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第七章
皇太子裕仁
(その2)



大正天皇のクーデタ(24)

 1912年7月の末、皇位に就いた裕仁の父である若き大正天皇は、絶対君主となり、帝国の創始者になることを望んでいた。彼は、アレキサンダー大王、シーザー、ルイ14世、そしてドイツ皇帝の例のような、西洋の「進んだ」統治を日本にもちこむことを熱望していた。彼の見るところでは、日本人はあまりに偏狭だった。彼は、日本が外に向かって転じ、世界での一大勢力となり、国民が何事にも独裁的な指令を求めるようになることを欲していた。しかし、彼は日本を知らなかった。彼は理屈では分っていたつもりでも、国民を一体となって動かせる忠誠心の輪を感じることがなかった。上等なワインや女や西洋式の考え方などに関心を散らして核心をなくした大正天皇は、自分こそ命令を下せる者であると考えていた。彼は、天皇が叛逆されるとは想像すらできなかった。彼は、明治天皇が使った機転のきく天の声や用心深い言い分けの必要を認めなかった。彼は、極めて知的でありながら神経症的な傲慢さをを持ち、自分の対社会的なイメージがどうであろうと気にすらしていなかった。彼がドイツの騎兵のような衣服を着、ひげをワックスで固め、時には怠慢な仕えの者を皇居内のグランドで乗馬用のムチで激しく打っていることは、良く知られた話であった。
 大正天皇の欠点は、彼が、最も世界主義的な日本人がもつ忠義心に命令を与えるに足るセンスと権威をもっていたことだった。彼の直属の追随者や仲介者は、彼の成長期に兄貴分だった、外国生活を知る六人の親王たちだった。彼らのうちの一人は、日露戦争の作戦展開を目撃していた。二人は、フランスのウエストポイント
〔米国陸軍士官学校〕であるサンシルレコルの、そして一人はフランスのアナポリス〔米国海軍兵学校〕であるブレストの卒業生だった。残りの二人は、日本の陸士の卒業生であった。その六人はまた、1937年まで、日本の宗教的権威をあずかる神主でもあった。その六人の中での首領格は、朝彦親王の八番目の弟の貞愛〔さだなる〕親王、55歳で、大正天皇のもっとも側近の助言者だった。彼は長くフランスで勉強し、英国にも頻繁に行き、1904年、アメリカで開かれたセントルイス世界博にも参加していた。
 伝統な日本的方式として、大正天皇と六人の助言者は、まず皇室の取り巻きの一人である桂太郎大将に、彼らの先に立ち、彼らの計画の責任を背負うように求めた。桂大将は、1901年から1906年および1908年から1911年まで、首相を務めた。彼は、1900年以来、選挙の度に、立憲主義者
〔立憲政友会〕に対抗して、天皇と陸軍を繰り返し代表した。1900年に彼が台湾総督となった際には、マラヤ、インドネシア、フィリピン方面への南方拡大計画を入念に草案した。彼はそれを明治天皇とその寡頭政治家(訳注)に提出したが、その実行は、帝国の北方国境でのロシアの脅威がなくなるまで延期されるべきであると申し渡された。だが1912年8月の今、日露戦争に勝利し、時期が到来したと見られていた。
 明治天皇の死の知らせと大正天皇からの召還を受け取った時、桂は偵察の目的でロシアにいた。急きょ帰国し、大正天皇よりすぐさま、宮廷の侍従長と内大臣に任命された。その第一の職務では、彼は天皇への謁見者のすべてを決め、もうひとつの〔職務の〕特権では、謁見に同席し謁見者の質問への答えを準備した。
 大正天皇の施策の柱は、「国家防衛の完璧さ」というもので、朝鮮を含む帝国建設を視野に入れた軍事力の構築であった。大正天皇と貞愛親王の示唆にもとづき、陸軍参謀本部は、朝鮮に駐留するため二師団を増強するよう扇動を始めた。西園寺首相に率いられた立憲政友会は、それを支える財政支出拡大に反対した。日本は、八年前の日露戦争による財政赤字にいまだに苦しんでいた。西園寺の立憲政友会は、選挙でも、国会でも、内閣でも過半数と占めていたので、陸軍の拡大政策を難なく否決した。その結果、1912年12月、陸軍大臣は辞職し、それを、大正天皇の宮廷便利役、桂大将は、現役陸軍将官の誰も陸相就任を受入れないだろうと受入れた。
 西園寺首相自身も辞任以外に道はなかった。そうして生じた長引く政治的危機の中で、大正天皇は、内閣を形成する政治家は5人以上でなくてはならないとの命令を下した。だが閣僚の起用には次々に失敗した。というのは、西園寺の統率下の民間人が、桂の下の陸軍軍人がしたように、内閣閣僚の就任を拒否する規律を示そうと決意したからであった。1912年12月21日、ついに大正天皇は憲法上の力をフルに発揮させ、桂侍従長兼内大臣を新首相に任命した。桂は、陛下に仕える大臣として、風采のない年老いた便利屋ながらその見せどころを印象付けた。海軍は、海軍大臣を彼に提供することを最初は拒否したものの、艦船増強計画のために新たな艦隊を増設する予算が配分されると、それを撤回したのであった。
