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両生学講座 第23回(両生量子物理学


      両方を選ぶ二者択一


 私は、昨年八月、還暦を迎え、人生の “二周目” に入りました。
 その一周目は、何しろ初体験のことでもありましたので、文字通り、無我夢中でやってきました。
 しかし、人生も二周目ともなれば、その行路は完全な白紙とはいえず、それなりの押えどころも心得られ、その六十年の経験は、プラスにもマイナスにも、いやが上でも物を言ってきます。
 人生の一周目においては、さまざまの学問も、その権威のなすがまま、額面通りに受け取ってこざるをえませんでした。初学者として、止むを得ないことであったといえましょう。しかし、こうして二周目となっては、そうした学問との接し方も、経験持つものとして、おのずから異なったのぞみ様も出て来ようというわけです。ことに、やりっぱなしにしてきた自分の過去の経験を、そうした学問を応用もさせてもらって、自然科学者が自然を相手とするように、医学が応用生物学であるように、その再探究にあたることは、極めて楽しみ深いことであります。
 この両生学が、生活者の学であり、実用性に徹するというのは、そういう意味です。

 さて、そうした経験の中から、今回、ことに採り上げたいと考えていることは、私がそれを 「両方を選ぶ二者択一」 と呼ぶ、ひとまとまりの経験です。
 それは、この60年の間で、十年に一度あったかどうかと言える程、まれにしか出会わない出来事ではありました。そうした、それほどに普通ではない、ことに困難に難渋していた際、当初は、Aを選ぶべきかそれともBを選ぶべきかと、二者択一に見えたその問題が、逡巡の後、どちらかを捨て一者を選ぶのではなく、その両者を選ぶことが最善の解決法と、目からウロコがとれるように、見えてくる体験です。
 念のため、一例を挙げてみましょう。これは、ここでいうその一連の体験の最初のものなのですが、二十歳代半ばの新婚当初のことでした。ただ、その当時の日々を語ることは、今でも、相応のためらいを伴なわなわずにはできない、そうした一例です。
 結婚して半年にも満たないころ、妻が不可解な病気をわずらい、日常生活がだんだん難しくなってゆきました。いくつも著名病院をたずねてみても、その病気が何であるのか、はっきりとは告げられませんでした。(後に判明したその病気の真相やその先の進展について、それを述べるのは、さらに新たなテーマを起こすことに等しく、今回の話題からは外します)。
 丸々していた妻がみるみる痩せ衰えてゆくばかりなのに、医者にも頼れず、判れば打ち込みたい看病法とて定かでない、先の見えぬ毎日の始まりでした。
 そうこうして、悶々とした月日をおくるうち、いつしか、その病妻をひとつの災難と思い始め、それも解決法のひとつだったのでしょう、とても口にはできないながら、離婚の意である 「選び直す」 などとの婉曲語をひねりだし、それをひとり脳裏で反すうしては、際どい平衡を保っていました。
 そうした境界線上のある日、それまでの霧が急に晴れるように、にわかに見えてきた方途が、その妻を選びつづけるし、その尋常でない病気の治療にも取り組もうとする、つまり、妻も自分の納得も、 「両方を選ぶ」 選択がある、という発見でした。先々月の禅問答を拝借して言えば――結ばれてその人を妻とし、ある出来事に会い妻が妻でなくなり、そしてある日ふたたび妻が妻となった――わけでした。
 その選択の結果と言えば、話は先に飛びますが、いまや、10キロのマラソンを平気で走れるアスリートであり、自力でビジネスをもこなす、心身健康な彼女の存在です。
 以上、些事におよびましたが、ここで云う 「両方を選ぶ」 という発想がいかなるものか、その大筋はお判りいただけたかと思います。
 それは、一般化して表現すれば、ある限界状況のなかで、問題の立て方自体をも問い、いわば次元を一桁繰り上げた見地に立って、新たな枠組みから事態をとらえ直すという方法です。また、以前に触れましたように、哲学でいう弁証法における、「止揚」 とも言うことができます。
 この体験の後も、今日までに、私は、少なくとも、もう三回の 「両方を選ぶ」 選択を体験してきています。すでに読者もお気付きのように、「両生」 という発想もそのひとつです。
 そういう意味で、これらの一連の経験は、私にとっては単なる偶然の羅列ではなく、ひとまとめにして、何かが示唆されているように思えるのです。

