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第十八章
機関か神か (1934-1935)

(その3)



機関説論争

 しだいに際立つ裕仁の反北進論姿勢に対し、それに抗する様々な動きが、1935年初め、西園寺の旧友の一人が唱え始めた巧妙な論争によって一体化することとなった。その論争は、警察国家政策では太刀打ちできず、裕仁の権威の根源を揺るがしかねないものだった。1935年2月18日、西園寺は、彼の地下工作者で自由奔放な画家、宅野田夫からの電報で、その最初の一報を受け取った。宅野は西園寺に、黒龍会の長老たちの間で、裕仁を叱責して思い留まらせたいとの意向がある、というものだった。そして彼らは、裕仁の老練な忠臣の一人、元宮内大臣で現枢密院議長である一木に向けた攻撃を計画していた。その攻撃とは、彼が若い時代に 「帝国憲法反対」 を唱導し、ことに、 「天皇は国家の一機関にすぎないとの説」 に同調していたというものだった。(126)
 その攻撃は、さっそく、その翌日の2月19日、国会、貴族院において開始された。発言者は、医者、弁護士、科学者を輩出してきた名家の出の菊池武雄男爵で、彼は、二年前に、京都大学法学部の近衛の友人に汚名を着せたその人物だった。その菊池男爵は、枢密院議長の一木が美濃部とかいう教授の支援者である、と取り上げ、静かな口調ながら、くどくどと中傷を始めた(127)
 その中傷はその美濃部博士には何ら有害にはみえなかったが、博士自身は、彼の貴族院議員であり、東京帝国大学法学部長をつとめる、法学界では最も著名な学者の一人だった。彼は、皇居内の裕仁の研究室に出向き、裕仁や皇族に、しばしば講義を提供していた。その彼が、ちょうど前年、皇位を支持する二つの論文を雑誌に寄稿していた。そのうちの一つは、スパイ秘書の原田から執筆を薦められたもので、天皇を頂く国、日本――藤原家系の近衛親王、あるいは他の親王がつとめる「挙国的」首相のもとで統一される――において、政党の果たす役割を考察したものだった。翌年に出版された第二の論文で美濃部博士は、単純過ぎる軍国主義思想を遺憾とし、参謀将官による政治や経済への介入に警告を表わしていた。(128)
 狡猾な菊池男爵は枢密院に、議長の一木は美濃部教授の弟子であると指摘し、美濃部教授を、博学をひけらかし、皇位に高く評価されて地位を築いたと言いつつ、同教授の憲法理論を次第に悪だくみを込めながら説明しはじめた。彼は、同教授の著述から引用を繰り返し、その見解によれば、天皇は国家を超越も統括もしておらず、単に国家の機関だとしていると暴いてみせた。そして同男爵は最後には、熱弁をこめて、美濃部教授と一木枢密院議長を、邪説と神聖冒涜と不敬罪で告発した。(129)

