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<連載>  ダブル・フィクションとしての天皇 (第96回)


戦争は終わった


 今回で第29章が終わります。そして、戦争も終わります。ともあれ。
 そして、今回が、今年の8月15日を直前にして発行される巡り合わせとなったのも、なにかの因縁なのかも知れません。
 訳読作業は、このあと、 「エピローグ」 としてのほぼ一章分ほどを残すのみで、おそらく、あと二回ほどの連載で、全作業、完了する予定です。
 思えば、この訳読を開始したのは2006年6月で、当時の見通しでは、3、4年で終えるつもりでしたが、なんのなんの、その倍ほどもの年月を要してしまいました。それに、その前の訳読を始めるかどうかを逡巡した期間を加えれば、十年仕事でした。

 戦争終結に至る詳細については、本書ではすでに、第2章、第3章で詳述されていますので、この最終章での記述は、ごく、簡略でちょっとあっけないほどです。というより、これらの始めの章で、木を見るが余りに森が見えなかったその森が、この章では論じられています。それだけに、実証的というより、思索的とても言える議論となっています。
 そこでやや些末な点となるのですが、翻訳をしていて、著者のバーガミニの文章スタイルの扱いで苦心させらることに、こんなことがあります。それは、ことに彼が、歴史的出来事をいわば物語風に噛み砕いて再現しようとしている場面では、彼は意図的に、考証事実と彼の推論をミックスして、ストーリーとしています。
 それが今回でも、たとえば、最後の3パラグラフがその一例として挙げれます。ここで彼は、裕仁が考えたであろうことを、自分の推量をもって、再現しています。読んでゆくと、読者はおそらく、文章の位相のずれを感じるはずです。まあ、厳密な歴史論証としては禁じ手のひとつでしょうが、こと日本の戦中の出来事に関しては、そう扱うしかないような史料上の困難がゆえにのことであります。

 以下は、これも読みながら見落とされても当然ほど、極めて微細な点ですが、そこまでの目配りがあるという意味で、特に指摘しておきたいと思います。
 今回の訳読の半ばあたり、 「殺す意志」 の節の 脚注8 に注目してください。ここに、著者が捕虜の少年として体験したフィリピンでの出来事を通じ、そこに表されている彼のじつに繊細な人を見る目の存在が確認できます。この著書の特徴のひとつである、この戦争の巨視的な見定めをしっかりと押えつつ、しかも、このような細やかな目配りがあるという両面性に私は注目します。そして、そういう両面性という豊かさを通して描かれているのが、この 『天皇の陰謀』 という著作であり、そうであるがゆえに、この作品を、この分野では他に例を見ない、 《深みのある著作》 としていることです。
 次回以降の 「エピローグ」 の解説部で詳しく触れたいと思っていることなのですが、本書は、日本の出版界では、一種の 「悪書」 あるいは 「過激書」 扱いされているのですが、それは全くの読み誤りで、じつは本書は、日本人なら必読の 「良書」 ではないのか、ということです。私は、その理由のひとつに、上記の 「深みのある著作」 であること挙げたいと考えています。詳しくは、次回以降をご覧ください。
 また、前回、 「第95回 究極の使い捨て道具」 とのタイトルで、軍部のことについて触れましたが、今回では、いよいよの敗戦の間際で、沖縄本島南部の文字通りの崖淵に追い詰められた日本軍の司令官たちが自決を遂げてゆきます。そうした忠誠の極を遂げていった腹心中の腹心の死を知りつつ、そしてそれがゆえに、天皇の執務室の飾り棚では、 「それまで長年にわたって置かれていたダーウィンとナポレオンの胸像のうち、ナポレオンの胸像がリンカーンのそれと」
置き換えられることとなります。

 それででは、「本土陥落」(その2) 」 へご案内いたします。

 (2013年8月7日、8日一部訂正)

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