 さて、今講座でのねらいは、この 「両方を選ぶ」 選択が一般性をもつと考える、その実証に、二十世紀の前半、量子物理学がこの世に誕生した際のその学問的陣痛体験が、この私のそれと同列のものとは言わずとも、発想の形態として、通じ合うところのあるものではないかと、それに注目するところにあります。
 もちろん、両対象は、片や、物質構造の究明という物理学中の物理学の世界においての話であり、片や、一個人の人生中の難事話に過ぎないという、釣り合いの取れない関係であることは承知しています。しかし、ひとつの困難を突破しようとする、人の働きに違いはなく、共通性が見出せるのではないかというのが、今回の議論の第一の核心であり、そして、万が一それが当を得ているとすれば、その意味は何か、を探ることに第二のねらいがあります。
 こうして、その量子物理学の世界に踏み込んで行くのですが、お断りしているように、私がここで扱おうとしているのは、その世界でも、数式が支配する難解な中身そのものではなく、その発展のもたらした意味といったものです。さらに、その時代的位置としては、それは二十世紀中ごろまでの段階です。つまり、ここで扱う議論は、ほぼ半世紀ほど時代遅れの面を持ったものではあります。しかし、私の信ずるところ、量子物理学は、二十世紀初頭の誕生からこの時期までが、まさに生みの苦しみの時期で、その実質的な突破口はこの頃に開かれたと考えています。そういう次第で、可能性としては、その後今日までに更なる新地平が切り開かれていることもありえ、もしそうであるなら、それは今後の課題として取り組んで行きたいと思います。
 
                             

