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第六部


アジアの枢軸国






第二十六章
真珠湾(1941)
(その3)



平和の最後の日

 12月6日、土曜、ワシントンで夜が明けた時、英国のシンガポール最高司令部は、インドシナとマレーの間のカンボジア南岸沖のシャム湾に、二つの日本の船団が侵入したとの航空偵察情報を得ていた。日本船団は、ゆっくりとした速度で西に進んでおり、あたかも、英国領土とタイが接するマレー半島のクラ地峡部の東岸に部隊を上陸させようとしているかのようだった。ルーズベルトがこの知らせを土曜の午前10時から11時の間に受け取った時、日本軍はマレーの海岸に、およそ14時間後の日曜早朝、上陸作戦をしかけようとしているかであった。
 正午、ルーズベルトがホワイトハウスのオーバル執務室で、ひざの上のお盆から軽い昼食をとっていた時、海軍情報局が東京の外務省の発した通信文を解読し終わった。それは、その直前、野村および来栖大使に、日本の要求への11月26日付けのハル・ノートへの待たれていた返答が伝えられたものだった(139)。 「予告文書」 と呼ぶその拒否への返答は、14項目構成となっており、後の通信で特定される時間までにハル国務長官に提出されなければならないとしていた。海軍情報局はそれを、日本の宣戦布告が間もなく発せられようと予想し、それを大統領に通知した。
 ルーズベルトはホワイトハウスの事務官に、それが平和時の最後のものとなるだろう昼休みを与えた。彼自身は、ハル国務長官、英国大使のハリファックス卿、そしてワシントン駐在オーストラリア大使のロバート・G・ケーシーと、それぞれに協議した(140)。同時に、彼は、日本の天皇に直接送るよう10日間検討されていた彼の個人的訴えの最後の国務省草案を書き直した。
 その日の午後のホワイトハウスの動きに関する記録は残されていないが、スティムソン国防長官は日記に、日本の船団がシャム湾に結集していることを誰もが懸念していると記している。曰く、 「それこそが、我々がこの文書に述べてきたことだ。・・・英国は、緊張の極にある。・・・今朝の我々が草稿に込めようとした努力は、我々が共に行動し合うかどうか、そのためのものだ。・・・我々はみな、もし英国が戦いを開始したなら、我々も戦わなければならぬ、と考えている。」
 午後5時30分、ルーズベルトは秘書のトゥリー嬢を、メイフラワー・ホテルのカクテルパーティーから呼び戻し、何か助けることはないかとホワイトハウスに立ち寄った旧友のビンセント・アスターと自分自身のために、マテーィニを作った。トゥリー嬢が数分後に息せき切って到着し、裕仁への親書の速記にかかった。
 それはこう始まっていた。 「ほぼ一世紀昔、アメリカ合衆国大統領は日本の天皇に宛てて、友好関係を広げたい旨、親書を送った。・・・その親書は受け入れられた・・・」(141)。明らかに、ルーズベルト大統領は、その親書が日本人に極めて不承々々に受け入れられたこと、そして、裕仁の大祖父、孝明天皇は、13年間の内部抗争の後、むしろそれを受入れるより、自らが犠牲となったことを、充分には認識していなかった。ルーズベルトは、この書き出しに続けて、すべての東南アジアの人々のために、正義と恐怖からの自由を擁護することに乗り出そうとし、「米国は、インドシナに侵略するいかなる考えも全く抱いていない」、と誓った。ルーズベルト大統領は、裕仁のプライドにこう傷を付けた後、いんぎんな説得にとりかかった。
 この親書は、熱意や自信を込めたものではなく、ルーズベルトはそれをハル国務長官に回してこうメモしておいた。 「コーデル君。これを急いでグリューに送ってほしい。早急に。灰色暗号でいいと思う。傍受されても構わない。F・D・ルーズベルト」。ハルは夕食時までに、電話でいくつかの訂正箇所について指摘した。午後7時40分、ホワイトハウスは、大統領のこの劇的な試みについて、ワシントンの記者団に発表した。午後8時、ハルはグリュー大使に、ルーズベルトから裕仁への親書を送ると打電した。午後9時、その親書は最優先事項として発信された。
 ルーズベルトがこの親書を裕仁に送ろうと起草しその準備をしている間、海軍情報局本部のことに有能な少佐、アルウィン・D・クラマーは、14項目からなる日本の最終拒否通告の13項目までの解読を監督していた(143)。大統領付き海軍補佐官、ジョン・R・ベアダル大佐は、その午後は勤務を終えていたため、大統領との連絡は、クラマーが代って直接、下級海軍補佐官、ロバート・レスター・シュルツ大尉と行った。午後9時30分、大統領の親書が裕仁に向けて発送されて30分経過しており、クラマー少佐は、その日本の拒否通告の最初の13項目をホワイトハウスに持参した。クラマーはそして、その14番目はまだ傍受しておらず、明らかに、その13項目の非難へさらに付け加えられる最終的な宣言条項として残されているようだと報告した。
