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第六章
裕仁の少年時代
(その2)



王子の教育(19)

 日露戦争に凱旋した後、日本が西洋以外の国として対等な地位を獲得しはじめた時、1930年代のファシスト親王たちは、まだ教育を受けている最中だった。1908年4月、裕仁は名高い学習院に通い始めた。彼は毎朝、徒歩で通学し、侍従がその後について行った。通常、彼には二人の年下の王子と一緒だった。裕仁の青山御所から学校までは、わずか10分の道のりだったが、子供王子の三人連れとあっては、彼らはいつも、付き添う口うるさい侍従に、たっぷり30分の時間を用意させることとなった。
 裕仁の通う学校は、18世紀末に京都で設立された貴族のための学校の流れをくむもので、宮廷人に王制復古を実現させるための覇気と自立心を教え込んでいた。1908年の校長――常に傑出した愛国の士――は、旅順攻略で死体の山を作り、自分の二人の息子の死を目撃した司令官の乃木希典大将であった。彼は、裕仁の教育科目の作成を任され、その将来の天皇のもの静かさに人一倍の関心を抱き、またそれに応えて裕仁は、父親にのみ示すような態度をもって彼に接した。
 乃木は1849年、伝統を重んずる厳しい武士精神のもとに生まれた。子供時代、彼が寒いと口にすると、彼の父親は彼を裸で雪の中に立たせ、その間、自分は井戸の水を桶でくんでは浴びていた。16歳の思春期、武道を習いつつ、彼は片目を失くした。1877年、28歳で初めての指揮官として戦場に立った時、薩摩藩の叛乱軍に包囲され、片手片足を失い、彼が指揮する部隊が捕虜となるという屈辱を味わされた。片足で歩き、片目で世界を見やりつつ、息子たちを犠牲にもしながら、彼はおそらく、山縣の工作によるステッセルの三人の裏切りがなかった場合、その戦争でも敗北していたかも知れない。戦争の後、彼は明治天皇に、責任をとっての切腹の許可を求めた際、天皇の返答はこうだった。 「乃木、自分が死ぬまで死ぬことはまかりならん。これは命令だ。」
 乃木は、名誉ある死とか、控え目で謙遜するという度量とか、さもしさや金勘定根性への容赦のなさとか、生活の中でことさらに詩歌や絵画という芸術的美に傾倒するとか、死後の魂の世界の存在とかといった、伝統的な武士道精神を暗黙ながらも信じてきていた。
 乃木の生涯は命令実行に尽くすことだったが、その一方、彼は、裕仁から武士の精神を引き出そうと自分の全知を傾けた。彼は、王子や彼の指揮下にある他の貴族たちを導く12条の規則を定めた。たとえばそれらは、
 第4条 両親に、祖先や、家紋や、家系について尋ね、それをよく心得よ。
 第9条 破れた服は恥であるが、つぎが当ったものを恥とするな。
 第12条 もし、西洋式の服や長靴や靴を注文する時は、流行を考慮することなく、現在のものより大き目のものを注文せよ。人は必ず成長するからである。
 ある時、乃木と裕仁は、裸で氷のように冷たい滝に打たれていた。そこで少年が震えないで立っていられることを示すと、乃木は手招きして呼びよせ、彼を平民の粗末な冬の普段着でくるんだ。自分もその少年も、肌の上に直接つける下着に絹の感覚を味わったことがないことを、乃木はよく自慢していた。
 乃木の指導のもとで、裕仁は、日本語の読み書きの気の遠くなるような複雑さに取り組んだ。裕仁は最初、それぞれ55文字からなる片仮名と平仮名、そして、26文字からなる英語のアルファベットを習い、書かれた文字を発音することはできるようになった。しかし、日本語では、通常、たくさんの似た発音の単語があるために、それを発音できたとしても、必ずしも意味を理解することにはならなかった。意味ある会話をしようとすると、長々と説明してその単語を特定するか、手のひらに指で漢字を書いて示すかせねばならなかった。したがって、他の日本人も同じだが、裕仁は次に、漢字の勉強に取り組まねばならなかった。指や筆で書くことによって、彼は、それぞれが1から48の字画をもつ、3千から4千の基礎的および実用的漢字の発音とその意味を記憶した。絶え間ない読み書きの演習によって、彼はほぼ全部の単語にあたる2万から3万の漢字の組み合わせを認識することができるようになった。誰もがその人生の最適年齢の数年間を古い象形文字の世界に投入しなければならない国において、裕仁は読み書きを人並すぐれた速さで身に付けた。12歳になるまでに、彼はすでに、味わいある正統的な短歌を作る能力をそなえ、手直しを経て、儀式の際の表現としたり、新年ごとに皇居で開かれる歌会始で読み上げられるようにもなった。
 裕仁は、 「皇族ずり足」 ――遺伝という彼が妥協せざるを得ない最大の苦難――のため、知性に比して身体能力においては、はるかに恵まれてはいなかった。武士道の世界に住み、彼は、強さ、敏捷さ、忍耐をことさらに尊重した。根気強い努力をもって、彼は最終的には、力強く泳ぎ、巧みに乗馬し、そして熱心なゴルファーになったが、それぞれのスポーツ上の成果のためには、彼は並々ならぬ苦痛を忍ばねばならなかった。もしもを恐れる侍従たちは、彼の子供としての自然な奔放さを常に抑えさせ、廊下を走る代わりに歩かせ、階段を飛び降りる代わりに止まらせるようにしたため、幼い少年としては、彼は自分の弱点を補う方法を学ぶ機会が余りに少なかった。だが彼の教師、乃木は裕仁に、卑屈な精神を持ってはならないと、繰り返して彼に言い聞かせた。