 ではまず、第一の目的である、 「両方を選ぶ」 という私的体験と、量子物理学が自らを古典物理学から区別して特徴付ける科学的体験の、両者間の 「共通性」 についてです。
 前回の本講義でイントロとして触れましたように、量子物理学の特徴とは、原子構造の解明のなかで遭遇した微細構成素子の、粒子とも波動とも特定できない両面性の発見を発端に、さらに、そのミクロな世界を観測しようとすると、その観測の手段が対象をかく乱してしまい――目に見えないその素子を特殊な光線を当てて観測しようとすると、その光線の粒子が素子をはじきとばしてしまう――正しい観測値が得られないといった、古典物理学では問われることのなかった、新たな難題に直面したことでした。
 そこで、存在しているのは確かながら、従来の物理学(フィジックス)での鉄則であった客観性においてそれが確定できないという難題あるいはパラドックスに突き当り (これは 「不確定性原理」 と呼ばれる)、古典物理学の言語で言えば 「在るものがなく、ないものが在る」 とでも不名誉に表現せざるをえない、矛盾した事態に至ったわけです。
 こうした限界状況に面して、その突破が、客観性の原則を問い直し、そこに、抽象化した、つまり形而上 (メタフィジックス) の概念による説明を認めることにより成されようとしました。少し詳しく言いますと、その存在の特定を、確率、つまり統計学をもちいて記述することによって切り抜けようとしたのでした。これはすなわち、古典物理学でいう対象の位置や運動の特定を放棄し、確率という抽象概念にそれをゆだねる考え方でした。
 こうした議論の中で、興味深いエピソードがあります。あの、相対性理論という古典物理学の常識を覆した革命的理論の発見者、アインシュタインでも、こうした確率概念の採用には、「神はサイコロを振りたまわず」 と宣告して (何と 「神」 という用語まで引き合いに出して)、頑強な反対者でありました。つまり、彼の見解では、まだ人類が知りえない未知のものがあるだけで、抽象概念の導入でそれを説明するのは誤りだという主張でした。(その導入を主張する側はこう反論したといいます。「神がいかに世界を支配されるべきかを指図することは、われわれの課題ではありません。」 )
 もう少し踏み込みますと、私の理解の限りでは、上記の 「不確定性原理」 は、確率のばらつき度の統計学上の数値的概念である偏差値が、ある特定数以下にはならないことによって証明され (つまり、それがゼロになることとは、ばらつきが無いということで、その存在が確定できることを意味し、古典物理学でいう客観性の立証となる)、今や、この確率概念を取り入れた体系が、量子物理学での定説となっているようです (アインシュタインは死ぬまで、自説を譲らなかったらしい)。
 今日では、統計学による、古典的概念ではとらえきれない対象を解析する技法が発達し、その成果は、たとえば、消費者による特定商品の受容イメージの分析などに活用され、マーケティング調査の主要技法のひとつとなっているようです。あるいは、私も良くは理解し切れないのですが、量子物理学の発達により、従来のシリコンウエハーを用いたコンピューターとはその性能が比較にならない、原子の量子的性質を利用した量子コンピュータというものも、理論段階ながら研究されているようです。
 以上のように、量子物理学の発達における議論は、従来の古典的客観性が壁にぶつかった時、確率という抽象概念による記述を採り入れるか否かとの論争を引き起こし、結果、古典的客観性が、より上位の概念である、確率論を含む新たな科学概念体系へと改められてゆきました。新しいものを理解するために、思考の構造そのものを変えたわけです。そしてこの新体系における、特殊な領域での解が、古典的客観性の世界であるとの解釈となっているのです。
 私たちの生きるこの世界は、そういう次第で、その特殊解の世界をさすのですが、原子構造のミクロの世界とか宇宙というコスモスな世界から見れば、この世界はその一部分でしかないという関係にあるわけです。この、ミクロ、私たちの世界、コスモスな世界をすべて含んだ世界を、古典的客観性と区別して、ここでは、《メタ客観性》 の世界と呼ぶことにします
( 「メタ」 とは超越との意)
 こうした突破口を切り開いた一連の論議過程は、粒子か波動かとの面ばかりでなく、古典的客観性の世界か、新たな量子的世界かとの、まさに、「両方を選ぶ」 選択で、私には、自分の人生で経験してきたものと、同等ではなくとも、相似したものを見出す、胸をときめかす出会いでありました。つまり、そこに共通する形態の人の働き――長く支配してきた客観性が、あるきっかけで客観性でなくなり、《メタ客観性》 という新たな客観性を生み出した――が見られるのです。
 ただ、以上の説明は、形式論に傾いているうらみがあります。ゆえに、人類にとっての、新しくもあり、また、古くからのアイデアでもある、客観と主観の区別といった意味論の問題へと、それに血肉を与える興味深い問いが、さらに投げかけられます。

                             

