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第十一章
1931年3月
(その1)



暁の古老

 原田男爵が、1930年11月14日朝の浜口首相受難の報を、西園寺に電話で知らせた時、その古老は、一瞬、衝撃を受け、取り乱したように見受けられた。そして原田に、詳細を用意して直ちにやってくるようにと、不機嫌に命じた。(37)
 西園寺はひと月前、81歳の誕生日を迎えたばかりで、意欲旺盛な他の老人のごとく、自分の健康を重要な事柄と考えていた。むろん、自分が誰かによって暗殺されようなどとは考えすらおよばないことだった。彼は、天皇家につぐ第二の家系である藤原家の長老で、1968年の王政復古
〔明治維新〕を果たした貴族階級の最後の生存者だった。日本精神を信奉するものにとって、彼は天皇にも匹敵する厳かな霊気をはなっているかのようだった。そして、もし彼が政治的な暗殺に倒れるようなこととなれば、天皇ですら、西園寺の息のかかった氏族や財閥や政党の中からの復讐から無縁ではいられなかったであろう。また、西園寺自身、黒龍会を使って暗殺を手配することが容易なこともよく知っていた。もし、裕仁の特務集団の跳ね上がりが、浜口首相ような崇拝される老練政治家を暗殺しようと決意した時、どのようにそれを止められよう。浜口は三十年以上にわたって西園寺と共に政治活動を続けてきた。海軍予算を削減したのも、ただ西園寺の意見に沿おうとしたからであった。
 その日の午後、原田が興津の坐漁荘に到着するまでには、西園寺は落ち着きを取り戻し、平静ながら憤慨していた。彼は原田に、全閣僚は脅しに屈してはならず、あたかも何事もなかったのごとく浜口の計画を継続しなければならないと、言語明瞭な指示を下した。さらに西園寺は夕刻までに、電話を用いて、内閣が穏健派を臨時首相に指名する工作を進めた。翌日、彼は自分の推薦者、宇垣陸相が指名されなかったことに落胆したが、中道派の候補者、幣原外相が選ばれたことで半ば満足した。
 当時、西園寺の親しい友人であった銀行家によると、11月16日の朝、古老は前夜よく眠れず、夜明けとともに起床し、彼の居室兼仕事部屋の戸を開け、縁側に立って漁師が出漁するさまを見やっていた。いま、彼はまさしく、深慮にとらわれていた。
 西園寺が、まだ青二才の裕仁の生硬な野心に接したのは十年前だった。裕仁はまだ三十で、円熟には達していなかった。彼は自分の職務に精力的で、対話には常に公正な姿勢でのぞみ、変らぬ丁寧さと知性を見せていた。しかし彼は、その開け広げた姿勢の内に欺瞞を、その親切さに冷徹さを、死活にかかわる問題に容赦なき意図をひそめていた。彼に最も親しい仲間ですら、彼の内に、冷たく無機的な資質を認めていた。彼らはそれを 「神のような荘厳な純粋性」と呼んだが、西園寺は時に、それが狂気すらもたらしかねないと危惧していた。(38)
