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第二部


天照大神の国







第四章
天皇家の遺産
(その1)


 バイキング天皇
(1)

 20世紀になって、裕仁がその上を歩きまわる、しみがつき、形のくずれた、天皇家の色である紫色の絨毯は、何世紀もかかって、彼のために広げられてきたものである。その彼のためのものとは、山々のように時代をへた祈願と歴代の前例によって統治されてきた、その古代よりの住処である。それは文字通りの最初の天皇の出現する、二千年の昔、神聖な富士山が、地震を伴って一夜のうちにその東部平原に姿を現したものである。それ以来、天皇と人々との関係や彼の統治の方法は、他の世界から美的ほどにも隔離された世界で発展してきた。ある面では舵取り役もしくは行政首長として、他の面では戦争首領もしくは王として、また別の面では人々の最高司祭そして法王として、彼は、国の印章が預けられ、際立った鎧の紋章をまとい、そしていまだに、重い宗教的法服を着けている。西洋世界では、政治的制度として、古代エジプト王ファラオ以来このかた、彼に相当するものはない。(2)

 日本に人々が最初に住み始めたのは、およそ10万年前である。彼らは、今のオーストラリアのアボリジニーと同じモンゴル系アジア人で、色白な放浪する狩猟民で、様々な色と巻き毛具合の濃いひげをもっていた。その後の9万年間、氷河期の末期の中で、日本は地橋あるいは飛び石状の島々で、アジア大陸とつながっていた。最北の島、北海道はシベリアと、最南の島、九州は台湾や東南アジアと、それぞれ行き来ができた。その後、約1万年前、氷河がとけて海面が上昇し、日本は、ドーバー海峡の二倍の幅をもつ海峡によって、アジア大陸から分断された。こうして日本は大陸の端からも隔たった地となり、晴れた日でも大陸からは見えなくなった。
 その孤立した環境で、日本は、アジアや世界の国々から切り離された独特の資質を発展させた。そこには、違った言語をもった二つの文化があった。ひとつは、北部のシベリア系のもので、他は、南部の東南アジア系のものであった。その北部言語は、今日、北海道でアイヌ語として残り、これは、シベリアのツンドラ地帯の言葉から分岐したものである。他方、南部言語は現代の日本語へと発達した。もっとも身近でもっとも古い言葉と思われる、母、父、カキ、腹などを示す単語は、ポリネシアやマラヤ地域の山岳部族の一部の言語と類似している。それはおそらく、より発達したモンゴル系石器時代人が中央アジアからやってきて、それ以前の古代東南アジア系言語の一分岐言語を凌駕したからであろう。
 紀元前の最後の8000年間に、日本の北方系のアイヌ文化をもった戦闘的で色白なひげの濃い狩猟民は、その民族的統合を維持したまま、本州の中部へとその狩猟領土を広げていった。これに対し、南方のアボリジニー――日本語の一種を話し、魚介類を食する定住を主とする――は、紀元前500年ころから、しだいに、現代の日本人を形成するモンゴル系の人々によって置き換っていった。アボリジニーの特徴である縮れ毛、茶色の目、茶もしくは赤い髭は、日本の海岸線から離れた山間の谷で今でも見られるが、今日の日本への彼らの主要な貢献は、その言葉である。
 モンゴル系の民族が日本の南部に移動したことを示す考古学的証拠は存在していない。しかし、彼らはおそらく、したたる水滴のように絶え間なく、いかだや、カヌーや、あるいは難破によって、漂着したに違いない。そうした漂着民は、既存の土着語を話すことを学んだ。また、そうした新漂着民は、改良された石器、わらぶき屋根、ろくろ、初歩の農法などの進んだ生活技術を、大陸から持ち込んだ。中国文明の外延部の漁労民族のすべてに、そうした技法が見られ、日本での新住人であるモンゴル系の人々を繁栄させ、大きな家族を養うことを可能にして、次第に旧来のアボリジニーを山間部に追いやっていった。
