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第七部


世界終末戦争





第二十八章
崩壊する帝国(1942-1944)
(その3)



働かざる者、食うべからず

 ガダルカナルでの壮絶な6ヶ月間の作戦の後は、日本軍と米国軍との間で、対等な条件で戦い合うことは二度となかった。日本軍は、海でも空でもしだいに量的な劣勢を強いられ、この戦争の最終段階では、艦船で米10対日本1、航空機でおよそ米50対日本1の比率にまで至った。海および空の支配を通じ、米国の地上軍司令官たちは、日本軍が数量的優勢を発揮できない、あるいは、米軍部隊が圧倒的武力を優勢にできる場所を選んで自らの戦場としえた。
 熟達した戦略家として、裕仁は、ミッドウェイ海戦の後、この容赦のない顛末を予想し、またガダルカナルの空しい玉砕突撃の後には、それを不可避と見るまでになった。だが彼は、それでも戦争の継続を求め、日本軍の戦死者が10万人以下から、100万人以上へと脹れあがる中でも、その継続を求め続けた。
 彼は、自分の生涯を賭した望みが閉ざされることを正視できないがゆえに、自らの国民のこの恐ろしいほどの犠牲を強いていた。彼は、アジアを征服し、統合し、そして 「開明」 する使命に失敗したことを認められないでいた。彼は、西洋の有害な普遍的信条、個人主義的意識や精神、そして救済といたものが、日本の国土に浸透しているとは、祖先に報告できないでいた。しかし、もっとも重要であったのは、彼の顧問たちがそうするようにと助言したからこそ、彼は戦いを続けようと考えていたことであった。
 木戸内大臣は逆説的に、国民のためにこそ、戦争は続けなければならないと主張した。つまり彼は、もし敗北が余りに早かったならば、皇位への大衆的怒りが生じることを恐れていた。日本の大衆は、1905年の日露戦争の後、明治天皇が、旅順と奉天での山をなす日本兵の死体と引き換えに、わずかな賠償と領土の獲得で終結したことに憤慨して、各都市での暴動を起こした。現在の戦争では、中国、マラヤ、ルソン、ジャワ、そして太平洋の名も知らぬ島々で戦死した人々に代って与えられるものは、まだ何もなかった。日本社会は、そうしたまずい取引きの場合、注意深く扱われなけらばならなかった。1943年では、どんな清掃人夫でも野菜農夫でも、新聞紙上の地図を見て、〔日本帝国の〕旭日の光が地球の三分の一を照らしているのを知っていた。いかなる政治家であろうと、そうした新たな獲得物を何事もなく放棄し、再び狭い本土に戻ることなどはできるはずもないと考えていた。(43)
 ゆえに、まだ敗戦を受入れていない時においては、日本国民がそうした血に染まった戦利品を放棄するには、何らかの彼ら自身の失態が必要であった。加えて、日本国民が、その放棄に同意する以前に、すでに帝国の企てに加担して一蓮托生となっていればより好都合だった。しかし、占領はあまりに容易になされ、あまりに少数の人たちのみがそれに関わっただけで、国民の大半はただ上辺の関心をもっていたにすぎない。もしそれらが放棄されるなら、村の校長はそれを皇位への反逆と呼ばねばならず、人々は無駄に血を流したことに憤慨するのは確実だった。もし、そうした外地の浜辺が戦うに値するものであったのなら、国民にとっては、村の若者の死に代るものが
遠方のサンゴ礁の浜辺であった。彼らにとってそうした浜辺からの退却はただ事ではなく、そのために裕仁は、彼らに与えるべき帝国の大義名分を必要としていた。そしてついに、大地の母が、 「もうよい」 と声をあげることにしたのであった。この時をもってのみ、獲得地を返還するにふさわしい時となるはずであった。
 誰にとっても微妙な問題は、罪意識の共有だった。日本人の誰もがそのどこかに、かって地球を支配し、栄華をほこった中国、ヨーロッパ、そしてアメリカから、貢ぎ品を出させたいとは思っていた。しかし、日本人の誰も、中国人の目を焼き、英国人を去勢し、アメリカ人の肉を食おうとなど(44)、思ったこともなかった。だが、日本人の多数をそうした文字通りの残忍性に加担させる考え抜かれた命令を発っすることで、裕仁の憲兵の特高部は、日本国民全体にそうした罪意識を植えつけ、日本の残虐行為の責任を、裕仁を除く日本人全体が抱くように計画した。こうした罪意識の共有を通じて、日本人全体は、目には目をとか歯には歯をとかといった報復は達成せずとも、いかなる平和であれ、それを感謝して受け入れるよう準備されたのであった。