 美濃部教授は、彼を断罪したその宗教上の意味を由々しいものとは解していなかった。そこで2月25日、貴族院で答弁に立った彼は、ゆっくりと、静かに、ほとんど尊大な態度で、多くの国の学識者によって唱えられている憲法論の基礎理論を噛み砕いて説明したのであった。彼が発言を終えた時、まばらながら拍手がおこった。だがその議場も大衆も、憲法学の学術的詳細などにはまったく関心はなかった。関心事は、天皇の権威についてだった。すなわち、裕仁は 「国家の機関」 として、憲法の背後に退いて国を治めるべきか、それとも、前面に現われ、統治の責任を自ら全うすべきかどうかだった。(130)
 天皇機関説に反対し、 「国体明徴」 に賛同する大衆の騒動は、新聞の見出しをその後六ヶ月にわたってにぎわし、ちょうど一年後、暴動という汚点をもってその国家の 「顔」 に泥を塗って終息するまでは、完全な沈静化をみせなかった。裕仁は、流血沙汰にならぬよう、彼の持てる力を駆使して、その論争が収まるように努めた。裕仁は、荒木の北進派と繰り返し妥協し、自分を苦しめる観念論者の動機を論駁する議論を見出すよう彼の知恵者たちに命じた。しかし、北進派は恐ろしいほどの技巧をこらした議論を持ち出し、愛国主義者と平和主義者を結束させた。要求をただ声高に叫ぶことに慣れた国民大衆は、それが天皇自身が抱く望みを否定することになるとは気付かなかった。彼らは、以前に天皇への支持を組織したその同じ陸軍将官ややくざ組織の親分たちによって駆り立てられていた。そして天皇が、自身の立場を説明することを、たとえそれまでは公開しようと欲していたとしても、それがその権威を支える素朴な宗教的信奉を傷付けずに成しとげることはほどんど無理だった。それに、天皇政策に不満な裕福で高学歴な者らは、居心地の良い特異な場を見出していた。そこで彼らは、現人神を機関とよぶとは罰当たりな輩だと言うことで、自らは天皇をけなすと同時に完璧であるとさえ持ち上げていたのだった。
 美濃部教授が貴族院で冷静な答弁を行ったすぐ後、予備役中の中将、江藤源九郎――1920年代に陸軍より排斥された長州将官のひとり――は、同教授を大逆罪という重罪で告発した(131)。ただこの告発は後に、現実性を逸脱しているとして、出版法違反に格下げされたが、そうだとしても、同教授に対する告発は、その後9ヶ月間、法廷において繰り広げられた。その上に、同様な告発が、他の18人の公職にある者に、美濃部の説に賛同したとの罪で行われた。その内の2人は教授であったが、残る16人は官僚か政治家で、それまでに天皇の密使や手先としての役を果たしてきた者たちであった。その中には、岡田首相すら含まれていた。
 法律家たちは、日々の仕事が、自分たちが起草した社会規範をめぐる、そうした治安維持や検閲の専門分野に移ってゆく収穫を得ていた。国民は、人目を盗んで、そうした論争を語り合っていた。いまや、裕仁が 「雲の上」 にあり、時に応じ、その 「鶴の一声」 が天の声として地上にとどくべき時となっているのかも知れなかった。気の毒にも美濃部教授は、確信犯というより落とし入れられた一学者として、その地位と、その 「顔」 と、その糧のために、孤独な戦いを引き受けるしかなかった。


