当たり前な社会
”Sure Thing”, by Jeniffer Hewitt, Feburuary 2005, Australian Financial Review Magazine


郊外生活者の国

国旗を背に、ジョン・ハワード〔現首相〕は、ブリスベン郊外にあるロール・ア・ドア〔Roll-A-Door、シャッター式のガレージの扉〕の工場に来て、クリーム色のその製品の脇に誇らしげに立っていた。このドアは、ハワードの言う「郊外生活の三大シンボル」として、ヒルズ・ホイスト〔Hills Hoist、庭に立てる傘の骨組み状の洗濯物干し〕とビクタ〔Victa〕社製芝刈機とともに、オーストラリア国立博物館に展示されることになっていた。そしてハワードは、「オーストラリアは終始、人々の日常生活を便利にする実用的な発明で名をはせてきた」、「我々はこうした点では他の人たちより優れているのであり、それを大いに誇りにすべきである」、と熱意をこめて語った。

ハワードはつねにそうあろうと努めてきているのだが、そのロール・ア・ドアの祝賀式典は完璧で、出来すぎの感すらあった。装飾も、脚色も、そして美辞麗句も無用で、彼は、「ことに戦後の平均的オーストラリア人や郊外居住のオーストラリア人の経験」がつぶさに反映されるよう、彼の政府が国立博物館の展示基準を見直してきたと、幸福げに語った。

その五日後〔2004年10月9日〕、ジョン・ハワードは、平均的な郊外居住者の大多数の支持獲得に成功し、連続四期の選挙戦に勝利したのであった。

かくして、神は天国におわし召し、彼は首相公邸におさまり、そしてオーストラリア人たちは郊外の自宅の芝を刈る、という具合に落ち着くこととなった。ゆえにこの四度目の勝利は、ラジカル論者かさもなくば郊外の空論者かと長く揶揄されてきた誰かにとって、注目されるべき選挙結果なのであった。こうして、ハワード首相は、オーストラリアの有権者の過半数による圧倒的支持を受けた自らの政治と自らのパーソナリティーを率いる者として、自信に満ちあふれて、この2005年を迎えたのだった。


変化に満ちた国、オーストラリア

思うに、もっとも着目すべきことは、三十年以上前にジョン・ハワードが初の議員となった時以来、オーストラリアが、どれほどに変わってきたかということであろう。そして、それは、今日、オーストラリア人住宅の裏庭にヒルズ・ホイストを立てる十分な場所がなくなって来たということだけではない。我々は明らかに、年齢を増し、裕福になり、多様化し、教育水準を上げ、より洗練し、いっそう創造的になり、柔軟性を加え、違いに寛容になり、独身者が増え、いっそう冒険的になり、環境により留意するようになり、そして世界にいっそう開放的になった。

そして、彼に長命 (ポール・キーティング首相時代の悪夢−労働党や大多数の国民のそれを指しているのではなく、社会の裕福で教育ある人々のそれを指す−に与えられるべきであった) をもたらしてきた政治的巧みさを持って、そうした変化を生き延び、かつそれを形成することに貢献してきた者は、他の誰でもなく、ジョン・ハワードだったのである。

人々の多くは、この最近の選挙で、オーストラリア人がハワードに決意をこめて投票したとは、いまだに半信半疑でいる。事実、彼の対抗勢力は、この敗北をうまく説明できないかとやっきになっている。

たとえば、1996年の連立政権の勝利は、キーティング政府の失敗への反動と説明された。1998年、ハワードは消費税導入でほとんど好意を失くしかけた。2001年、彼は挽回に成功するが、タンパ事件や9.11〔ポピュリズムは、飼い主に噛みつく 参照〕があってのことであった。そして、今回である。

程度の問題ではあるが、政治的指導者は、その国のイメージを決定付ける。ジョン・ウインストン・ハワードは、我々を代表している。したがって、彼が作り出すイメージが何かを語ることは、我々が何かを語ることに通じる。言い換えれば、ジョン・ハワードがそうした高みへと成長していったのか、それとも、この国が彼へとはまり込んでいったのか。


若い家族がつくる新興中産階級

何十年にもわたりオーストラリア人への聞き取りとその分析を行ってきた世論調査の専門家、アービン・ソールウィックは、これは常にプチ・ブルジョアジー社会がもってきた特徴で、近年、その傾向が加速していると、次のように語る。