 それは、人民操作のための陰険で巧妙な施策であり、日本の捕虜収容所での残虐行為にも通じていった。そこでは、見せしめに殺されるものはいなかったが、裕仁の憲兵と収容所の監視兵は、民族、宗教、皮膚の色、性別による差別なく死を分配した。そして幸いに、彼らはそれを、近代的な焼却炉やガス室の効用を利用せずに実施した。にも拘わらず、ユダヤ人以外であっても、日本の収容所はドイツのものより、いっそう死者数が多かった。ドイツ軍によって捕虜となった235,473名の英国および米国の将兵のうち、9,348名――4パーセント――が、ナチの収容所で死亡した。これに対し、日本軍によって捕虜となった95,134名の英国、米国、オーストラリア、カナダ、そしてニュージーランドの将兵の内、27,256名――28.65パーセント――が日本の収容所で死亡した
# 6(45)
 日本軍によって抑留された民間人も、軍人捕虜と同じように食糧配給を受けたが、かなりましであった。実際、民間人収容所のなかには、その死亡率が米国の同等規模の社会集団の通常寿命統計より低いものもあった。肥満の問題も、運動不足の問題も、薬物中毒もなく、興奮すらまれだった。そうした民間人は、アジアの居住者として、日本人のことや地元の衛生状況を知っており、自分たちに食糧を提供してくれる地元の友も持っていた。また、妻や子供や医師が同じ収容所かその近くに収用されており、自ららの清潔さや快活さや共同体感覚を一定程度維持できていた。それに彼らは、同じ収容管理者や残虐行為の恐れやくすぶる嫌悪感覚を相手にしながらも、降伏した兵士たちとは違って、日本人によって見下げられることも、強制労働にかり出されることもなかった。
 戦後に出版された元の日本の捕虜による何百冊もの本に描かれているように、収容者たちの個々の見方の違いがゆえに、歴史家をして、日本人の残虐性は組織的なものでなく、個人的で、偶然的なものであったと考えさせてきた。日本人の残虐性は、そうした本の著者たちの見解や、入手可能な日本の記録によって裏付けられた〔結果的な〕ものでもない。そうではなく、捕虜情報局や捕虜管理課の今日までも残る指令書が物語っているように、捕虜を最後の者となるまで、次第しだいに、執拗かつまことしやかに、そしてほぼ合法的に皆殺しすることが本国による政策的なものであったことである。だが現地では、日本の収容所司令官や守衛らは、東京からの指示を人道的であろうと解釈したことはあっても、残虐であれとの指示を拡大したことは決してなかった。さらには、各々の収容所では、東京からの新たな指示は、せいぜい、過酷さの一時的な増加として実施される程度だった。
 捕虜の政治的使用と身体的酷使のついての方針は、真珠湾攻撃の16日後の1941年12月24日という、ほとんど戦争開始と同時に、裕仁によって宣告されていた。彼は通常、毎水曜日には枢密院会議に臨席していたが、その朝はその総会にのぞみ、彼は、陸軍省下に捕虜情報局を設置する特別動議を通した。この動議は、説明や議論もなく通過され、あらかじめ各議員にその写しが示されていた 「添付文書」 が、そのまま、この国の法律となった。
 その添付文書は、立法上の建前を並べたものだった。つまり、枢密院は1912年に、1907年のハーグ条約をすでに批准しており、開戦にあたり政府は、捕虜に関する情報と関連事項を扱う部局を設置することが求められている、とそれは述べていた。この口上声明をもって、裕仁の枢密院は、日本の捕虜局を、陸軍省次官の管轄下に置き、陸軍および海軍の佐官以下の階級の軍人によって管理され、民間人による事務官を配置することに同意した。そしてそれは、捕虜に関する調査や情報を取り扱い、 「すべての捕虜についての書類作成と改訂」、 「死亡した捕虜の遺品と遺言の保管およびそれらの遺族への返還」、 「捕虜の金銭問題の処理」、 「遺族への死亡の通知」 を行うとされた。またそれは、日本人の手になった敵国人について、敵国政府がその近親者に通知することを援助するとされた。要するにその添付文書は、事実上、日本の捕虜となったものは、故国に生きては帰ることにわずかな望みしかないことを枢密院が同意するよう求めるものであった。(46)
 捕虜情報局は、東京の官僚界で、急速に勢力をもった部門となり、憲兵隊は能率的に、ほぼすべての連合軍捕虜の書類編纂にかかわった。バターンで捕われたパイロット、中国で生涯をすごした後バギオで捕えられた牧師、香港を脱出したもののスラバヤで捕えられた実業家、そして上海から非難したがマニラ湾の船上で捕えられた娼婦など、彼らはみな、尋問され審査された際、日本人がすでに作り上げていた書類の完璧さに驚かされた。