神の異議

 美濃部教授への攻撃に対する天皇の最初の反応は、ほとんど彼の癇癪のような形で表わされた。1935年の四月に満州国の傀儡皇帝、ヘンリー・溥儀が東京を表敬訪問する件につき、菊池男爵が貴族院で発言する前日である2月18日、裕仁は観閲兵が軍旗を半揚にする通例の国際儀礼は省くことを了承していたはずだった。にもかかわらず、その翌日、菊池男爵がそう発言すると、裕仁は突然に侍従長の本庄を呼び、その前日にすでに彼が与えていた軍旗半揚の許可について詰問した。(132)
 裕仁は、前置きもなくいきなり、 「私は、それがたとえ一兵士だろうが敬礼を返す。もし、軍旗が、私の溥儀への寛大さの表現の半揚をしないというのは、観閲兵にとっては、私は軍旗より下位にあるということか」 と責めた。
 それに答えて本庄は言った。 「一般的に、将校については下位の将校に答礼をするのが規則ですが、皇位についてはそういう規則はありません。したがって、天皇が答礼をする場合、それは、国民への限りない思いやりに基づく自主的なものと理解します。天皇より軍に与えられた軍旗の場合、天皇本人のみには半揚しますが、皇后や親王にはそうしません。平時も戦時も、軍旗は天皇の象徴で、すべての軍のあらゆる将兵もその全面の敬意をそれに示します。軍旗が、たとえ火の中、水の中、いずれにあろうと、それは変わりません。国家の軍の信義と義勇は、この軍旗への敬意によって表わされています。」
 本庄の日記によると、それに 「天皇は黙ってうなずいて納得された」。将兵は、国家の機関として機械的に機能する者より、先頭に立った神のためには、いっそう容易に死ねるものである。裕仁は林陸軍大臣を呼んで私的な謁見を与え、その数日後、林陸相は国会において、天皇が国家の機関であるという学説は、他の国との関係上、国の便宜上のものにすぎない、と事を和らげようとする説明を行った。西洋諸国は、天皇の真の性質を理解できないため、神聖な人物より、国家総体との条約を締結したがっている、と指摘した。
 3月9日、裕仁は、林陸相の国会での答弁の速記録を読んだ後、本庄侍従長を呼びそして言った。 「むろん、私の地位は異なっているとはいえ、身体上は貴殿や他の者と何ら違うところはない。・・・従って、陸軍の機関説への攻撃は、私の将来の動きを、身体的にも精神的にも拘束することになろうがゆえに、これは私にとって最も迷惑なことだ。」 (133)
 本庄は、明瞭な論点――その国の絶対権力者と認められることによってその人の自由がいかに制限されるか――を巧みに避けて、あいまいにこう答えた。 「陸軍は陛下の動きを制約しようとの積りはありません」。 そして本庄は裕仁の執務室を後にした。
 裕仁の大兄たちは、この段階まで、機関か神かの論争をさほど重要なこととは扱ってこなかった。貴族院の近衛親王の一団は、反機関説を、古臭く反動的な方法で非難する解決法を用意した。しかし近衛は、よく調べた後、その解決法は安全に票へと結びつくものではないと覚った。(134)
 1935年3月、黒龍会は 「機関説撲滅同盟」 を設立し、下層民宗派の大本教と協調して国家構造改造運動を始めた。大本教の神道原理主義者は、40万の署名を集め、天皇に、自らを公開し、行ったことの責任をとり、親王からなる内閣を構成するよう請願した。裕仁はこの請願が提出された場合の対処について、牧野内大臣に問うた。牧野は、それが提出されることはないことを確約した。すなわち、警察と憲兵は、その 「異教」 大本宗派と黒龍会自身への厳しい迫害を開始した。515名以上の黒龍会組織員が、それまでは見逃されていた犯罪で逮捕され、うち二百名が裁判にかけられて有罪となった。(135)
 1935年3月22日
〔23日の誤記か〕、衆議院は、 「国民思想の刷新」 と 「国体明徴」 を可決した。西園寺のスパイ秘書の原田# 2は、その日記に、 「国会は燃え落ちるべきだ」(136) と書いている。その翌日、枢密院の一木議長は、その夫人の葬儀の際に襲われて殴打された。警察によると、その暴漢たちは、菊池武雄男爵――そのひと月前、貴族院で美濃部教授を非難し始めた――の近親者に雇われた者らであった(137)
 大兄〔団〕の創始者で内大臣秘書の木戸侯爵は、美濃部教授を、東京帝国大学を辞職し、彼の学説が原因で誤った解釈が行われたことを陳謝するように説得した。だがそれも効果なく、木戸はさらに、美濃部の兄弟や裕福な友人たちをその説得工作の対象に加えた。美濃部教授は、自分の著書を絶版とし、誤解された個所の語句修正することには了承したが、辞職や自説の撤回には頑として拒否した。一木枢密院議長は、彼に代わって辞職を申し出たが、宮廷人たちは、それは裕仁の側に余りに多くの人的譲歩があるとの見方であった。(138)


