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第五章
ペリー来航
(その5)



王政復古

 岩倉は、そのように祈りながらも、新しい日本についての彼の構想を考えていた。彼は5年間の蟄居生活中、京都市外の庵にあって、手紙を書いたり、夜のみの訪問客と会ったりしながら、思考に当てる時間はふんだんにあった。他の偉人のように、長い間の強制された静粛は、自分の考えを強固にし、それを将来への現実的計画へと煮詰めることを可能とした。彼は、すでのその葬儀以前から、新たな通貨、新たな首都、新たな土地所有制度、新たな政府の方法などについての原案を描く諸委員会をもうけていた。
 1868年1月、若い明治天皇は、一千年の歴史のある「幕府」制度を廃棄し、皇室による直接の統治の再導入をはかる、岩倉の起案による、勅語を発表した。北日本の佐幕派の藩は、京都の宮司によって統治されるその計画に狼ばいし、天皇の正気を取り戻させるように、将軍に嘆願した。将軍徳川慶喜は、その談判をするために、3万の士気の欠けた武装随行員を率いて、京都へと向かった。
 岩倉は、未成年天皇に、こうした動きは脅かしであるとして、軍事行動を起こすように助言した。一方、人民には、徳川幕府は戦場では無力で、天皇は過去からの完全な決別をもたらすものであると知らしめた。明治天皇と皇族評議会は、岩倉の助言を受入れ、二人の皇王に、岩倉によって徴用された「外様」諸藩からなる大規模な軍隊を受け持たせた。この天皇軍は徳川慶喜の3万の軍を京都郊外で襲い〔鳥羽伏見の戦い〕、完璧に敗走させた。
 その名ばかりの抵抗を、ほぼ無血でもって制し、天皇軍は江戸へむけ東進した。将軍は江戸城――将来の皇居――を天皇に明け渡し、将軍慶喜は、過去二百年間、尊王の中心地であったと日本人の誰もが信じてきた藩、水戸へと身を引いた。こうしてこの最後の将軍は軍部を解体し、成り行きに任せた。東京
〔68年8月改称〕の新政府は最初、元将軍に死刑を宣告したが、生涯の地方暮らしに改め、最後には、新政府の評議会で自由に発言するよう呼び戻した。北日本の徳川家分家の家臣たちのなかには、頑迷に抵抗を続けたものもいたが、その後一年間に儀式的な自殺や小規模な軍事行動が行われたものの、国全体は、岩倉と彼を支援する長州出身の元武士たちの手にくだった。
 岩倉は、宮廷貴族、三条実美
〔さねとみ〕の助けを得て、若い過激な志士たちを、あたかも革命的独裁結社であるかのごとく動かした。各々の結社は、身分制度の解体とか、藩閥制度の撤廃とかといったそれぞれの改革分野にあてがわれ、岩倉の構想のための各計画を描くことが求められた。そして、もし天皇と皇族評議会が承認すれば、岩倉は、彼の計画を実行にうつす責任をこうした結社に与えた。公衆は、岩倉が何を準備していようと天皇が承認したものであるからとそれを受け入れた。こうして、旧政府の強みを殺すことなく、そうした若き改革派結社は、宮廷と人民の間に位置する新たな将軍制度のごとく、ひとつの「幕」としての伝統的な役割を負わされたのであった。
 その幕の背後に、15歳の少年、明治天皇#10 が立っていた。この天皇に、京都の古式蒼然たるたたずまいの中で最初に会った西洋人は、在日英国大使のハリー・パークス卿であった。1868年3月、明治天皇がその時より国の元首となりあらゆる条約に署名すると発表した時、パークスは京都に出向き、信任状を捧呈するため、謁見を申し出た。その宮廷への途上、彼とその随行者は、二人の刺客に襲われた。そのうちの一人は、朝彦親王の宗教上の兄弟の一人が主となってきた寺院から放たれた僧兵だった。その二人の暗殺者は、差し止められるまでに、忍び寄り、飛びかかり、斬りつけながら、パークに従っていた11人の日本人護衛、英国人歩兵、馬丁、そして一行の4匹の馬に傷を負わせた。
 だが何事もなかったように、パークスは宮廷に面会を申し入れ、数日後、彼は細長い寒々としたある謁見室に案内されていた。遥か向こうの端に高座があり、両側に黒と金色の漆塗りの獅子像が位置していた。その高座の上部を、黒の漆塗りの細い柱に支えられた、真っ白な絹の天蓋がおおっていた。その白い掛け布は、深紅の枠に結びつけられていた。高座の前では、緑の絹の絨毯の上に、二人の親王――一人は大将、一人は司祭――が座していた。長州と薩摩の藩主は片側で深い服従を示して座し、家紋を付けたきらきら輝く礼服をまとい、不動かつ無表情だった。宮廷人たちは、袴と膝上の長さの着物を帯で結び、頭の上にひと山のパンを載せたかのような、高い黒の漆塗りの帽子をつけ、部屋の戸口に群がっていた。