「我々はより多くを欲するようになり、中産階級の価値観をもった、消費志向のミドルクラス社会になってきている。しかし、すべてに、もろさと不安感を伴わせている。人々は、変化に打ちのめされたと感じており、かれらの子供の世代の生活がよりよいかどうかは、確信できないでいる」。

「ウイットラム首相が奮闘していた30年前では、社会に、すべてが可能であるとの空気があった。すなわち、人々は寛大になる余裕があり、政府も気前がよかった。ところが今では、人々は、この世界が危険にみちた場所と考えており、頭をたれている方がよいとし、誰も助けてはくれないので、自分で自分の面倒を見なければならないと覚悟している。人々は、社会に前ほどおう様にはなれなくなっており、自分が生き抜くことに、いっそう没頭せざるをえない」。

この世は、厳しく、予見不可能なものである。そうした環境で、自由党は労働党よりも、ひと事あった時に脅かされがちな、国民と経済の安全保障を売り物としてきた。この安全保障を戦略とする政策は、当然に、経済がかってなく順調な時こそ、その恩恵を見せ付ける好機である。だが、突然の金融危機が起こっていたら、ハワードの光沢を曇らせていたに違いない。

たとえば、エコノミストがハワードのこの数年をふりかえり、この国の次の数十年の成長を支えるに足る変化へのエネルギーを失った時代と判断することも可能である。あるいは、しだいに多くの人々が、退職年齢をむかえてはいるものの、彼らの年金が退職後の生活を支えるには十分ではないことに気付き始め、ハワード時代をあまり心地よくは振り返れなくなっているかもしれない。。

ともあれ、今日のオーストラリアは、政治的抗争に明け暮れる人たちには(ハワードは不利な立場をあえて選んできた)、息つく暇もなく、見通しのつきにくい場所へと変貌してきている。

そもそもは保守派でありながら、今ではハワードに強い批判の矛先を向けるロバート・マン教授の話しを聞いてみよう。彼は、ある新聞のコラムに、選挙結果を惜しんで、次のように書いている。「ハワードのもとで、自由党は郊外中産階級と完全に結託してしまった」。

「こうした結果は、一部、ジョー・ホッケーやジャッキー・ケリーといった真の代表たる議員の選挙を通じて成されたが、他の部分では、多重文化、アボリジニーの自決権、同性愛者の権利、妥協なき環境主義、そして難民の公正な扱いといった、ウイットラム以後の革新的政策への顕著な拒絶によってもたらされたものだ」。

「現在、アイデンティティーの危機にあるのは、労働党ばかりでなく、自由党左派の知識人たちである。我々にとって大きな懸念であるさまざまな問題は、同胞であるはずの大半の市民には、ほとんど関心を持たれないか、あるいは、忌みきらわれてさえいる。」

ここで、最近結婚したヴラジミール・トロハロフに登場してもらおう。彼は25歳で、1992年に、ブルガリア人の両親とともにオーストラリアに移民、昨年、コンピュータ・サイエンス学位をえて卒業、現在はオプタスのネットワーク技師である。彼の妻のレイラニーは、ハンガリア人の父と中国系マレーシア人の母を持つ、IT関係のスパーバイザーである。ふたりの結婚式は、中国式のお茶会のレセプションの後、正統派カトリック教会で行われた。まさに、オーストラリアの多重文化の現代版である。だが、彼はハワードに投票した。

ヴラジミールは、この先、HES(大学教育の政府貸与奨学金)を数年間にわたり返済するつもりだが、双方の両親の援助もあって、二人は、シドニーの北西部に、2寝室の住宅を購入した。だがそのローンは少なくない。だから彼は、労働党によるいかなる利率上昇のリスクにもさらされたくはなかった。彼は、自由党の政策についてよくは判ってはいなかったが、ハワードの単純な説明を受け入れた。政治にあまり関心はないが、彼には、ハワードとともに成長したとの思い出がある、という。「僕はこの国のそうしたやり方でハッピーだ」。「もし自分がハッピーなら、そのやり方に留まることを選ぶ。何かを変える必要があるとは思わない」、と彼は語る。


ハワード政権の功績

ハワードに対抗できるものは、まずいない。先の選挙でのハワード政権勝利の主要因は、人々が現状維持を選んだためと、オーストラリアの著名な社会問題研究家の一人、ヒュー・マッケイは分析する。つまり、その結果は、選挙戦のはるか以前から決まっていた。「労働党は、たくさんの失敗をおかした。しかし、それが選挙に負けた理由ではない」、とマッケイは言う。「選挙民は、どんな変化や混乱もたくさんと思っていた。ハワードの成功の理由のひとつは、彼がまったく揺るぎのない、堅実な姿勢を見せていたからだ」。

