「両生類」は「永遠の旅行者」?
最近、興味深い本に出会いました。橘玲(たちばなあきら)著の『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方−−知的人生設計入門』です。
2002年12月の発刊ですから、日本在住の方にしてみれば、もう古本の類かもしれません(このタイムラグは、「両生類」生活者のやむないハンディーとしてお許し願います)。
この本に触発されて、同著者の本を何冊か読みました。評判のように、ローンから税金、年金、そして「マネーロンダリング」という過激なテーマまで、お金に関する広くかつ精緻な知識に満たされ、読者を「損得」のコントラストも鮮やかな、マネーの世界に引き込みます。
上掲書の中で著者は、「国家に拘束されない究極の『自由』という新しい可能性」として、「永遠の旅行者」という生き方を提唱しています。この考えは著者のオリジナルではないようですが、この本に私(松崎)が関心をもったのは、その考えが「両生類」の生き方にもつながるところがあったからです。
というのは、こんな私の経験が関係しています。
私が日本にいた時、完璧に源泉徴収された環境で、税金とはあたかも無縁かのような生活を送っていました。
それが、オーストラリアに住むこととなって、税金を自己申告する生活と出会いました。それは、自動装置に乗せられたような日本の生活とは別のものでした。
ひとことで言えば、自分が(稼いだ収入から)大きな割合のお金を納める、タックスペイヤー(納税者)としての自覚を養われたことでした。
そうした目で、いまいちどオージーたちの生活ぶりを見直してみると、お金についてはっきりとものを言う彼らの態度の由来がわかるような気がしてきました。
そして、それとともに、彼ら彼女らの、政治に対する割りとしっかりとした態度の理由もです。(この点に関しては、今号の別記事 オーストラリアの投票率は「100%」 参照)
自分の納税額と自分への国のサービスが、果たしてみあったものかどうか。近代的市民とは、こうした損得勘定をふくむ、権利義務の発想の試練を受けてきたものでしょう。
そのような視点で、上記の「国家に拘束されない究極の『自由』という新しい可能性」とか「永遠の旅行者」という生き方を生む風土は、ここオーストラリアに存在していると思います。
いや、むしろ、いわゆる「西洋社会」一般に存在しているのでしょう。
「両生類」になるとは、こうした異体験を楽しむことも含みます。
では「両生類」は「永遠の旅行者」なのでしょうか?
「両」生類という言葉が表すように、それは、一方を捨てて他方になるわけではない、中間的あるいは「両方」的な生き方です。
そういう意味では、「両生類」は、「永遠の旅行者」の、まだ駆け出しなのかも知れません。
(2004.2.13)
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