 パークスが入室すると、高座の上の明治天皇は、長袖で膝までの長さの白い錦の着物と深紅色の長い袴をつけて立ち、その長袴の裾は背後の高い黒と金の漆塗りの木靴
のところまで伸びていた。彼の頭には角帽が結わいつけられ、それから2フィート〔60cm〕の長さの楕円形をした固く黒い絹製の多産のシンボルがふさわしい銘が赤で記されてそびえ立っていた。彼の顔はおしろいが、頬には紅がぬられ、唇は赤と金に化粧されていた。彼の歯は、漆で黒くされていた。彼は高く歌うような声で、パークス大使の信任状を受入れ、謁見は終了した。
 この育ちのよい人形のような顔の背後で、この少年は強い意志と鋭い知性を備えていた。彼は1852年の初冬、京都の外宮の北端の高い白壁の足元にある、下級の宮廷人や宮廷娼婦たちの住む彫刻をほどこした建物に寄り添う、つつましい家屋のひとつで生まれた
(14)。彼の母親は藤原家系の正式な皇后ではなかったが、孝明天皇の20人の側室の中でもっとも寵愛された、生気と献身にあふれる歓喜の人であった。彼はこうして下級貴族の母親のもとに生まれたため、皇太子となるために常としていたような老いた侍従たちの合議の中で育てられる代わりに、8歳までは生母と極端な親王派の母の父親とともに生活することができた。1860年、彼の腹違いの兄弟の全員の死をもって、彼に天皇の継承が決定され、定められた儀式的な流れに乗ることとなった。1863年、将軍が公式に京都を訪れ、代々天皇の墓の修復資金を提供した際、明治天皇と孝明天皇はともに、宮廷内の庭園において、「遠方の祈祷」と呼ばれる入念な神道儀式の司祭をつとめた。
 父親が死ぬまでのその後の三年間、彼はすべての国事で、皇位の次に位置していた。彼は、宮廷の西門を我が物顔で出入りする浪士たちを感服させ、厳重な礼服や国事の儀礼をことごとく遠ざけ、そして日本再生の夢――父親に忠臣を誓う開明的な藩主たちによって信念をもって語られた西洋の物質的な発展と力の物語――を実現させるため、だからこそ祖先の神を深くあがめるようになった。彼はたくましい子供ではなかったが、繊細で頭の回転が良く、孝明天皇の治世末期の混乱した時代、宮廷に出入りする利害こもごもの人たちの間の誰からでも慕われるものを彼は備えていた。
 孝明天皇が殺され、岩倉が幽閉から復帰すると、明治天皇は宮廷の卑劣な陰謀にまみれることから守られ、たちどころに、岩倉が敬愛し信奉する権力者となった。明治天皇は、岩倉が追放される直前、若い急進的な貴族たちが夜間、秘密に宮廷を訪れていた際、すでに彼に会っていた可能性がある。しかも岩倉は彼を追放した孝明天皇に幾度も会っており、当然なこととして、天皇の命ずるままに、国の情況についての彼の見解を披歴していただろう。
 箱入り息子も同然な明治天皇だったが、早くもその統治開始の初年においてより、決して侮れる存在ではなかった。彼は父のとった宮廷の運営姿勢を改め、彼の従弟たちである皇王の多くを危険な「狂人」とみなす一方、岩倉の見識に魅されるようになった。終始不機嫌な様子でかたくなに保守的な立場を維持していた父親とは明快な対比を表して、彼はその当初より、決断においても、妥協においても、実行性においても、その持つ力を発揮した。孝明天皇は、おろそかで実現不可能な凝り固まったような政策に傾いた自らの発言により、自らを犠牲にすらしていた。明治天皇は、父親の死をめぐる不審な情況について、何年か後になるまで何も聞かされていなかったが、その当初から慎重に、あまり自分を神扱いさせなかった。彼は、非公式な議論では自己の権利を誤りと主張し、他方、公式な権限については、彼が正しいと確信するまでは何も主張しなかった。岩倉は彼に、そうした基本姿勢と、発言には常に注意深くあり、自らに関することはすべてを仔細に説明するように教えた。