 シンガポール、ラングーン、ジャワ、そしてバターンが攻落した後の1942年4月、捕虜情報局とその下部機関の捕虜管理課は、連合軍の民間人および英、蘭、米の白人と現地人部隊の四分の一にあたる、ほぼ30万人を所管していた。いかにそれが、地元民から絞りとり、凍結連合軍資産を売り払い、死亡させて数を減らすなどして、ごまかされされていたとしても、こうした捕虜を管理し、監視し、そして食事を与える予算規模は、年あたり1千万ドル
〔現在価値にして500億円〕、一人につき年30ドル〔同1万7千円〕は下らないと見積もられる。この額は、国家収入の六百分の一に相当し、危ない橋を渡っている日本にとって、裕仁の質素な財政担当者が支出しうる水準を越えていた。
 ドリットルによる東京空襲から10日後の1942年4月28日、東条首相は、陸軍大臣としての権限をもって、皇居のお堀端にある陸軍省において、各局長会議を招集した。杉山陸軍参謀総長は、捕虜にしたドリットル飛行士たちを処刑してみせしめとするのが大本営の方針であると、東条に述べた。東条は、それが偽善的で残忍であるとの理由で、その処刑に反対する積りであった。しかし彼は、その代わりの彼らの処置につき、裕仁に示したい考えがあった。東条は部下と打合せた後、 「働かざる者、食うべからず」 との帝国の標語にてらして、帝国が保持する30万人の捕虜は、自分を食わす働きをすべきである、と提案した(47)。捕虜情報局長の上村清太郎中将は、ハーグ協定によれば、捕虜はそれを捕えた者に役立つ労働を行う事を求められないとして、反対した。捕虜は、自らを維持するために食糧を作り、薪を切ることは可能かも知れなかったが、捕虜を持つ国の埠頭や軍事工場埠頭で労務に服してはならないはずであった。さらに、収容所の外でおこなう労働は、報酬が払われなければならなかった。加えて、彼らの将官――もっとも高学歴の捕虜――は、たとえ自らの維持のためであっても、あらゆる労働から特別に除かれた。
 東条は、上村捕虜情報局長の反対を、現実的ではないとして却下した。陸軍省は、すでに1月、ブエノスアイレスを通じて西洋諸国に対し、日本は古びたハーグ協定に従うものではないが、人道的精神は尊重すると通告していた。東条にしてみれば、この意味するところは、捕虜は長く生き延びたければ、それだけの労働をせよ、ということであった。
 そうした東京の政治状況に縛られた東条にとって正しいと見られたことも、南方に新たに生まれつつある帝国領土の随所で捕えられたさまざまな捕虜にとって、そうした正当性は部分的でしかなかった。こうした捕虜を労働に使用する決定は、陸軍省の各局長たちによって承認され、さらに大本営において裕仁に正式に認可されて、絶滅を決定された多くのアメリカ人捕虜の命を救い、それまで、なんとか耐えうる収容条件を与えられてきたそれ以外の捕虜の命を奪うこととなった。
 そのころまでは、従順に日本に降伏してきた連合軍部隊はさほど過酷には扱われていなかったが、頑強に抵抗し続けた連合軍部隊は言語道断な扱いを受けてきていた。たとえば、敗北必至のため早期に屈したグアム島の米軍守備部隊は、苦難にあわされることなく、日本や中国の収容所に送られ、いまや、適正な食事と宿舎が与えられていた。その一方、ウェーキ島の米軍守備部隊は、その降伏の前に、一度、日本の機動部隊を撃退し、大規模な戦傷者を出させたため、その降伏後は、飢えさせられ、打ちのめされ、見せしめに多くが殺されていた
(48)
 グアムとウェーキの守備隊へのこうした対照的な扱いは、シンガポールとバターンの捕虜の場合、もっと甚だしいものとして与えられた。バターンで日本軍をさんざん苦しめたその 「しぶとい奴ら」 は、すでに死の行進という恐怖を味わされていた。そしてその行進を生き抜いた9,500名を越える米国人と44,500名を越えるフィリピン人は、マニラとリンガエン湾の間にある死体製造所のようなオドネル収容所で、着実に死に続けていた。そこはあたかもじめじめした共同墓地のようだった。わずか二十個程の水の蛇口が設けられただけで、腐りかけたヤシの葉葺きの兵舎と小型テントが並び、それらが有刺鉄線でさらに区切られ、柵とサーチライトと機関銃で囲まれていた。そこでは、1942年末までに、1,500名の米国人と2万名以上の死の行進の生存者が、むち打ち、銃剣、銃、ジフテリア、デング熱、マラリア、化膿した傷、脚気、壊血病、そして飢餓や衰弱、さらに絶望によってさえ、死に追いやられていた。
