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巻末脚注(7)
(2011年9月22日現在)
(第四部 満州侵攻)
第十三章 ドル買い(1931-1932)
(1) 第六章の脚注(1)参照。
(2) Vespa, 45-62。
(3) 石原の役割や特徴については、 『日本人物史大系』 (東京、朝倉書房、1960年) 7、島田、 『関東軍』 79、藤本、 『人間、石原』 56-57, 67, 195, 203-4、Yoshihashi、137、大谷、 『憲兵隊史』 21-22、秦、 『軍』 155、および同 「人事記録」 。
(4) この節は、木戸 『日記』 の短い前書きに基づき、それを大兄の裏松伯爵が残した文書への閲覧を提供してくれた匿名者との面会で補強した。私〔バーガミニ〕は、それが、木戸 『日記』、114-15、や原田、2: 72, 76, 84-86, 90, 93-94, 114, 130-31, そしてことに、156 と 164-67 の出来事と適合しているように思う。
(5) 木戸 『日記』、91。
(6) 内田康哉〔やすや〕の用語、原田、2: 93 を参照。
(7) 第11章の注記参照。また、原田、2: 55-56。
(8) Storry, Double Patriots, 96-101、Byas, Govt. by Assasination, 39-。
(9) Sakai Sabro, 29-38 参照。
(10) Ogata、67-68、Pernikoff の諸所に 。
(11) Pu Yi, 219-21、および田中とのインタビューで補強。
(12) Harry Carr, Riding the Tiger: An American Newspaperman in the Orient (Boston: Houghton Mifflin Co., 1934), 91。
(13) Pu Yi, はその使者を Kaeisumi Toshi-ichi としているが、Kamizumi Toshi-ichi の誤り。
(14) この節は、田中、「上海事変・・・」、82、 『芳子』、および、田中とのインタビューに基づく 。また、McAleavy, 160- 参照。川島浪速の経歴詳細については、島田、 『関東軍』 17-18、Jansen, 137-40。
(15) 田中、「上海事変・・・」、182、 『芳子』 では、やや違った言葉使いとなっている。
(16) 渡辺、118。
(17) 原田、2: 52-。
(18) 同書、2: 90-91, 103。
(19) 同書、2: 88。
(20) 同書同箇所。ことに 同書、2: 93-94 のように、西園寺が10月15日、スパイ機関の坂西利八郎中将に会うことを拒否したことが注目される。
(21) 同書、2: 88-92、Koyama, 104。
(22) Ogata, 69。
(23) 『日本人物史大系』(東京、朝倉書房、1960)。また、藤本 67 参照。Ogata, 94 では、石原は、関東軍と日本との分裂した関係や〔自身の〕日本国籍を放棄することについて述べている。
(24) 原田、2: 91, 99-100。
(25) Storry, Double Patriots,89。
(26) 室伏、229-32。
(27) Brocade Banner, 144。
(28) 木戸 『日記』 113 が明らかにしていることによれば、11人の選良は10月13日に、 「いわゆる北進派の大陸政策」 の陸軍の擁護拡大について討議するために集まった。木戸は陸軍のおそまつさについて辟易していることを述べている。
『中央公論』 1946年2月号掲載の岩淵辰夫著の記事の英訳(IPS Documents 517) によれば、北進派論者、北一輝は、十月事件に日比谷公園でのデモを組織することで貢献することを申し出た。しかし、彼の支援は、彼や森格が
「田中儀一に報復する」 ための対抗謀略を行おうとしていると見なされて受け入れられなかった。
(29) 原田、2: 107。
(30) 室伏、293-32。
(31) Brocade Banner, 114。
(32) 室伏、232。
(33) 原田、2: 101, 103。
(34) 同書、105 を、ある銀行家 〔の息子〕 とのインタビューによる情報で補強。
(35) 原田、2: 94。この公表は、南満州鉄道総裁の内田やすやによってなされた。彼が東京を訪れた用件については、Ogata, 83-85、および A.M.Young, Imperial Japan, 99-100 参照。
(36) 原田、2: 108。
(37) Inoki とのインタビュー。
(38) 原田、2: 122, 114。
(39) 同書、115-116。
(40) 本庄, 26。
(41) 同書。
(42) 『太平洋戦争への道』、2巻49-、 A.M.Young, Imperial Japan, 102-5, 145-46、伊藤金次郎、359、原田、2: 134-35、Rappaport, 82。
(43) Pu Yi, 1: 22-28、田中とのインタビュー。また、IMTFE "Proceedings", 4373-74 参照。
(44) 田中、 『芳子』 およびインタビュー。
(45) 藤沢とのインタビューで裏付け。
(46) Pu Yi, 1: 228-29、また、田中、 『芳子』 参照。
(47) IMTFE "Proceedings", 4394-97、Pu Yi, 1: 229-30、原田、2: 126、Zumoto, 65-68。
(48) Pu Yi, 1: 229-30。 土肥原がその当時いいふらしていた別の話によると(McAleavy, 202 参照)、溥儀は 「静寂苑」 で長櫃に入れられて運び出された。土肥原がこの策謀を実行した理由については、Ronald Seth, Secret
Servants: A History of Japanese Espionage (New Yourk: Farrar, Straus &
Cudahy, 1957), 122-24。
(49) Pu Yi, 1: 232-40。
(50) 田中とのインタビュー。またMcAleavy, 202 参照。
(51) 原田、2: 147。
(52) 同書、2: 127-31, 135, 138-41, 144, 146, 149-56, O. D. Russel, 243-。
(53) 原田、2: 135-36。
(54) Rappaport, 68-。
(55) 木下みちお、 「軍艦榛名の甲板上に拝す聖なる一瞬の光景」、 『婦人の友』、1939年6月。
(56) 原田、2: 146。
(57) Rappaport, 76-77。
