崎はさっそく攻撃を切り出し、「私は、その人事異動について調べる時間がまったくなかったので、休会の動議を提出ずる」
と宣告した。
朝彦親王――82年前にペリー提督が日本を開国させた当時、孝明天皇の顧問だった――の唯一存命する弟である閑院親王は、わずかにうなずいたのみだった。69歳の彼は、いまだに、日本でそうとう美男〔写真 閑院親王〕だった。今、彼は思わず立ち上がり、直立したまま、口ひげをそびえ立たせ、黒々とした眉を上げ、そして彼のほとんど西洋人のような端整な容貌に、冷たい尊大さを漂わせていた。
「では、どれほどの準備期間が必要なのかね」、と閑院親王は質問した。
「3、4日頂戴したい」、とここぞとばかりに真崎は頼み込んだ。
それに閑院は、 「私にも考慮する都合があり、15日に再開するとしよう」 と述べて再びうなずいた。真崎と林陸相は、深々と礼をしてその部屋から退席した。
真崎は、その足で、皇居の反対側に位置する明治神宮の道向いにある、退役した荒木元陸相の屋敷へと車を走らせた。会議の報告を聞いた後、荒木は真崎と共に皇居南西のお堀脇にある参謀本部〔皇居地図参照〕にもどり、閑院参謀総長と直ちに私的に会見したい旨、求めた。それが許されると、荒木は、即席ながら理路整然とした独演――彼は口数少ない皇族たちの扱い上手で有名だった――を始めた。そこで荒木は、林陸相が、八月配置異動についての一問題に余りに固執し、彼の態度は多くの彼の同僚から、
「常識外れ」 だとさえ見られているかのように述べた。
さらに荒木は、どこか脅かすような口調で、 「もし真崎の配置転換が命令であるのなら、私はそれを受諾するよう彼を説得します。しかし、私は閣下がそれに直接に関わらないよう切にお願いいたします。というのは、それは、争いを拡大させ、閣下を傷つけるやも知れないからです。」
そこで閑院が尋ねた。 「ならば、三長官会議で、貴殿は私に、いったいどうせよと言うのか。」
「林と真崎に、ただ単に、双方が誠意をもって話し合い、そして、双方が納得できる異動案を持ってくるように、と指示するだけです。」
それに閑院は、 「貴殿らは、二人だけの協議をもって導かれた結果が意味あるものだと言うのだな」 と念を押し、そして言った。 「よかろう、考えてみよう。」
その後の妥協を模索する三日間で、林陸相は、自分はむしろ融通がきき、頑ななのは閑院親王の方であることを、幾度となく示すこととなった。閑院は、ただ二箇所の譲歩を見せただけだった。彼は、小磯中将――三月事件の首謀者――に、陸軍航空隊本部を担当させたく、また、建川中将――
「文菊」に投宿した――を参謀次長にするのを望んでいた。閑院親王は、荒木の急き立てにより、遂に、こうした異動を延期することに同意し、ともに彼の長年の騎兵隊仲間である建川と小磯を、戦地の司令官に留任させることとなった。
しかし、異動案のうちでもっとも物議をかもす二件について、閑院親王はまったく頑固さを崩さなかった。彼によれば、天皇以上の正しさを吹聴する真崎は軍事参議官に格下げされねばならず、また元憲兵隊司令官の秦真次――真崎に非難のための情報を提供していた――は退職して一般市民にならなければならなかった。皇族の一員が、そうした私的敵意を見せるのはよほどのことだった。そこで閑院親王を立て、天皇を守るよう努めるため、林陸相は、陸軍省の一番烏の永田とその部下たちに真崎の解任を説く報告書を作らせ、それを省内部に広めた。
7月15日正午、焦点の三長官会議が始まる一時間前、荒木は膠着状態を打開するため,最後の期待をかけた努力を試みていた。彼は林陸相を呼び、陸軍省内では彼一人が関与すべき軍規の問題に、皇族を巻き込むのは国の為によくない、と彼に警告した。歴史的に、どの大臣も天皇の背後に隠れようとするものは、即座に日本国民から強く非難されてきたからであった。
午後1時、蕎麦一杯の急いだ昼食を済ませた林陸相は、三長官会議を開会した。北進派の真崎教育総監が、再び、攻勢に出た。 「この会議の背後に見られるものは、、ふとどきな思惑ばかりだ」、と彼は切り出した。そして彼は軍服内から一部の書類を取り出し、机の上に置いた。
林陸相と閑院親王はひと目みて、それが、1931年に実行された三月事件の際、一番烏の永田が政府のために作成した 「創作品」 であることが判った。
真崎は続けて言った。 「今回の策謀も、三月事件の者らによって編み出された。軍紀を乱し、陸軍内に不安を作り出すのは統制派だ。陸軍の悪徳分子を粛清する我々の天への誓約は完遂されなけらばならぬ。そしてその最初の対象は、統制派の放逐である。」
閑院親王の端正な顔がみるみる紅潮し、話をさえぎって言った。 「貴殿は陸相の職務に干渉する積りなのか。」
「私に、何らやましいところはありません」 と真崎は応じた。 「私は無能な男かも知れませんが、天皇のために、教育総監の任務を全うして参りました。私は、帝国陸軍を改造する任務を、その中でも最も重要なものと信じており、閑院親王のお言葉によってそれが反対されることは、私にとって慙愧の至りであります」。遠慮のない真崎は、言葉を荒げて、彼の代表する教育総監の制度について、あるいは、天皇の最善の家臣である統制派の自滅的放逐の背後にある無意味で人心を欠いた動機について、兵卒たちが抱いている感情の実情を、用意してきた通りに指摘した。
真崎がそうした激昂を表わし尽くし、最後の歯に衣を着せぬ感情を吐露し終わった時、閑院親王はもの静かにこう宣告した。 「教育総監の考えは分かったが、陸軍は今ただちの教育総監の辞任を期待している。貴殿は辞任に不満であり、この会議が騒動をもたらすことになるかも知れないが、もしそうなったら、陸軍大臣は力をもって、それに対処されたい。」
そして再び閑院参謀総長は起立してうなずき、そして林と真崎は、礼をしてその部屋から退席した。
つづき
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