在日日本人、在外日本人
オーストラリアを目的地として、皆さんの“日本脱出”のお手伝いを旨とするこのサイトですが、今回は、そうしたご希望に沿えるかどうかは判りませんが、最近の世相をめぐっての私見です。

海外生活という、異文化に日々さらされる暮らしを続けていると、危機といえば大げさですが、自分のもつアイデンティティーについて、いろいろ思いをはせさせられることがしばしばです。たとえば、「自分は何人?」といった問いにはじまる、こもごもの思いです。

それにはもちろん、ある集団の人間をなんらかの区別を目的としてそう呼称する、そうしたグループ分けにまつわる個人の側からの反発もあるのですが、そうした総称と個別の問題は別にするとして、以下、主に二点について述べてみます。

第一は、私を含め、海外に生活することとなったほぼ誰もが経験することと思いますが、異文化中に一人置かれることで、母国での生活時代にそれに無意識あればあったほど、その空洞を埋めるべく、自分のアイデンティティーの再構築を求められます。

そうした必要にあって、まずは、典型化されたイメージへの同化を試みるのですが、それも結局はとりとめもなく、その違和感を足がかりに、次第に自分なりのイメージを築き上げてゆくことになります。

これは、必ずしも海外体験でのみ得られるものとは限りませんが(「オーストラリアは地続き」参照)、海外生活が、それをより強力に推進するきっかけになるのは間違いないでしょう。

そうした意味で、昨今の海外脱出志向の広がりは、言ってみれば、「在外」と「在日」の双方の日本人を体験してみたいとする、新たな社会的要求のおこりと見れましょう。

第二は、そうした海外志向の傾向の見られる一方で、いわゆるナショナリズムの広がりが、世界各国で見られるのも事実です。

こうした近年のナショナリズムの隆盛傾向は、日本のケースも含めいずれの国の例も、ステレオタイプ化されたイメージを根拠として、純粋性や独自性を強調し、他との対立軸をより鮮明にしようとしているようです。しかし、その根拠といえば、想像上の思い込みに近いイメージをもととしており、冷静で実証的な考察の結果であるようには見えません。

日本の過去を振り返っても、中国や朝鮮からの様々な文化との交わりなくして、現在の日本文化はありえません。ましてや、文明開化以降の、それに加えられた西洋文明とのいっそうダイナミックな交わりをへて、今日に至っています。

ともあれ、近隣に生活する外国人の増加や、海外への生産拠点の移転に伴うリストラなど、身辺に急速に蔓延するグローバル化現象の結果が、漠然とした不安を形成し、そうした思い込みを助長させているように見受けられます。

海外での生活は、さまざまな違いに目覚めることにはじまりますが、同時に、実体験をとおした共通性の発見との出会いでもあります。そうした経験の蓄積によって築かれた柔軟で実証的なアイデンティティーは、軽率な思い込みやいたずらなステレオタイプ化を排する、冷静な視野の形成につながることでしょう。

 (2005.5.14)

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