神の主張

 長城を突破して北中国へと向かう日本の今後の進出について、裕仁からの直接の説明を受けるため、1935年4月4日、第17師団の司令官たちが宮廷に集まった(139)。今や、機関説が引き起こした論争に決断の時が到来していた。北進派の第二の指導者、真崎教育総監は、あらかじめ各師団司令官に 「機関説は国体に反する」 とのにべもない文書を回覧し、それに賛同するかどうかを問うて議事進行を妨害しようとした(140)
 裕仁は、侍従武官からその覚書について知らされ、直ちに本庄侍従長を呼んだ。裕仁は、 「私がこの声明を認めることを、陸軍は欲しているのか」(141) と問うた。
 本庄は、 「いえ、決して。私は単に陛下にご報告申し上げたいだけです。それはすべて真崎の独断になるものです」、と答えた。
  それから5日間のうちに、裕仁は各師団司令官と個別に会い、性急な真崎を無視し、切迫している北中国の危機に誠意を尽くす必要があることをさとした。と同時に裕仁は、満州国皇帝、溥儀の東京訪問を国賓とするよう命じた# 3
 すべての国賓式典が終了した4月9日、裕仁は本庄を執務室に呼び、語義上の細目を彼に詰問し、未解決の問題に決着をつけようとした。裕仁は言った。 「真崎の声明では、彼は私を国家の 『主体』〔訳注〕 と呼んでいる。・・・これは、美濃部教授の 『機関』 の基本的解釈と、明らかに何らの違いもない。美濃部が 『機関』 を、 “身体的組織”ではなく “機械的組織” の意味と誤用したのは不幸なことだった。・・・すなわち、もし我々が天皇を、国民の生命をつかさどる脳として考え、他の手や足などを主人たる脳の命令で働くものと考えるのなら、美濃部の考えと何ら食い違いはない。・・・その一方、国家主権が国民全体でなく、天皇に独占的に属すとするなら、それは専制国家の疑いをおこさせ、国際条約や債権の取り決めにさいしての困難をもたらすものとなる」。(143)
 裕仁は、彼に対する機関説攻撃の弊害が深刻化していると感じていた。彼は、大兄を通じて寺内中将――台湾で南進準備に当ってきた厳格な軍人――に接触し、陸軍の軍規回復への援助を依頼した。寺内は最初、頭を横にふって 「それは困難な問題だ」 と言った。しかし、4月12日、寺内は裕仁の使いに、林陸相と協議した結果、陸相はいま、彼の友人で北進派第二のリーダーの真崎の教育総監の辞職を含め、 北進派の一掃をはかっているところであると伝えた。(144)
伏見親王
 北進派との対決を準備するなかで、裕仁は4月18日、皇后の従兄で海軍軍令部総長の伏見親王 (写真)を宮廷に呼び、海軍にはどこまで任せうるのかを、文面化されなくとも合意したものとして、明確にしてもらいたいと求めた。そしてそれは、〔軍規を支える〕秘めた気概ともなるものだと裕仁は迫った。伏見親王は最初、言葉を濁そうと試みたが、最後には、侵略戦争にそなえた、大型戦艦、多数の乗組員、そして政治権力を断念することになろうとも、海軍はどこまでも天皇とともに進むと確約した。他方、本庄侍従武官長は、陸軍に代わって、海軍が同意したのは何であるかを探ろうとした。だが、彼が得たものは、海軍大臣のぽかんとした表情をもってする無視と、機密を理由とした海軍軍令部の友人たちの 「答えられない」 との返答だった。(145)
 ほぼ同じ頃の4月半ば、1924年の排斥後に荒木陸相により設立された長州閥の在郷軍人会は、機関説の弊害を説き、裕仁にその説との断絶を請願する署名運動を始めた(146)。4月19日には、その文書を読んだ裕仁が本庄にややすねた風に尋ねた。 「もし私がこの説を、単なる理論としてではなく、天皇絶対主権制として採用したらどうなのだろうか。満州事変の際に私が内閣に適正な検討をさせようとした時、陸軍将官たちが度々侍従武官室に集まり、さまざまな要望を出していたが、彼らは〔私の願いに〕耳を貸そうとも、理解しようともしていなかった。」
 本庄は日記にこう記録している。 「私が、奈良前武官長以来の侍従武官にこうした要望についてただした時、天皇が言われるような事実は発見できなかった」。そして彼は天皇に拝謁した際、こう話した。 「もし天皇が御自分を傷つける恐れのある間違いをされていると誰かが信じている場合、その人は、天皇が傷つかれないように配慮する義務があります。ところで陸軍は、陛下がおっしゃられたようなことを決して行っておらず、もし、私がそれを指摘せねば、陛下が傷つかれる結果となります。」 (147)
 これは、裕仁が生まれて初めて、人から面と向かって、うそを言っていると言われたに等しい。彼は本庄を無言のまま退席させ、それから6日間、黙りこくり、公務の影にその不機嫌を隠していた。そして4月25日になって、彼は本庄に、ぶっきら棒に言った。 「陸軍は機関説を攻撃することで、私の意志に反するよう行動している。それは、彼らが私を機関として扱っていることではないか?」 (148)
 本庄はこれに、 「決してそうではありません。軍人たちは、ただ小文書を回覧し、この件について、考えを一致させようとしているだけです」、とどうにか答えた。
  「もし、科学が思想信条で抑圧されたなら、世界の進歩は妨害され、進化説は覆されてしまう」 と裕仁は暗く言った。
 さらに熟考した後の4月27日、裕仁は本庄を呼び、まるで諸学説が吹き荒れる嵐のごとき軍人たちの議論に向けた、彼の反論を並べ立てた。彼は、自分の考えに不要な説明を加えることなく、簡潔に話しはじめた。その中で、裕仁は、自分の考えを最も完璧な自己の表現として明らかにしたのだが、いかにも温室育ちの若き知性人らしく、科学的合理主義が、日本と全アジアの改革を進める国家政策に適用しうるとする、限りない力と自信が込められていた。
 かく、裕仁は自分の最大の知的弾丸を侍従武官長の本庄にあびせ、本庄はそれにそうとうの感銘を受けた。そして日記にこう記した。 「このように天皇は貴重な説明を与えられ、ご自身の考えを詳しく披瀝された。私はことに、第五項目については畏れ多く、陸軍に注意を与えた」。すなわち彼は、個人の名を表すことは、暗殺といったような事件を引き起こすことになると、陸軍の理論家たちに警告したのであった。
 その三週間後、侍従武官長本庄は、反機関説騒動が純粋な学術的論争で、天皇を詰問するものではなかったと努めた。5月18日には彼は、ともあれこの論争は、 「一次大戦の際にドイツの瓦解を早めた」 類の陰険な 「アングロサクソン宣伝」 に対する、国民の抵抗を磨き、強化したとも主張した。(150)
 裕仁は、そうした愚かしい発言は無視しつつ、 「ドイツ崩壊の第一の原因は、ドイツ皇帝に対し、すべての連邦国の中でプロシアのみが全面の服従と完璧な信頼を与えたからだ」 と、辛らつに反論した。そして彼は後に、皇帝は、戦争の後、彼の運命を見届けるためにベルリンに留まらず、オランダに隠遁するような臆病さをもって、悲劇に輪をかけた、と付け加えている。そうして裕仁は、1935年の世界の趨勢は個人主義に向かっているのではなく、非個人主義的な国家主義に向かっているとの見解を繰り返した。



