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両生学講座 第13回(両生歴史学)
 



     
「夜明け前」から「千年能」へ


 のっけから、いきなりの結論ですが、歴史学の真髄とは、「歴史」がいかにごまかしに満ち、嘘で塗り固められているか、を知ることであると思います。
 そうした思いを共有する手ずるとして、いま、『夜明け前』を読みながら、著者の島崎藤村と出会っています。と言っても、まだ、前半分である「一部」を読み終えた段階なのですが。

 これは余談で、また、恥ずかしい話でもあるのですが、私は、藤村の代表作ともいうべきこの作品を、この60になるまで、読んだことがありませんでした。ひょっとすると若いころ、とっかかったことくらいはあるかもしれませんが、内容についての記憶は全くありません。
 また、これは余談どころではなく、ひとつの運命的なめぐり合わせ、とも言っていいかと思いますが、いま私が読み進めている、私の手元にあるこの本は、新潮文庫のもので、一部、二部がそれぞれ上下に分かれた全四冊です。奥付を見ると、昭和56年12月15日発行の50刷とあります。昭和56年つまり1981年は、私の渡豪の3年前で、実は、この本は、先に書きました「星友良夫」氏から借り受けて、いま、ここにこうしてあるものです。氏によれば、83年ころ、ソウルに開店した大きな本屋の日本語書籍コーナーで、将来読むことになるだろうとの予感のする本のひとつとして買い求め、それを、オーストラリア移住の際の荷物にしたため持参し、現在、氏の書棚にあったものということです。
 読書家にとって、本の一冊々々は、出会いに値するといっていいものですが、それは作品がそうあるのであって、本そのものは、初版ものの収集家などといった場合ではない限り、本屋や図書館でいくらでも代用のきく、単なる物体にすぎません。しかし今回は、その物体としての本についても、こうして、いわくつきのものであるわけで、私にとっては、二重の意味での貴重な出会いとなっています。
 考えても見てください。この一組の本は、1981年、日本で印刷、出版され、いったん韓国へ輸出され、その韓国の、日本に関心の高いある読書家の目にとまって購入され、それがその人の移住(その際、たいがいのものは、余分な荷物として捨てられてしまうのが常)とともに、はるばるオーストラリアにまで渡ってきて、そして、出版から二十年以上も経て、いま、こうして私の手元にあるのです。その途中で、この奇異なルートが中断される機会は、いくらでもあったはずです。まさに奇遇で運命的です。そうした意味で、物体としての本ばかりでなく、この作品自体との出会いも、ただの出会いではないような予感を漂わせるものとなっています。

 私が『夜明け前』に目をつけることとなったのは、それが、幕末から明治維新期を生きたある男の物語であるからです。具体的には、藤村の父親をモデルとした、木曽馬籠の本陣宿をあずかり、また、村の庄屋でもある、半蔵と呼ばれる男の悲劇的な物語です。
 読者もすでにご存知のように、私は、日本のこの時期の歴史に、ことさらな関心を寄せています。すなわち、昭和期になってから発生する、司馬遼太郎のいう「鬼胎」が、なぜ、どのように生じたのか、その起因を探るなかに、幕末期、多くの「尊皇攘夷」派の志士たちが、いつのまにやら「開国派」に変貌してしまった、その逆転に、あるいは、それが「逆転」と見える自分の知識に、なんとも腑に落ちないものを感ずるからです。
 私は、この作品に接するまで、藤村は、故郷を舞台とした作品にこだわるノスタルジックで懐古的な作家ではないのかと誤解し、それが藤村の作品を遠ざけていた主な理由でした。しかし、上記のような、二重の運命的出会いを経ながらこの作品(小説とされています)を読み進めるうちに、藤村が、ノスタルジックであるどころか、非常に実証的で、空想と偶然に引きずられた通常の小説スタイルなどとは程遠く、ひとつの歴史記録、あるいは、歴史証言と呼んでもよい姿勢をもってこの長編作品を書いていることがだんだん判ってきました。
 また、この作品は、『中央公論』の昭和4年4月号から同10年10月号までに掲載(年四回づつ)されたもので(私はもっと古いものかと勘違いしていたのですが)、完成は、著者の数え年で64歳の時であったといいます。つまり、この作品が書かれたのは、いまの私の年恰好の時です。また、この作品は、完成されたものとしては、彼の最後の作品です。その時代、つまり昭和一桁の時期とは、まさしく、その「鬼胎」が跋扈しはじめた時です。
 私のこの作品の読み進みはまだ未完ですが、主人公の悲劇的人生が、日本のその後の移り行きを予言するばかりでなく、藤村が、小説家である前に、れっきとした「歴史家」であったのではないかと判断するに充分なものを感じ始めています。


 ところで、歴史学における学問的考察として、小説をその資料としてとりあげることが邪道であることは承知の上で、あえてその禁制をおかそうと思います。それどころか、そうした形式的議論に終始すること自体が、もう学問としての末期的症状を示している証拠と考えています。要は、形式ではなく内容です。何を見出せるかです。すなわち、いかなる形式で表現されていようと、そこに学問的論拠を見出せるかどうかの視力にあります。歴史家としての透視眼です。
 そういうすぐれた透視眼の持ち主として、藤村とはまたがらっと題材のことなる作家として、私はここに、石牟礼道子をとりあげたいと思います。
 ただ、これも恥ずかしい話なのですが、私は、彼女の作品については、その代表作である『苦海浄土』すらも読んだことがありません。知っているのは、あちらこちらでつかんだ解説的断片だけなのですが、それでも、以下のことは言えます。
 冒頭に書いたように、歴史学の真髄は、ごまかしを教えられ信じさせられ、それを生きさせられてきたことへの断念しきれない思いに立脚します。そういう、時間軸にそった、縦系列の偽知識体系への切り込みです。
 言うまでもなく、石牟礼道子の取り組む対象は、水俣病に苦しむ人々、そして、その汚染排水により殺された生き物たちです。
 また引きで恐縮ですが、彼女は、『週刊金曜日』の創刊準備号に、日本語の「考える」という言葉を、アイヌ語では「魂がゆれる」ということを紹介して、以下のように書いています。
 そういう石牟礼が、2004年8月末、「不知火」という題名の新作能を水俣の現地で公演しました。かねてからの彼女のテーマ、「水俣病を千年後に伝えたい」、との願いが能となって完成したわけです。まさしく、歴史への取り組みで、しかも、千年を越えて「魂をゆらそう」という創意です。
 石牟礼は、この公演への案内にこう書いています。

 私の友人のひとりが、この公演を観劇し、以下の詩を書いて送ってくれました。
 彼女は、東京のある大手の計測器械メーカーの研究開発部門に勤務する科学者です。そして、その勤務の傍ら、環境運動にも熱心な働きをしています。三浦半島の小網代湾に面した森を守るため、その環境上の重要さを分析したレポートを書き、運動の発展に貢献しています。
 千年後の歴史家は、語り継がれ、演じ継がれた能「不知火」を、歴史的価値あらずと捨象するのでしょうか。
 また、今日の私たちは、わずか七十余年前の小説にすら、「真実を残す記録」を見出せなくなっていまいか。

 (松崎 元、2006年9月15日)
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