 シュルツ大尉は、その13項目の傍受解読文書を書類袋から取り出し、オーバル執務室に提出した。そこでは、ルーズベルトが腹心の顧問、ハリー・ホプキンスら一同と共に待ち受けていた(144)。ルーズベルトは、その2500語の文書を10分間かけて読み、それをホプキンスに渡した。ホプキンスもそれを読んで大統領に戻した。ルーズベルトがその極秘文書を機密保管するようシュルツ大尉に返しながら、端的にこう言った。 「ハリー、この意味は戦争だ」。ホプキンスも同意した。シュルツは、ホプキンスとルーズベルトがさらに詳しく話し合っている間、退席の許可が出るまでドアの前で待っていた。
 ホプキンスは、 「戦争は、日本の都合のよい時に始められようとしているのに、我々は最初の一撃も、何らかの奇襲攻撃への防備もできないなんてのは最悪だ」 とくやんだ。
  「そう、それができないのが我々だ。我々は民主的で平和的だからだ」、とルーズベルトが答えた。 「だがしかし、我々はいい記録を手に入れたことになる」、とルーズベルトが声を大にして述べたのを、シュルツ大尉は後になって想起していた。
 ルーズベルトは、海軍作戦長官の “ベティー”・スタークを呼ぼうとしたが、その夜は、ナショナル劇場に出かけていて留守だった。ルーズベルトは、第三幕を観劇中のスタークを呼び出して劇場の観客を騒がすより、ホワイトハウスの交換係に、スタークが帰宅するだろうおよそ30分後に彼の自宅に電話するよう指示した。ルーズベルトはシュルツ大尉を退席させ、かくして、ホワイトハウスのオーバル執務室では、その歴史ドラマが開幕しようとしていた。
 東京が12月7日、日曜の朝を迎えている時、先行部隊のイ号潜水艦隊は、真珠湾外において、もう一日以上にわたり、湾に出入りする艦船を偵察していた。その北方では、機動部隊の航空母艦が、その最終進路を南にとり、速度を上げていた。旗艦赤城で司令をとる南雲海軍大将は、自分の士官室で座し、ハワイのローカル放送局の流すジャズや地元のニュースを聞いていた(145)。その旗艦は、かって裕仁の恩師であった東郷元帥が、1905年の対馬海峡での海戦において、ロシア艦隊を丁字戦法をもって迎え撃った、その時に上げられていた旗をかかげていた(146)
 その正午、東京の検閲官は、裕仁への親書を含めたルーズベルト大統領からグリュー大使への外電文を受信した。検閲官は、それを問合わせている間、電文を保管し、グリューへ配達しないでいた。検閲官は、大本営との回線を通じ、この外電文はこの段階では天皇には不都合なだけだと判断した。誰もが明確な責任を意識することなく、その電文はいったん、日本の管理規定に通った意味の赤紐で一緒くたにしてくくられ、一つひとつ紐解かれて配達されたため、それはその夜遅くなるまでグリュー大使には届かなかった(147)。午後3時、米国海外放送は、親書が送られと放送を始めたが、日本の警察の短波放送検閲が余りに厳重で、宮廷や政府関係者の上層部以外で、その米国の放送を聞いたものはほとんどいなかった。午後5時30分、真珠湾艦隊は全艦南に進路をとり、26ノットの全速で最後の航海を続けていた。午後6時、ルーズベルトの電文の写しが、検閲官からその文面を検査する必要のある全官吏の間で回覧された。
 午後6時15分、ワシントン時間の午前4時15分、裕仁は荘厳な祭礼を執り行っていた(148)。それは、機密の必要から、大宮御所――彼の母親の離宮で皇居の西に位置し、彼はそこで育った――で行われた。皇太后は参加しなかった。彼女は、彼の息子の政策が間違いなく日本にもたらす爆撃からできる限り遠去かるためとの率直過ぎる宣言をしつつ、地方の別荘に隠居していた。木戸内大臣や他の裕仁の取り巻き貴族の大兄たちは、戦地の司令官の鋭気に祝杯をあげようと集い、国の最高司祭である裕仁の懇願と祝祷の祈りを聞いた。その集いは、裕仁がその日の重要な出来事が真夜中以降に始まるので、その前によく休んでおくようにと望んだため、二時間足らずで解散した。



日曜日の朝

 東京の官吏たちが来たる長い夜に備えている休んでいる間、ワシントンの官吏たちは緊迫して日曜の朝を迎え始めていた。東京時間の午後7時、ワシントン時間の午前5時、日本の拒否通告の最後の第14項が、ワシントンの海軍情報局本部の暗合解読機の当直職員のもとに届き始めた。最初の13項目は、米国は日本の正常な成長過程を差し止めようとする東洋への獰猛な植民地主義侵入者であるとの日本の主張を展開していた。いま届いた第14項は、米国との交渉を決裂すると通告していた。