神の噛み付き

 四日後の5月22日、裕仁は、自分が信頼していた海軍内の側近たちの一部すらが彼への反対に加わりつつあることを知って、彼は衝撃をうけた。大角海軍大臣――1921年の裕仁の欧州歴訪の際にパリ在任武官であり、1920年代の軍再編策謀の際には天皇を支援――は、北進派の加藤寛治大将を台湾総督に命じるように求めて、彼の不満を公然に表明したからだった。その当時の政界事情から察すれば、それは、〔南進〕準備が進行中の台湾で、その任に耐えられない竹内台湾軍司令官を、監視する必要があると言っているのに等しかった。(151)
 宮廷高官は、非現実的としてその要求を即座に却下し、同じ日の朝、裕仁は、海軍侍従武官長の出光万兵衛海軍少将を呼んで彼に宣告した。 「海軍将官は、天皇非機関説を主張しており、これは、彼らが私の要望を無視していることであり、矛盾しておらぬか。」(152)
 出光はこの問いに挑むように答えた。 「皇位の地位に触れる問題に関して、海軍が陛下の寛大な御意志に沿うことに損なっている場合はあります。そうではありますが、些細な件を主要な問題と取り違えるのは誤りです。日常茶飯事において、海軍の行いが不十分であっても、これは、陛下がご心配される、海軍内に不服従があるとか、陛下の超越性に我らの信念が矛盾するとかというものではありません。もし陛下が国体といった重要な事柄について、そのようにお話になるのをお続けになるのは、本末を顛倒したものであります。私、出光は、及ばずながら、陛下がこの問題についての論争を高所より静観され、現在にあっては、こうした理論上の問題以外に関心を注がれるよう、要望いたします」。
 その日の午後、51歳の出光武官を解任し、海軍兵学校校長に左遷された。 3年後、出光はさらに追放され、彼の輝かしい経歴は、その追放先のある港の兵器庫において、その司令官としての数年で終わった。怒りを抱く裕仁は、出光の後任者への海軍人事局の最初の推薦者を受け入れなかった。突然の代わりの要求に遭遇して、人事局は二人の候補を用意した。一人は本庄が何々海軍少将とのみ名を挙げる輝かしい人物で、他のは、忠実な努力家、平田のぶろう海軍少将だった。平田は、大正天皇が1922年から25年までの狂気の内に衰弱した間の内大臣の息子だった。平田は、自らすすんで、霞ヶ浦の 「空飛ぶ山階親王」
# 4への侍従武官として仕えた長年の経歴をもって、その職へと自薦していた。
 大角海軍大臣と海軍軍令総長伏見親王の二人は、裕仁に、平田を海軍武官としての受け入れについて問い、そして、第二の候補を求める前例はないと指摘した。裕仁は彼の選択を変えることを拒否した。大角海軍大臣は、 「これ以上言うべきことはなく、それは陛下の決定すべきことです」 と言い残して、天皇のもとを退席した。


