「両生空間」 もくじへ
HPへ戻る
巻末脚注(16)
(2013年7月7日現在)
(第七部 世界終末戦争)
第二十八章 崩壊する帝国
(1) 本章においては、脚注した出典や参考文献以外に、以下の諸文献をその背景資料として用いた。
A. G. Allbury, Bamboo and Bushido (London: Robert Hale, 1955), ビルマ・タイ鉄道工事についての、直接体験談。
Benedict R. O'R. Anderson, "Japan the Light of Asia" (Ph.D.
dissertation, Yale University, 1964), インドネシアにおける日本の政治。
Corey Ford, Short Cut to Tokyo: The Battle for the Aleutians (New York: Charles Scribner's Sons, 1943)。
Frank Foster, Comrades in Bondage (London: Skeffington and Son, Ltd., n. d. 〔1946〕, ジャワとビルマ・タイ鉄道の陥落。
Ernest Gordon, Through the Valley of the Kwai (New York: Harper and Brothers, 1962)。
Agnes Newton Keith, Three Came Home (Boston: Little, Brown & Col, 1947)。
K. P. MacKenzie, Operation Rangoon Jail (London: Christopher Johnson Ltd., 1954), ビルマの日本の収容所。
William H. McDougall, Jr., By Eastern Windows: The Story of a Battle of Souls and MInds in the Prison Camps of Sumatra (London: Arthur Barker Ltd.., 1951)。
中村あけと、 『仏の司令官:中隊回想録』 (東京、日本しゅうほう社、1958年)、
Reconquest: An Official Record of the Australian Army's Success in the
Offensive against [New Guinea] September 1943-June 1944 (Director General of Public Relations, Under Authorityof Sir Thomas Blamey,
C-in-C, Australian Military Forces)。
Alfled A. Weinstein, Barbed-Wire Surgeon (New York: Macmillan Co., 1948),
Camp O'Donnell and Cabanatuan のある医師の努力。
Desmond Wettem, The Lonely Battle (London: W. H. Allen & Co., 1960),
上海に潜伏し、4年間にわたって捕虜となるのを逃れた英国海軍ペトレル乗員の冒険。
(2) 山本えいすけによる、1943年6月5日付(無関係だが、山本五十六の葬儀の日)の手紙。木戸 『関係文書』、596-97、 「日本は大力士の横綱と戦う小細工のきる小柄力士だ。よくある技の展開を待つのではなく、小力士は攻めて力士を土俵から押し出す・・・しかし、横綱は土俵際で持ちこたえ、足を据えて、ゆっくりと前進を始める」
。
(3) 木戸 『日記』、967-68。
(4) 同書。
(5) 第2章の 「日本のジレンマ」 の節の脚注(22)を参照。
(6) 木戸 『日記』、934。
(7) 同書、941。
(8) 同書、942-43。
(9) 同書、951。西園寺公一の尋問については、Johnson, 199、Deakin and Storry, 292。戦後、西園寺は共産中国への非公式の日本大使となった。1969年に日本に帰国した時、彼は北京と西洋諸国の橋渡し役として活動することを始めた。彼は、1971年、公けに中国に友好訪問を行った米国卓球チームを迎えた中国卓球チームの写真に目だって写っている。さらに、ある日本人外交官は筆者に、西園寺は、卓球親善回復を勧めた北京・ワシントン交渉の仲介者として主導的役目を果たしたと語った。一度スパイとのレッテルを張られたが、西園寺公一は、遂に、国際的仲介者としての彼の真価を発揮している。
(10) 木戸 『日記』、951。
(11) 同書、967-68。
(12) Morrison, 4: 283-91。
(13) 高橋ちかや、Statements、4:283-91。杉山、2: まえがき、15 で、そのニュースは 「寝耳に水」 だったと表現している。