 その前夜遅く、最初の13項目と自分の分析をルーズベルトに届けた有能なクラマー少佐は、午前7時30分に自分の持ち場に戻り、その第14項の作業を監督した。同じ時刻、ワシントンの日本大使館では、文書の最後の項どころか、最初の諸項のタイプも終わっていなかった(149)。その前夜には最後のパーティが催され、大使館職員たちは、その文書を翌日の午後1時までに提示しなければならないことを知らぬまま眠りについていた。そしていま、一人の大使館員が東京よりの提出指示を受け取ったところで、同僚たちを仕事に戻るよう必死になって電話していた。その文書は1時までに用意されなければならないばかりでなく、極秘文を解読してタイプ清書しなければならなかった。解読技能をもつ職員の長は、そのうちのただ一人しかタイプが打てなかったと告白した。ともあれこうした個人的奮闘が、ハルに渡す正式書類を作成するため一文字づつ続けられている間、クラマーの部下たちは、彼らの文書を完成させ、午前10時頃までに、ホワイトハウスと国防省に提出した。
 クラマーが自分のオフィスに戻ると、今度は、米国側が傍受したその返答文書の提出指示を渡された。彼の眼は、その午後1時という期限に釘付けとなり、部下と共に、午後1時とは、ハワイでの夜明け時であり、マニラでの午前2時であることを確認した。そして午前10時30分、その知らせを海軍作戦長官のスターク提督に電話するとともに、その提出指示を大統領に提出するためにホワイトハウスに急行した。その少々のち、野村大使は、ハル国務長官を訪れ、その午後1時という期限の重大さを申し入れ、日曜日であるところだが、午後1時に是非とも面会したいと詫びた。たとえマジック暗合機の恩恵がなくとも、この異例な要求は、その危機感満ちた一週間という状況にあって、ハルとルーズベルトの予測を最悪にするに充分なものであった。
 かくして、ルーズベルトは、日本が戦争を1時かその頃に始めるつもりであることを充分に察知し、自分の顧問団と相談した上、ただ待つことを決定した。米国は、日本が攻撃をした後でないかぎり、反撃をすべきでないというのがその政策だった。それが、民主的という伝統に汚点を残さぬ方法だった。それに、大統領の軍事顧問団の過半数は、日本が先制攻撃をかけることで得られるものが、わずかに一時的なものにすぎないとも見ていた。米国の提督や大将の一部には、日本の兵士の戦闘精神や、日本の戦略家の独創性と大胆さを過小評価する傾向があった。ちなみに、多くの日本の提督や大将も、米国人の天性に関し、同様な危険な独り善がりを許していた。
 ホワイトハウスの交換台は 「緊急電話」を設けており、太平洋地区のいかなる主要米国司令部から、ただちに直結の回線を通じて大統領と通話することができた。もしルーズベルトが、ハワイの真珠湾基地に、ただの破壊行為を警戒する 「第三次警報」 が出されていることを知っていたとしても、その電話での確認なしに、全軍に戦闘態勢につくよう命令することは考えられないことだった。しかしながら、大統領は、充分に情報をえた他の指導者のように、日本軍はマレーに向けて動いており、多方面に同時に攻撃をかける能力はないと信じていた。
 大統領顧問団の何人かは、太平洋地区の司令官に最終警告を出すよう助言していたが、戦争警告はすでに10日前に出されていたため、そうした警告は決定的に重要なこととは誰も考えなかった。正午、マーシャル陸軍長官は、ハワイのショート中将に、日本の特使は午後1時に交渉を打ち切ろうとしていると打電した。マーシャルの電報は、それから9時間後――電報局から自転車で配達されて――ショートのもとに届いた(150)。その時は、すでに太平洋艦隊の旧式軍艦は墓場とされた後だった。
 ワシントンでは、緊迫しているものの、ただ待つだけの朝が経過している頃、東京では、疑いの最後の時をすごしていた。裕仁が仮眠をとろうとする頃、海軍軍令部はホノルルの日本領事館からの最後の情報通信を受け取っていた。それは、真珠湾は戦艦でぎっしりだが、一隻の航空母艦も含まれていない、と報告していた。日本海軍の作戦立案者は、米国太平洋艦隊は少なくとも6隻の空母を保有していることをつかんでいた。だが、うち3隻が大西洋艦隊に合流しており、残りの3隻は、警戒して真珠湾からできるだけ離れていたことは察知していなかった。空母の所在の不明は、南雲長官の艦隊にとって重大な事態を引き起こす恐れをはらんでおり、また、攻撃目標にそれらが含まれていないことは、痛い落胆でもあった。
 山本長官が瀬戸内海の自艦上でその知らせを聞いた時、彼は所在不明の空母を空から探す命令を出すよう南雲に無線連絡することを考えた。しかし、考慮の結果、その判断は南雲に任すことにした。そして彼はただ、以下の電文を打った。 「真珠湾に空母なし。繰り返す。空母なし」。南雲はこの電文を受け取った時、いまいましさの余り、それを作戦机の上にたたきつけた。しかし、彼には、作戦通りに進め、米国戦艦をともあれ沈める以外に方策はなかった。
