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私共和国《訳読》― 第1回

“ボケ”ずに生きる

どうすれば脳の健康を保ち、認知症を予防できるか

Dr. Michael J Valenzuela 著
(ABC Books, 2011)

訳読 松崎 元




翻訳上の注記
 ◆この 「訳読」 は、原著の読書の一環として個人的に訳出されているものを私的サイトに掲載したもので、翻訳出版あるいは販売を目的としたものではありません。
 ◆この 「訳読」 は、長い読者にはおなじみのように、訳の終わった部分のみを逐次追加掲載してゆくものです。訳読済みの箇所はもくじ内に青字で表示されていますので、それをクリックすれば、その箇所にリンクされます。
 ◆訳読上で必要なコメントは 〔 〕 内に表示します。
 ◆原文には必要な専門用語に解説がつけられています。この 「訳読」 では、そうした用語が出てくるごとに、その語を
太青字で表示し、その用語解説とリンクさせてあります。
 ◆原文でイタリック体となっている箇所は、下線をいれてそれを表示してあります。
 ◆豪ドルの換算は、1豪ドル=80円で計算。
   
【ご案内】認知症の予防や治療の観点で、大きく前進した本がアメリカで出版され、2018年、その邦訳版『アルツハイマー病 真実と終焉』(ソシム株式会社)〔原題 The End of Alzheimer's 著者 Dale E. Bredesen, MD〕が出ました。合わせて読まれることをお勧めします。




も く じ



著者紹介
 Michael J Valenzuela 博士は1999年以来、認知症と脳の加齢を研究してきた。2006年、彼は、その認知症危険を低減させる精神的活動の研究に対し、名誉あるオーストラリア博物館、医学部門のユーレカ賞を授与された。
 バレンズエラ博士は最初、脳卒中と血管性認知症を専門として、心理学の分野で研究した。その後、シドニー大学で医学を習得し、ニュー・サウス・ウェールズ(NSW)大学で博士号を獲得した。そして彼はシドニーのプリンス・オブ・ウェールズ病院で医師として働き、2006年、NSW大学の精神医学部にもどり、研究生活に入った。彼は現在、同学部の上級研究員で、再生神経科学グループを率いている。
 バレンズエラ博士は脳の加齢や認知症の分野での多くの科学研究論文を執筆してきた。彼の研究は、シドニー・モーニング・ヘラルド紙、タイム誌、ビジネス・レビュー・ウイークリー誌、ABCテレビ番組の 「キャタリスト」 やその他多くのラジオ・インタビューなどで扱われてきた。
 マイケルは、広範なレジャー活動にかかわることで自ら示すように、ことを実行することに楽しみをもち、サルサダンスや武道を自ら訓練し、旅行やセイリングを愛好し、現在は園芸にも手を広げている。