 東条の決定により、1942年6月、オドネル収容所の6,000名の米国人は、東に行った山麓のもっと健康的な場所にあるキャバナチュアン収容所に移され、コレヒドールからの2,000名の新たな捕虜に合流して、白人だけの収容所となった。この際、オドネルからの病気の捕虜が腸の寄生虫を持ち込み、それによって、その後の三ヶ月間に、8,000名の収容者のうちの2,000名が死亡した。オドネル収容所からの生残りの6,000名強とフィリピン南部の島々の様々な収容所からの捕虜が加わり、合わせた約1万2千名は、頑強さの見本だった。彼らは、フィリピンのもともとは1万8千名いたアメリカ軍捕虜からの生残りだった。そしてその他に、3,000名のアメリカ人兵士と水兵が、アジアや太平洋で捕虜となっており、彼らのうちの数百名が収容中に死亡した。合計でほぼ1万5千名のアメリカ人捕虜がまだ生存して日本人の手の内にあったと見積もられ、そのうちの1万4千人以上が生き延びて、三年後に解放されたのであった。
 東条の唱える、 「働けるかぎりは食わせてやれ」 は、彼らの大半の命を救うことに有用であることを証明した。つまり、その後の数ヶ月に、彼らは、九州の炭鉱夫、横浜の埠頭の沖仲士、大阪駅の貨物夫、神戸の工場の工員、満州の塹壕掘り、タイの線路工夫、そして、東京のラジオ局での台本書きやアナウンサーとして、それぞれの道を見出していた
(49)
 こうした捕虜奴隷労働者は、東条が彼らを使用するよう決定を下してほぼ一ヶ月後から、日本に到着しはじめ、階級によって違ったが、3から30セントの日当が支払われた。1942年5月30日、連合艦隊かミッドウェイへ向けて出航した時、東条は自ら、四国の善通寺で、捕虜による船済み作業を視察した。それには、バターンからの米国人や香港からの英国人が含まれていた。東条は、善通寺捕虜収容所長に言った
(50)
 ミッドウェイ敗北後の6月25日、台湾、朝鮮、満州そして内地のすべての捕虜収容所の司令官を集め、東条は、東京での秘密会議でこう述べた。
 7月7日には、東条は、フィリピンと東南アジアの収容所の司令官を集めた同様な会議において熱弁し、 「貴官の出来うる限り、非人間的とはならずとも、任務を厳格に果し、いかなる緩みも許してはならない」 と述べた。
 ガダルカナルへの米軍の上陸後の8月13日、朝鮮の憲兵は、シンガポールからの捕虜による良い宣伝効果のあった行進についてこう報告した。捕虜らは釜山の埠頭に陸上げした後、釜山の街路を行進させられていた。
 憲兵の報告は、印象を尋ねられた見物人の反応を指摘していた。一つの共通した朝鮮人の返答は、「のんきに口笛を吹いて、どう見ても、彼らには愛国心が足りない。彼らはまったくだらしない」。別の者は、「彼らの軟弱でふらふらした姿を見れば、彼らが日本軍に敗けるのも当然だと思う」。また、憲兵が取り上げたもっとも共通した日本人の反応は、 「こうした捕虜の姿は、敗けてなぞいられないと思わせる」 といった冷静な心構えであった。また、別の日本人はこうも言った。 「彼らには恥がないくせに、傲慢だ。彼らは厳しく扱われるべきだ。絶対に戦争に敗けられない。」
 だが日本の憲兵は、バターンの捕虜については、行進に加えるに足る充分に適当なもの持っていなかった。フィリピンからのもっとも元気な千名程の捕虜でも、黒龍会の人々をすら憐みの涙を流させたことだろう。そのため、労務者として選別された米国人捕虜たちは、少人数に分けられて日本国内の特別な健康回復収容所に入れられ、鉄道貨物場や埠頭や鉱山に送られる前、数週間の養生期間が与えられた。
  「のんきに口笛を吹く」 英国人捕虜は、朝鮮での見せびらかしに適当と見なされ、それまでは幸運な扱いを受けていた。シンガポールに残された仲間や、ジャワで捕えられている2万余名のオランダ人捕虜もまたそうであった。だが、東条の 「働かざる者食うべからず」 の決定が、もっとも厳しく適用されたのが、これら英国およびオランダの捕虜たちであり、これが米国の捕虜には有利に働いたのであった。
 ジャワでは、オランダ兵は、戦場でも、捕虜として処理される過程でも、ほぼ十人に一人が死んでいた。だがそれ以後は、彼らは収容所に集められたが、そこは監視が甘く、また大半の場合、自分たちの食糧を得て自活することが許されていた。農耕のたやすいそうした島々では、食糧は豊富で、オランダ統治の三百年の伝統を生かして、自分たちの健康と意気を保つことができていた。