 その頃――東京時間の午後10時30分、ワシントン時間の午前8時30分――グリューはついに、裕仁へのルーズベルトの親書の電報を受け取った。彼は、1時間半、それを届ける手配をしようと懸命になった(151)。そしてようやく、夜中に外相官邸に車で駆けつけ、15分後、東郷に会った。彼は、裕仁に一人で会いたいと求めた。東郷は、夜間のそんな時間に天皇が外国特使をもてなすことはありえないが、もしグリューがその親書を残してゆくのなら、天皇をわずらわせ、それを手渡すことは引き受けようと返答した(152)。グリューはその親書を手渡し、帰宅した。
 10分後の午前0時40分、東郷は木戸内大臣の公邸に電話した(153)。木戸は、記録に残すために、天皇はルーズベルトの親書をただちに読むべきだと同意した。さらに木戸は、この特別の夜のことであるので、天皇は深夜過ぎであろうと、わずらわされることには何ら気にしないだろうと東郷に請け合った。木戸は宮廷で東郷にお供をすると約束した。
 木戸が電話を切り、悠然と服を着始めた時は、0時45分だった。それとまったく同じ時、上海に駐屯する日本軍陸戦隊は、静かに日本租界を出、河岸にそう国際租界の商業地区にある銀行街に移動していた(154)。英国の警察監視官は、この太平洋戦争最初の侵略に歯向かおうとはせず、日本の陸戦隊が税関の倉庫を占領し、道路に障壁を設け、港の欧米船に野戦砲の照準を合わせるのを見守っていた。そしてたちどころに、〔日本陸戦隊は〕上海から発信される通信回線を押さえた。明らかに、それから数時間、この占領の知らせは欧米諸国のどの首都にも届かなかった。
 午前1時30分、木戸内大臣は自分の公邸を車で後にし、ルーズベルトからの親書を受け取る裕仁を助けるため、皇居の森の図書館へと向かった(155)。その時、南雲長官の旗艦、空母赤城――真珠湾の北、約230マイル
〔370㎞〕にいた――の甲板では、最初の攻撃機が飛び立つ準備を進めていた。ハワイ時間の午前6時だった。夜はまだ明けておらず、海は荒れていた。飛行甲板上では、整備士たちが、昇降機から引き出された飛行機に取り付いていた。大波が艦の舷側を洗い、飛び散るしぶきで彼らの足元を濡らしていた。
 攻撃を率いるパイロットの淵田美津雄中佐は、足をとられながら自機に向かった。彼は近づきながら、自分の航空帽の上から、武士が決死の戦いに挑む時のように、白の鉢巻をしめた。彼の機は、赤と黄の縞で塗られ、飛行甲板の青白い照明の下で、不気味な姿を見せていた。その胴体の下には1個の1600ポンド
〔800kg〕の徹甲爆弾――降下を正確にする特殊なヒレを持ち、15インチ〔37.5cm〕厚の甲板をぶち抜く特殊爆弾――が取り付けられていた。淵田と彼の隊員が爆撃機に乗り込むと、赤城は北風を受けるよう旋回し、真珠湾攻撃の第一波が飛び立った。続く15分のうちに、182機――50機の〔水平〕爆撃および急降下爆撃機、89機の魚雷攻撃機、および43機のゼロ戦――が、上空を旋回して待っていた淵田機に合流した。そして、彼は自機の翼を振って合図して、南へと向かった。
 木戸内大臣は皇居の森の図書館で、高性能短波ラジオから発する面白みのない音楽や意味を成さない音声を聞きとっている裕仁を発見した(156)。その時、東京時間の午前1時40分には、日本の機動部隊が、北マレーのカラ地峡、キタ・バルの沿岸森林帯の橋頭堡に、闇を破って砲撃を初めており、シンガポールへ向けて攻勢を開始するための上陸にかかっていた。
 木戸は、そうした時の主を邪魔したくはなく、黙って椅子に座った。時々、裕仁は、進行中の作戦について、言葉少なく説明をした。時々、裕仁の机の上の電話が鳴り、その図書館から北へ数百メートル離れた大本営の会議室の一人の侍従武官からの確認情報が入った。
 木戸がこうして東京の皇居図書館で冷静に事態を見守っている時、ワシントンのルーズベルトは、ホワイトハウスのオーバル執務室において、お盆に置かれた彼のいつもの昼食を受け取っていた(157)。彼の愛犬ファラが、お盆の上の食べ残しをねだっていた。Vネック・セーター着てスラックスをはいた彼の友人のハリー・ホプキンスが、政治情勢をコメントしながら、ソファーに座ってくつろいでいた。
 午前2時5分、木戸は、コタ・バル海岸に上陸したマレー侵攻部隊の強襲艇からの生の短波通信を聞いた。その後の30分間、日本軍は英・印部隊の設置した鉄条網を突破して、その地に足場を確保していた。シンガポールの英国軍司令官、A・E・パーシバル中将は、ロンドンの陸軍省にそのニュースを通報した。それは、英国時間で午後5時40分、ワシントン時間の昼の12時40分だった。