 紀元前300年ころ、日本の南部に、交易商人が来はじめるようになり、青銅、鉄、米作を持ちこんだ。海岸沿いの植民地は、そうした新技術を容易に吸収し、その恩恵をえた。九州の沿岸部に比較的小さな人口しかもっていなかったモンゴル系の人々は、紀元前の最後の一世紀に、九州の耕作可能な土地をすべてえた農耕民として、急速にその人口を増やしていった。そうした前モンゴル系狩猟民は農奴となって定着した。他の山間部に追いやられた人々は、そうした農耕民といさかいを起こし、何世紀にもわたって、戦争まがいの騒動が続いた。その新たな九州の農耕共同体は、村落のゆるい連合体としてまとまり、それぞれが、女族長あるいは多産母親によって治められていた。そのうち、最も強力な集落の女族長は天照大神
〔太陽女神〕と呼ばれていた。中国からの初めての使いは、彼女をピメコと呼び、中国語ではヒミコ〔卑弥呼〕、つまり太陽光の子と記した。
 西暦一世紀ころ、九州の天照大神は、山間部族の一族、熊襲(くまそ)にいたく手を焼き、朝鮮の海賊商人と同盟を結んだ。この人物は、日本の初代天皇の祖父で、以来71世代を経て、天皇裕仁はその直系の子孫である。伝説、考古学、そして中国および朝鮮の史記のいずれに照らしても、裕仁の先祖は、東洋版のバイキングに相等する。この朝鮮海賊商人の母港は、朝鮮半島の先端の今日の釜山にあたる、カラクと呼ばれる海賊包領であった。近隣の朝鮮の諸王国の記録は、カラク、あるいは、日本が後にそう呼ぶ任那は、西暦42年から562年まで、独立した日本人町であったと認識していた。〔英国を征服したフランスの〕ウイリアム公のノルマンディーのように、それ自体は、中間駅のひとつであったに過ぎない。日本のバイキング天皇の発祥の地と思われる〔本物のバイキングの〕スカンジナビアに相当する地は、おそらく、はるか南のマライ地方であろう。それは、その一、二世紀昔、太平洋の島々を発見しそこに住みついた、偉大なポリネシアの海の旅人たちを送り出していたことと近似している。歴史家の多くは、この地域の航海に託す冒険精神は、アレキサンダー大王がペルシャ湾で、インド征服のために集結させた大船団が、紀元前323年の王の突然死により分散したことによって鼓舞されたと見ている。
 ディドとアエナスの追憶談
〔訳注〕のようだが、裕仁の祖先は九州の天照大神の孫娘との間に息子を持った。その息子は、海賊と共に成長し、頑強な石器時代的熊襲との闘いを共に支援しあうことを許された。彼とその息子、神武天皇――最初の天皇――は、その勢力を瀬戸内海一帯へと広げ、南本州の海岸地帯を開発、食糧生産地とした。2
 神武天皇の時代となってまもなく、この裕仁の69代前の祖先は、居住地を移動しながら、日本における自身の王国を築こうと決心した。熊襲は九州の山奥へと追いやられ、九州に根付いた母権社会においては、男の首領が存在しえる余地はもはやなくなっていた。神武は、彼の海賊集団総体――船、戦士、女、生活用具――を、瀬戸内海を通って、九州から本州へと移動させた。彼は、日本のほぼ中央、今の大阪港――現代の東京から260マイル〔420km〕南西――に錨を下ろした。そこには、40マイル〔65km〕も奥へと広がる肥沃な平野があり、米が植えられるのを待っていた。そこでは、貝を主食とするアボリジニーが、内陸の毛深いアイヌ語を話す狩猟部族との対立で助けを必要としていた。おそらく、もっとも重要なことは、神武の戦士たちが、大阪を囲む山々のなかに、鉄鉱石――鉄を作るための適当な不純物を含んでいた――を発見したことだろう。数世代のうちに、彼の刀鍛冶は、青銅時代から鉄器時代へとの変化をもたらし、それから数世紀のうちに、世界中の国ででもそれに優るもののない、鋭い刃物を作りだした