(58) 『Herald Tribune』 の1931年12月10日の社説。
(59) Storry, Double Patriots, 313。
(60) 原田、2: 152-55。
(61) Jansen、の随所、A. M. Young, Imperial Japan, の随所。
(62) 原田、2: 156、木戸 『日記』、120。
(63) この節は、原田、2: 164-67、木戸 『日記』 147; O. D. Russel, 247-51, Vaughn, 181-90 によっている。
第十四章 だましの戦争(1932)
(64) 木戸 『日記』 120 は、その謁見がわずか13分で終わったことを指摘している。
(65) IMTFE "Exhibit," 1880 の Araki の証言より。
(66) IMTFE "Proceedings", 1480。公使、萱野長知については、Jansen, 200 や随所、および、IMTFE "Proceedings", 1478-1522 参照。犬養の他の和平努力については、Crowly, 158。 Storry, 109- が萱野の使命について、事実としては正確だが、こじつけた解釈を示している。
(67) 朝日新聞(東京版)、1931年12月16、18日。
(68) 同上、1931年12月23日。
(69) 木戸 『日記』 121-23 と 原田、2: 197 からの著者の解釈。
(70) 朝日新聞(東京版)、1932年1月31日、原田、2: 175-77。
(71) 彼はその当時、中国の首相だった、Rappaport, 125。彼の使命については、Clubb, 194-95 および A.M. Young, Imperial Japan, 96 参照。
(72) 田中、 『芳子』 およびインタビュー。
(73) 室伏、234 および 大谷、 『憲兵隊史』 63。
(74) 本庄, 60 田中、 インタビュー。
(75) Rappaport, 83-94、Wesstel W. Willoughby, Japan's Case Examined (Baltimore: Johns Hopkins Press, 1940), 12-13。
(76) Foreigh Relations, U. S.: Japan, 1931-1941, 3:7-8。その文書は、ワシントン時間、1月7日 正午、日本時間、1月8日午前2時に Forbes 大使宛に送られた。
(77) 室伏、233-35。
(78) "Brocade Banner" によると、その刑は執行されず、その代わり、李奉昌は転向し、忠誠な日本の工作員になったと思われる。
(79) 木戸 『日記』 127-28。
(80) 原田、2: 173, 184-88。
(81) 原田、2: 189。
(82) A.M. Young, Imperial Japan, 133-34、田中、 インタビュー。
(83) "Brocade Banner 40-44、16、 室伏、237-41、原田、2: 189、Crowly, 174、退役した海軍司令官、インタビュー。
(84) 秦、 『軍』 49 は、僧侶井上日召は、老田中の直接の子分だったと述べている。さらに、井上日召は、1930年の8月ないし9月以来、霞ヶ浦の航空隊基地の航空仕官たちと連絡をとっていたとも述べている。
(85) Japan Biographical Encyclopedia and Who's Who (Tokyo: Rengo Press, 1958) 384 の井上の見出しより。木戸 『日記』 884、849、861、867、869 を参照。
(86) 田中、 『芳子』 。
(87) 木戸 『日記』 128-29。
(88) これと次のパラグラフは、 田中、 『芳子』 、 「上海事変」, 188- および 渡辺、118- に基づく。
(89) この経緯から派生したものが遂には、1934年3月9日の三井の武藤山治の殺人となった。私(バーガミニ)は、誰かが全貌を明らかにするように期待したい。それに関連した文献は、原田、2: 144, 153; O. D. Russel, 244、A.M. Young, Imperial Japan, 218-21。
(90) O. D. Russel, 136、Zumoto, 109-10。
(91) 私の情報源の一人の銀行家は、その要求は国会の休会の日、つまり、1月21日になされたという。原田、2: 179 は、犬養と団との遣り取りは、1月18日の日付で書いている。O. D. Russel, 255 は、その場をもっと後の3月2日にしている模様。木戸 『日記』 130-36 は、その遣り取りがなされたのはその日付(1月21日)であると強く示唆する文脈が提示されている。ただ、原田の日付はこの月、奇妙に混乱しており、それに、出版された日本語版と1947年にアメリカ陸軍極東司令部のために用意された英語版との間には、翻訳上のもの以上の違いがあることに留意されたい。
(92) 原田、2: 231 および 200-201、木戸 『日記』 134。
(93) IMTFE "Proceedings", 1540-45 の犬養毅の証言は、犬養が裕仁にそうした命令を出すように求める用意はすでにしていたと述べている。
(94) 原田、2: 178-79, 181。
(95) 木戸 『日記』 131, 133。
(96) この節は、Zumoto, 107-38、Abend, My Life in China, 186-93、Vaughn, 313-15、A.M. Young, Imperial Japan, 135-38、IMTFE "Proceedings", 3245- に基づく。
(97) IMTFE "Proceedings", 3286。
(98) Abend, My Life in China, 187、および、Can China Survive?, 155-57。
(99) IMTFE "Proceedings", 3245-52 の John B. Powell の証言。
(100) Kennedy Problem of Japan, 165-67。
(101) 原田、2: 206。
(102) この表現は、木戸 『日記』 139、原田、2: 201 に基づいている。また、木戸 『日記』 132 の1932年1月28日の南の天皇への報告を参照。木戸 『日記』 145, 149 によれば、裕仁は国防司令官の任命においてさえ、権威の委任を拒んだ。
(103) 木戸 『日記』 129。
(104) 朝日新聞(東京版)、1932年2月3日。原田、2: 197-99 も参照。
(105) 室伏、275。
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