 東京の皇居図書館では、緊迫の度に緩和が見えたので、木戸は、東郷外相がルーズベルト大統領からの親書について相談するため、控えの間で待機していると説明した。裕仁は東郷を受入れ、彼がルーズベルトからの親書を読み上げるのを、その所見に敬愛の声をあげながら聞いたが、、時はすでに遅すぎると残念がった。そして裕仁は、東郷があらかじめ深慮して下書きした断りの返事を許可した(158)
 午前3時、東郷が謁見中、ワシントンの野村大使は、公式の宣戦布告の代わりとなるためのハルに宛てた14項目の文書を提出しているはずであった。にもかかわらず、ワシントン時間の午後1時、野村は国務省に電話をかけ、部下の職員の解読とタイプ打ちの困難について詫び、ハルとの会見を1時45分まで延ばしてもらえないかと懇請した。ハルは、すでにその文書の内容は知っていたが、その憤慨を収めて、日本代表団が自らを表す用意が整うまで、必要なだけ待つ用意があると返答した。
 午前3時15分、東郷は皇居図書館を退出し、彼自身の短波受信機が用意されている外務省へと急いで戻った(159)。木戸はさらに15分間――戦争開始を決定ずける運命の時間――、裕仁のもとに残った(160)



  トラ、トラ、トラ(161)

 真珠湾攻撃中隊の淵田司令官は、午前3時5分――ハワイ時間の午前7時35分、ワシントン時間の午後1時5分――、オアフ島を視界に収めた。点在する雲の上、高度9,000フィート〔2,700m〕を飛行しながら、 「ピンク色の朝靄」 の向こうに、白い線の波打ち際と緑の山々を確認した(162)。彼の編隊は、島の北側から接近していた。真珠湾とホノルルは、島の南側に位置していた。したがって、魚雷攻撃機が真珠湾を南側から海上から低高度で攻撃を開始できるよう、彼は、右手に旋回し、自分の編隊機を島の西側から海上へと下降させた。
 淵田は自分の一隊の先頭に位置し、島の南西角のバーバーズ岬を回り、視界を確認した。もし彼らの接近が察知されていたら、戦闘機がすでに飛び立っているはずであり、その場合、攻撃が始まる前に、標的地域の制空権を得るため、5,000フィート〔1,500m〕上空を飛んできているゼロ戦でそれらを攻撃させねばならなかった。そしてその場合、彼は、完全な奇襲攻撃が達成されていないことを示すため、二発の発煙弾――二匹の黒龍――を発射する手筈となっていた。
 淵田はそれを知らなかったが、完全な奇襲は達成されていなかった。というのは、二人の下士官が配置されていたあるレーダー探知所が、淵田の編隊の接近を、約40分にわたって探知していた。だが、その二人の下士官の電話で起こされた本部の誰も、その通報を真剣には取り上げなかった。他の通信・命令系統では、日本の小型潜航艇が真珠湾口で発見されたと報告され、米国駆逐艦ワードによる爆雷攻撃で沈められていた。しかし、この報告もまた、最後の一時間において、何ら注意が払われなかった。
 淵田は、眼下に広がるあまりに平和的で無防備な光景に目を疑った。 「私はすべてのドイツの艦船がキール港に集まっているのを見たことがあった。私はまた、ブレストでフランスの戦艦を見たし、天皇の観閲での自国の艦船も見たことがあった。だがしかし、500隻もの艦船が千ヤード
〔910m〕も離れずに並んで錨を下ろし、しかもまったくの平和のなかにある光景など、決して目にしたことはなかった。・・・果たしてアメリカ人たちは、旅順港 (1905年、ロシア皇帝のアジア艦隊が壊滅した)の話を聞いたことがないのだろうか?」、と淵田は後に書いた。
 午前7時40分――東京時間の午前3時10分――淵田は一発の発煙弾を発射した。彼の急降下爆撃機はそれに応えて高度12,000フィート
〔3,600m〕まで上昇した。また彼の魚雷攻撃機は波がしらぎりぎりの高度まで旋回下降していった。彼の機と随伴する水平爆撃機は高度を3,500フィート〔1,000m〕まで下げた。しかし、ゼロ戦機は遥か高くにあって、明らかに彼の発煙弾を見落としていた。彼らは下降してきて機銃掃射攻撃を加え、爆撃機を支援するはずだった。淵田は再度、黒龍弾を一発、発射した。ようやく彼らは下降し始めた。しかし、急降下爆撃機はそうしなかった。急降下爆撃機の隊長は、その二発目の発射を、 「奇襲攻撃の失敗」 と誤認していた。一発目の黒龍の後、魚雷攻撃機が目標へと向かうはずだった。二発の黒龍の後は、対空砲火陣をたたくこととなっていた。
 淵田は、数秒のうちに決断せねばならなかった。急降下爆撃は、魚雷攻撃の標的を判りにくくするし、二種の爆撃機同士の衝突もありえた。しかし、編隊僚機たちはみな中国事変で経験を積んでおり、操縦士たちもみな、10月に日本の北岸に設けられた大規模な砂の模型で、真珠湾の地形を頭にたたきこんでいた。淵田は、もし戦闘が始まれば、彼の隊員は、米艦隊の破壊が目的であることをわきまえ、独自の判断で攻撃を行えると判断した。彼は、無線沈黙を破って、「と、と、と」、すなわち、攻撃開始せよ、を司令した。すべての機がそれに応えた。その時刻は、7時49分、東京時間の3時19分だった。