 神武は、その地でのおよそ3年間の奮闘の後の西暦50年、自らを大阪湾を囲む平野地帯における天皇と称することを宣言し、周辺の山間部へ勢力を伸ばしはじめた。彼の王国は、現代の大阪、神戸、京都にわたるもので、彼はそれを、今でも日本を愛国主義的に呼ぶ時に使われる、大和と称した。
 天皇神武は、腹心の部下3人――心的同朋の中臣(なかとみ)、刀鍛冶の物部(もののべ)、有力な友人の大伴(おおとも)――に彼の国をうまく治め、奥地の色白、毛むくじゃらの狩猟民族を退治することを命じた。彼は中臣とその子孫に国事をつかさどる王国の祭事官を命じた。物部とその家族には、武器の常備と供給ならびに国の軍事政策の執行を任せた。大伴には宮廷と家臣を警護する任務を与えた。今日、日本の裕福階級のほとんどは、その家系が、神武かこの三人のいずれかの部下の子孫であると主張している。たとえば、1937年に日本を戦争に導いた近衛宮は、自分を中臣家の分家である藤原家の末裔と考えていた。
 大和の神武天皇の王国は最初、わずか百ほどの同様な村落国家のひとつと、当時の交易商によって中国の年代記に報告されていた。しかし、神武とその息子は、すぐに権力を得て、スパルタよりスパルタ風に、軍事的指導力と規律を土着民に発揮した。彼とその血族は、容赦のない一種の厳格主義――信仰深さを清潔さと同等とみなし、身を清める数え切れない儀式を要求――を実施した。テルモビレーのギリシャ人のように、戦争におもむく前には、入浴し髪を櫛でといた。また、戦争の後、食事の後、性交の後、雄鹿を殺した後、つまり、不浄と思われるあらゆる行為の後に、彼らは入浴した。今日でも、天皇の風呂は、宮廷でもっとも神聖な場のひとつであり、華氏110〜130度
〔摂氏45〜55度〕のお湯に全身をひたすことは、すべての日本人の生活の日常行事となっている。
 いったん大和に定着すると、神武とその一族は、死の汚染と移住しない生活という怠惰に陥ることを畏怖した。王が死ぬと、その首都はまるごと別の地に移された。それは、つかの間の空想ごとではなかった。以後600年以上にわたって、首都は政治の中心地として念入りに吟味され、君主の臨終の度に移動された。西暦710年
〔平城京(奈良)遷都〕になってようやく、大きな都市を一世代ごとに取り壊し再建するには、その官僚組織があまりに大きくなりすぎ、宮廷はついに、恒常的な首都を受け入れるようになった。この年までは、代々の宮廷を取り囲む外壁の背後では、大半の建物は平屋か二階建ての簡素な木造だった。他の日本人のものも、宮廷の例にならい、紙と木のきゃしゃな家で、伝統的な生活を続けていた。後に近代的な建築物が到来するまで、地震の頻発する日本では、こうした伝統にならい、容易に移設でき被害の軽微なことは、実情に適したものであった。
 土着民の地方的な精霊信仰を基盤に、神武は、後の神道の母体を築いた。彼は、祖先の霊、ことに、彼の言う天照大神からそれまでに生まれた自身の祖先の霊に祈る大陸風の信仰をそれに加えた。彼は、土着の貝食民に、青銅の鏡、輝く刀、そしてカシューナッツのような胎児の形に磨きあげられた半貴石の数珠を見せ、それらが天照大神によって彼本人に授けられたもので、彼の神威を守るものであると告げた。
 神武は、その静穏な人々に対し、彼らを勇猛な兵士とさせて目的を与え、また、 「この世の八つの方位を、一つの天の下に包み込む」 と告げて、自らの使命とした。この彼の言葉、「八紘一宇」は、1900年後、裕仁の教理宣伝者のスローガンとなる。時代をへるにつれ、神武天皇とその子孫は、そのようにして取り込んだ人々を近接する村落や王国を征服するよう導き、アイヌ民族を追いやった。
