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第七章
皇太子裕仁
(その1)



明治天皇の死(22)

 裕仁の32歳の父親、嘉仁皇太子は、中国に生じている革命〔1912年中華民国成立〕で、千載一遇のチャンスが無駄に費されていると見た。彼は天皇となったばかりか、二分された中国をひとつづつ手に入れようと、その機会に乗じようとしていたが、そうは行かずに、北京では袁世凱が権力を握にぎる一方、日本では、陸軍長老の山縣と明治天皇の寡頭政治家の生存者がそれを支配していた。1912年の春、明治天皇は、自分の全権を寡頭政治に移譲し、自らは胃がんのため臨終の床についた。
 正装した数万人の人々が、皇居外苑に集まり、天皇の回復を祈った。彼らは、全国の主要な神社で得た何十万枚ものお札を燃やした。にも拘らず、7月29日、偉大な明治天皇は死んだ。彼は一ダース以上の息子をもうけたが、一人の妾の生んだ子だけが一人生き残った。それが裕仁の父親、嘉仁皇太子だった。彼は直ちに、鏡、玉、剣の神器を引き継ぎ、大正天皇を名乗った。
 この瞬間まで、裕仁少年は、皇室の一番年上の孫息子に過ぎなかった。しかし今、国が喪に服している間に、新たな皇太子が指名されなけれならなかった。裕仁がもっとも本命であったが、それが唯一の選択ではなかった。彼が、両親の結婚の前に生まれたという事実が、もし、裕仁の身体的障害が取り上げられるとするなら、彼を外して弟が有利となる理由となるかも知れなかった。彼らを除いた親王や侍従による会議が開かれ、この問題を話し合った。
 大正天皇と大半の宮廷人はいかなる変則的な外向けの表明を避けようと、裕仁を受け入れることを望んだ。だが、彼らを驚かせたのは、裕仁の最愛の師である乃木大将が、弟の秩父宮を選ぶことを推す少数意見をまとめたことだった。だが彼は、何か暗い予感がするだけという以外、その立場を明快にする理由を示し得なかった。その結果、彼は票を得られず、裕仁が明白な後継者として選ばれた。
 六週間にわたる喪の期間、古式にのっとった服装をし、身を清める数々の儀式に臨み、12歳の裕仁は、これからやってくる将来に彼が負おうとしている責任を深く意に留めていた。1912年9月9日、彼の祖父の魂が天へと昇りはじめる時、彼は正式な後継者として宣言され、同時に、陸軍中尉および海軍少尉の階級を与えられた。
 その三日後、明治天皇の国葬の前日、乃木大将は裕仁と二人の弟である、秩父宮10歳と高松宮7歳に最後の表敬訪問をした。彼らは、新しい宮殿――大正天皇のベルサイユ宮殿――が完成するまでの間、仮住いしている赤坂御殿の私邸で乃木を迎えた。乃木は、ロンドンで行われたジョージ5世の戴冠式から戻ったばかりで、長期間の不在を詫びた。彼はさらに、明治天皇の葬儀のため英国を代表して来日していたコナート公国大公アーサーを案内して直ちに出発せねばならないことを再び詫びた。そこで彼は、留守中に三人が授業を怠けていたことを本気で叱り、統治という孤独な使命にふさわしい人間となりたいならば、自分の勉強の仕方を自分で律することを学ばねばならないと諭した。
 裕仁に向って乃木は、裕仁の最近の書道の習字をとりあげてこう言った。「私は君に熱心に練習するようにと言った。君はいま皇太子で、陸海軍でのもっとも若い将校であり、そして将来のこの国の司令官だ。私は君に願う、君の軍事的訓練に専念することを。私は君に願う、いかに君が忙しくとも、日々の健康に留意することを。覚えておきなさい、私がいつも君を見ていることを。自分自身のため、そして日本のため、良く勉強しなさい。」 そして彼は裕仁に、儒教の倫理的教えを述べた本を渡し、深々と礼をして部屋の後ろへと退いた。
 明治天皇の葬列は、大葬儀などのためにお堀に架けられた二重橋上を渡って、その後一時間を要する移動を始めた。東京湾の大砲は遠くより、規則的にその音をとどろかせていた。葬列が東京駅まで向う道筋には、沈黙し、ひれ伏した日本人の列が続いていた。東京駅では、節穴などの全くない神聖な白木の板でつくられた特別仕立ての車輛が待ち受けていた。翌日、その車輛は、その棺を迎えるために祖先の墓の脇に墳墓が築かれた、古都の京都に到着した。
 乃木大将は、葬列が皇居を出発するところを見送り、裕仁がよちよち歩きを習った家からそう遠くない、麻布の屋敷に徒歩で戻った。乃木伯爵夫人は、小じんまりとした玄関間で静かに彼を待っていた。砲声の執拗なとどろきを聞きながら、二人は一緒に入浴をし、白装束に身を固め、床の間にかかげられた明治天皇の写真の前に膝付いた。
 六世紀昔の南朝の家臣は、北朝の将軍に自軍を降伏させた後、敵将に向かって、自分は家来を思って降伏するが、死を恐れてが故ではないことを目撃してほしいと頼んだ。そして敵の前で膝付き、腹を切ってわざと内臓を引き出し、知る限りの最も時を要し苦痛をもたらす方法によって死に至らしめた。その時以来、その苦悶の甚だしい切腹が儀式化し、霊魂の世界に昇天する前に、それは「自分の偽りのなさ」を望む誇り高き者たちすべての立会の前で実行された。同じような「意味ある行為」を望む婦人は、切腹を期待はされなかったが、別の方法、すなわち、頸動脈を切ることによる、ゆっくりとした死を選んだ。
 所定の作法に従って、乃木夫人は短刀で首を切り、死ぬまで出血を続けた。彼女が意識を失った時、乃木大将は、自分の小刀を腹に突刺し、横に引き裂き、そして最後に上に切り上げた。脇の畳の上には、彼は遺書を残しており、若い世代のわがままを嘆き、すべての愛国的日本人に昔の武士の美徳を一層厳密に守ることを請うていた。新皇太子裕仁がこの悲劇を聞いた時、礼をしたまま身をこわばらせ、何らの感情を表すことなく、「日本は悲しむべき損失をこうむった」と述べた。 
 その話は外国人には、乃木大将と夫人が主君明治天皇の後を追って心中をはかったと発表された。乃木を失ってはならない忠臣と見るまでもないと知る日本の大衆や、旅順での多数の犠牲を伴った攻撃で息子を失くした両親たちには、乃木夫妻は自らに課した神聖なる約束を果たしたと告げられた。乃木の妻が、息子の死を深く苦にていたことは良く知られていた。しかし、事情通の貴族たちによれば、乃木大将は誇りがゆえの切腹をとげたいと思っていた。彼は裕仁を皇太子に選ぶことに反対するよう助言し、その助言は否決された。彼には、自分の生徒によって拒絶された自身を知りつつ生きることは堪えられないことだった。


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