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 老いへの一歩》シリーズ


第9回    遺品のショパン  


 このシリーズは、表題のように、「老い」 という “現象” ―― 「人生ステージ」 と言った方がいいかも――を扱ってきています。二周目の人生航路に避けては通れない、明暗こもった 「パンドラの箱」 です。誰しもすすんでは開けたい箱ではありません。
 前回までは、その 「老い」 について、 徐々に衰えゆくその方向は変えられないものの、そのうちの 「健康」 サイドに焦点をあて、それでもなんとか 《創造過程》 に乗せうる 「明」 の角度から見てきました。
 その一方、たとえば、私の親しい友人のひとりが、年齢的にはまだ早すぎとも受止められるのですが、すでに明らかな痴呆症状を示し始め、その彼や家族のことに考えを廻らせていると、時間の問題として誰にもやってくる、 《病的状態》 としての 「老い」 の側面も、ひしひしと現実味を帯びて迫ってきます。
 この老いにまつわる 「暗」 の側面は、自分自身の白髪のように、いつの間にやら自分の一部属性と化している、しかも白髪事程度ではすまない、重たい荷物です。
 同じ避けられない属性でも、昔の成長時代に伴ったそれなら、ポジティブな自分自身として、誰しも、歓迎し、楽しめたものです。しかしながら、この 「老い」 に伴うその荷物は、まずは歓迎されない、疎ましく、ネガティブで、そして時には、醜悪視すらされて、その 「パンドラの箱」 は、ますます重たくのしかかってきます。
 むろん本人にとって、そんなネガティブなものをあえて選んでいる積りはなく、あの成長時と同じく、自然に年齢を加えてきただけの結果です。季節と同じです。それがいつからか、そして確かに、 《病的状態》 とも分類されて止むを得ない、自分の負の属性となりつつあります。
 ゆえに、それは一人ひとりの個別の問題としては、第一に、回避に努力し、それでもやってきた時は、介護の方策を追求し、そして最後は、安楽な旅立ちを志向するしかありません。
 ただ “処方箋” としてはそれでよいでしょう。しかし、これからまだ20年近くの “未来” をもつ者には、 その大きな時空間を満たす、 「処方箋」 以上の、生の 《設計図》 が必要です。
 だからこそ、その 《暗部》 をめぐるある種の諦念にそうは素直になじみたくはなく、時には、年甲斐もなく、 《反抗》 すらしたくなるのです。
 そう言えば、昔、それこそ私がティーンの頃、 『理由なき反抗』 という映画がありました。1950年代半ばのアメリカ社会のティーン世代の反抗を描いたこの映画は、人生の 「入口期」 と 「出口期」 との先の脈略で言えば、 「入口期」 での反抗を描いたものです。
 それを、人生二周目期での 《反抗》 とはおだやかではないのですが、少なくとも、それを “ブラックボックス” に葬りたくはありません。入口にあるものが出口にあってどこが不思議でしょう。
 また、こんな歌もあります。

 あるいは、私がネットの中で偶然に発見した、以下のようなブログ記事があります。ちょっと長い引用となりますが、借用します。
 私の亡き父親が認知症を進行させていた時、やはり父もよく迷子になり、交番のお世話になっていました。
 その際、上記のエピソードのような世話を、どなたかからいただいていた可能性はおおいにあります。ただ、私の知る限り、こうした突飛な “ナンパ” の行動まであったとは聞いていません。しかし、最後に入った養護施設では、よく若い介護婦さんのお尻をさわったとかで、エッチじいさんとの評判ではあったということです。
 認知症のケースしだいでは、この程度のものはまだ軽度のもので、重篤なものとなれば、おじいちゃんが家族内の嫁に異常な執念を示し、聞くも絶えないような言動にまで発展する場合もあるようです。