 シンガポールで捕虜となった、3万5千余の英国人、1万5千余のオーストラリア人、そして1万4千余の英国およびマラヤの志願兵たちは、より厳しいものの、さほど過酷ではない扱いを受けていた。 「マレーの虎」 と呼ばれ、ドイツ国軍将官に並び称される山下大将は、シンガポール島の北東端であるチャンギ―地区――戦争前から英国軍が使用していた――の管理権を彼らに与えた。そこには、英国が建てた風通しのよい三階建ての兵舎があり、芝地やテニスコート、そしてブーゲンビリアの木陰で囲まれていた。宿舎は、戦争前より込み合うことになったが、真珠湾以来、英国軍が野営してきた場所よりははるかにましだった。日本の公式の食糧配給である、一日一人当たり、乾燥米1ポンド
〔450g(約3合)〕、肉0.1ポンド、野菜、乳製品、調味料0.25ポンドは、捕虜が痩せた健康を維持するには充分なものだった。日本軍の供給部隊軍曹の無能や着服により、そうした基準が満たされなくなった時、その不足分は、 「塀の外側」 の住民との闇取引きで補充されていた(53)
 しかし、こうした英国捕虜の比較的な良好な条件も、東条が食うために働けとの命令を下して以降、急速に悪化していった。最初は、単に山下大将が、英国管理区域から芝地とゴルフ場を除去しただけだった。次に、彼は兵営の必要部分をフェンスで囲み、監視部隊と小要塞を導入した。そして1942年6月には、彼による裕仁へのオーストラリア侵攻の提案が不成功に終り、彼はついに、満州へと帰任させられてしまった。
 彼の後任者は、チャンギ―の捕虜全員に次のような文書への署名を要求した。 「私はここに署名をもって、いかなる状況にあっても脱走をこころみないことを、名誉にかけて誓約する」。英国の将校たちは、ハーグ条約を取り上げて、配下の隊員に署名を命じることを拒否した。9月2日、17,300名のもっとも気骨ある英国およびオーストラリアの捕虜が、広さ8エーカー
〔32,000m〕の戦前のセララング兵営広場に行進させられ、そこで、4名の同僚の捕虜が、シーク教徒の銃殺隊によって処刑されるのを目撃させられた。彼らは三ヶ月半前に脱走し、捕えられて処罰のため、戻されてきたばかりのところであった。処刑後、その17,300名の目撃者は、彼らの上官がその宣誓書に署名を命じるまで、気を付けの姿勢を取らされた。彼らは、周囲に機関銃がそなえられている中で、熱帯の太陽と月のもとで、三日間にわたり、その姿勢をとり続けた。彼らの中心部には、二個の水道栓があり、一日に三回、支給されるバケツ入りの米を食べるため、その姿勢を止めることが許された。彼らは、通常の三分の一の食糧配給がされると告げられた。三日目、英国将校たちは、 「強制されたもの」 であるがゆえ、いかなる責任感を持つこともなく、日本の宣誓書に署名してよい、と告げた。だがそれでも、彼らの大部分は、もう一日立ち続け、そして解散した。また、40ないし60名の清教徒精神を信じる者たちは、それでも立ち続け、日本の憲兵の拷問による最終的決着のため自分たちを連れ出せと主張した。
 その後、シンガポールの英国捕虜の管理は、新たに編成されたフィリピンの軍人捕虜収容所のそれに似通ったものとなっていった。



死の泰緬鉄道

 朝鮮で最初の連合軍捕虜の奴隷労働が行われ始めてまもなく、裕仁は、タイ・ビルマ間に鉄道を敷設する一般幕僚の計画を原則的に承認した(54)。日本の兵隊は、朝鮮の釜山から鉄道で、奉天、北京、漢口、広東、サイゴン、そしてバンコックへと輸送できた。しかし、バンコックのむこうは、40マイル〔64km〕先のタイの町バンポンで、その地上運送手段は、世界でも有数の最も深く病害虫の多いジャングルの壁でさえぎられていた。バンポンの西は、湿地、山地、渓谷が近接して続き、200マイル〔320㎞〕以上も、御しやすい森林地帯はなかった。そうしたジャングルの中では、様々な猿や原住民がおり、マラリアを媒介する蚊や他の霊長類への寄生虫の豊富な動物相を支えていた。単線の線路がそうした濃いジャングルの中を通っていた。それは、十年以上も前に、英国の測量隊によって開拓されたものだが、その後、英国とインドの森林保安隊の手に負えなくなり、放置されていた。