 今講座の第二のねらいは、こうした 「両方を選ぶ」 選択という共通性が、それがあると形式的にでも認められるとするなら、それがもつ意味は何であるのか、ということです。
 前回の講義に、「自己暗示」 という言葉をもちいて、意識や直観が、あたかも量子的解釈によって 「物理的」 に説明できるか希望的に述べましたが、それは今日の最先端の科学によっても、まだ、なぞ中のなぞであるようです。
 しかし、上記の 《メタ客観性》 へと至る考察の中で、その突破口を開いた形而上概念の導入という新局面に関し、これはまだ、科学者の間での共通項となるには至っていないようで、そういう含みをもって、異端を自認の上で一部の科学者の間に、客観と主観あるいは物質と精神という分離もしくは二元論が世界のより正確な認識を妨げている、という見解をもたらしました。
 それにしても、こうした異端科学者 (彼らは、彼らに対する “正統” 科学者を 「実証主義者」 と呼んでいる) は、なぜ、そのようにも突き出た立場をとろうとしたのでしょうか。
 それは、こういうことのようです。つまり、先述の 「不確定性原理」 を真に理解すれば、観測されるものは、常に何らかの観測手段の影響を受けているということを理解することであり、これはすなわち、主観の着色を避けずには客観の観測が不可能である (ひいては、主観的にならずには客観的になれない) ことを示唆します。さらには、この 「不確定性原理」 に立って、量子物理学者は確率という概念で対象を記述したわけですが、これを言い換えれば、統計という新たな言語を用いてその記述を行ったことを意味し、それが必要だったのは、古典物理学の言語が、量子の世界を描ききれなかったからです。つまるところ、真理を記述する能力は、それを描写する言語の能力に依存するわけで、未知のものが発見されようとする時、つねに、それを語りうる言語はまだ存在していないのです。
 ここまでくると、人間が言語によって導かれもし、またおとしめられもするという、以前に述べた 「指が月だと思う誤り」 という禅の議論と、非常に近いものを扱っていることに気付かされます。
 畢竟、新しい真理は、用いるべき言語を欠くがゆえに、隠喩とか、逸話とか、逆説とかを駆使して表現するしかなく、その最も強力な喩えが、アインシュタインがそうしたように、「神」 という言い方であるのでしょう。
 そもそも私は、そういう意味で、 「両方を選ぶ」 選択が何かを言わんがために、長々と、量子物理学の話を引き合いに出してきたのかも知れません。
 このようにして、物質の世界への関心は、人間大の世界のそれへと必然的に発展してゆくのですが、生命、さらには意識・精神という世界は、たとえ統計手法をもちいたとしても、まだまだそれを記述しきれない、深いなぞに包まれています。だからゆえ、科学の外貌をしたそのなぞの切捨て思想がはびこりがちなのですが、そうした異端科学者に言わせれば、自分たちを神秘主義者と呼ぶ実証主義科学者こそ、二元論という神秘主義にそうと自覚することなく縛られ、そうした深遠さに目をつむっている人たちだというわけです。
 私が上に述べた人生経験とは、身の回りの二元論との取り組み談ですが、ここで、上の第一の考察で述べた 「両方を選ぶ」 選択を一般化し、この人間性の二分断――これこそが最も根源的な 「人間疎外」 ――という二元論に適用しますと、実に興味深い仮説が見出されてきます。
 すなわち、思考の構造が変えられ、新たな言語も探究され、高められた次元に立つそこでは、人間性の分断が解消され、人間化された至高の自在存在として、あるいは、ミクロ・現世・コスモスな存在が合一された 「メタ客観的」 な実在として、私の意識は、他者の意識と共に、また、他の生物や物質とも統合され、まさに宇宙一体化した唯一の実在につながってゆく自身 (物理的には微塵な一部にすぎませんが) を予期できます。

 それは、抽象ではありますが具体でもあります。主観でもありますが客観にも通じています。もちろん、精神的なものではありますが物質の裏付けも備えています。
 ここで、私はこの、人にまつわるこうした変化をひとくくりにして、 《メタ人間化》 と呼びたいと思います。
 ただし、その 「唯一の実在」 を 「神」 という言葉に決して代置しない (つまり、非偶像化あるいは不立文字の) センスは維持しようと思い、また、そうした到達を、 宗教と呼ぶことも拒否したいと思います。
 他方、従来の宗教が、古典物理学にすら敵対し、いわんや 《メタ客観性》 次元に対応した宗教が、もしあるとするなら、そうした従来のものとは根源を異にせざるを得ないのは必至でしょう。そういう意味では、仏教や禅という東洋の宗教が、すでにはるか昔から、こうした 《メタ客観性》 に極めて近接した世界観をもっていたことは、驚異に値することです。
 繰り返せば、古典物理学が新たな世界を理解するにあたっての障壁であるがゆえに量子物理学が生まれ、さらに、古典物理学が、それ自身、特殊解であるという部分的世界に対応したものであり、人間性分断の二元論に支配されていたという意味で、その物質至上、精神捨象の世界像を生みだしたのも必然です。だからこそ、それは近代資本主義の科学的守護神となりえ、ひいては、今日の地球規模の環境破壊へとつらなる、空洞と化した精神へ惑星大搾取の妄想を吹き込む擬似宗教となってきたのでありましょう。
 前回に思い出話として述べた、進学をすればする程、古典物理学に引き戻されて行ったという、私の人生一周目の経験も、そうした特殊解の引力の強さを物語ったものでありましょう。
  「両方を選ぶ」 選択の一般性という仮説、それを描くことによって私は、終末的状況とも映る今日のこの惑星にあって、新しくも古くもある宇宙的共生のイメージ 《メタ人間化》 に、息つきえる思いを得ようとしています。


 (2007年8月13日)

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