はじめに

 認知症 〔かつての 「痴呆症」〕 は、最初はその本人にとって、そしてやがてはその家族にとって、耐え難い病気です。それは、その人の記憶を失わせ、次第に人格や自立性を奪いとり、ついには、体の自由さえ不可能とさせます。また認知症は、生涯の業績も、獲得した知識や経験も無とさせ、ある日には幼い子供同然の要介護者へとおちいらせます。家族や知人からの尊敬に包まれた人生終盤の満ち足りた生活に代わって、見知らぬ人より凝視され、食事を与えられ、体を洗われ、何をすべきかを指示され、用便後の始末までもされる、自分もなければ受容すらもできない、そうした生活が到来します。
 そうした認知症から、私たちは自分自身を守ることができるのでしょうか。
 この本は、私の講演の際に参加者からよく問われる、まさにそういう質問に応えるために書かれました。
 社会一般の人々には、いったん認知症になった時、信頼しうる知識を得ようと期待するウエブやメディアの情報に、少なくない不満があるように見受けられます。ゆえに私は、認知症の原因について知られている (あるいはまだ知られていない) ことを明瞭に説明し、その予防には何が可能で、そして、自己管理法を見出すことで人々の不安を除去したいと望んでいます。
 いいニュースは、今日の私たちをむしばむ認知症の主症状は、その大部分、遺伝ではないことです。つまり、認知症の主な危険因子は緩和可能で、その病気を避ける可能性を最大化するさまざまな方法がとりうるということです。
 私は過去十年間のうちの基幹を、加齢と認知症の調査研究にあて、その間に二つの画期的前進を目の当たりしてきました。
 その第一は、血管疾患がアルツハイマー病の直接の危険因子であるとの発見で、さらに、研究者によっては、アルツハイマー病はむしろ脳血管疾患であるとさえ主張しています。この発見により、血管の健康を向上させることで認知症になる危険を減少させうる道が開かれました。この意欲を沸き立てる考えにはいろいろな切り口があり、この本では、幾つかの章がそれを扱っています。
 第二の画期的前進は、 「大人は新たに脳細胞をつくれない」 との教科書的知識が次第にかつ根本的に見直されてきたとの “どんでん返し” です。私たちは現在、大人の脳は、新しい神経細胞をつくることのできる神経幹細胞を自然にもっていることを常識とするようになっています。私自身を含む多くの研究者は、今後のアルツハイマー病の治療に、このプロセスを利用することを追究しています。
 しかし、この本は、 「予防にまさる治療なし」 との医学的通念に立ち、 予防 について書こうとするものです。すなわち、私は自分の初期の研究の際、ダイナミックで興味を引かれる人々に、認知症にかかる人が少ないことに注目していました。そこで、精神的活動の高低について何千人もの人たちを比較した研究をくまなく調査して、精神的に活発であることがほとんど50パーセントも発症率を下げていることを発見し、おおいにショックを受けました。それゆえ、精神的活動と認知症との関係については、この本の後の半分をあてています。
 この本を完全に読み切る時間と意欲をお持ちでない読者に、ここにその結論を示しておきましょう。
 認知症を避ける最良の方法は、精神的活動の多様性と複雑性を増すことで、ことに、リタイアした後では、合わせて、身体的活動と社会的活動を忘れないことです。もちろん、特定の活動が病気の発生を防止すると保障するものではありません。しかし、認知症を避ける確率を高める具体的方法を見出すためには、この本を読み続けるべきです。実際、この本は、この類の本のうちで最初のもので、それを読み通すことこそ、認知症予防の要望〔と要因〕を満たすものとなるでしょう。

 この場を借り、この本の原稿を丹念に読み、指摘をし、その向上に努めてくれた家族や友人――父と母、ヴェネッサ、メルP、ソフィア――に心からの感謝を捧げます。またキランには、その感想や激励、および、その 「健康な脳のための食事計画」 というすばらしい仕事に深くお礼を言います。私の同僚たち――ヘンリー・ブロデイティー教授、アドリーン・ウィズオール博士――には、この本の独立した部分への貢献にことさらなお礼を言いたく存じます。トニー・ジョーン教授、カレン・クレン、クルディプ・シドー、スー・クレル、カール・コットマンからは、極めて有益な文献引用をいただいたことに感謝します。また再び母には、きれいな科学的イラストを賞賛します。加えて私はことに、パーミンダー・サカデフ教授に、私の学研生活全体に対しての比類なきご指導をここに特記し、そのお陰で私が今日あることを明記いたします。
 私よりの緒言の最後は、探究心旺盛な読者や開業医としての必要を取り上げたいとする方々へのものです。私の医学および心理学者としての専門から、私は、少なくともひとつの科学的原文献に当たって、主要事項の再確認をしておくことが重要と思います。そうした関連する学問的医学記事の詳細は、本書参考文献のなかに発見できます。良好な図書館ならどこでも、そうした記事の発見は可能で、それからさらに学ぶことが可能です。
 それでは、みなさんの前進を祈って、精神の転換に遅すぎることはない ことを申し添えます。