皮肉であったのは、社会に変化をもたらすことで、ことに、雇用を増やし、ローンを提供し、また、ヴラジミール・トロハロフのような人たちを助けてきた経済に、変化が生じることが歓迎されていなかったことである。1980年代以来の一連の経済開放が、一つの大企業で一生涯働くといった生き方や、なんらかの労働組合に属すという職場の慣行や、そして、退職後には政府年金の頼りになる、といったことを、事実上、終了させてしまった。オーストラリアで、こうした変化に着手したのは1980年代の労働党であったのだが、ハワード自由党政府は、それに便乗してきたのである。

ハワードは、そう漁夫の利を得ながらも、そうした経済的成功と情緒的な文化問題との結合を活用してきた。ポピュリストとしての強靭さを彼に与え、政府の他の政策にも反映されてきたその結合こそ、ハワードがそうした価値に注目してきた結果であった。また、その結合は、ハワードを告発する理由(彼の過去と君主制への心情的支持に余りに縛られているとか、あるいは、ブッシュ政府へ過度に接近しすぎているなど)が、なぜ見当外れであるのかの説明ともなっている。

ハワード首相は、郊外生活に根ざし、普通のオーストラリア人の特徴ともなっていると彼が信ずる、独特な国民精神を、現在も過去も、ことさらに誇りとしてきた。止むことのない、オーストラリア式への彼の呼びかけや、オーストラリア人としてのアイデンティティーやオージーとしての自負心と価値観は、彼にとっては彼自身における彼の信念のように、自然な結果であった。ハワードによるオーストラリアの人々についての信念と判断の凱歌は、ただ、政治的次元におけるものだけでなく、何が主流を形成するのかという、彼自身のいくらか理念的な考えの所産でもある。

しかし、ハワードは、彼の政治的焦点を、細かい不満点の集積(首相としての初期に限られたものだが)から、普通のオーストラリア人の徳性の信奉へとシフトさせてきた。彼は、日ごろ「普通の市民」と呼ばれることのさまざまに、誇らしげに手を振る。こうしたすべての彼なりの受け止め方は、彼自身の“あまり力まないでやって行こう”式のスタイルにも、もちろん合致するものである。

前出のソールウィックは、「ハワード式のオーストラリア文化の誇示に好感をもつ普通の人々は、数限りなくいる」、と言う。「多くの人々は、大構想には興味はない。特定の状況ではそれもありうるかもしれないが、自分の世界が危険にさらされている時は、それはありえない」。むしろ、実際主義の精神こそ、他にまさる。現実的で、控えめで、親しみがあって、理念的過ぎない、しかしながら、結束を求め、何か執拗なところがある。変化による狂乱や新たな不安にも拘わらず、こうした価値感は、オーストラリアの郊外生活に深く根を下ろし、ハワードは直接にそれに向けて話しかけるのである。


ローン・ストレス社会

ハワードの敵対者にとって、彼の優勢がことのほか気がかりとなるのは、あらゆる収入層や社会階層にわたって、彼がこうした働きかけをし、かっては労働党の牙城と考えられていた分野への進出がみられるからである。2005年、こうした進出は、かつてなき割合にまで下がっている労働組合組織率(現在、民間労働者の18パーセントまで下降)や、企業家精神という考えに注目したゆえであり、さらに、自助文化は、明らかに国民の意識を固く捉えている。マーク・レイサム〔労働党指導者〕は、おそまきながら、「新中産階級・・・・下請、フランチャイズ、企業家などの予備軍」に訴えかけようと声を大にしはじめているが、そうした人々のほどんどが、彼に耳を傾けようとはしていない。

これは、どの家庭も、新しい経済方程式に組みこまれているからである。オーストラリア生活を確実に左右するものは、今日、負債と税金である。オーストラリア人の収入に対する負債の比率は、1990年代はじめの50パーセントから、現在の150パーセントまで上昇しており、オーストラリア人は、世界でもっとも負債の多い国民となっている。これこそが、利息率に言及したハワードの選挙運動が、正確性をほこる熱源追跡ミサイルとなって的中した理由である。

