ポピュリズムは、飼い主に噛みつく
(By Robert Manne, The Sydney Morning Herald, 2004.2.23, 翻訳・脚注 松崎 元)
(以下の翻訳記事は、ちょっと立ち入った内容ですが、現在進行中のオーストラリアの政治事情がよくとらえられた記事ですので、掲載します。)
過去二週間で、オーストラリア政治の奇異な一季節が終わり、予断は許さないものの、新たな季節が始まろうとしている。つまり、ジョン・ハワード現首相の再選が確実視されていた見通しが、突如に、しかも予想外に、崩れ去ってしまったのである。
この政治的新季節は、国会審議の最初の週において、余りに破格な国会議員への終身年金の改定を野党リーダーのマーク・レイサムが提唱し、これをハワード首相が認めさせられることで始まった。
つづく第二週では、眠っていたも同然だった与党陣笠議員の執拗な反抗により、不面目にも、ハワード首相は、退役軍人年金について、政府案よりいっそう好条件の支給を認めるはめとなった。
こうして終息した旧季節は、タンパ号事件と保護を求める難民問題を解決するため、武力の行使を決定したハワード政府の決断にもとを発した。この決断は、ハワード首相による、(当時の労働党指導者)キム・ビーズリーと(ワン・ネーション党の)ポーリン・ハンソンに対する、政治的法皇の一撃とも表現すべき攻勢であった。
ワン・ネーション党は、この打撃から二度と回復することなく、また、労働党も以後二年半にわたる混迷の時期をさ迷わされる結果となった。
こうした政治的起伏は、タンパ事件を契機に、ハワード首相は、あたかもオーストラリアの政治に魔法をかけることに成功したかのようであり、これに対し、労働党のレイサムの議員年金の提起による目覚しい成功は、あたかも、国民をその長い眠りから覚醒させたかのような顛末であった。
こうした急激な変わりようは、どのように説明できるのであろうか。
シェークスビアの「マクベス」に、政治に関する以下のようなくだりがある。
「われわれが授けたとんでもないご託宣は、習い性となり、やがて疫病と化して再来する」。
すなわち、シェークスピアの云わんとしていることは、政治の世界においては頻繁に、与えたことが、結局は自らにしっぺ返しとなるということだ。
【写真 左のハワード現首相と右のレイサム野党リーダー(記事添付の風刺漫画)】
タンパ号事件の際、ビーズリーはハワードに、強い支持を一貫して与えていたと言ってよい。ビーズリーは、前例のない全面的力を政府にあたえる当初の国境警備法案に反対したのみにすぎない。
ハワードは、難民を乗せた船に対する海軍力の行使に、世論がほぼ本能的な熱意を示すだろうことを知っていた。また首相は、この法案に対するビーズリーの原則的反対の程度も知りぬいていた。だからそれ以来、2001年の選挙敗北に至るまで、ビーズリー労働党は、国境警備については「腰くだけ」と繰り返し見られたのだった。これは、おそらく、オーストラリアが初めて経験した、ポピュリスト政治におけるもっとも容赦なく効果的な政策行使であった。
この二週間、あまり重要性の高くない問題に関して、ハワードに向けてレイサムは、ポピュリズムの剣を振りかざした。その連邦議員の年金問題は、重要性においては十番目に位置するものにすぎない。だが、おおくの人々は、自身をめぐるお金の問題に次第に不安になってきていたため、政治的怒りをよりたき付けられやすい状況となっていた。
ビーズリーは、初期的抵抗ののち、ハワード政府の国境警備法をそっくり飲まされることとなり、加えて、国会議員年金制度の改定を支持することも強いられることとなった。
その後の記者会見で、ハワード首相は、この改定が必要であることを強調するふりすら見せなかった。彼が説明するように、もし、あるポピュリストのボタンが政治の片方で押されるようなことがあると、他方はそれへの対案がないばかりか、合流することにすらなる。これはまさしく、2001年9月のタンパ号事件後の降伏の期間、労働党の影の内閣が内密に語っていたことである。
だがこの二週間は、潜在的には長期的な重要性をもつものであった。それが示唆するものは、ポピュリスト間の競争原理がもたらす、政党政治の新しい季節がはじまったことである。
ポピュリズムは、1996年3月のポーリン・ハンソンの選出によって今日の政治にもたらされた。彼女が取り上げたことは、二大政党による超党派的な民族的、経済的政策により、社会の片隅に追いやられた人々の利益を代弁することと、世界にはばたく抜け目のないエリートたちがもつ反オーストラリア的な態度であった。
自由・国民連合にとっては、労働党より、ハンソンのほうが手ごわい脅威であった。だがハワードはその脅威に対し、マーボ論争、多文化主義、共和制、(アボリジニーとの)和解、そして難民などの問題に懸念をいだく、保守主義とポピュリスト文化のもつ反発力を駆使してこれに応えた。
ハワードは、この政治的運動を、ほぼ毎日、ラジオ放送に出ることをつうじて人々に直接に訴えかけた。また、彼の政策が裁判所で問題とされている場合には、彼の大臣たちが、ポピュリズムの言い古された論理を駆使し、選挙の洗礼を受けていない裁判官らが国民の不満をこしらえていると裁判官らを攻撃した。
ハワードはまた、ハンソンの主張を借りて、オーストラリアの国益が、「エリート」とみなされる左翼の批判者たちによって裏切られているとも主張した。
レイサムは、ハワードの新ポピュリズム時代への挑戦を行いうる労働党指導者となるべく、すでに自分自身を打ち出している。ハワードのように、彼は、国民との直接で活力に富むつながりを作りうる人物である。彼は、ハワードのように、自分の政敵を危うくさせることの出来るポピュリスト的論点を取り上げうる能力をもっている。
だが、レイサムのポピュリズムは、その内容とスタイルにおいて区別しうる。
ハワードは、保守的ポピュリストで、国の分散の危機や、民族性の問題に焦点をあてた。
レイサムは、社会民主的ポピュリストのように見受けられ、当然に、特権の乱用や過度の富などに対する労働党の伝統的な敵対意識や、銀行、富裕層そして議会の計略などに焦点を定めている。
少なくとも、これらは、保守あるいは社会民主的という、ポピュリズムの二つの異なったスタイルである。
ことしの選挙は、これらをめぐって戦われることになる公算が高い。
脚注
ポピュリズム 「大衆迎合主義」とも訳されたりしますが、政治家が理念をすてて、有権者の願望にすりよる政策、政治姿勢。語源の「人民党」の政策とは別の意味。( 戻る)
タンパ号事件 前回総選挙を年末にひかえた2001年8月、オーストラリアへの上陸をめざし430人の難民を乗せて公海を航行していた船が難破、それを航行中のノルウェー船のタンパ号が発見して救助、オーストラリア海域への航行許可をオーストラリア政府に求めた。これにオーストラリア政府が拒否した事件。この事件をきっかけに、オーストラリア国民に難民排除の機運が急速に高まり、ハワード政権の選挙勝利にもつながった。一方、タンパ号の船長は後に、ノルウェー国王から英雄として表彰された。(戻る)
マーボ論争 1992年に連邦最高裁が出したマーボ事件につての判決が、オーストラリアの先住民(アボリジニー)の先住権を認めたことに発する賛否論争。(戻る )
共和制 憲法上、オーストラリアは英国君主をその頂上にすえた立憲君主国という形式を残しており、植民地時代の形跡となっている。この規定を改め、自らを共和国にしようとする論争。(戻る )
政治・経済 もくじへ
HPへ戻る