長城を越えて(153)

 こうした理論的砲弾を宮廷の随所より発射した感情的炸薬は、裕仁の蒋介石に向けた新たな強硬方針によって、さらに燃え上がることとなった。裕仁は、いまや、中国と同盟を結ぶのではなく、南進に必要な中国の施設のことごとくの掌握を求めていた。
 1935年3月から二ヶ月間、バーデン・バーデンの11選良の一人、磯谷廉介少将は、中国、南京にあって、北中国全体に関する日本の主権について、蒋介石との交渉を続け、蒋に北中国の 「中立化」 を要求した。日本は、その地域において領土的野心はないが、その地での反日煽動を鎮める責任を感じており、これを最後に、蒋が過去5年間にわたり決着のつかない戦いを続けてきた共産主義匪賊の毛沢東と対処する、と彼は言い渡した。さらに蒋に、南京政府のすべての官吏を北中国より引き上げ、その地の行政を地方政府代表に、また、警察活動を日本に、それぞれ譲渡するようにと要請した。それはあたかも、第一次大戦の数年後、戦勝したかのヴィルヘルム二世〔ドイツ皇帝〕の信頼をうけた少将がフィラデルフィアに到着し、連邦軍、税収官吏、そして政治家をアパラチア山脈の西に引き上げさせ、13州からなる地域の中立化を要求した場面を思い起こさせるものだった。
 蒋介石の軍事力では、日本に歯向かうことは不可能だった。しかも彼は、日本人に友誼上の多くの恩義があった。彼はそして、東洋はいつの日か、国際舞台で一体の利害をもつ単一地域として自立する、という構想に基本的には合意した。しかし彼は、1930年以来、粉微塵と化した国土の統一において、大きな前進を果たしてきていた。彼はことに、阿片中毒と地方軍閥をほぼ完全に制圧していた。そして彼は、毛沢東の共産軍を、北西の不毛地帯へと追いやっていた。
 加えて蒋は、自国の下層労働者階級に政治権力の新たな源泉を見出していた。欧米のプロテスタント教徒の後押しを得て、蒋とその夫人は、 「新生活運動」 と呼ばれる精神的道徳的な大衆運動を手掛けていた。それは、自助と友誼を強調する素朴で個人対象の福音主義的大衆運動だった。この運動は、一部は儒教から、一部を欧米のオックスフォード・グループ、新教会派、安息日再臨派、第二次プロテスタント派の啓発を受けていた。言うなれば、それは、反共産主義者の蒋の、果てしない 「共匪掃討作戦」 への建設的補足だった。その背後の欧米の影響と政治的動機への疑念はあったが、中国人大衆はその新生活運動を驚くべき熱心さで取り入れ始めていた。
 蒋介石は、自分の運動に多大な期待を託し、六週間の交渉の後、相互友好不可侵条約以外には、日本には何らの譲歩も与えなかった。その結果、4月末に、裕仁は、その力を鼓舞する装置を動かし始めた。すなわち、軍部内の微妙な国内状況がゆえに、裕仁は、自分の私的な代理者を通して、〔国際〕情勢の把握を図った。ムッソリーニやヒットラーといった英雄たちに接してベルリンでの休暇から戻ったばかりの賀陽親王は、5月1日、陸軍士官学校の候補生の一団を連れて、北中国と満州への旅行に出発した(154)。賀陽少佐は、彼らの作戦指導官で、日本の作戦上の謀議の実態を見せるため、彼らを率いていた。その満州までの途上、彼らは天津に立ち寄り、その駐屯部隊司令官である南進派中将を訪ねた。