 人として日本を治めたいと告げた若い明治天皇が、まず最初に行った行為は、国の首都を、794年以来、宮廷が置かれてきた京都――「バイキング」開祖が外国より渡来して日本西部の平野に開いた大和の地――から、日本東部の平野にあるにぎわう港をもつ江戸あるいは東京――将軍が七百年にわたって支配してきた――に、遷都させることであった。そこは、日本のまさしく地理的中央であり、新たなサムライによる寡頭政治の首長である岩倉が、明治天皇はそこに位置すべきであると決定した場であった。
 1868年11月、日本史上最も長い国家発展の末、宮廷全体が、事を荒だてることもなく東海道を東へ300マイル
〔480km〕移転することとなった。雲上人が通過するその道中では、街道の両側にはどこでも、その誉れにあずかろうと農民が列をなしてひれ伏した。11月26日、明治天皇の16歳の誕生日の23日後、天皇の駕籠は東京に入った。それを三人の西洋人が間近で目撃していた。明治天皇は、金の鳳凰――その頭と胴は孔雀の如く、その目の上まで伸びた尾は雉のようで――がほどこされた黒漆塗りの椅子駕籠に座していた。
皇室の60人の侍従と護衛が黄色の絹の礼服をまとい、皮の菊の形の耳飾りをつけて、彼の脇にそって歩いた。先頭では、年配の三人の官吏が歩調をとりながら、扇をあおいで天皇一行の到来を大衆に告げた(15)。天皇一行の行列の両側で、群衆は手を振って膝まづき、行列が通り過ぎるまで、額を地面にすりつけていた。
 1869年1月、明治天皇は、かっての将軍の居城より、公式の天皇の巡幸以外、平民はもはや土下座しなくともよいと布告した。さらに彼は前例を破り、非公式ながら、後の海軍を構成する日本で最初に建造された西洋式の船を視察した。そして同時に、東京を外国人に開放すると宣言し、以後、外国人は言質を与えない礼儀正しい二人称――遭遇した漠然とした状況の中で相手の身分がわらない場合、日本語の動詞に残されている用法――で呼ばれるものとすると告げた。心理的には、この新たな呼び方は、それまでの好戦的な「劣った野蛮人」とか、へつらった「外の身分の高い人」とかといったものより大きな進歩であった。また、日本語を習っている外国人は、話しかけられたように話すため、その新しい方式は、西洋人と日本人の関係に大きな前進をもたらした。
 西洋の脅威に対処する当初の計画は、1862年に長州藩が天皇に提出したものを踏襲していた。第一に、日本は強くならなければならず、第二に、聖なる国土の外側に防衛の緩衝帯をつくるため海外へ進出し、第三に、それをもって野蛮人を追い払うというものであった。しかし、明治天皇の勅令は日本人の各々に、一連の計画は慎重かつ辛抱強く実施されるものであると告げていた。孝明天皇の正面攻撃は拒絶され、大志がまさに取りかかられようとしていた。


奇跡

 東京の新たな宮廷からは、毎日のように新時代を告げる勅令が出された。暗殺者とその犠牲者の息子という不似合な組み合わせながら、二人は驚くべき知恵を見せ調和を発揮した。そしてその上に驚異であったのは、日本の古代から引き継がれた同族社会がよみがえってきたことであった。
 平民ばかりでなく、日本のもっとも強固な既得権の持主たちがその変化に挑んでいた。そして、この民族――当時の地球上で、おそらく、もっとも辛抱強く、美的かつロマンチックで、躾さえゆきどどき、そして教育を受けた人々の――その誰もにある、もっとも洗練された感受性が生のまま発揮された。それは、孝明天皇を死に至らしめた国家的難事の責任を、あたかも、全国民が背負おうとしているかのようであった。そして1869年から1871年までの2年間、理想主義と自己犠牲が作り出す奇跡がおこった。徳川の残党との名ばかりの内戦は終息されつつあり、封建領主はいずれも、数世紀にわたって統治してきた自らの領土を自発的に放棄し、その世襲財産を天皇へ返還したのであった。また人口の5、6パーセントを占めていた武士階級は、秩序維持のため人を斬り殺したり、金銭にかまわずかつ労働に服さずとも生活できるその特権を投げ打ち、法のもとで、他の人々と同等となる身分を受け入れたのであった。その他の人々も、自分の身分を放棄し、平等となろうと誓った。
 エタと呼ばれる被差別階級があった。彼らは、原住日本人を祖先とするもので、それに犯罪者らも加えられていた。勅令は、こうしたエタ――人口のおよそ5パーセント――に、法のもとでの他の国民と同等の権利を与えた。ただ彼らへの偏見は生き残り、今日までも残存しているが、明治天皇の国民に成り代わっての宣言は、驚くべき公平さを実施するものだった。