 こうした野生状態の反対側では、東ビルマの辺境の町タンプーチャットを始点に、西方のビルマの辺境まで伸びる、英・ビルマ鉄道が伸びていた。その先にはさらに200マイルの断絶があり、そこがもしつなげられたら、英・インド鉄道へと通じることとなった。そして、インドの西のラクダの町のさらに向こうは、さらなる障壁のバルキスタン地方があり、それ以降は、起伏をなす平原を良く整備された線路が走り、カレーで英仏海峡に通じていた。
 浦賀において、ペリー提督が披露した仔馬大の蒸気機関車に乗り、袴をたなびかせて、裕仁の大祖父の孝明天皇の宮廷人たちが自らのはしゃいでみせたのも無駄なことではなかった。日本の国内鉄道は、世界の筆頭に迫り、1941年までの日本のあらゆる征服はいずれも、満州や中国の鉄道の取得やその延長をもたらしていた。日本陸軍は蛇のように進攻し、駅から駅へと、その飢えを満たして行っていた。
 1942年3月のラングーン攻落の後、裕仁にとって、ビルマへの日本の探針を、さらにインドへの全面的な侵攻へと転化させる可能性が、しだいに魅力的なものとなっていた。6月のミッドウェイでの海軍の敗退と、オーストラリア侵攻の断念の決定は、ビルマでの陸軍の存在を極めて重要なものとさせていた。それ以外のどこにおいても、日本陸軍がその数量的利点を日本の成果に結びつけ、かつ、連合軍への確実な圧力となる場所はなかった。しかし、シンガポールとラングーン間の海路は、連合軍の潜水艦が牛耳っていた。しかも、バンコックとラングーン間のジャングルを抜ける道路による陸上輸送は、時間を要しかつ犠牲を伴うものであった。もし、ビルマの師団がインドを本気で狙おうとするなら、その背後で鉄道輸送による補給路を確保する必要があった。そこで、米軍がガダルカナルで水陸両面の攻勢をとると直ちに、裕仁は、放棄されたビルマ・タイ間の旧路線にそって、鉄道敷設の全面的努力を行うよう命令した。日本人技術者は、あらためてそれを測量し、掘削されるべき地質を調べ、建設される必要のある盛土や、橋脚と橋梁を見積もった。
 シンガポールより、およそ3千名のオーストラリア人捕虜が、新たな奴隷労働政策に基づいて調達され、マレー半島西岸にそってビルマの最南端部にある飛行場の修復にその夏をついやした。9月末の現在、彼らは、ビルマの鉄道の最南端の港、モールメインとイェに、むさくるしい船から降ろされていた。数日後の1942年10月1日、彼らの最初の一隊は、計画されるビルマ・タイ鉄道の北端のタンプーチャットに到着した。彼らのほとんどは、それまでの飛行場で働いてきた若者たちで、太陽の下での数ヶ月の重労働と良い食糧事情の結果、日焼けし、ひきしまり、頑丈であった。その彼らが、数ヶ月のうちに、その全員が、死ぬか、生きた屍同然になってしまおうとしていた。
(55)
 11月までに、そうしたオーストラリア人は、シンガポールのチャンギーからの弱々しい英国人や、ジャワからの暑く窮屈な船室での長い船旅の結果、すでに病気や飢餓状態となったオランダ人を迎えた。その年末までに、ほぼ1万人の捕虜が、この鉄道のビルマ側で、ジャングルを伐採し、膨大な量の土を肩にかついで運んで盛土し、また丘陵部はそれを掘削した。タイ側でも、既設線路の末端で、ほとんどが英国人のほぼ同数の捕虜が作業していた。
 タイ側では、もし比較が可能とすれば、より厳しい労働が必要だった。そこには、建設を要するもっとも長い延長があり、しかも、もっとも高い山地や、深い渓谷、そしてきわめてやっかいな湿地帯があった。しかし、いずれの側も、同じような幻滅と悲嘆にさらされた。彼らはシンガポールを出る時、 「シャングリラ」 に向かうとの幻想を描いていた。それは、もっと北の健康に適した気候をもった未知の土地で、国際赤十字の職員がその世話を監視するものとされていた。だが、彼らが遭遇したのは、すし詰めの貨車の空腹と暑さの地獄であり、さらに、工作部隊に属する朝鮮人下僕の監督下におかれた自分たちであった。こうした朝鮮人たちは、陸軍の軍服を着たものたちの中で、もっとも残忍かつ無知で、堕落しきった無骨者らであった。
 こうした朝鮮人看守に追いたてられて、はかられた捕虜たちは、ただちにジャングルの中を無理やりの行進にかり立てられた。あるものは20マイル
〔32㎞〕を、あるものは150マイル〔240㎞〕を歩かされた。そしてそうした行進の終わりで彼らが発見したものは、そのシャングリラとは、へんてつもないジャングルの開墾地で、そこに、日本軍兵士が建てた、若木造りでヤシの葉葺きの数棟の掘っ建て小屋があった。そうした宿営地が、計画されている路線上に、地理上の適性より計画上の必要間隔に基づき、点在していた。それゆえ、その多くは、あいにく湿地帯の真ん中に設置され、乾燥期でさえ、群がるマラリア蚊に悩まされた。