 彼という存在にも拘わらず、乃木は、裕仁の弟である優雅で開放的な秩父宮親王に、思わず出てしまう偏愛を表した。秩父宮は、皇族の血の難儀からはまぬがれ、それに彼はスポーツにも長けていた。秩父宮は乃木に人前でも抱擁され、彼の誕生以来、裕仁の心中には彼をうらめしく思うものがあった。裕仁は秩父宮を、1936年の失敗に帰した北進派の叛乱のため、家族の中から出た犠牲者にする運命にあったといえる。秩父宮は、1953年に、別の皇族の弱みである結核のため死んだ。
 裕仁の身体的な障害は、その子供時代の風変わりさとともに、彼を内向けにさせ、氷でできた落ち着きを与え、そして他の誰よりもよりシンプルに生き、より懸命に働くことによって自らを確かめようとする、ほとんど加虐的な性向さえつくりだした。彼は、明晰にあろうとし、自らを心得、公的な場では巧みな話し手となれるように自分を鍛えたが、演壇で完全にくつげるようになる積りはなかった。彼は自分に仕える人すべてに揺るぎない誠実さをもって接したが、数人の最も年長の親友には温かさと陽気さを表した。彼のユーモアのセンスは、メロンのようなカボチャをメロンが大好きな親戚の一人に与えるようなこともさせた。百科事典のような彼の記憶力のあらわれとして、彼は、切れるような、時には意地悪いようなウィットを表現することができた。しかし、侍従たちは彼のしゃれを、それを聞く機会がまれなため、どう取ってよいのか分らなかった。話すことより聞くことに、命令するより奨励することに、口にでた言葉から偏見や欲求の表れを嗅ぎ取ることに、他者の意見を求めそれに重きを置くことに、そして、良い助言を与えてくれるように助言者を丁重に扱うことに、彼と弟は幼児の頃から、ことさら訓練された。
 毎日の学習院への通学途上、裕仁はよく、近衛兵の朝の演習を見るために、側近とともに皇居の北演習場を通て行った。そこで彼は、大兄たちの一人が行進をし、また威厳をもって立ち止り、彼に敬礼をするのを見かけた。裕仁が学習院に入学した1908年、東久邇宮、朝香宮そして北白川宮は陸軍士官学校を卒業し、近衛軍団に中尉として配属された。皇居北角にある同軍団で、1908年から1912年まで、彼らは、若い中尉たちや後に日本のファシスト大将として知られるようになる大尉たちとともに宿営した。たとえば、東久邇宮は、1941年から1944年の日本の運命の時期の将軍として行動することとなる有名な東条を、それらの年月を通して良く知るようになったと述べている。その当時、東久邇は東条を、 「昇進に野心を抱く並みの士官」 と見ていた。
 明治天皇は、裕仁の大兄たちに自分が好感すら持っており、国家の重責を託すに足るようにと育成していたことを公然の事実としていた。彼はことに、邦家――孝明天皇の顧問であった朝彦親王の父親――の四人の孫たちをひいきとしていた。その証拠には、明治天皇は、うまい数字会わせのような正確さで、自分の娘たちを彼らと結婚させた。すなわち、邦家の六番目の孫の竹田に六番目の娘の昌子
〔まさこ〕を、七番目の孫の北白川に七番目の娘の房子〔ふさこ〕を、八番目の孫の朝香に八番目の娘の允子〔のぶこ〕を、九番目の孫の東久邇に九番目の娘の聡子〔としこ〕という具合である。そして、これらの若者たちへの期待を明示するために、明治天皇はこれらの最初の三つの結婚式――1905年、1909年、そして1910年――に自ら出席した。彼は自分の娘たちの面倒はあまり見ておらず、それらのうちのこの三人には、彼女らの誕生以来初めてその婚礼の式場で会って、こうして嫁にやったのであった。
 明治天皇の九番目の娘の結婚式は、その問題沙汰の多い東久邇が宮廷でのいさかいを起こし、それが故に事態が猶予となったために延期となった。当時、明治天皇に国事の予定がない夜は、そのお気に入りの四組の夫婦を夕食に招いて供にすることが、彼のお決まりの習慣となっっていた。東久邇はいつも北白川――熱心なスポーツマンで、日本の将来の偉大さについて詳しく説く明治天皇の言葉を聞くことに飽いたこともなく、期待もしていたと常に話していた――と一組であった。東久邇は、その頃はまだ知恵の働かしかたを学んでおらず、そうした夕食後の歓談にはよく退屈さを感じていた。
 1911年のある日、東久邇は胃の具合が悪く、幕僚大学への入試の勉強があったため、明治天皇の招待を断った。宮廷の馬車はともあれ彼を迎えにやってきたが、それを空のまま送り返して問題となった。侍従が彼の屋敷にやってきて、孝行について説教をした。東久邇はそれに、孝行は儒教の世界のことと見なされている西洋に移民できたらよい、と反抗的に応じた。この件は、裕仁の父で、東久邇の僅か8歳年上である後の大正天皇が、そうした態度は天皇家族にあるまじきことと取上げなかったら、そのままとなっていたかも知れない。だが、誇りを大そう傷付けられた23歳の東久邇は、ただちに、親王としての地位から降り、どこか外国に行って住みたいと、宮内省に公式の訴えを提出した。明治天皇はその要求を無視し、山縣陸軍元帥に、その若い兵士によく説いて聞かせるように求めた。しかし、東久邇は、山縣が彼を海外に赴任させ、必要に応じて支払いをすることに同意しない限り、皇室から抜けると言い張った。山縣はそうすると約束し、明治天皇はついに彼を宮廷執務室に呼んで個人的に会った。優しい態度で、彼は東久邇に、そうやっかいをおこさず、東久邇が訓練を終え、準備が整ったら、外国での冒険は充分にできると説いた。そして厳しい態度で、年配の侍従は忠実な従僕であり、子供じみた低級な誇りぶつけてそれを疎んじてはならない、とその頭でっかちの親王に言い聞かせた。(20)


