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        どちらの声か


 はじめから少々穏やかではない話ですが、私たちの意識の中で、自分と思っているのは実は他人で、本当の自分はそれではないのではないですか。
 こういうことを言うと、こいつは 「分裂症」 の気があるのではないかと訝しがられるかもしれません。私としては、そう思われること自体はいっこうに構わないのです、それほどに、私たちの自分というものが、おぼつかないものではないか、ということに照明を当ててみたいとする話です。
 ところで、いま医学界では、この 「分裂症」 という名称 (英語の schizophrenia の訳語) は偏見を助長するという理由で使わないこととなり、2002年より、それに代わって 「統合失調症」 と言うのだそうです。そうであるのなら、では、その 「統合」 されているべき人格は、一体、自分のうちのどれが中核となっているのでしょうか。
 こういう問いが念頭にのぼってきたのは、前回講座の 「こちら側とあちら側」 を読んだ読者から、次のようなメールをいただいたことがきっかけです。

 つまり、ここでいう 「自分の意識」 あるいは 「自己」 を、何をさしてそれとするのか、ということについてです。
 ところが、そもそも 「自分」 や 「自己」 とは誰にとっても自明なことで、それを問うこと自体が、冒頭のように、常態から外れる、病的、すなわち 「分裂症」 ないしは 「総合失調症」 的関心、と受け止められそうです。そういう、わだかまりを引き起こすことを覚悟して、そこでいう、“まともまともでない、の話です。

 そうした 「自分の意識」 について、私の経験してきたことは――それは、これまでの一連の講座やエッセイで明らかにしてきたことなのですが――、こうした 「自分の意識」 あるいは 「自己」 といったものについて、当初、それこそが自分自身と思っていたものが実は外から移植された他人のもので、本当の自分のものといえるものは、長い体験において、浜辺の砂の中から一粒のかけらを探し出すように発見してきた、そのプロセスは容易ではないものの、それ自体は、思いもかけないほど素朴なものあることです。
 私をして、それらの書き物の中に、「勝者の歴史と敗者の歴史」 とか、「人生の一周目と二周目」 とかと言わせているものは、こうした、天地が逆転するかのような、「自分の意識」 や 「自己」 についての、番外な気付きにもとづいています。
 それを体験し始めたばかりの頃は、その “新参者の存在を、まるで雑音か子供の声のようにしか受け止められず、それに拘泥しようとしている自分がどこか惨めでならなかったのですが、やがて同様な経験を幾度も味わううちに、次第しだいに、受け止め方の軍配の逆転をもたらすほどになってきたものです。

 そうした過程にあっては、その、どこからとも上がってくる微細な声は、それを捨て去っておくことも造作ないことなのですが、結局、そうはできずに意識の片隅にあたためておくこととなり、様々な噛み直しや再考を繰り返す経緯をへて、結果、むしろそちらに自分の中軸を定めるようになりました。
 つまり、そうした 「新参者」 は、自分が自分で育くんできた貴重な産物とも言え、そういう見方からでは、それは確かに、自分のもの、自分の中核でもあります。そういう、「我思う、ゆえに我あり」 の 「思う我」 (コギト) は、いかんともしがたく確かにそこにあり、その中核性は否定のしようがありません。
 もちろん、当初の自我にしてみれば、その首座からの転落もろとも、その新参者も含めてそれらすべてを 「自己と考えない」 とらえ方も可能です。ただ、そこでも、そう考えている主はいるわけです。その他方、その 「コギト」 なる新参者は、「自分」 という卑小宇宙を、自然の巨大宇宙の、それに一体化した一部ととらえる――デカルト的孤高とは異質な、東洋的 「統合観とも思うのですが――、手ごたえある存在実感を発見している、とも表現可能です。

 それをどう呼ぶかの違いはあるにせよ、要は、容易ではないはずの人生過程の中での、「主従が逆転するかのような」 発見の有無とその認識です。言うなれば、自我の発生以来、自己の中に鳴り物入りで構築させられてきた 《内部植民地の、その独立解放運動の有無です。
 そういう、原住民たる自分の、主の交代が起こるまでもの尋常性逸する問題であるからこそ、その未達成の事例の各々においては、無差別殺傷にせよ、自死までに至る労働にせよ、或いは、地球死をも悶着しない利益の極大化に邁進する組織集団にせよ、それらは、精神の 「分裂症」 ないしは 「統合失調症」 的な症状として、「私たち」 と自明のように呼ばれる正常性の世界の中に発生してきているのでありましょう。

 【追記】 以上までを、5月29日までに書き上げていたところに、6月8日、秋葉原の事件が起こりました。極めて痛ましい出来事です。ただ、それが発生したからといって、上記の内容に手を加える必要は見出せませんので、そのまま、掲載いたします。

 (2008年5月29日、6月10日追記)


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