 裕仁を導こうとするあらゆる努力は実らなかった。時勢は彼に明瞭に背を向けるようになった。陸海軍および警察の長は、彼の支配下に入った。国民のみが頼みの綱だった。しかし、国民に真実を告げることは、彼らを共和主義者、共産党員、天皇殺しにすらさせかねなかった。彼らは無知のままに置かれ、ただ導かれるべき存在だった。問題は、徳川初代将軍家康に匹敵するような、二十世紀の指導者が現われるかどうかだった。そうなれば、裕仁といえども、一目置かざるを得なかっただろう。
 西園寺はまだ静まりかえっている自邸で、仕えの者を呼んだ。寝ぼけ眼で女中が現われ、彼が縞柄の冬物の着物を付けるのを手伝った。1924年の花子の不貞以来、西園寺は同居する定まった妾を持っておらず、女中はただの召使いにすぎなかった。西園寺は、彼の思慮に耳を貸してくれる者の居ないその朝ほど、自分の孤独を味わったことはなかった。彼が庭の門より出て、坂を登りはじめると、女中は、彼の後に従い、もし彼が疲れた時の助けとなるようにと、門番とお抱え運転手を起こした。彼の住む興津の坐漁荘の木立の囲まれた坂道を、西園寺はつえを敷石の上に突きながら、一歩々々登っていった。やがて坂の上のお寺の門前に着いた時、彼はひと息いれ、ふり返って眼下の入江を見渡した。そして陸側に向きを変え、富士山の方向に目をやった。雲の帯がその聖山のすそを覆い、その雪を頂いた円錐状の頂上部を、見えうるどんな地上とのつながりからも完璧に切り離していた。この山や、八百万の神の宿るこの国土や、気難しい若き天皇の運命を守り通すことが、西園寺の任務だった。しかし、それらすべてを完遂させることは難しかった。彼の眼や耳は達者だったが、糖尿病が彼を悩ましていた。彼はもう、酔えるほどまで飲むことはできなかった。彼はすでに、自分の思考過程を組立て直し、新たな構想を導きだす力を欠いていた。彼にとっての政治活動は、いまや、遠い昔に身に着けた知恵の陳腐な姦計にすぎなくなっていた。
 そのお寺の石灯篭で風をよけてマッチをすって、彼は好みの輸入煙草、ペル・メルの一本に火を付けた。太陽が伊豆半島のかなたに姿を現し、富士山からの山の尾根が海へと稜線を伸ばしていた。松の木々が朝日に赤く染まり、入江の海面が宝石のように輝きはじめた。その時、彼は、ペリーがやってくる前、京都の宮殿の庭から見た子供時代の日の出を思いだしていた。その頃、彼は孝明天皇のお気に入りの小姓で、後に明治天皇となる年下の少年の兄貴分だった。いまとなっては、明治天皇もその息子もこの世になく、彼ひとり、目覚め期にあったこの国の当時の誇らしき気概を思い出していた。
 西園寺は、ペル・メルを煙で染まった指の関節近くまで喫って、その吸い殻を捨てた。彼の忠実な私設秘書、中川――原田のような宮廷スパイとは違った――が、彼を追って息をはずませて坂を上ってきた。お寺の僧侶が、逆の方向から緑茶をもって近づいてきた。数分もすれば、中川が朝食をとるため彼を連れて坂を下るところだった。
 その時、突然、西園寺の脳裏をある決心が走った。彼は文官政府を目指す生涯にわたった政治活動から身を引き、宇垣陸相の軍部派閥と公に手をむすぼうと考えた。宇垣は将軍にふさわしい器ではなかったが、彼には勇気と良き志があり、彼に従う将官たちも、穏健派として知られていた。(39)