ソールウィックは、「恵まれたプロフェッショナルの地位にあるベビーブーマー〔団塊〕世代で、多数の人々が、ハワードの倫理観に嫌悪感をしめしている」、と言う。「パーティーの席で、彼らが、ハワードがどうして選挙に勝ったのか考えられない、としゃべっているのを聞くことがある。彼らは、いったい誰がハワードに投票したのか知らないのである」。それはもちろん、彼らの問題ではある。だが、それはむしろ、不確定選挙区に住む若い家族にとって、高いローン返済によって作られた特異な思考形態があることを物語っている。

「今日の若い人々は、1960年代の理想主義を受け入れる余裕をもってない」、と労働党の戦略家が言う。「彼らは、貸与奨学金という借金を負っており、住宅も買わねばならず、〔金儲けの〕機会はたくさんあることは知っているが、自分でそこに入ってゆかねばならない。したがって、人々は彼らを、欲深とか、自己中心とか、物質主義的とかと見るかも知れないが、だからと言って、彼らを非難することは当たっていない。彼らは、お金の問題でストレスにさらされているのである。彼らは、視野が狭く、家庭中心で、誰が自分達の面倒を見てくれるかと案じている。彼らは、家庭にくつろぎの場が築けるかとか、子供がいい学校に入れれるだろうかとかと、家族に自己のベストを注ごうと没頭しているのである。

若い家族に何が受け入れ可能かと判定するオーストラリア基準もまた、三つの浴室、二台分のガレージ、そして広い娯楽室をもつ「マックマンション」の騒動のように、〔贅沢化に向かって〕大きく変化してきている。「人々は、自分の運がいつまでもつかと不安でいる」、とソールウィックは言う。「彼らが前途に控え目であるのは、彼らが、過去のどの時代よりも、不動産という形ではあるが、よりたくさんのお金を所有しているために、利率の影響が決定的であるからだ」。

こうしたことのいずれもは、ことさらに魅力的であるとか、意欲を沸き立たせるというものではないが、まさにそれがゆえに、彼自身かって想像した以上に、時代はハワードに適しているのである。オーストラリアでは、世界の大半の国とも似て、時世は、言葉や行動の粗野化に向かっている。いわば、普通の人々の表現の浸透と言っても良い。民主主義のこの様式は、リアリティーTVや、「オーストラリアン・アイドル」の番組の人気として、もっとも純粋に表現されている。


危機にある旧左派知性

オーストラリアの政界では、政争は常に、国民の生活関連の政策をめぐって展開されおり、高邁な駄弁に対する「平易な話」の勝利として描かれている。ハワードの当初の選挙戦の成功は、1996年までに、ポール・キーティングが、芸術や、アジア関係や、社会悪の除去といった、彼の「大構想」熱のため、オーストラリア国民の大部分を遠ざけてしまったという事実により、はるかに容易に達成された。そこでハワードは政権につくと、「政治的正しさ」の終了を宣言し、そして、今では悪名の高い、オーストラリアの「黒腕章史観」**を、たちどころに一蹴してしまった。
〔訳注〕
* 
政治理念としては正しいが現実政策上では正しくないとの含意をもつ用語
** 
アボリジニーの土地所有権など、オーストラリア世論を二分する論争に、多数意見尊重という視点を通じ、両極端の見解を排除して中庸論を優先しようとの立場から、両極論を「黒腕章史観」とよぶ。権力への抗議としてアボリジニー活動家らが黒腕章をしてそれを表現したことから、こう命名された。
すると突如、昔風の愛国主義の人気がふたたび高まった。相当に失笑を買ったものの、オーストラリア人を「リラックスかつ心地よく」させたいとするハワードの即興の注釈は、今では、先見性のあったものと見られている。

その著作 『オーストラリア自由党と倫理中産階級 Australian Liberals and the Moral Middle Class』の中で、ジュディス・ブレットは、ハワードは「キーティングの文化論争で沈黙させられたのではない。彼は、そうした論争に意味深長に不同意を示し、そして、それに対抗する戦略を作り上げるため、自由党の伝統を活用した」、と書いている。ハワードは、「自由党の社会的結束と統一のため、用語を見直す」仕事に取り組んだ、とブレッドは言う。

ブレットはその結論で、ハワードが実際に、「オーストラリアの社会的、経済的変化に対応して、自由党哲学のイメージや主題や議論を再検討した、メンジス以来のもっとも創造的なオーストラリア自由党首相」である時、この首相を、1950年代の創造物と見るのは誤りである、と述べている。

