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カウラの悲劇

カナナラ

下の写真をご覧ください。墓標にある没年月日がどれも、1944年8月5日となっています。

  


終戦まであと一年と十日のこの日、オーストラリアNSW州の内陸、シドニーより西へ約250キロのカウラ (Cowra) にあった戦争捕虜収容所で、日本人捕虜数百人が集団脱走をはかり、そのうちの170名が自決しました。この墓標は、その死亡者たちのうちのお二人のものです。

捕虜の扱いを定めたジュネーブ協定条項を、理解も、おそらく教えられてもいなかった日本人捕虜たちは、軍紀の通り、生きて捕虜となったことを恥じ、捕虜の移動を告げられた(収容者の増加で、他の施設への移動計画があった)ことを契機に脱走を計画、この日未明、集団脱走をはかり、合計200名以上が死亡(4名のオーストラリア兵士も巻き添えとなった)したものです。

日本人捕虜たちは、捕虜となった恥辱から、その実名すら隠して互いに偽名をつかっていたほか、その生存すら恥じ、郷里にその恥辱が及ばぬよう、同収容所のイタリア人捕虜たちらは祖国に手紙を出していたのに、それすらひかえていたといいます。たとえそれが日本文化の一縷であり、戦没者全体から見れば微々たる数であったとしても、取り返しのつかない、徒じな損失を作り出した「事件」でありました。

この収容所は現在、残された土台跡にその形跡が確かめられるのみで、周囲の見渡す限りの広大な農園地帯の一角に、その在りし日の痕跡を無言のうちに残しています(写真下)。



この収容所跡の近くに、この脱走事件でなくなった日本人をはじめ、オーストラリア国土内で死亡した戦没日本人の遺骨をあつめた日本人墓地(写真下)があります。

墓地をおとずれると、終戦をま近かにしていたばかりでなく、二十歳に満たない若者や、朝鮮人や中国人らしい名前も確認でき、半世紀以上の昔の出来事とは言え、戦争の痛ましさを改めて思い起こされる場所となっています。

        

  日本人墓地の入り口。訪れた早秋の現地は、うっすらと紅葉が始まっていました。

(2007.4.10) 

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