 淵田の182機が、攻撃のために、それぞれ違った方向と高度からその標的に襲いかかって4分経過した。ウィーラーおよびヒッカム陸軍基地の滑走路、エヴァの海兵隊滑走路、フォード島の海軍滑走路、カネオエのカタリーナ水上飛行場のそれぞれに、航空機がおあつらえにまとまって駐機していた。まさしく、理想的だった。それらは、地上での破壊攻撃――秘かに侵入して爆弾を投げる――に備え、そのような形に駐機されていた。
 真珠湾には、その湾口で遊よくする監視艇を含め、米国太平洋艦隊の少なくとも90隻の艦船――8隻の旧式戦艦、標的の1隻の退役戦艦、2隻の新型重巡洋艦、6隻の軽巡洋艦、30隻の駆逐艦、5隻の潜水艦、9隻の機雷敷設艇、10隻の掃海艇、2隻の修理工作船、2隻の輸送船、3隻の駆逐艦補給船、1隻の潜水艦補給船、一隻の病院船、6隻の水上機補給船、2隻の油送船、そして2隻の沿岸警備船
# 7――が入っていた。一発の対空砲火も、ひと輝きの上昇してくる翼の反射もなく、飛来している死の影に気付いている者もいなかった。
 司令官の淵田は成功の自信に満ち、ハワイ時間の午前7時53分、東京時間の午前3時23分、 「トラ、トラ、トラ」 の無線司令を発した。それは、古い中国のことわざ、虎は千里行って千里を還る、をもとに、勝利の合図として用意されていたものだった。
 大気の好現象に助けられ、その 「トラ、トラ、トラ」 の司令は、東京でも直接受信された。裕仁は自分の無線受信機でその信号を自分自ら聞いたが耳を疑った。しかし、数秒のうちに、それは電話で伝えられた。淵田がそれを発した7分後の午前3時30分、裕仁は木戸内大臣を退席させ、自分の私邸にもどり、その朝の予定されている多忙な儀礼を控え、数時間眠った(163)。裕仁は、そのように落ち着きはらっており、彼の鋼鉄のような神経を表していた。
 天皇が床に就いたその時、米国の悪夢、真珠湾が、煙と炎の大混乱のなかで上演され始めていた。午前3時25分、ハワイ時間の7時55分、最初の爆弾と機銃掃射弾が、滑走路や甲板にばらまかれ始めた。日本軍の魚雷爆撃機が、湾の中央にあるフォード島の東岸にそって並んだ8隻の戦艦へ、あらゆる方向から低空飛行で襲いかかった。5分以内に、そのうちの4隻の戦艦が1,000ポンド〔450kg〕魚雷を一発以上、打ち込まれた。同時に、急降下爆撃機が、甲板、砲塔、艦橋に命中して大穴を開けた。淵田もその一機である水平爆撃機隊は、その徹甲爆弾を恐ろしい正確さで投下した。そのうちのいくつかは不発だったが、それは文字通り、兵士の頭に命中して死に至らせた。いくつかは、戦艦の装甲甲板ばかりか、その艦体をも貫通して、水底の泥中にまで達した。他のいくつかは、戦艦内の第二、第三層に達して爆発し、食堂、病室、娯楽室までをも修羅場と化した。
 攻撃開始から25分以内で、1916年就航の32,600トンのアリゾナは、急降下爆撃機にその煙突を直撃され、ボイラーが爆発、前部火薬庫に引火して大音響とともに爆発、艦体は二つに引き裂かれてたちどころに沈み、1,104の命を奪った。(164)
 同じく1916年就航の29,000トンのオクラホマは、三発の魚雷を受けて傾き、生き残った乗組員が反対側によじ登った。艦内に捕えられた32名は、後に、艦底に穴をあけ、そこから救い出された。
 艦齢18年、31,800トンのウエスト・バージニアは、一発の爆弾と、四発の魚雷で沈没し、艦内に閉じ込められた数名は幸運には恵まれなかった。後にサルベージが艦を引揚げると、その沈没から16日間生存した三名が壁に殴り書きにした記録を発見した。
 1921年就航の32,600トンのカリフォルニアは、火災が燃料タンクに移り、三日間もえ続いたあと、消火のために沈められた。
 1916年就航の戦艦のひとつ、29,000トンのネバダは、脱出を試みて動き始めることには成功した。その同艦に日本軍爆撃機が集中し、湾の入り口で沈めようとした。だが、艦長は、勇敢な二名のタグボート乗組員に助けられ、湾口の片側岸の泥の上に乗り上げて沈没をまぬがれた。
 二隻のもっとも最新の戦艦は、他艦と並へて陸側に係留され、反対側は沈められたオクラホマとウェスト・バージニアに魚雷から防御されて、沈没せずにすんだ。1921年就航31,500トンのメリーランドは、被弾のみですんだ。1920年就航32,600トンのテネシーは、同じく軽傷ですんだが、沈んだウエスト・バージニアとコンクリート・ドッグの間にはさまって動けなくなった。そのため、そのドックを巧みに爆破し終わる一週間以上後まで、同艦は修理のための曳航ができなかった。