第1章
認知症とは何か




 「認知症」 の意味するもの
 ほとんどの人々は、何が認知症かについて自分では理解していると思っているでしょう。ですが、彼らがそれが何かを尋ねられた時に、 「歳をとれば誰でも認知症になる」 とか、 「認知症は、記憶をなくし、常に迷子になり、自分を失い、人格上の変化すら意味する」 とかと応えるのを聞くたびに、私はいつもある印象を深くしてしまいます。それは、彼らが真実のいくばくかはとらえているものの、完全に正しいものではないということです。そして驚くべきことに、こうした混乱は、科学界にすら反映されており、数年ごとに、総会などである提案者が立ち上がって、標準的な定義が不完全か不正確、あるいはその両方かである、と指摘することとなります。
 問題の一端は、認知症がまさしく、多くの異なった起点を持ちえた、長い一連の生物学研究の最終的段階の知見であることにあります。例を挙げれば、認知症といった種類の病気は、アルツハイマー病と同類です。研究者はアルツハイマー病を一世紀以上にわたって研究してきており、その特徴的な脳の変化はかなりよく把握されています。次の章でより詳しく触れますが、アルツハイマー病は、ほぼ常に脳の同じ部位――頭蓋骨のほぼ基底部――で発症する、脳細胞の次第な消滅や萎縮をともなう、ゆっくりとした過程のことです。
 そのアルツハイマー病に対置されるものとして、西欧諸国での認知症の他の主要な病象である血管性認知症があります。このタイプの認知症は、脳への突然な損傷をもって発症します。さらには、その脳損傷の位置はそのすべてで必ずしも重要であるわけではなく、いくつかの症例では、脳損傷の位置や規模を合わせた全様相が、認知症をもたらしているようです。
 つまり、脳の二つの異なった経路を通じて、同じ結果である認知症へと至るということです。そうであるなら、神経学者や精神医学者が各々に対象とする〔違った〕認知症の病象は、何を意味するものなのでしょうか。
 通常の英語では、認知症は、人の精神機能の顕著で持続する低下であり、日々の生活を、不可能とさせるものではないとしても、重篤に困難にさせる〔と理解されている〕ものです。したがって、認知症とは、私たちが、例えば、高熱や重い脱水症状で心的錯乱に陥った場合に経験する、そういう低下した精神状態ではありません。つまり後者の場合、私たちの精神に、その生物学的機能への一時的な乱れが生じて発症した病状です。したがって、抗生物質によって感染が抑えられたり、点滴がほどこされたりすれば、私たちの精神状態は正常に戻ります。だが残念なことに、現在のところ、認知症はきわめて治療不可能で非可逆的な状態を言います。実際、認知症はつねに進行をつづけ、いったん発症すると、悪化はすれども、回復はありません。

 認知症、統合失調症、うつ病の違い
 明晰な読者なら、 「それならば、統合失調症やうつ病の場合において、もし、精神機能が深刻に低下している場合、それを認知症には含めないのか」 と尋ねるかも知れません。興味深いことに、エミール・クレペリンというドイツの心理学者は、1896年に、最初に統合失調症を体系的にとらえ、それを prococious dementia 〔早発性認知症〕 と呼びました。彼は、統合失調症の若者と認知症の高齢者とを比べ、臨床上の類似性に注目したのです。しかし、今日、私たちは両者の違いの方が類似よりはるかに大きいことを知っています。例えば、統合失調症の場合の脳の変化の種類は、アルツハイマー病や血管性認知症に見られるものとは大きく違っています。重要な点は、適正な医学的治療によって、多くの統合失調症の患者は、家庭でも社会でも適応が可能なことです。
 だが、うつ病の場合はちょっとややこしく、というのは、うつ病の高齢者は認知症ととてもよく似た病相を表すため、時にはそれに、擬似認知症との用語が使われたりもします。ご承知のように、うつ病の主な症状は、悲惨さと望みのなさの圧倒的な感覚で、それはちょっと認知症と混同されるものではありません。ところが、うつ病の高齢者の場合、社会的孤立や精神機能の衰えが強くてうつ病による感情的な苦痛をまさり、若者の場合とは顕著に違っているため、認知症に似てみえるのです。高齢者がなぜそうなのかはいまだによく解っていませんが、私の経験では、いま時の高齢者世代の禁欲的で質素な特徴――その多くが二次大戦をくぐってきた――が何か関連しているのかも知れません。
 私たちはみな、誰かの気持ちが落ち込んでいる時、その人の精神機能がおかしいと感じますが、重症なうつ病の場合、その影響は通常の日々の生活から脱落してしまうほどに大きいのです。それがゆえ、うつ病は、高齢者の場合ににせの認知症となりえ、誤った診断が下されやすいのです。うつ病は治療の可能な病気ですので、この誤診が意味することは極めて重大です。うつ病に代わった認知症との誤った診断は、適正な治療の開始を妨げると同時に、多くの不必要な個人的、家族的な苦悶をもたらしてしまうのです。
 そのほかの困難な問題は、個人に病気が始まったと気づく、認知症過程の初期に起こり、それは他〔の病気〕でも起こりえます。すなわち、何かが起こっているということと、それが何であるのかということの食い違いは極めて痛ましいものです。誰かが落ち込んでいる時、その人の精神機能が著しく低下していると疑うべきなのは当然です。ですがその際、認知症とうつ病のいずれもが発生しうるわけで、それらは時には互いに悪化させ合います。このために、うつ病の場合はつねに、その人に新たに認知症の診断がありえるのではないかと再吟味されるべきなのです。
 したがって、診断者は、独立した認知症か、認知症とうつ病の合併症か、それとも不規則なうつ病(擬似認知症)かの、三択問題にさらされます。だが現状はけっこう後ろめたいもので、事の真実が、試しの抗うつ剤投与や、しばらくの様子見によって確かめられたりする場合もよくあることです。ただ幸運なことに、時間の経過とか正しい治療を経るかどうかにかかわらず、関連した精神的後遺傷を含めますが、大半のうつ病は治癒しています。ともあれ、高齢者のうつ病と真の認知症との間の重要な違いは、認知症は治癒不能ということなのです。