 ここでまた、昔の話を思い浮かべます。40年近く昔の、ある生活シーンです。
 その頃、私は結婚してまだ間もない頃で、私たちは、ボランティアで、親に捨てられられたある “知恵遅れ” (この言葉は差別用語なのでしょうか) の少年――といっても推定年齢は二十歳くらい――を、月に一回ほどの週末の一泊二日、我が家で過ごしてもらっていました。
 その際、横浜郊外のとある公立施設から東京、高円寺のマンションまで、片道二時間近くを、電車を乗り継いで連れてきていました。
 その道中なのですが、駅のホームなどで、彼は、同じ年恰好の少女をみつけると、むろん時や場所の配慮などお構いなしで、突然に言い寄って行くのです(しかもみるからにかわいい子に)。むろん、相手は一瞬、驚くのですが、私たちが事情を説明して、なんとか理解はしてもらっていました。
 彼だって、好きで “知恵遅れ” でいるのではなく、おまけにその年齢ですから、異性に興味をもったとしても自然です。それが、社会はまだ、そういう彼の性を受入れる余地はありませんでした。
 私は彼のその問題が気がかりではありましたが、自分たちで扱える範囲上、それは “あっては困る” 問題でもありました。施設内でも、それがどう扱われているのか、あえて聞いたりはしませんでしたが、いろいろな投薬管理はされていたようです。
 今日では、障害者の性を “介護” するNPOが活動し始めています (例えば、 「ホワイトハンズ」 )。
 もう、すっかりと忘れていたこのボランティアのシーンを、いま、こうして思い浮かべたのは、自分も、そういう “圏内” に入りつつある――あるいは、 “まだ” その圏内にいる――ことを、無意識にも察したからなのでしょうか。
 
 実は、私はいま、この文章を、ある音楽を聞きながら書いています。
 その音楽は、最近、我が家におさまった、あるハイファイセットから流れてきています。
 それは、この2月末に亡くなった友人が愛用していたセットで、それを譲り受けたものです。そうとう高価なものらしく(ちなみに、パナソニック製)、それまで私が使っていたものと較べると、格段に音質が違います。
 そのハイファイセットには、5枚のCDが入ったままで我が家に来ました。その5枚は彼の好みのものに違いなく、彼の入院直前の日まで、聞かれていた曲々であったはずです。
 先にも書きましたように、15年年上の彼は私の人生のシュミレーションでもあり、互いに何も隠すことなく、オープンに様々の話をしてきました。その中で、互いの性についての話も話題のひとつでした。
 そうした話で思い出すのですが、彼は、80を越えても 「盛んだよ」 と微笑みを浮かべて言いつつ、それでも、奥さんを先に亡くした寂しさは隠していませんでした。
 また彼は、当地のコリアンの文芸サークルに属していて、最高齢者の風格もあって、ひとり飛び抜けた存在でありました。そのためか、そのサークルを主宰する女性詩人から、明らかな私的誘いを受けていたようですが、彼は、とうとう最後まで、それを拒絶したまま逝ってしまいました。
 ある時、私は彼に、ちょっとけしかけたりもしてみたのですが、彼はある威厳をもって、揺らぐことなく、その孤独を維持していました。
 私が見るところ、彼を抑制していたのは、周囲の 「目」 であったようでした。当地のコリアン社会は小規模で、そこでの人間関係はいかにも閉鎖的でしかも世俗臭芬々とし、彼はその小社会の手垢まみれのうわさの餌食にされるのは真っ平のようでした。
 いま、その彼の愛用したハイファイセットから、ショパンの曲が流れています。音楽に疎い私ですが、そういう私の耳にも親しい夜想曲です。ことにこのピアニストの、ゆっくりとおだやかに、しかも何とも深い抑揚と間合いをもった弾き方は、そんな音楽音痴の私にも、いかにも印象的です。
 いまこうして、晩年の彼を思い浮かべ、彼が老いても失われないでいる自分のエネルギーを確かめつつも孤高を保ち、自らの思いを内に秘めてこれらの曲に耳を傾け、その熱さを自ら温めている様子を、我が事のように受け止めています。
 彼が、こうした曲から何を吸収し、自分の何を満たしていたのか、そう想像すると、この何とも琴線に触れるかのピアノの音色が、確かな感動とともに、胸に浸み込んできます。

  「老い」 という人生ステージの終の姿が、時の経過とともにやってくる、社会にとっての 「障害者」 のステージだと覚るなら、長寿社会という豊かな社会――だがその 「障害者」 を大量にかかえる――が意味しはじめている、それ以前の社会とは根源的に異なる尺度の社会の到来を予感させます。あるいは、これまで、限られたマイノリティーとして扱われ、差別されてきた 「障害者」 と呼ばれるカテゴリーが、大量の新たな仲間を迎えてもはやマイノリティーを脱し、おそらく、皆が、単なる 《互いの違い》 の幅のうちに吸収されてゆく社会の在りようです。
 その時は、たとえば上の迷子のおじいちゃんも、その意中の気持ちを、商品券なぞに託さずに、お気に入りのCDになど込めて、告白するのかも知れません。ちなみに、上の老いらくの恋の歌人、川田順は、いばらの恋路をへてこの歌をうたい、彼が67歳、相手は39歳で、結婚に至りました。時はまだ、昭和24年(1949年)のことです。

 (2013年5月16日)
 
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