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熱力業風景
(その1)


新シリーズの始まり




 新たな 「風景シリーズ」 を始めたいと思います。
 題して、 「熱力業風景」 。
  「エネルギー業風景」 とできなくもないのですが、ひとつもじってみました。
 つまり、ここでの 「熱力」 とは 「エネルギー」 を時流の中国語風に言ったものです。寿司修行がひとまずの区切りに達し、かくしてめぐって来た新たな関わりに、私自身として、それなりの熱意を傾け始めている――あるいは、傾けざるを得ない――のも確かです。そういう次第をひっくるめて、 「熱力業風景」 と題してみることにしました。
 ただ、厳密に言うと、この私の新たな職業的関わりは、いわゆるビジネスコンサルタントとして、熱力業ばかりでなく、けっこう広い範囲のサービスを旨としています。そうなのですが、ここ当面の焦点は、ここオーストラリア経済を沸かし、のめりこませている熱力業であり、とりあえずのタイトルとしては、そうその焦点をかかげてみたわけです。従って、時には、その範囲をこえた脱線談になることもあるかも知れません。

 このシリーズは、前シリーズの 「修行風景」 が、私の寿司修行に関わったものであったのと同じく、私の “しのぎ” に伴う風景です。
 ご承知のように、 「しのぎ」 とは、ヤーさん用語での、仕事、金稼ぎのことです。
 人間、喰ってゆくとはヤクザなしわざで、行き掛かり上、当人がどう考えたり感じているかはともかく、波にさらわれるように、結構きわどいこととの関わりも避けられないものです。
 それに、このコンサルタントという職種は、寿司修行という、人が生きる上で直接に必要とされる食行動に関わる、つまりそれだけ人間味が伴う職種と違って、人間行動としては抽象度の高いものです。その分、人間味という意味では、ひどく無味乾燥、あるいは、驚くほどにシンプルな動機――お金とか権威とか――が君臨する、やたら白々しい世界でもあります。
 そんな具合で、この新シリーズでは、寿司修行風景で見られた、人情劇風な肌合いや血の通い合いの描写などとは違って、そんな味気を欠く環境にあっての、一種の評論風な語り草になってゆくものと予想されます。
 ただ、そうした稼業に従事することによって知りえる、言わばインサイダー的情報が、そんな味気なさにある種の興を添えるかも知れません。そういう意味では、具体性と特殊性を帯びた、 「証言」 になりえるかも知れません。
 
 まえおきが長くなりましたが、そういう 「熱力業風景」の初回として、以下、この新風景へと至ったその背景を描いておきたいと思います。

 永年のくされ縁
 この新たなめぐり合わせとでも言える当 《しのぎ》 との関わりには、私にとって、ある感慨を呼び起こすものがあります。
 と言うのは――他に書いたものと重複しますが ( 『相互邂逅』 参照)――、私が大学を卒業後、土木技術者として社会生活をスタートしておきながら、早くもそのとば口で、軌道から外れるように労働組合関係――それでも建設技術者関係のものでしたが――の仕事に移りました。そこで出会ったある大仕事に、一度はそれがライフワークとなるやもと覚悟するのですが、それは思い掛けずに早く決着し、それを契機にここオーストラリアに飛び出してきました。この出国は、中年になろうとしながら海外留学を試みる、しかも労働運動を国際的な視野で学んでみたいという酔狂なものでもありました。ただ、この異色で危なっかしい試みも、当地でのまさかの歓迎や支援をえることとなり、これがこれまた思い掛けない人的出会いをもたらしました。そして、そう遅れて取り組んだ留学生活も、当初計画から大幅にエスカレートして博士号や永住権までをも獲得する成果をえ、その新たな看板も生かしもしながら、奇遇な人脈――これも労働運動が縁となるものでした――をベースに、親しい知己となったオージーたちと作った会社が曲がりなりにも生き延びて、今回のビジネスコンサルタント関係の 《しのぎ》 をもたらすものとなりました。
 この会社は、俗にビジネスコンサルタントとは称しても、その得意とする分野はやはり労働問題、つまり労使関係あるいは人的資源問題です。言い換えれば、ビジネスに伴う人間問題、つまり、技術や装置やお金の面を “ハードウエア” と呼ぶなら、その “ソフトウエア” 面を専門とするものです。
 このように、私の身辺上の小状況としては、上記のような経緯と特徴を経てきました。
 ところでそうした小状況の一方、オーストラリアや日本をめぐる、私たちの大状況においても、定見を超える興味深い展開が見られます。と言うのは、近年になって、これまた予期せぬことに、日本のエネルギーの供給先の分散と安定を求め、ことに、昨年の震災と原発災害が引き起こした緊急なエネルギー不足問題の救済策として、オーストラリアのLNG(液化天然ガス)が急浮上してきたことがあります。
 そこで生じてきたひとつの結実が、前回号でレポートした、 「2.6兆円LNGプロジェクトが始動」 です。つまり、そうした巨大な事業が、しかもそれのみに尽きず、まさに芋づる式に、日本から大挙しての諸投資という形で、私の滞在するこのオーストラリアに投下されてきています。
 過去、同様なオーストラリアへの日本の投資ブームは、私が渡豪してきたばかりの80年代にも見られましたが、それを遥かに上回る規模のブームが、再度、到来しているというわけです。
 このようにして、私をめぐる大、小、両状況において、期せずして生じてきている多重な偶然の収れんがあり、それは、我々の極小会社でもそのおこぼれにあずかっているごとく、いろいろなビジネス機会を生んでいます。またそればかりでなく、よくは見えにくいながら、労使関係や人的資源関係、すなわち、人間が働くことにまつわる諸問題がその収れんの要となって、地下茎のような働きをしてきているようであることです。つまり、私は私なりの、また、オーストラリアではオーストラリアなりの、人間が働くことにまつわる 「ソフトウエア」 問題への人間的 《こだわり》 が、こうした収れんをもたらしてきた隠れた触媒であったことに気付かされます。ことにオーストラリアでは、その 《こだわり》 は、労働党政権として、国の政治的一翼を形成するまでにもなっているということです。
 かって、そういう肩身の狭い仕事に移り、一見、みすみす愚かな貧乏くじを引くことと自認(あるいは誤認)させられたことが、長いながい歳月の末にこうした結末をもたらすとは、私自らを含めても、誰にも想像だにできないことでした。
 私にとって、そうした 「永年のくされ縁」 は、それがそう持続されてきたがゆえに、こうした展開をもたらす結節点となりえたのではなかったのかと、こうした、言葉のあらゆる意味での予想圏外の至りつきに、深い感慨を抱かされないではいられない次第です。