     
賀陽親王夫妻(ベルリンからの帰路、ロスアンジェルスで)

 賀陽親王との食事の際、天津駐屯部隊の参謀将校たちは、中国語週刊誌 『新生活』 を、日本の天皇への不敬罪を犯していると非難した(155)。そうした状況の中、天津の日本人租界で、親日宣伝記事を書いていた二人の中国人記者が、何者かの手によって暗殺された。そこでその参謀将校たちは、その暗殺を蒋介石の逆スパイ組織、藍衣社のしわざと非難した。また、天津司令官は、賀陽親王に同行して満州へ向けて出発する際、参謀主任に、彼の留守中、中国人に充分な警告を発しておくのがよいと命じた。そこでその参謀主任は、北京が位置する河北省の知事を訪ね、すべての国民党組織や警備機関がすみやかに同県から退出しない場合、日本軍部隊が同県を占領することになるだろう、と通告した。
 河北省知事と、彼の首領、蒋介石が、その警告を軽視しないよう、賀陽親王は、満州では、日本陸軍の要人――林陸相、閑院参謀総長、朝鮮軍と台湾軍の両司令官――に加わることになった。その前段は、満州国の首都、長春の神社での天照大神に捧げる儀式への参加だった。しかし、その密会は、極めて不吉な重要事項に関する高次元な協議への参加を意味していた。極めて大勢の重鎮がそこにいたため、スパイ秘書の原田は、陸軍事項を相談しようにも東京には官僚たちの姿がないと話されている、と日記に記した。
 週末休暇で天津や北京の街路をいばりくさって歩く日本の下士官たちは、何か 「事件」 に結びつく徴候がないかと物色していた。5月24日、賀陽親王と陸士の戦術科の学生たちは、長春旅行から帰国、そしてその一週間後、林陸相と閑院参謀総長がそれに続いた。蒋介石が面子条項作りを続けている間、閑院親王と裕仁は、6月6日、戦闘命令に署名し、それを関東軍と天津駐屯部隊に送った。6月10日、予想通り、蒋介石はほとんど戦火を交えることなく降伏した。彼の代行、何将軍は天津駐屯部隊司令官、梅津美治郎中将と会い、その当時、何・梅津協定と呼ばれた文書に調印した。
 何・梅津協定の条項によって、中国は自国民が日本の兵士を 「いやな顔」で見ないようにし、北中国の市民警察以外の大部分の全権限を東京が認める代表者に割譲することを確約した(156)。裕仁の側近である大兄たちは、その協定を利用して、北中国を幾つかの自治領に分割し、各自治領は東京の傀儡政府に治められることを望んだ。そして、日本の経済的、軍事的顧問の潜入により、北中国の労働、天然資源、鉄道は、 「日本帝国の国防体制」 に全面的に組み入れられるとした。日本の計画者が言うところでは、最終的には、同地域の日中協力による相互利益の事例は、他の中国を日本に共鳴させ、欧米諸国に対峙する日中同盟の道を用意するとした。
 天皇裕仁はもう長く、日中友好にさほど期待を置いていなかった。彼はすでに、中国との全面戦争の準備に入っており、それは、2年後の1937年7月に火ぶたが切られることとなる。それまでの間に、彼の知恵袋たちの北中国への夢は霧消し、陸軍将官たちの対中戦争への反対も、叛乱の段階に達するにいたった。1936年2月26日、日本の精鋭の二師団の分隊が東京中心部を占拠し、裕仁の考えを変えようと試みて皇居を包囲する。欧米の著者たちは、本書が執筆される今日まで、その叛乱を、裕仁をいっそう軍国主義者にさせようと望む陸軍過激派の仕業としてきた。しかし、叛乱の実情、そして、そこまでに至った過程は、日本において、ほんのこの数年になるまでは入手さえできなかったのである。

 
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