中国での叛乱

 四億人強の人口をもつ中国は、一世紀にも満たない間に、自称する地球上の最強の国から、もっとも惨めな国へと転落した。少なくとも二億人の中国人は、そのほとんどが西洋の貿易商によって持ち込まれるアヘン、ヘロイン、モルヒネの中毒患者となった。中国の海岸線は、外国の領土が連なるネックレスのごとき様を呈した。中国軍はことごとく、繰り返されるヨーロッパやアメリカの上陸部隊によって敗走させられていた。1905年の日露戦争での日本の勝利と1910年の朝鮮併合は、そうした中国の不面目をさらに助長させた。中国で日本を長くそう呼んできた 「東夷(東の小人)」は、中国人が打ちのめされていた地で、西洋に対しての成功をおさめ始めようとしていた。
 1911年、腐敗し破産した満州政権――清朝――に対する農民一揆が勃発し、ほとんど全土に広がった。全国を統率できる指導者の欠如から、叛乱者はその忠誠を、孫文を首長とする知識広東人による共和主義者の組織、国民党に委ねた。孫自身や、蒋介石を含むその門弟すべて、裕仁の大兄の一人である近衛宮の東亜同文会と頭山の黒龍会の一味であった。日本とアメリカの援助を結合させて、孫文は農民革命家を助け、中国南半分の支配を確立するまで、その軍隊に資金を提供した。(21)
 満州皇帝の地位にはその当時、後に満州国の日本による傀儡皇帝となる、五歳の少年、ヘンリー・溥儀がついていた。満州朝廷の実権は、満州軍の将軍である袁世凱が握っていた。日本陸軍の実力者であり彼のよき友人である山縣のように、袁は、中国は軍人の独裁によって統一を維持しなければならないと考えていた。袁は従って、満州皇帝を裏切り、もし自分が中国の最初の大統領となれるのなら、彼の軍を共和主義運動に投じると約束していた。内戦に勝つ選択上、孫文はそれに同意した。1912年2月、五歳の満州皇帝溥儀はその座から降ろされ、ここに中国共和国が誕生した。
 ジンギスカン以後はじめて、中国は自国民による政府を持ち、万里長城の北の不毛地からの蒙古・満州征服者は、ついに追い払われた。しかし、叛乱を起こした農民たちの得たものは何もなかった。以前と同じ兵士と徴税人が彼らを抑圧し、袁世凱がもたらした議会と選挙からなる民主的政府の見せかけは、苦い冗談であるかのごときだった。袁が大統領となったその日より、中国の主要な議員に対する謀略がはじまった。そしてその二年後、彼は、そのうちの勇士を暗殺させ、四年後には、自らを皇帝とし、新たな王朝を作り上げた。


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