この作業は、かつて、労働党は労働者の党で、自由党は使用主と中小企業主を代表する党であると定義した、古い階級社会観を基礎とした政治学の解体にも寄与した。敵と我々間の階級闘争に拘泥するのは労働党である。ハワードは、常に、世界のこうした見方に挑戦してきたが、かっての硬直した経済理論の崩壊は、かれの見方に必然性の力を与えてきた。進歩的な選挙民は、今日、いたるところに見られるが、これまでのの力強い政治的経済的変革の結果、彼らは、一度は確固とした労働党の領域と考えられた都市の郊外部に、ことに多く生活しているのである。

ハワードは、今、たとえば、シドニーの外延西部地区を、自由党の掌握地にしようと注目している。この地区の議席は、自由党が勝利の夢さえも持てなかったところだと、彼は誇らしげである。自由党は、マーク・レイサムが生まれ育ったこの労働党の地盤を、着実に奪い取りつつある。AWU(オーストラリア労働者組合)の書記長で、その新たな思考法で注目されている組合運動リーダーの一人、ビル・ショーテンは、労働党が魅力を減じさせたということは、その基盤をハワードに搾取してくれと譲り渡すようなものだと語る。「現在の“保守ポピュリズム”にあって、左右に分かれた政治的議論による古臭い解釈は、オーストラリアの選挙民を余りに単純化してしまっている」、と、彼は最近のフェビアン協会の雑誌に書いている。

「それに加えて、高学歴の都会派知識人(党の違いはあれ、同様な自由主義的社会観とグローバリズムを受け入れる合理的経済観を共有)と、郊外や地方に住む、いわゆる“普通のオーストラリア人”(経済的リストラによるリスクを嫌い、自由主義的社会観に懐疑的)との間に、上下の分断を生んでしまっている」、とショーテンは書いている。「ハワードは右派知識人のうちに保守的支持層を確保している一方、国境防衛、同性愛者の結婚、アメリカとの同盟といった問題に警鐘的論法を発することを通じて、中産階級オーストラリアに新たな支持層を拡大している」。

しかし、ハワードの文化と経済の再結合による成功を阻害するものがある。それは、彼自身がつくりだした怒りであり、ことに現在、著しく軽視されているエリート達のそれである。彼らの憤りは、政権第一期時、ポーリン・ハンソン〔反アジア主義の政治家〕と彼女の人種差別へ、即座の非難を発しなかったハワードに対し、まず燃え上がった。その怒りは、2001年、援助を求める難民に対するハワードの〔冷淡な〕態度に再燃した。そして今度の選挙では、ハワードのイラク戦に対する断固とした支持を口火とし、イラク戦争への関わりが誤りであったことを認めない彼の執拗さがそれに続いて怒りをよんだ。

だが、こうした敵愾心も、選挙の際に重要視される不確定選挙区の有権者には、たいして関心をもたれなかった。むしろエリートたちがイラクについて考えた程度と同じほど、こうした有権者は、ハワードの論法の通りに、オーストラリア人らしく、仕事〔イラク参戦〕を途中で投げ出すのではなく、最後までやり遂げよ、と考えたのであった。大量破壊兵器について真実を告げなかったことも、オーストラリアの国益を考慮すること以上には、重要ではなかったようである。

そのほかの国内問題も、難民問題から先住民族への謝罪の問題まで、一度は熱い議論の的であったが、すでに人々の関心からは消えかかっている。前出のヒュー・マッケイは、自分の身の回りの事柄ばかりに関心を増すというオーストラリア人の傾向は、彼らがまさに、「リラックスかつ心地よく」なっている証拠で、確かに、ほかのことには無関心ということである。「これは、典型的な自己飽満であり、享楽主義のあらわれだ」、と彼は言う。「これはまた、自分自身を世界から隔離することでもあり、なんとかやれていますから、どうぞご心配なく、なのである」。

マッケイは、ハワード首相を一貫して批判してきており、ハワード時代は、オーストラリア社会に多くのダメージを与えてきたと説く。「10年前と比べ、我々は、同情心を弱め、偏見を強め、寛大さを欠く社会にしてきた」、「その原因の一部は政府にあり、偏見も時には正当化される、その実例すら政府は示してきた」、と彼は指摘する。


自由党vs労働党

もちろん、これにハワードは同意はしないだろう。だが、さらに重要なことは、彼に投票した人々の多くは、論争をうるさがることだ。大津波災害への〔前例のない支援〕反応は、彼らが興味をもつ実用的援助のタイプだ。人々の関心が薄れるにつれ、彼らの焦点は、請求書や子供の扱いといった、彼らが理解できそして必要である、そうしたところへもどってゆく。