 
認識野と認知症診断
 これまで、私たちは、精神機能について、一般的な条件でそれに言及してきました。しかし、今後述べてゆくように、極めて異なった脳疾患が認知症を引き起こす可能性があり、また、そうであるがゆえ、最初から極めて異なった認識野が冒されている可能性があります。認識野は精神機能の深層の諸機能で、知的思考、行動、言語の働きの際にはそれらは結合されます。神経心理学者は、人の異なった認識野での強弱を計測するための試験法を用います。次の章で述べる認知症の探索に重要なのですが、認識野には以下のものがあります。

 認知症はどれほど深刻か
 もっとも信頼できる推定によると、オーストラリアでは22万人〔総人口は2240万人なので1%〕が認知症をわずらっています。そしてこうした患者の介護のための直接の医療費が、年間32億豪ドル〔2,560億円〕を越えています。信じがたいことに、ファイザー〔薬品会社〕による最近の調査によれば、成人オーストラリア人の47パーセントが、家族や友人に認知症患者をかかえていいるといいます。
 したがって、認知症は、オーストラリア社会のもっとも重たい社会的、医学的問題のひとつです。歴史を遡れば、この問題がどうしてこういうことになったのかは明らかです。アメリカでは、19世紀が20世紀になる頃、感染が成人の最大の死亡原因で、当時の平均寿命はわずか47歳でした。アルツハイマー病や血管性認知症は高齢発症の病気で、通常、60歳を越えてから始まります。つまり、20世紀の始めでは、ほんの少数の人のみが認知症の年齢に達していたわけで、問題とするまでもありませんでした。
 20世紀は様々の画期的前進をもたらし、健康の分野ほどそれが著しい分野はなく、清浄な水、衛生、抗生物質が入手可能となったことで、先進国での寿命はおどろくほどに伸びました。さらに、20世紀なかば、オーストラリア人の平均寿命は70歳でしたが、今日ではそれは80歳です。この伸びは、心臓病への理解と治療の分野での前進が大きく貢献した結果です。例えば30年昔、心不全は健康な人々の間での最大の死因でした。だが今後20年以内に、アルツハイマー病や血管性認知症という退行性の脳疾患は圧倒的となり、最大の死因となるでしょう。
 その理由は、認知症の危険因子は、議論の余地なく、高齢化だからです。60歳代では、認知症の発症率は5パーセント以下ですが、それが80歳代になれば、一気に25パーセントへと急増します。つまり、オーストラリア社会の平均寿命において、四人に一人の認知症をもつ段階に達しているのです。これは、私たちの多くが、高所から転落したりして突然死するというより、むしろ、精神的な荒廃が長く知らず知らずに進行して死ぬということを意味するなら、それは極めて憂慮されるべきことです。それはまた、私たちが人生最後の時を過ごす場所が、介護施設であるとか、自宅であっても重負担な医療や介護を受けた後であることが、極めて高い可能性としてあるということも意味しているのです。