(14) Morrison, 4: 292。
(15) Sakai Saburo, 218-34。
(16) Raymond F. Toliver and Trevor J. Constable, Fighter Aces (New York: The Mcmillian Co., 1965), 338, 343, 345。
(17) Morrison, 5: 17-64、Collier, 278-86。。
(18) Morrison, 5: 17-64 が基本的な出所。多くの詳細は、Griffith より。
(19) 木戸 『日記』、979。
(20) 同書、980-81。
(21) 同書、982。
(22) Morrison, 5: 111-13。
(23) ガダルカナル戦へのこれおよび続く天皇の介入については、Translations, 3, No. 3, "Truth of the Guadalcanal Battle."。
(24) Morrison, 5: 111-13。
(25) Griffith 121。
(26) 木戸 『日記』、983-84。
(27) Morrison, 5: 130-38。
(28) Griffith 130。
(29) Griffith 168-73。
(30) 木戸 『日記』、989-91。
(31) Griffith 188。
(32) Morrison, 3: 225-82。
(33) Hashimoto、891、木戸 『日記』、994-95。
(34) .木戸 『日記』、995、 朝日新聞(東京版)、1942年11月18日。
(35) Morrison, 5: 296-315、Griffith 217-21。
(36) Hashimoto、62-63。
(37) 木戸 『日記』、998 (1942年12月6日)。節子とのやりとりは、同書の1942年4月17日、7月11日、8月29日、9月18−21、23日、11月10、13、16,17,19日を見よ。
(38) 同書、999。
(39) 杉山、2: 191。
(40) 木戸 『日記』、999-1000。神社とその儀式の詳細については、Enthronment, 71-74
(41) 杉山、2: まえがき 18。
(42) Griffith 宮崎大将の引用。
(43) 木戸 『日記』、の1943年と1944年の記述をもとにした著者の分析。たとえば、1943年はじめの、2月4日及び23日を見よ。また、小泉や大半の貴族たちとのインタビューも基礎となっている。
(44) IMTFE "Proceedings". 15033- に、マリアナ諸島でのいくつかの事例がある,。
(45) 同書、14901。
(46) IPS Document、No. 814 は、捕虜収容所設立に関する帝国布告第1182号と、捕虜情報局に関する同第1246号の抜粋を収めている。IPS Document、No. 1303 は、捕虜の遺体の分類目録についての全ての帝国布告を収めている。それは、下院議会図書館のマイクロフィルムの WT1-WT5
リール(Analyses of IPS Document Nos. 1-4097) にはいっているが、原本は入手できない。IPS Document、No. 857 は、田村ひろし大将が捕虜情報局長の時の付随的なノートを含んでいる。一般的に、米国の捕虜の書類は1945年に目録化された。ヴァージニア州アレキサンドリアの戦争文書センターの同情的な図書館員は、私の家族が日本の捕虜であった時の米国政府の書類を読んでくれたが、それは多量にわたっていた。
(47) IMTFE "Proceedings". 14285- に田中隆吉の証言。陸軍省の会議の日程については、同書、14379、 「働かざる者食うべからず」
の標語については、1942年6月5日付の、捕虜管理局長から台湾占領軍職員あての電報が同書、14361に。上村の反対は、同書、14374 に田中が強調している。
(48) 同書、14970-。
(49) IPS Document、No. 975。James Bertram, in Beneath the Shadow (New York: John Day Co., 1947), 138-44 は、彼が大森収容所の捕虜だった時、彼をトーキョー・ローズの職員に加えようと説得した試みを書いている。彼はそこの守衛詰所で、陸軍報道課の文化計画係長によって尋問された。この人物は、オックスフォード時代の知人で、皇太后節子の最年長の従弟の池田侯爵である。
(50) IMTFE "Proceedings". 14424。
(51) 同書、14427。
(52) 同書、14518-。
(53) Wigmore, 522-231。
