両生学講座 第25回(両生両生学)
“よこせし”世界
今回の副タイトル 「両生両生学」 を見て、読者には、ミス・タイピングではないかと思われた方もおられるかもしれません。しかし、ご心配なく。これは校正済みの、正しいタイピングです。
過去24回にわたっておなじみの 「両生 X X 学」 との副タイトルに代わり、今回、くどくどしいながら 「両生両生学」 と称するのは、これまでの諸学のそうした応用や援用のお陰で、ある、独自の領域が開拓されてきたのではないか、との認識があるためです。それはしいて分類すれば、
「両生哲学」 と表現できなくもないのですが、どこかよそよそしく、あえて今回は 「両生両生学」 と不恰好に表示します。なお、この表示は今回かぎりとし、今後の講座では、単に、回数と
「両生学講座」 とのみ表示してゆきます。
究極の 「両生」 |
さて、今回の講義は、「両生」 の概念の “究極性” についてです。
まずその初めに、右の絵をご覧ください。
以前でも採り上げました 「だまし絵」 のひとつ、 「ルビンの壷」 です。この絵のみそは、それが表す二義性、すなわち、一見ただの白い壷としか見えないものが、視点をその黒い背景に移動させると、向かい合う人の横顔が浮かび上がって見えてくることです
(ちなみに、壷のもっともくびれた部分が鼻先です)。
そういう意味でこの絵そのものは、私たちの目のもつ錯視を利用したもので、テクニカルな絵遊びにすぎません。しかし、この絵の表わすその視覚上の効果が、それ以上の、きわめて重要な、私たちの認識上の錯誤をも示唆しているのではないかとも考えられ、この視点の移動をもってその意味するものが根本的に変貌するような
《両義性》 をもつこの絵を、本講座の脈絡において、 「究極の 『両生』 」 と呼びたいと思います。
この講座での 「両生」 の概念が、当初、地理的な意味に始まり、今では、哲学的、精神的、そしてある意味では、「宗教的」 なそれにまで発展してきていることは、すでにご理解いただいている通りです。そこに、この
「両生学」 の存在理由とでもいえます、私たちの生活や人生自身と結びつける視点をさらに凝縮させる時、この 「究極の 『両生』 」 という視界が浮かび上がってきます。
先に私は、還暦をもって人生の 「二周目」 に入ったと述べました。というのは、私には、その 「一周目」 の体験から、堆積してきた思いがあり、それゆえ、連続しているはずの時間の流れを、あえて区切らせるものがあったからです。つまり、生存してきたその自分の姿を、「仮の姿」 とでも対象化せざるをえない、拭えない距離感あるいは疎外感がそこに常に漂っており、そうした自分の足跡を、即、自分、とは、言い切れないものがあったからです。
しいていえば、よくふかで、こざかしく、せちがらい、しがらみにみちた世界がそこにありました。この、「よ・こ・せ・し」 世界にあっての 「一周目」 を振り返る時、それは確かに、このだまし絵の白い壷に気をとられてきたような60年でありました。しかし、この
「ルビンの壷」 に 《両義性》 を見るごとく、眼では見えない意識内の絵の中に、その 「究極の 『両生』 」 と人生の 「二周目」 の双方を、同時に見たのでありました
(ひょっとすると、こういう 「見る」 は、禅の世界でいう 「第三の眼」 にあたるものかもしれません。ただし、まだ “第二半” ほどのものですが)。つまり、私にとって
「両生」 とは、ひとつのライフ・スタイルどころか、人生の必至の到達点でありました。
その 「一周目」 では、白い壷しか眼中におけなかったことが悔やまれますが、それなればこそ、また、それがゆえの人生 「二周目」 であり、それを、全体をみすえた
「究極の 『両生』 」 を追求する場としたいと思います。これからが正念場です。たとえ、 「一周目」 より、ずっと短くはあろうとも。
思うに、絵では、黒い背景は画面内に限られますが、私たちの生きるこの世界では、それは、自然全体、ひいては宇宙へとも広がり、そこに限りはありません。
「よこせし」 世界は、まったくの極小部分でしかないはずです。
1968年、人類が体験した 「二周目」 たる月世界と漆黒の宇宙に浮かぶ 「よこせし」 地球
(http://nssdc.gsfc.nasa.gov/photo_gallery/photogallery-earthmoon.html
より)
(2007年9月27日、 「中秋」 の満月の翌日に)
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