 道具といえば、斧とツルハシとシャベルのみで、雨季のさなか、捕虜たちは労働を開始した。掘削せねばならない所では、彼らの宿営地はみるみる泥沼と化した。日出から日没まで、彼らは土を掘り、木を伐採し、残土を運び、岩を砕いた。夜までに、彼らは洗濯をし、食事を作り、生き抜く努力をそそいだ。食糧は限られていたのに、最下等級でも最もビタミンを含んでいた乾燥米の袋は、コクゾウ虫と蛆虫がうようよわいていた。彼らのうちのほとんどが、すぐに 「湿性脚気」 にかかり、そのくるぶしや睾丸が気味悪く腫れ上がったり、あるいは、 「乾性脚気」 で、皮膚がかさかさとなり、ふけのように剥がれ落ちた。そして、ほとんど全員が、下痢による気力喪失と赤痢により、栄養失調となっていった。
 11月までに、誰も健康な者はいなくなり、自身の心理状態をまともに見れる者でさえ、自分が病的であると訴えようとはしなかった。 「病棟」 と呼ばれる雨漏りのするヤシ葺きの長屋は、便の悪臭と絶望で満たされ、気力を失くした者は寝たきりとなり、その誰もが死んだも同然だった。献身的な医者や看護兵は、寝る間も惜しんで働いたが、医薬品がなく、日本人の医療監督者はその供給をつねに拒んだ。水の沸騰、塩、そしてソーダのみが入手できる主要薬品で、熱帯性のおできや赤痢やマラリアにかかった者たちは、希望という、もうひとつの薬品が必要だった。それを、医師も看護兵もほどこすことができず、彼らは、食物、休養そして衛生さえあれ容易に治る軽度の症状の合併により、何千人もの若者が死亡してゆくのを見届けねばならなかった。
 1942年の雨季が終わる12月、配給と作業条件に一時的充足がみられ、それは約6週間つづいた。そして1943年2月、日本軍のガダルカナルからの撤退の後、裕仁は、その建設計画を、1943年12月完成を8月へと繰り上げことを承認した。シンガポール、スマトラ、そしてジャワのすべての身体を使える連合軍捕虜が、作業を促進するため、北へと移動させられた。6万人の捕虜がその作業に釘付けにされていたが、それでも工事の進みはあまりに遅く、日本人は、さらに27万名以上のマラヤ、ビルマ、タイ、そしてジャワ人の期間契約労働者を投入した。こうした徴用現地人の大群は、規律、指導者、医療者、通訳、そして、小学校程度の知識も欠いていた。その結果、彼らは悲惨な目にあうこととなり、その三分の一が死亡することとなった。
 長い工期を短縮する裕仁の要求は、捕虜の作業時間を8時間から12ないし16時間へと延長した。鉄道建設の最後の逆上した数ヶ月、病んだ白人人夫の列は、夜明けに宿営を出て、夜中2時まで戻ってこないのもまれではなかった。そうした夜間作業は電燈に照らされて行われたが、小型の手動発電機を回す者がくたびれたり、倒れて交代させられるたびに明滅を繰り返し、果てることのない悪夢を循環させていた。
 朝、作業者の群れが宿営を出払った時、日本の技術者たちは、朝鮮人看守を病棟長屋へ行かせ、残っている労力を駆り出させた。大きな宿営のひとつでは、弱って立つこともできない者たちを列をなして座らせ、材木を引きずる綱を引っ張らせた。倒れた者たちは死ぬまで放置されることが多く、時には、竹の棒や針金のむちで、死ぬまで打たれた。仮病をつかって、藪の中にじゃがみこんで休んだり、拾った煙草の吸殻を喫おうとした者は罰せられるのが常で、土か石の入ったバケツを頭上にかかげ、目を太陽に向けて一時間以上も立たされた。脱走しようとした者は、ジャングルの中で死ぬかこれ見よがしに捕えられて、見せしめのため、人々の面前で拷問され、殺された。あるものは絞首刑にされ、ある者はただ木に縛られ、渇きや、蟻に食われて死に至った。
 こうした嫌悪されるべき行為の実行には、日本人は残忍化した朝鮮人下僕や凶暴な下士官に大きく頼った。こうした地域の日本の正規軍はおおむね、捕虜の運命については、目をそらそうとしたり、それを和らげる散発的な努力をするのみだった。その一方、日本の鉄道技術者や医師――良識ある日本の民間人を代表しているはずだったが――は、積極的に捕虜を殺害することを奨励した。そうした技術者たちは、自分らの捕虜労働者に、道具や食料の改善を用意しないで、作業ノルマをそれに足るだけの労働者の数に求めた。医師たちは、さらに故意に非人間的で、病人を労働に耐えうると見なすのも日常的なことだった。彼らは、赤痢で脱水症状となった者を、炎天下の仕事につかせた。104度