(54) IMTFE "Proceedings". 14633 の若松ただかずの宣誓書は、 「南方陸軍が要求し、大本営は、鉄道を1943年の前半に建設することを決定した」
と述べている。
(55) 捕虜の扱いや状態についての詳細は、Wigmore, 541-92 より。
(56) 同書、588。
(57) Davis、16-17。
(58) Caidin, Zero Fighter, 140。
(59) Morrison, 5: 41-50。
(60) 杉山、2: まえがき 19。
(61) Morrison, 5: 54-65。
(62) 杉山、2: まえがき 19-20。
(63) Morrison, 5: 118-25。
(64) 傍受文は Davis、6-7。阿川, 309。
(65) Davis、103。
(66) 同書、105-6。
(67) 同書、5-8。Morrison, 6: 128-9 はニミッツの役割について、簡潔な見解を述べている。
(68) Davis、9-11。
(69) 同書、15, 19-20。
(70) Potter, Yamamoto, 303-4、作戦準備については、Davis、116-42。
(71) 同書、142-53, 160-70, 175-76。
(72) 木戸 『日記』、1029。
(73) 阿川, 325-27。
(74) Davis、147, 199 より改作。私は最初は原作に忠実に訳し、次にそれをいくらか濃縮した。
(75) 木戸 『日記』、1047。
(76) 同書、1030。
(77) 辻, 『ガダルカナル』 , 随所。
(78) 木戸 『日記』、1005-09。
(79) 同書、1010, 1018。
(80) 同書、1056 (1943年9月22−23日付)、Shigemitsu, 287-90。
(81) McAleavy、243-46。
(82) 木戸 『日記』、1029。
(83) 同書、1025。
(84) 同書、1028。
(85) 同書、1029。
(86) 同書、1030。
(87) 杉山、2: 409。
(88) 特記ない限り、この節は、Morrison, 7: 41-50, および Haward Handleman, Bridge to Victory: Story of the Reconquest of the Aleutians (New York: Random House, 1954) に基づく。。
(89) 杉山、2: まえがき33-34。
(90) 木戸 『日記』、1032、また、1043 参照。
(92) 杉山、2: まえがき 20-21。
(93) 同書、21-22。
(94) 木戸 『日記』、1041-42。
(95) 同書1037-38、退役海軍司令官とのインタビュー。
(96) 佐藤. 「東条英機と大東亜戦争」 390-。東条への裕仁の怒った話については、杉山、2: まえがき 23-24。
(97) 佐藤. 「東条英機と大東亜戦争」 390-。
(99) Kase, 75-76、 Butow、26, n. 52。
(100) 木戸 『日記』 1043。
(101) 同書、1044。
(102) 杉山、2: まえがき 24-26。
(103) 同書。
(104) 私への情報提供者の中でのもっとも貴族的な人物による最も率直な話のひとつ。また、第2章の脚注(22) を参照。
(105) 木戸 『日記』 1046。
(106) 同書、1051。
(107) 同書、1051-52。藤沢中将とのインタビュー。
(108) 木戸 『日記』 1052 (1943年9月10日付)。
(109) 同書、1055-56。また 1053 (1943年9月17日付)も参照。汪との会見のの裕仁の木戸への話については 1056。
(110) 同書、1057。
(111) 同書。
(112) 同書、1075。
(113) 同書、1060。
(114) 同書、1061-62。
(115) 同書、1064 (1943年10月21日付)。
(116) Yanaga Since Perry, 613。
(117) 木戸 『日記』 1067。
(118) 木戸 『日記』 1064、1066-67、Shigemitsu, 293-94、毎日新聞、朝日新聞、昭南新聞の各記事。占領国の代表に火鉢が無かったことは、田中とのインタビュー。
(119) 木戸 『日記』 1067。
(120) 木戸 『日記』 1070、退役海軍司令官とのインタビュー、Butow, Japan's Decision, 20-21, 26-27。
(121) 木戸 『日記』 1070-72。
(122) 同書、1073。
(123) 同書、1075, 1075-78。
(124) 同書、1078-79
「両生空間」 もくじへ
HPへ戻る
Copyright(C) 2013 Hajime Matsuzaki All rights are reserced この文書、画像の無断使用は厳禁いたします