 九州の天照大神の多産母崇拝者のように、神武とその一族は、自分たちの血が土着民の血と混じりあわないよう注意を払っていた。そのため、彼らは、一族の規模を広げることによって、土着民より優勢になろうとした。そしてその後五世代にわたって、朝鮮の領地より、聖民と呼ぶ自民族の女を妻に迎え入れていた(訳注)。それぞれの王子とその一族は、その富と権力に応じて、得られる限りの妻を持っていた。その家族についての古い記録によれば、百人もの子供をもうけていた。そうした血族急増によって、神武の、船に乗りきれるほど数少なかった一族たちは、やがて数千人の人口を持つようになった。五世代の後、神武の宮廷の子孫は、自分の姪や孫と結婚し始めた。近親交配はおびただしかったが、そのもとの祖先は健全だった。現代の日本人の、おおきな割合、恐らくその過半数は、そうした一族の子孫である4
 西暦200年から250年までの第十代崇神(すじん)天皇(訳注)の時期、神武の知恵を表す鏡と力を表す刀は、だれもが見、感嘆できるように、宮廷外の神社に祭られた。だが崇神天皇は、自身の安心のため、神威を示す宝石のみは手元に保有した。力の刀は、毛深い野蛮人から奪い取った地域にある、名古屋の熱田神宮にその居場所を見つけた。知恵の鏡は、大和に近い、海を見渡す、伊勢神宮に安置された。今日、伊勢神宮は、日本で最も神聖な場とされ、どの閣僚もその任務につく際には、就任の参拝をおこなっている。
 第12代天皇の景行(けいこう)は、西暦280年より316年まで皇位にあったと考えられ、少なくとも72人の息子をこしらえ、大和の権力は大臣たちにまかせ、彼は6年間、九州の天照大神の王国に戻っていた。そこで、彼とかれの息子たちは九州の土着民の女王たちを、たぶらかし、また大和との恒久併合の交渉を成功するなどして一掃した。
 西暦400年ころ、神武の子孫や天照大神は、日本南部の大半を服従させ、その部隊長たちは、現在の東京あたりの毛深い民族との闘いを継続していた。最も古い大和についての国事文書
〔 『宋書』 倭国伝〕は、西暦478年に、中国王朝への大和の大使による報告として、こう記録している。「いにしえより、我が祖先は武器と鎧を身につけ、山地や海を突き進み、休む暇さえ控えてきた。東部では、55の毛深い部族の国を征服し、西部では、よく似た野蛮民の66の国の服従を獲得した」。
 大言壮語じみてはいるが、日本の中国への使者はまた、その先方に、その故国の名、大和を、偉大な平和を意味すると伝えた。中国の史記には、その数十年後に、日本が中国式の記述法を公式に採用した時、「大和」が日本の名となったと記述されている。しかしながら、日本では、「大」「和」という漢字は、特異に二重の読み方が与えられ、異例な用法となっている。日本語を使える人は誰もが知っているように、「大」「和」は、中国人の前では「だいわ」と発音され、日本国内では「やまと」と発音される。だがその真に意味するところは、「やまと」とは「山の道」、あるいは、新たな征服地への道を意味する。しかし、中国の皇帝に、そのように伝えることは、外交的に賢明なことではなかった。



墓造り


 大和が拡大し、代々の天皇が全能となるにつれて、彼らは巨大な霊廟を建設するようになり、彼らが徴用することのできた奴隷労働ばかりでなく、その神道――祖先の霊魂の存在への信仰――が死の崇拝となっていた事実を証明するものとなった。その天照大神以来の 「万世一系の皇統」 は、その信奉者におびただしい犠牲を生み出した。
 およそ200年存命したとされる第八代孝元(こうげん)天皇は、その石棺を銘記させるために小さな人工の丘を築いた。それは長さ180フィート