 こうした大正天皇のクーデタは、大衆による抗議の風を巻き起こした。彼の寵臣、桂大将は、国会で「玉座を以て胸壁となし」、つまり、天皇は自らの特権を乱用して桂を利用している、と非難された。明治天皇の時代では、首相が同じような観点で攻撃された場合、明治天皇はいつも穏やかながら天の声を発し、避難は撤回された。しかし今においては、大正天皇は、国会を三日間休会とするように命じる勅令を発した。さらに二回の休会の後、引き続く国会の危機的状態のなかで、大正天皇は西園寺を呼び、彼の立憲政友会が宮廷の意思に背くようなことをやめるように命じた。西園寺は、それに従い党の幹事会を招集し、天皇の要望を伝えた。二日間にわたった論争の後、票決によってそれは否決された。日本の歴史上、天皇の公の命令が公式に拒否されたのはそれが最初だった。リベラルではあるものの、藤原貴族の一人であると自認する西園寺親王はすべきことを心得ていた。彼はそしてただちに立憲政友会の総裁を辞任した。
 大衆は、東京、神戸、大阪で暴動を起こし、新聞社を焼き打ちにし、警察と激戦を繰り広げ、市民戦争の様をなした。桂内閣の発足からわずか53日間の後の1913年2月11日、大正天皇は桂首相の辞任を承認した。桂は、天皇の意思への追随によって、したたかな政治家とのう評判をほぼ完璧に失い、その八ヶ月後、彼は他界した。陸軍首領の山縣と長きにわたるその好敵手の寡頭政治家西園寺は、大正天皇を説き伏せ、党出身者ではなく、異なった出身者による軍国政府を受け入れて面子を保たせた。それは海軍提督だった。
 西園寺と彼の銀行家の弟、住友〔隆麿〕を満足させるために、新首相、山本権兵衛提督は政府支出を13パーセント削減し、桂大将の「陸軍政府」の際にその骨格が決められていた大幅な海軍増強計画の大半を取りやめた。大正天皇はこの山本の処置に、不機嫌をこめてしぶしぶと印を押した。天皇は退位すらも口にしていた。宮廷人は、彼のかんしゃく持ちが、彼の気難しい落ち込みと押し黙りの気性へと変化していったことに注目していた。(25)
 1914年3月、第一次世界大戦の前夜、明治天皇の寡頭政治家の生き残りの一人、ことに64歳となった西園寺は大正天皇に、自分の計画の実現を心に描きそれを試みるようにと説得した。山本首相は、ヨーロッパの海軍調達将校が関わり、ドイツのシーメンズ電気と英国のヴィッカーズ航空機製造の両社からリベートを受け取っていたとのスキャンダルが明るみに出、その地位が危うくなった。そこで西園寺は、事前工作をはかった上で、当時、日本の外務省の最も冷静かつ切れ者と名高い単眼鏡の外交官、加藤高明
(#1)とともに、皇居に参上した。
 大正天皇、西園寺、そして加藤は、三者同席のもとで、前例のない率直さで喫煙し会談しあった。数年後、西園寺はその会談を振り返り、自分が仕えた1865年から1940年までの間の四人の天皇の内で、大正天皇がもっとも知性優れていた、と語っている。その会談の最後で、大正天皇は、桂の夢であったマレーやインドネシアの軍事的占領を、その時代を顧みて断念し、それに代わり、経済的成長、軍事的現状維持、そして外交的楽観主義からなるしたたかな混合を受け入れることに同意した。ことに彼は、世界大戦の際、日本の運命を太平洋地域で力を発揮している――マレーを握る英国、インドネシアを治めるフランス、そしてフィリピンを支配する米国――西洋諸国にかけることに同意した。それは、大正天皇にとっては困難な決断であった。というのは、彼はつねに西洋諸国の中でドイツをもっとも敬愛しており、彼の知るドイツ皇帝を、自身の手本としていたからであった。(26)
 非公式な三者の会談を済ませた外交官、加藤高明は、新政府での外務大臣の職を与えられた。首相職には、やり手の指導者、大隈重信が着いた。明治天皇の寡頭政治家の下層に位置した勇敢なリベラリストである大隈は、1889年、頭山のギャング団の暗殺者の一人の投げた爆弾で片足を失くしていた。今、76歳となった彼は、さらに片方の足を失くす積りはなかった。「早稲田大学――彼が創設した大学の総長――の賢人」として、彼は、気安い寄付金集めでも、その教育活動でも、広い支持を集めていた。彼はある小党の尊敬される党員だったが、信義にもとる立憲政友会には加わらなかった。人々は彼を彼らのリーダーとして受入れ、戦時景気のなかでの繁栄と完全雇用情勢のもとで、二年半にわたる安定した政府を形成した。


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