 もう一隻の大型戦艦、1911年就航の旧艦ユタ、21,825トンも沈没した。同艦は、攻撃の前、海軍から退役の準備に入っており、すべての使用価値のある装備は取り去られていた。その結果、同艦はその上部構造がほぼなくなり、足場や板でおおわれていた。そのために上空から見ると空母のように見え、勇んだ日本の操縦士は、無駄な執念をもって魚雷を浪費させた。そうしたちょうど11分間の集中攻撃を得て、転覆、沈没した。58名の基幹乗組員が同艦と運命を伴にし、今なお、その遺骨は錆びた鉄の棺のなかに残されている。
 すべての戦艦のうち、艦隊の旗艦、ペンシルバニア――33,100トン、1916年就航という老体――は、最も軽度の損害ですんだ。その理由のひとつは、同艦は乾ドックに入っており、魚雷攻撃の射程外にあった。他の理由は、1937年のペナイ号に乗り組んでいた砲手の手柄による。彼は日本機を見つけるやいなや、大ハンマーをつかみ、同艦の弾薬庫の鍵を壊し、無許可でその弾薬を配布した。日本軍には二度としてやられまいとする彼の執念は、日本の第一次攻撃が終わる前でも、ペンシルバニアは激しい対空砲火を発揮することができた。急降下爆撃機が幾度もその弾幕を突破しようとしたが、一発のかすり傷以外にペンシルバニアに打撃を与えることは不成功に終わった。攻撃の5日後、その修理は完了し、同艦は就役した。
 ペンシルバニアを獲物にできずに苛立つ操縦士たちは、乾ドックの同艦の前に入っていた二隻の駆逐艦に襲いかかった。ドウンズはその魚雷庫に爆弾が命中して大破し、隣りのカシンに燃える油をあびせた。他の駆逐艦シャウは、浮きドックに入っていたが、その船首を完全に失った。
 カシンとドウンズの船体の各部分は、後に合体されて新船体となって生まれかわり、再び日本軍を追い回し、脅かすこととなった。戦艦カリフォルニア、ウエスト・バージニア、そしてネバダは、巨額を投じて引揚げられ、完全に修復された。オクラホマを復興させようとの努力は、戦争が終わり、本土西岸の造船所に曳航中に沈んでしまうまで続けられた。日本の真珠湾計画を砕こうとする海軍の決断は、沈没した機雷敷設艇オグララ――1917年に旧式のファール川蒸気船を改造、二次大戦後は操船しやすい艦載中型艇として復活――にまで拡大された。アリゾナとユタのみが引揚げられずにおかれ、その場は国民記念碑とされた
# 8
 港で沈められた艦船と同じく、陸上では、滑走路に整列していた航空機が破壊された。エバ基地の海兵隊のワイルドキャット11機、偵察爆撃機32機、実用機6機が破壊され、日本軍が去った時に飛べたのは、ワイルドキャット2機、偵察爆撃機14機のみだった。カネオエ基地の36機のカタリーナ水上機のうち27基が修理不能の損害を受けた。残りのうちの3機はパトロールに出ていて不在だった。全体の航空機の損失の信頼しうる統計は公表されていないが、少なくとも、海軍戦闘機の良好な148機のうちの112機が破壊され、陸軍の就役可能な戦闘機および爆撃機129機のうちの52機が破壊された。全米軍の38機のみが離陸し、そのうち10機は撃墜された。
 これらの被害のうちのほとんどは、攻撃の最初の25分間のうちに生じた。その後も、ゼロ戦が炎上する甲板や滑走路に機銃掃射をあびせたが、爆撃機は爆弾を使い果していた。攻撃機が空母に帰還した後、司令官の淵田は第二波攻撃の成果を観測するため、旋回しながら残っていた。8時45分、第二波の78機の爆撃機、54機の魚雷爆撃機、35機のゼロ戦が襲来した。だがそれまでに、艦船や陸上基地の反撃砲火が整い、港は対空砲火の傘でおおわれていた。27隻の駆逐艦、5隻の巡洋艦、3隻の戦艦が応戦能力を失っておらず、分類上は沈没ではあるが、座礁したネバダはいまだ砲火を放ち得た。第一波攻撃で、淵田はわずか9機――急降下爆撃機1機、ゼロ戦3機、魚雷爆撃機5機――を失ったのみだった。8時15分から9時45分にかけての第2波攻撃では、ゼロ戦6機、急降下爆撃機14機を失いながら、ほとんど何の戦果もあげれなかった。致命傷を負った艦船はもう仕上がっており、滑走路のさまざまな格納庫が爆撃されたが、重要な新標的は攻撃されなかった。潜水艦基地、海軍造船所、海軍補給基地、そして、日本の全備蓄量にも相当する燃料を蓄えた 「タンク群」 は、すべて愚かにも見落とされていた。
 第二派の成果を見守った後、淵田は、10時少し前に南雲機動部隊の空母に帰還した。淵田は、恒久施設を攻撃するため第三波の出撃を望んだが、南雲がそれを制した。第三波攻撃は艦隊の存在位置を明かす恐れがあり、危険であった。29機の航空機と55名の犠牲によって、戦艦5隻、駆逐艦3隻、機雷施設艇1隻、空母らしき艦船1隻、そしてほとんど200機の敵の航空機を餌食にしていた。米軍水兵2,008名、海兵隊員109名、陸軍兵士218名、そして民間人68名の計2403名のアメリカ人が殺された。南雲長官にとって、そうした記録