〔55メートル〕ほどしかなく、その斜面にそって、わずか数十人の家来が葬られただけだった。だがそれは、その後三百年にわたり、代々の天皇が示した埋葬の狂気の始まりとしての重要性をもっている。その代々の支配者は、さらに大きな墳墓を要求し、彼の霊魂の世界への旅に同行する、より多数の家来の犠牲を求めた。伝説によれば、第11代垂任(すいにん)天皇は、その兄でまだ王子にすぎない自分への義理により、生きたまま埋められようとしている一族郎党の悲嘆に困らされた。彼はそこで、自分の人形を埋葬することで、生きた犠牲にかえることができる、という法令を作った。しかし、彼の人間的な配慮も、長続きする変化をもたらさず、家来の犠牲の慣行は、強制的に中止される六世紀まで続き、1912年の明治天皇の死の時までも、散発的ながら、自らすすんで犠牲を選ぶ家臣もあった。
 日本の統治において、天皇の墓はいまだに重要な役割を演じている。1970年の現代においてもなお、年老いた裕仁は、条約への署名といった重要事態について、宮廷からの使者をその墓に送ってその報告をしている。孝元天皇の形にならった初期の墳墓は、鍵穴型
〔前方後円形〕をし、大きなひょうたんが半ば地面に埋まったようであった。学識者によると、それは、当時、朝鮮に広がっていたひょうたん崇拝に関係しているとも、同じころの英国の古代スカンジナビアの冒険者によって急造された航海の目印の丘にも似た、陸上げされた巨大な船を形どっている。しかし、天皇の霊廟あるいは陵(みささぎ)は、バイキングのどんな記念碑よりもはるかに巨大である。実際、そこで運ばれた土の量は、ピラミッドにも引けを取らない。
 第16代仁徳天皇――西暦395年より427年まで皇位にあったと推定されている――の陵は、堀に囲まれた人工の山で、80エーカー
〔33万平方米〕の面積と、1マイル〔1.6km〕以上の長さをもち、1500年の風化をへたのちでも100フィート〔30m〕以上の高さを保っている。構造として、それは二つの山頂を持ち、植林され、段状になっていると言われており、その優美な参道には、ギリシャ文字のパイ(π)の形のアーチ〔鳥居のことか〕が設けられている。その建設には20年を要し、徴用された労働によって築かれた。宮廷の年代記は、あいまいながら、仁徳以外の建築上の貢献を、「人々は、監督者なしに、年長者を助け、若者の力を導きながら、木材を運び、土かごを背に担ぎ、昼夜を分かたずに懸命に働いた」、と指摘している
 最も旺盛な墓造り天皇は、仁徳の孫の雄略天皇(西暦457年〜479年)である。後の年代記の記録するところでは、彼は加虐趣味の怪物で、彼の手にかけることのできる皇族家系から、それぞれ一人の男を犠牲者とした。彼はまた、家臣らを高い木の上に上げ、彼らが滑り落ちるか射落とされるまで、それを的に弓の鍛錬をすることを好んだ。妊娠中の農奴の女を相手に、彼が素手でその腹を開ける興奮を楽しんだ。雄略天皇の死後、宮廷の助言者は、その後の天皇がその叔母や腹違いの妹と婚姻しないよう計らい、もしそうなった場合でも、その王子は、皇族の血の流れていない妾の血統から選ぶように計らった。



中国からの光

 四世紀の天皇家の大和父権政権と天照大神の九州母権政権との連合は、三百年にわたる宮廷内の文化的抗争のもととなった。九州系の女は、進んだ中国の古代文明を信奉し、大陸と強い結びつきを持ち、大和王国を北部朝鮮へと広げようと努力を払った。一方、大和系の男たち、ことに、中臣、物部、大伴系の血族は、アイヌとの戦争と大和の本州北部への拡大を主張した。西暦400年ころ、漢字を用いた表意文字が宮廷知識人の関心となり始め、また、中国仏教が神道への信仰を揺るがし始めた。