 そこでの風景を描くこととは
 さて、そういう私が、こうした感慨を胸に、この新たな風景を描こうとしています。
 実を言えば、そうした 「風景」をよくよくと考えてみると、すでに三つの切り口をもって、ある程度の作業の準備が出来ていたと言えます。
 そしてその三つの切り口とは、本サイトが持つ、三つの役割に対応しています。
 つまり、第一の役割として、オーストラリアの情報を一般に提供するという、「リタイアメント・オーストラリア」 事業関連の記事があります。第二は、ここ 『私共和国』 におけるノンフィクションの記事であり、第三が、 『両生空間』 を根城とするフィクション諸作品です。(なお、この三つの役割についてのより詳しい説明は、HPの 「本サイトについて」 をご覧ください。)
 そうしたお膳立ての中で、上記の 《しのぎ》 にまつわって、この第一の役割を果たしたものが、上の 「2.6兆円LNGプロジェクトが始動」 の記事です。つまりそれは、オーストラリアの現地情報の提供を目的とした一般的報道レベルもので、いわゆる “客観的” 事実記述を旨としています。
 ただ、建前としてはそうではあるのですが、この記事で初めての試みとして、上記のような大小両状況での収れんに背中を押されるようにして、我々の会社、「アジア・プロジェクト・パートナーズ」 の名を出したり、また、このイクシス・プロジェクトの今後に伴う分析として、そうした 「ソフトウエア」 の問題を指摘したりしています。
 ただし、そうした新工夫も、その役割上、越えられないおのずからの限界はあります。そこで、そうしたいわゆる “客観報道” の壁を越える試みの役割を与えられているのが、ここ 『私共和国』 で、上記のまえおきに述べたように、新たなシリーズとしての風景描写が始まろうとしているわけです。
 つまり、この新風景シリーズは、ここ 『私共和国』 の記事として、客観性と私なりのこだわりという主観性の、二股をかけた、あるいは、一歩力んだ記述を特色とします。さらにそれは、自分の 《しのぎ》 行為にからむ一抹の良心の発露行為に、ひとつの手段となってくれそうな期待も込められています。
 ともあれ、こうした私的こだわりのそうした実行は、ビジネス行為としてはあまり歓迎されない結果をもたらすのが常です。そういう次第で、この実行がこの先、吉とでるのか凶とでるのか、 「老いらくの恋」 ではありませんが、もはや失うものもほぼ看過しうるこの齢にあって、この運命的な出会いを、自分なりに脚色してみたいものです。
 最後に、第三の役割を負うべき 『両生空間』 についてですが、このフィクション作品を旨とするサブサイトでは、今のところ、この 「熱力業」 関連の 《しのぎ》 にまつわる作品は、何ら手掛けられてはいません。いくつかのヒントはあるのですが、おぼろげかつつかの間で、時がもたらす熟成作用を待つしかありません。(追記ですが、そのおぼろげなものを、少々、 『両生空間』 に書いてみました。)

 以上のように、言うなれば鼎談構造のひとつの柱としてこの 「風景描写」 があり、それがゆえの “三乗” 効果を期待しているわけです。

 (2012年2月22日)

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