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    ブーメラン現象



 人間にとって、言葉は、人間を人間とする決定的要素であり、人間から言葉をとってしまえば、ただの二足歩行の動物にすぎなくなります。しかし、その言葉ほど、人間をおとしめるに足る (時として動物以下にする) 恐ろしいものはありません。
 ここに、ひと組のご夫婦がいたとします。新婚のころ、お二人はあつあつで、心底から湧いてくる思いがあり、 「愛してるよ」 との言葉が、一日の内にも幾度も交わされました。やがて歳月をへて、相変わらず 「愛してるよ」 の言葉は繰り返されてはいましたが、ある晩、一緒に飲んでいた友人のひとりが、その夫が妻に携帯で、 「愛してるよ」 と言っているのを脇で聞きながら、その数日後、二人が離婚を決めたとの話を聞くこととなります。
 「愛してるよ」 との言葉が、当初は十分たる内実を指していたのですが、しだいにその内実が消えうせ、ついには何も指さなく (あるいは、偽りの意味すらもつように) なっているにもかかわらず、言葉のみが生き残っていた例です。
 
 禅で、「月をさす指」 という言い方がよく出てきます。つまり、「月」 と言って月を指さす場合、「指が月だと思う誤り」 を指摘しようとする、人が陥りやすい誤りを諭す言い方です。上の例で言えば、「指」 とは 「愛してるよ」 の言葉であり、「月」 とは 「心底から湧いてくる思い」 です。
 こうした 「指すもの」 と 「指されるもの」 との関係は、人間社会には無数に存在しており、そもそも、あらゆるものに名前を付ける 「指すもの」 と 「指されるもの」 との関係こそ、人間の言語活動の原初です。しかも現代社会にあっては、その関係は高度に発達し組織化され、とにもかくにも錯雑、緻密です。そこでその関係を最も厳格に規定しようというのが契約書です。他方、その、「指されるもの」 が何もない (あるいは全く別物である) のを承知で行う行為が 「うそつき」 です。 (これは遊びですが、月でないものを平気で月というのが “嘘月” )。つまり、契約書も法律も、文書化されたあらゆるものは、こうした食い違い関係を防止するための人間の知恵の (少々無駄っぽい) 産物といえます。
 ちなみに、日本では、テレビなどで、コマーシャルのことをよく 「お知らせ」 と言い換えますが、これも嘘月っぽい言い方で、また、コマーシャル自体が、これまた、その実物の商品をできる限り過大に印象付けようとする、限りなく嘘月に近い、見せ掛けの帝国です。
 
 人にとって、真実なものはなかなか複雑、微妙で、ちょっと一言では言い表せないものですが、日常生活では、それを何かのもので置き換えないと不便ですから、便宜上、その 《代用物》 が使われることとなります。ここでは、人間にとって、その代用物の典型が言葉であると述べているのですが、もうひとつ、現代社会で、それに優るとも劣らないものが、お金、マネーです。この代用物は、とにかく数値ですから、言葉とちがって足し算もできれば掛け算もでき、まして置き場所次第では利子までつくという生き物にさえ変貌しますから、その便利さと言えば言葉の比ではありません。それほど汎用されているがゆえに、お金にまつわる嘘月な話についてはその例に事欠かず、また、そのお金にまつわる掛け引きの場、つまり嘘月ゲームのテーマパークが、今日、 「市場」 と呼ばれているものです。
 これはもちろん私見です。ですが、この世の仕組みは、この 「指が月だ」 と思える錯誤を意図的にしのび込ませたシステムで、しかも、その正誤の判定に公は背を向け、私力のみにゆだねることを、「自己責任」 と名付けるようになっています。当然、そうした私力 (金力、地位力、政治力、知力、暴力、などなど) のないものが、そうした嘘月をつかまされて転落させられるわけで、時間すらも彼らにとっては敵となってしまいます。
 禅が、「不立文字」 のモットーを構え、「言葉に頼るな」 と強く訴えるのも、人間やその社会の本質をついたものだと思いますし、畢竟、禅とは、人にそれを訓練することに、その使命の根幹をおいていると思います。(現代の禅では 「不立マネー」 は必至のモットーでしょう。)