 人口学的な予測
 団塊世代が高齢化し、60歳以上の認知症危険年齢帯に入りつつあるとの事実について、様々なことが論じられています。曰く、認知症率は実際に上昇しているのか、あるいは、私たちは本当に心配すべきなのか。これら二つの質問に対する答えは、明らかな 「イエス」 です。
 最新の疫学的データが示すところでは、認知症率は現在、静かな上昇を始めたばかりのところです。例をあげれば、オーストラリアの認知症発症率は、1993年から2002年の間に、30パーセント上昇しました。そして、メルボルン大学精神医学部、ORYGEN研究所のアンソニー・ヨーム教授によれば、この問題はより悪化しています。ヨーム教授は、オーストラリアの最も高名な公共精神保健研究者で、 こう述べています。 「認知症をもつ人の数は人口が高齢化するにつれて確実に上昇しています。団塊世代が80歳代に達する時、我々が何らかの予防に成功しない限り、認知症の流行は避けられないでしょう。」 (1)
 Access Economics の経済モデルによる発見では、もし現在の認知症率が団塊世代の大集団に適用されたとすると、年間医療出費のGDP比率は、0.5パーセントから3パーセントへと上昇します(2) 〔2010年のGDPは1.16兆豪ドル(約93兆円)〕。つまり、今後30年以内に、認知症の発症の増加が政府を破産させる危険をはらんでいます。これは実に憂慮に値することです。つまりは、現在の傾向から推定されることは、将来、認知症患者の介護が根本的に貧弱となるか、あるいは、他の重要な予算配置が犠牲とされるかのいずれかとなる、ということです。
 これは、医学的進歩の代価ともみなせることです。つまり、私たちは、人間の主要な疾病の治療における、自らの成功の犠牲者になりかねないということです。そこでは、私たちが迎えるべき共の運命とは、 「脳の病気」 の流行と、その他は、財政的惨事の克服につきるのでしょうか。見通しはいかにも寒々としています。
 幸い、それほど悲観しなくてもよさそうな、幾つかの理由があります。第一は、つねに有効な治療が開発される望みがあり、すでに現在、いくつものそうした治療が試されています。政府や民間企業に支援された基礎的、臨床的認知症研究は、ゆえに、私たちの生活基盤の維持を左右するとさえ言えます。この分野では、オーストラリアはアメリカよりはるかに遅れており、それが許される理由も見出せません。北米大陸では、一人あたり平均、毎年300ドルが認知症に関連する調査研究に使われているのですが、オーストラリアでは、それは15.4ドルにすぎません。もし読者がこうした状況に不安を感じるなら、地元の国会議員に手紙を書きましょう。
 暗い面では、今日の肥満、糖尿病、そして運動不足の蔓延は、オーストラリアの平均寿命を、この100年間で初めて、実際に短縮させ始めるかもしれません。ということは、そういう長期的結末として、認知症人口を減少させるかも知れず、この点では、皮肉ながら歓迎される話なのかも知れません。
 他方、肯定的な面では、効果的な治療法の発見の有無とは無関係に、私たちはすでに認知症の発症を減らす方法について、その活用が期待しうる科学的な知見を蓄えてきています。これが、まさしく、この本を書く動機となりました。私たちは、予防的な関連が見出せた七つの分野をこの本で見てゆきますが、広くは、二つの主要点について述べてゆきます。すなわち、身体的健康と認知症の関係と、精神的活動と認知症の関係の二点です。この面での基本的原則は、より早い予防的対応の取り入れが、より有効ということです。ですから、私が提唱したいことは、読者が、自分と社会の両面において、行動するのか不行動でいるのか、そして、そうした推薦事項に今すぐとりかかるのかどうか、と問い始めることです。

 認知症予防についての科学と技法に移る前に、私たちは、この種の病気のうちの二つの主要な姿、アルツハイマー病と血管性認知症について、その類似点と相違点を理解する必要があります。そして、認知症経験とはそれぞれどういうものであり、生医学レベルで行われている研究者の考えはどういうことなのかを論じてゆきます。


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