 天皇の勅令のうちでもっとも無差別に実施されたものは、国の陸軍と海軍を設立するため、すべての国民から、伝統的武士階級であろうとなかろうと出生に関係なく、徴兵制を導入したことだった。だが実際は、将校クラスは皆、昔の武士たちで、兵卒たちは平民と武士が混ざりあっていた。農民と被差別民は、徴兵されることを誇りとさえ受け止めていた。
 新たな法が宣言されるとすぐ、それが実施に移されるまでに、理想主義者の岩倉は自信を持って、彼の天皇と寡頭政治の扱いを彼の右腕の貴族、三条実美にまかせ、自分は外国へ偵察の旅に出かけた。公には、彼の使命は外交上なもので、日本に居住する外国人は日本の法に服することを条件とし、自分の国の領事の裁定による穏和な慈悲にすがることができなくなるよう、西洋諸国と条約の再交渉をすることであった。この公の使命については、岩倉は失敗した。というのは、どの西洋諸国も、自分の国民をいぶかしい日本の判事や警察の扱いにゆだねる心理的プロセスに抵抗を解いていないからだった。だが実際面で、彼の非公式な使命はおおいに成功し、彼は自分自身に、外国とは競わねばならないということを覚らせていた。二年間にわたり、彼はヨーロッパとアメリカの首都を、栄誉訪問者として歴訪した。そして、本国への機微をめぐらせた手紙の中で、西洋諸国では権力が実行される方法は、日本のように、家族のような感覚や結びつきによって和らげられることなく、むき出しのままに行使されていることに驚かされている様子が強調されていた。彼はまた、より大きな大砲を製造するにあたって常に必要となる要点である、冷静な科学的探求に感銘をうけていた。明治天皇への後になっての手紙には、彼はことに、宰相ビスマルクより教示をうけた「リアルポリティーク(実益政策)」についての即興の教訓について述べている。ビスマルク曰く、「日本のような国にとっての唯一の道は、強くなることと、他の国に頼ることのない力と構えで自国を守ることである・・・・。ある国にとって国際的な法規が有利ではない場合、それは無視され、戦争に訴えられる。」
 1872年、彼の寡頭政治が分解の危機にひんしているとの報により本国に呼び戻された際、岩倉のけい眼が生かされることとなった。というのは、朝鮮の王が日本との通商に港を開くことを拒んでいた。王は、日本が先に、西洋諸国の通商の要求に屈したとして、当てつけかつ頑固にそう拒んでいた。岩倉の留守中、彼の代理を務める三条実美は、天皇と、朝鮮に教訓を与えようと軍事的進出を主張する薩摩の若いリーダーたちの側に立っていた。急いだ帰国の後岩倉は、日本に課された近代化の壁の高さに頭を巡らせていた。彼は20歳の明治天皇に経済的規模について説き、時期はまだ尚早であると結論した。つまり、朝鮮はあまりに小国でかつ扱いにくく、それを承知で進出する労力に値する成果を引き出すには、日本はまだ貧しすぎた。
 岩倉は、彼の生まれ代わったばかりの国が底なしの淵に落ち込んで行きかねないと案じていた。経済は混乱し、自称征韓論者は謀反を企てていた。その後5年の間、岩倉はそうした困難な状況と取り組んだ。彼は、軍艦外交を通じ、次第に朝鮮の港を開かせ、同時に、高騰するインフレを何とか抑制した。ことに、将来の特別扱いの約束――政府がまず日本の独占経済体制の柱となり、近代的な日本の成功と富をつくるための資金源となる――と引き換えに、彼は、豪商が蓄えていた金を吐き出させ、彼の通貨と国債の信用を確立させた。
 1877年、ついに岩倉は、征韓論派――5年前、この派閥による脅威が彼を帰国させた――に挑むに十分に力が備わったと判断した。叛乱派は九州を根城とし、薩摩藩の大半の武装勢力を結集させた。彼らは、薩摩の首領のひとり、西郷隆盛によって率いられていた。そこで岩倉は、薩摩の別の首領、大久保利通――彼は西郷と同じ街で成長したが、岩倉とともに欧州を視察して廻り、その近代世界の現実を岩倉とともに目の当たりにしていた――にその西郷に対抗させた
11。大久保のもとで、創設期の日本陸軍はあらゆる階級から新兵を募集し、薩摩の気概燃え立つ武装勢力と対決し、そして反抗勢力の首領西郷を、最後の四百名の部下を道ずれに、山の頂上で自殺へと追い込んだのであった〔西南戦争(1877.1〜9)〕

 
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