 そこでですが、これまでに度々、鈴木大拙の禅に関する著作を引き合いに出させてもらっているのですが、私が読んだものに関する限り、すべて日本語への翻訳ものでした。つまりそれらは最初 (1940年代末から50年代末にかけて、つまり日本がもっとも貧しく、でもすっからかんに明るかった時)、英文で書かれて英米で出版されたもので、禅という、ある意味で深く日本的な文化 (少なくともアジア的文化) についての著作が、このように、ブーメラン現象をおこして私の手元にある、そういう特異な軌道を描いてきている著作です。
 前回の 「朝顔や ・・・」 でも、 『禅』 のひと章 「実存主義 ・ 実用主義と禅」 から引用したのですが、実は、そうした引用をしながら、たとえば、俳句といった極めて日本的であるはずの世界が、英文ではどう表現されているのか気になっていました。そうした折、この和訳本 『禅』 の全部で七章のうち、五つの章の英語原文を掲載した本――ZEN BUDDHISM: Selected writings of D. T. SUZUKI (Three Lwaves Press, Doubleday New York, 2006)――をみつけ、さっそく入手しました。
 そうしてこの本に接し始めたのですが、これまた、非常に興味深い発見をしています。
 今回は、そのまずはじめに、この本の冒頭に置かれた、ウィリアム・バレットというアメリカ人哲学者がこの本の西洋人にとっての意味を解説したイントロについてです。
 それを読んでみて、私は二重の発見をしました。
 ひとつは、ごく順当に、西洋人に禅の世界を紹介しているその筆者のねらいにそったもので、その西洋向けの解説は、それこそ、西洋的つまり分析的で、そういう角度からの判りやすさをもっています。改めて、禅とは何か、ひるがえって、私たちとは何か、を考える良き助けとなります。
 もうひとつは、そこで筆者が、西洋人とはこういうものだと、そちらの世界ではある意味で常識的な認識に立って、そうした方角から見解を延べてくれている点です。つまり、非−西洋人にとっては、その文章を逆探知するように読むことによって、西洋とは何であり、そういう考え方をするものなのかと、西洋を知る確かな手がかりとすることができます。
 このイントロは、本の “奥付” によると、1956年に書かれたもののようで、いくつかの箇所で、この半世紀のずれを感じます。しかしそれでも、上記の二重の価値はいささかも減ぜられてはいません (ですからかえって先見的ですらあり、それゆえ、昨年の再出版でも再録されています)。たとえば、私の世代の人が、最先端の教養として接してきたこの一,、二世紀ほどの欧米つまり西洋での諸学の発展について、私などは、それが何を意味していたのか、結局、木を見て森を見ずでよく判ってはいなかったのですが、それが鳥瞰的に、あるいは巨視的に、明晰に述べられており、そういうことだったのかと、視界を一新させてくれます。
 そして最終的には、このアメリカ人哲学者は、西洋人のその心中は、なんだかんだ言ってみても、もはや 「裸の王様」 同然なんだと言っており (もう、その当時で)、今日の西洋、ことにその覇者たるべきアメリカのなす奇怪さの根源が類推できるように、私には思われます。
 こうして、このブーメラン現象を逆探知して知ることのできる西洋の “正体” ですが、それが、私たち日本人を勇気づける効果をもたらすものであるのは確かです。しかし、そうであったとしても、その日本にも西洋は、すでにすでに、能・受動の両面で、根深く取り入れられており (たとえば、本講座 第14回(両生歴史学) 歴史ごころ 
参照)、私自身も含め、「目くそ鼻くそをわらう」 の愚に陥らず、「人の振り見て我が振り直す」 余地は、数限りなくあります。

 そういう、実に興味深い二重の効用をもつこのイントロですが、それを何とか訳してみましたので、是非ご一読ください (英語となった禅問答の含みを、再び日本語に訳し戻すのは、ほんとに難しかった)。

 それでは、その翻訳部へどうぞ。
 
 (松崎 元、2007年6月12日)

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