〔摂氏43度〕の熱を出して朦朧としている者を、高い橋脚の上に行かせ、その多くがバランスを失い、峡谷の岩場に転落して死んだ# 7
 鉄道建設が、冷血な日本の知識人や、悲惨に加虐的な監督を必要とした時、そうした労働を生き抜くために、冷徹に機転のある捕虜や恐ろしく動物的な者をつくりだした。だが、1943年6月、さらに別の主人公がその惨劇に登場することとなった。それはコレラ菌で、強靭で抜け目のない捕虜であろうが、冷血で過酷な日本人であろうが、偏りなく彼らを犠牲にさせた。アジア・コレラの流行は、ビルマからのタミール徴用労働者の宿営から始まり、どの伝染病もそうであるように、見るみるうちに、連合軍捕虜や日本人看守宿舎にも広がった。鉄道建設の全ての作業は中止となった。日本人は白いガーゼのマスクをつけ、自分たちの小要塞の門を閉ざした。連合軍捕虜は、士官も兵卒も、絶望の内に掘建て小屋に閉じこもった。これまで、赤痢のアメーバやバクテリアも、マラリアの病原虫もはねのけてきた、彼らの内の強健な者らも、ひきつけを起こし、数時間のうちに、狼のように歯をむき出しにして死亡した。
 連合軍捕虜自身の医療班のみが、宿営から宿営へとまわり、知識を確信し、いくつかの単純な方法――水の煮沸、罹患者の隔離治療――のもとに、なんとかパニックに陥ることと全滅を避けようとした。日本人自身は、恐怖のうちに、日本へコレラの血清を空輸するよう求めた。だが、流行が鎮静する前に、英国人捕虜の宿営の多くは多数を失い、アジア人労働者の宿営の多くは全滅した。連合軍捕虜のグループは、感染の中心であるアジア人宿営に送られ、そこに、信じ難い死の光景を見た。死人で埋まった原っぱをネズミが食い荒らし、そこに、便所からあふれ出た汚水がおおっていた。焼却と石灰散布で、ジャングルに衛生状態が回復したが、その臭いと恐怖の記憶はその作業に当たった者たちが生きている限り、拭い去れないものとなった。
 1943年6月と7月の大流行の後も、コレラはその死の鉄道から撲滅されていなかった。しかし、その後のコレラの発生は、日本からの血清の投与と日本人の全面的な取り組みで直ちに鎮静化された。流行の後、痛ましいながら誇りを回復した連合軍捕虜は、より全面的に協力し、鉄道建設は11月に完成した。その完工後も、捕虜の一部は補修班として現地に残り、一年前、意図的に腐った材木や野菜を混ぜた盛土は、やがては空洞となることが分かっており、その改修にあたった。そうした補修班には、自分たちの仕事に愛着を抱き、戦争末期、英国軍機がその危なっかしげな橋を爆撃し始めた時、それを直そうとする者さえいた。
 ジャングルの建設宿営地は、1944年初以降、放棄された。生き残った捕虜はシンガポールのチャンギ収容所に戻り、地元の労働者たちは、ビルマやタイやマラヤの多くの村に帰っていった。
 この工事に要した犠牲は、戦争が終了して、ようやく判明することとなった。建設には33万1千人が動員され、そのうち、連合軍捕虜が6万1千名、現地人が、おおむね27万人であった。そうしたアジア人のうち、7万2千名から9万2千名――25から30パーセントの割合――が、工事が半分も完成しないうちに死亡した。6万1千人の連合軍捕虜のうちの20.6パーセントの12,568名が死んだ。そのうち、6,318名が英国人、2,815名がオーストラリア人、2,490名がオランダ人、356名がアメリカ人、そして589名は国籍が最後まで判明しなかった。これらの生命を人柱として、この250マイル
〔400㎞〕の鉄道は敷設されたが、戦後は放置され、自然へと戻って行った(56)。彼らは、総延長9マイル〔15.4㎞〕の橋梁と、1億5千万立方メートルの土を運び、この土量は、死亡者各一人につき、15の立派な墓穴を掘った勘定となる。アジア人労働者と合わせて、完成した鉄道の13フィート〔4m〕に一人の死人を要したこととなる。もし日本がその優れた管理能力を傾けていたとすれば、こうした愚かな生命の犠牲は避けられ、同事業は、もっと早期に、安く、そして永続するものとし完成したにちがいない。だがそれが、大本営によって扱われた時、その事業は一つの特異な意味をもつにすぎなかった。すなわち、東条首相や他の日本政府の責任ある高官に正当化を与える、捕虜を殺すための方法であった。


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