ハワードの政治的取り組みはこれまで、《恐れ》を媒介としてきたが、彼のいっそう積極的で重要な働きかけは、オーストラリアの人々に《選択》を与える、という点に基盤を置きかえていることだ。つまり、彼は、選択を、彼式の自由主義における「黄金の織糸」とよぶ。つまり、仕事、学校、健康、将来をめぐる選択である。それは、しだいにそうした方向に傾きつつある人々におくる、限界より可能性を強調するメッセージである。

この線にそって、1990年代の古い自由主義の論理は、たとえば、失業保険頼りの暮らしや社会保障の不正取得をもたらした政策から、家庭的価値を引き上げるため、中産階級家庭に補助金をどのように支給するかという視点(すばらしく柔軟な考え方である)へと変化してきた。ハワード政府による、極めて時機をえた〔選挙の直前〕、家庭をねらいとした子供一人当り600ドルの一時金支給が、選挙運動中の野党指導者レイザムの主張によると、〔制度的〕分断を助長するもので、「有用でない」というもので
あった。だが、労働党幹部が言う。「人々は後戻りしたくない。前に進みたいのだ」、「我々は余りに規制の党になじみすぎた。人々は、彼らがしていることは間違いだとお説教されたり、指摘されたりするのはもうたくさんなのだ」、と。

ハワードは、少なくとも、彼の支持者に関わる事柄に関しては、そうした明らかな失敗はしていない。彼は、意図的に労働党の裏をかくことを選んできているようである(たとえば、2000年に単身の母親や同性愛の女性の人工受精への健康保険の支給を停止した)。しかし、彼は、厚生大臣のトニー・アボットが何を言おうとも、堕胎権に関するいざこざには、決して関わろうとしていない。昨年、彼は、同性愛者の結婚について一時その問題を取り上げた。この問題は、米国ではおおいに議論をかもしたのだが、オーストラリアではさほど注目されないことがわかり、まもなく、その議論を取り下げた。

政府はしかし、単独収入家庭への経済的支援については、片親への支給割合の増加も含め、きわめて熱心である。「フェミニストの地位や同性愛者法の改正といった特定の社会的論争について、一般的に、自由化に向かう社会的潮流がある」、とソールウィックは語る。「しかし、そうした潮流の中で、国外からのテロの脅威や国内の経済的不安は、そうした流れとは逆に働き、人々をいっそう用心深くさせている」。ハワードは、その両方に翼を伸ばしている。

ハワード首相は、筆者のインタビューの中で、彼自身は、こうした問題について、特定の判断をもっていたり、まして「強い方向」をもったりはしたことがない、と言う。彼は、常識とか個人責任といった言葉を、ことのほか好んで使っている。「私は、人々に、どうこうすべきだ、といったことを言ったりはしない」、と彼はいう。「結婚や正しく子供の面倒をみることは、ものすごく大事なことだ。しかし、倫理的中心であるべき人々に論争を植えつけようとはすべきでないと思う」。

そうした基本的考えは不変である。ハワードは、確かに自分を、布教に熱心な福音主義者(最近の原理主義の集まりの増加に比して、わずか数パーセントの、オーストラリアでは実に小さな存在)とも考えていない。彼は、確実に、ジョージ・ブッシュがそうであるような、右派宗教グループの一員でもない。オーストラリアが、アメリカのように、深い宗教的な社会に向かっているわけではないからである。しかし、彼の立場は、彼に、原理主義教会の成長する人気に便宜をはかることを許し、ことに、はるかに中庸な多数を追いやることのないように注意しつつ、オーストラリアの不確定選挙区で、そうした便宜を行っているのである。

これに比して労働党は、おしなべて通俗的である。これは、一般的統計などには適合するかもしれないが、しかし、2005年における社会の主流派の眼鏡にはかなわないだろう。昨年末に、本紙が行ったインタビューの際、マーク・レイサムは選挙敗北の要因を分析し、そして、自分のリーダーシップを案じて、この野党指導者はハワードを、うんざりすると明瞭に見下した。レイサムは言う、「彼は、腹蔵なく、システマティックで、あまり興味のわかない彼自身や彼の議事を達成することに躍起となっている」。「彼ら〔与党連合〕は、塀の我々側で獲得しようとするリスクに比べ、安定性と確実性がゆえ、それを成そうとしている」。

たぶん、そうであろう。だが、最後に笑う者は誰であろうか。


 (2005.1.31、松崎訳、小見出しや強調、〔 〕内はは訳者。2005..2.2、2.3に一部修正)

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