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両生学講座 第30回


         両生的資源


 三年ぶりの日本行きを終え、4月1日、オーストラリアに帰ってきました。
 前々回の両生学講座 (第28回 日本の最大の因果転倒) で、この日本行きを、あたかも外国を訪れるよう、と表現しました。
 もちろん、久々の日本は、私にとって 「外国」 どころか、そのどこに行っても、なつかしく、さまざまな思い出を呼び起こさせてくれる、まさに “故国 でした。
 ただ、ここであえて 「 “故国 」 と、“ ” 付きで書くのは、その日本が、一般に 「故国」 と表現されるものとは同類のものとはしたくない、あるいは、そう表現することでどこか誰かに掠め取られてしまいたくない、私なりの受止め方の内容の違いを表したいからです。
 というのは、私にとってのその地は、場所でも、地域でも、まして国家でもなく、今回私が会ってきたさまざまの、そうした人々が、そこにそのように、生きておられる地でありました。
 つまり、私にとって財産と感じられるのは、そうした人々の存在であり、決して、そこに存在している物や商品や、あるいは、時に 「豊かさ」 とかと言い表わされる、きらびやかさ、ではありませんでした。
 もちろん、そうした人々は、それぞれに、それぞれの郷土意識を持ち、自分の生まれ育った地や文化に深い愛着を抱いておいででした。
 一方、私は、先に、自分自身を、故郷を持たぬ根無し草、と表現したように、また、その出生の国を飛び出してもはや二十年以上も海外生活を続け、特定の地にそうした強い絆意識を持たない人種となっているように、そしてそれだからゆえ、今回の 《日本行き》 ―― 「帰国」 とは表現しにくい――を、外国への旅のごとく覚悟して出かけたのでありました。
 そういう意味で、今回、私は、それぞれの郷土意識を、経由的、間接的に体験させてもらい、私自身の 「根無し性」 を補完させてもらいもしました。
 もちろん、こういう私自身は、持論である 「両生生活」 の産物であり、それはそれとして、私の、また別の財産と思っています。
 根っからの根無し草 (矛盾形容ですが) である自分にとって、そうした根有り草である人々の生き方は貴く、対極的で、これが自分のモットーとは言え、そこまで両方を選ぶ二者択一としてしまうことはできず、今回、そうした人々と、実に親しく再会しえ、また、内容深い親交がしえたことに、得難い幸福感を見出してきました。
 また、今回、日本で会った人の中には、日本に帰化した方もおられ、他方、ここオーストラリアでは、文字通り移民の国ならではの帰化人社会にあって、たくさんの、第二の “祖国 を生きる人たちと親交を深めています。
 そうした、相対的な故国意識を持つ人たちと私は、ある面で共通したものがあるのですが、私の場合、いわゆる 「帰化」 すべき対象国を持たず、出生国に片足を据えたまま、こうして、他方の片足を他国に置いてきています。
 このように、私に、決定的に出生国を捨てさせることなく 「両生生活」 をし得ることを可能としてくれている私の出生国――日本――を、私は、それほどの深みをもった、 「国」 とはあえて言わず、それほどの 「人々の集まり」 であると、今回、深く感じさせられました。これこそ、私にとっての、「両生的資源」と言えましょう。
 

 (2008年4月15日、18日一部訂正

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