西園寺の裕仁への警告

 宮廷が送りこんだスパイ秘書、原田男爵が臨時首相の選任についての報告をもって興津にやってきた日の午後、西園寺は自分の意図をやんわりとした伝言に託して皇位に伝えた。彼は原田に以下のように託した。宇垣陸相が代理首相になれないのは残念なことだ。陛下は、宇垣が郷里で長く療養している間、彼が二つの主要政党の代表者からそれぞれその総裁になるようにと別個に要請されたことを、御承知のはず。陛下は、宇垣が両政党と裕仁の特務集団の軍将校とを結合させた連合野党を作り得たことを御承知ではなかったのか。
 そして、「もし、政府が宇垣に充分な配慮を与ええない場合、彼はすすんで辞職し、独自の道を進むだろう。その際の政府の損失は推して知るべしではないか。私の言葉をよく留意されたい」、と西園寺は結んだ。
 スパイ秘書原田は急いで東京へと引き返し、裕仁が陸軍大演習から戻ってくるのをいらいらして待った。裕仁はその帰路途上、紀伊半島沖に自艦を停泊させ、細菌学と化学戦の研究を専門とする生物学研究所の科学者たちとそこで一日を過ごした
#1(40)。11月21日、ようやく裕仁が宮廷へと戻った時、原田はただちに牧野内大臣――裕仁の首席文官助言者――の緊急謁見を用意した。原田男爵は牧野伯爵に、西園寺は陸軍内の北進論者および平沼男爵――1945年の防空壕の中で、裕仁が降伏を受諾する前に、裕仁の法的な問題点を詳細に数え上げた面長の法律家――と共同戦線を取る積りである、と伝えた。(41)
 実際には、西園寺は平沼との提携を考えすらしていなかった。彼は西園寺の最も古く、最も痛烈な政敵だった。彼は往年の藩主や今日の都会の黒龍会の親玉たちの代表だった。少なくとも西園寺の意識の中では、彼は、1868年に西園寺が尊王派の緑の甲冑をまとった若き騎士として闘った、18世紀の徳川専制体制を彷彿させるものがあった。
 ともあれ、原田の憶測によれば、宇垣陸相は西園寺・平沼・北進派同盟に支援され、てごわい脅威となろうとしていた。 「人物としての宇垣大将の価値は誇大視され過ぎているが、大衆が彼に見るカリスマ性は、それを補って余りある。我々は宇垣大将を現内閣内で出来うる限り満足でいてもらわなくてはならない」、と原田は述べた。
 原田によるそうした警告を充分に心して、牧野伯爵は、宇垣をなだめる代りに、彼に大逆罪の汚名をきせ、それを暴露する脅威をもってあやつることの方が賢明であるともくろんだ。牧野は、配下の政治ゴロ、大川博士――南進論実践派の理論家で皇居の 「大学寮」 教化センターのかっての寮長――にことを任せることにした。(43)


三月事件(44)

 大川は、宇垣を天皇〔主権派〕クーデタを図るという空想上の計画の眼目とさせようと企てた。そのクーデタは、〔宇垣によって〕実行はおろか、計画されたことすらなかった。むろん、新聞の記事に書かれることもなく、支配階級以外の世界で話題にされたのも、何年も後になってのことだった。だが、その狭い閉ざされた世界で、それが 「三月事件」 と呼ばれるようになった時、それは宇垣を破滅させ、西園寺を拘束し、そしてその後の七年間、裕仁の内政権力に鋭利な武器を与える結果となった。
  「三月事件」 なるものは、最初、満州侵略をすすめる国内政治上の準備工作として考えられたものだった。その構想は、右翼分子によるクーデタがあるという脅威をてこに、満州は国内の害毒から逃れられる新天地であると大衆をさしむける手段だった。黒龍会の一員である大川博士は、1930年秋のある時期より、暴力団組織をその構想に巻き込むことを始めていた
#2。同時に、陸軍元帥の閑院親王――皇室の高齢者で陸軍の長老――は、陸軍を引き入れることを画策していた。そうした街のごろつきと軍部による二重の脅威は、銃を手にしたことも、武道を習ったこともない多くの日本人をおびえさせるに十分であると計算されていた。
 この大衆操作的な策謀も、大川の手にかかった時、あたかもホテルの一室にこもったひと組の劇作家によって夜なべで仕上げられたシナリオのように、無造作にその大詰めだけが急がれていた。宇垣大将と黒龍会の頭山を国会爆破計画の首謀者とまつりあげながら、なぜか、裕仁の特務集団内部の征露・北進派の理論家の関与は皆無だった。また、なぜか、三羽烏筆頭の永田や、ましてや裕仁の律義な大兄たちの誰もが絡んでいるとはされなかった。大川博士にしてみれば、できるだけたくさんの主要人物を関与させた方が彼にとって上手い保険となったはずだ。またそうであったからこそ、彼は後に無難に諸暗殺を画策でき、また、マッカーサー法廷の判決をまぬがれえた#3。それにしても、この1931年3月に生じた策謀と逆策謀の残滓は、今日に至ってまでも、皇居の周辺を鬼火のように漂っている。


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