 渡来した仏教は、抽象的かつ、ほとんど無神的とでも言える信仰で、儀式と神秘主義と説教に満ちていた。それは、初期天皇たちの病的な迷信や強い血族的威信を浸食し、そこに徳政を説く儒教精神を注ぎこんだ。仏教教理によれば、生まれの高貴さは、必ずしも天国行きのパスポートを保障していなかった。そのインド人預言者によれば、いかに貴族的家族であれ、その死後の魂は、もしその人が善良に生きていなかったなら、貧農にも犬にも生まれ代わらされると教えていた。瞑想において個に徹し、穏やかで冷静な啓発を達成することによってのみ、魂は輪廻の退屈な環を脱し、宇宙と一体化した涅槃の境地に到達しえるとしていた。
 中国式の表意文字つまり漢字は、成文化した法律や記録を眼前の事実としえたがゆえに、天皇一族の尊大にとっては、これまた致命的であった。だが代々の天皇に幸運であったのは、それは表音文字ではなく、意味の表記であり、中国の短音節的な抑揚を欠いた発音のために発達したもので、日本の多音節からなる抑揚の多い言葉には容易に適用できなかった。そこで、日本の言葉の語尾を表現するための音声上の記号が考案される必要を生み、中国語の表意記号と日本の話言葉とを適正に組合す一般的な用法に到達するために、長い実験的期間が費やされた。中国式の成文体系が日本式発想のための驚異的な道具となるためには、二百年以上を必要とした。この二百年間は、宮廷の筆記官にとっては、彼らの主を納得させる、過去についての受入れ可能な見解を打ち立てるための十分に長い時間となった。
 こうした文化的抗争に勝利したのは貴婦人たちであった。西暦562年、天皇一族は、朝鮮半島のカラクにある古代よりの領土を、中国に支援された隣接する朝鮮人王国に奪われた〔新羅、任那の併合〕。中国文明の威信はますます高まった。西暦587年には、第31代敏達(びだつ)天皇が、その死の床で仏教を取り入れた。宮廷の武器部の物部一族は謀反を起こした。宮中の九州系母権一族は物部一族を皆殺しにし、そして、典型的な日本的妥協として、物部一族の一母の息子、聖徳太子を権力の座につけた。聖徳太子は、国の強化と改革のため、中国化計画に協力することに同意した。
 聖徳太子は神童であったようで、七歳の時に、難しい漢字の読み書きを修得した。彼は、中国の法律体系や文書法を日本に適用する野心的構想をもって、その準備に着手した。彼の調査団の学者たちは、日本で最初の歴史、地誌、文法、法規を記録し、土地測量、徴兵や徴税に相当する秩序立った初めての導入計画を立てた。最も重要なことは、親族の宗教である神道と、新しい宗教である仏教との間の、最初の和解を成し遂げたことである。仏教の僧侶は祖先を祭る神社を受入れ、そしてまた、
〔八百万の〕自然の霊をブッダ自身の顕現――菩薩――と相並んで受入れた。それゆえ代々の皇統は、輪廻の不面目から免れ、死んでゆく際、無条件に涅槃に到達しえると理解されるようになった。
 改革の計画のほとんどはまだ机上のものであったが、聖徳太子は、西暦621年、49才で死んだ。彼の先導がもしなかったとしたら、天皇家と連なる神道王子たちと九州の天照大神系の王子たちは、たやすく仲たがいした。首都市街で生じた小戦争は、九州の女権派の曽我一族を国の専制君主とさせた。その24年後の西暦645年、皇太子
〔中大兄皇子〕と中臣一族の子孫〔曽我鎌子〕は、周到に準備された逆クーデタを起こした。彼らは、朝廷の政庁において、皇后の目の前で曽我の王子を殺し、他の者を都から追放した〔大化の改新〕。曽我一族は自らの屋敷に立てこもり、それに火をつけ、自らも焼け死んだ。彼らはその死に、おおくの家来と、聖徳太子が編纂した調査記録や文書を道連れとした。

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