# 9をさらなるリスクにさらす理由はなかった。彼は、自分の艦隊を北太平洋の霧の中へと向けさせ、日本への平穏な帰還をすべく姿を消した。


開戦

 真珠湾に最初の爆弾が投下されて三分後、P・N・L・(「パット」)・ベリンガー中将は、全艦船向け緊急指令を発した。 「太平洋軍最高司令官よりハワイ地区全艦船に告ぐ、これは演習ではない」(155)
 ワシントンからハワイへの先のマーシャル陸軍長官の司令と違って、ベリンガーの司令は、ワシントンとの間の隔たりをたちどころに横断した。海軍作戦本部は、ただちにそれをスターク提督に伝達した。 「ベティ―」・スタークはノックス海軍長官に電話した。ノックスは、一瞬の信じられなさの議論―― 「それはフィリピンじゃないのか」 ――の後、ホワイトハウスに電話した。ルーズベルト大統領はリンゴを食べながら、趣味の切手収集に新しい標本を加えていた。彼は直ちにノックスに、その攻撃の可能なすべての情報を得るように指示し、全海軍に臨戦態勢をしかせた。ルーズベルトが電話を切った時、彼の机上の真鍮製船舶時計は午後1時47分、ハワイ時間の午前8時17分を指していた。(166)
 18分後、日本大使の野村と特使の来栖が、日米関係決裂の通告
# 10をするため、広々とし、みすぼらしく、殺風景なハルの国務省オフィスを訪れた(167)。ハルが、彼らを15分間待たせ、鼻眼鏡を付け、その2,500文字の文書を読むふりをしている間、二人に星条旗と彼の背後の長官紋章を鑑賞する時間を充分に与えた。彼が、すでにマジック版文書で精読した文面に目を落としている時、彼は短い会話を挟んだ。10分後、彼は目を上げ、彼独特のテネシー訛りの口調を強みに使って言った。 「私の50年間の公務の間、これほどに恥ずべき欺瞞と曲解に満ちた文書を見たことがない。その恥ずべき欺瞞と曲解の度はすさまじく、私は今日まで、地球上のどんな政府でも、こうしたことがまさか口に出せるとは、想像すらしなかった。」
 野村大使――ハルは個人的には彼を好み、親愛を込めて 「へんくつ者」 と呼んだ――は、口を開いて何かを言った。だがハルはドアを指さして言った。 「良い日を、諸君」。
 1時間半後、ワシントン時間の午後4時、東京時間の午前6時、ロンドン時間の午後9時、ウィンストン・チャーチル首相は、ルーズベルトからの特使のアベレル・ハリマンと駐英米国大使のジョン・G・ウィナントの二人と密談を交わしていた。日本軍がマレーの英国占領地に侵入して、もう四時間時間が過ぎていた。チャーチルは9時のニュースを聞くためラジオをつけ、真珠湾攻撃の報を聞いた。ハリマンとウィナントに促されて、彼はさっそくルーズベルトに電話を入れ、こう告げた。 「かくして事は簡単となった。貴殿に神のおぼしめしを。」
 それから約50分後の日本時間の午前7時、東京のラジオは、日本帝国海軍がハワイを攻撃し、米国との戦争に入ったと物々しく伝えた。同じ頃、グリュー大使は、外務省より、東郷の公邸へと急ぎ呼ばれた。7時30分、東郷はグリューに、天皇がルーズベルト大統領の親書を拒否したことを告げた。東郷はそして、ワシントンに提出された14項目の文書の写しを渡した。グリューは帰宅してそれを読み、ラジオを聞き、そして、外交特権を持った敵国国民として、収容所入りを待った。8時5分、日本機がグアム島を、9時に香港を、そして9時5分にはフィリピン北部に空襲を加えた。
 11時40分、日本のラジオは、いくつかの威勢のよい声明に続き、いよいよ、天皇の宣戦の詔
〔みことのり〕を放送した。それは、以下の言葉で結ばれていた。
 翌日、ハルゼー海軍中将は、空母エンタープライズでハワイへ戻り、真珠湾の損害を調査し、そして裕仁の黄泉の世界からの神聖な発動に対し、いかにも現世風に、明け透けな対抗心をぶつけた。曰く、「我々が奴らと絶縁する前に、日本語はただ地獄で話されるだけにさせてやる。」(169)
 ルーズベルトはその日、特別声明を議会に提起し、ほとんど全会一致の開戦の投票をえた。ネブラスカの上院議員ジョージ・ノーリス――1917年は戦争に反対した――は、今回は賛成した。モンタナの下院議員ジャネット・ランキン――やはり1917年は反対だった――は、今度も孤立主義を選んだ。アメリカ国民がこれほどに一致したことは、かってなかった。そして十万人以上のアメリカ人が、 「日本軍国主義」 を征圧するために命を失うこととなる。一方、その軍国主義は支持しなかったが天皇は尊敬した百万人以上の日本人が、アメリカ人がそれが何であるか理解できないもののために死んでゆく。かくして、無知の上に育まれた憎しみをもって、二つの文化は悲劇的に衝突する。他方、その衝突がゆえに、アメリカ人はドイツとの戦争にも立ち上がったのであった。


 つづき
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